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はてなキーワード: 法則とは

2019-03-10

anond:20190310232317

たことあるかどうかで物理法則があるかどうか決まるとかお前アホだろ

偏差値20違うと会話が成立しないってマジだな

中卒は話しかけてくんなや

anond:20190310231834

お前人間いないのに物理法則が働いてるところ見たこあんのかよ

掛け算の可換法則って

掛け算に順番があることを逆説的に示してるよな。

「順番がないから」じゃなくて「順番はあるけど交換しても答えは同じ」だもんな。

2019-03-09

anond:20190309013345

シティーハンター作画バブルジャンプお金で良い原画さん集めたやつだぞこれ、と見てすぐわかった

逆に初代パトレイバーは一話がロボットアニメ法則に載せようとしすぎで強引で人に進めづらい、千葉さんといのまたむつみ??絵師さんは当時からよかった、、2代目がみたい

2019-03-06

知った言葉使いたがりに共感性羞恥をおぼえる

俺もあったよ

中学生の頃に

矛盾って言葉を聞いた時にそんな概念があるのかとアハ体験みたいな気持ち良さを感じて

やたらと矛盾してるものを探し回って矛盾してるねって言ったりしてた

今考えるとあまりにも幼稚で恥ずかしい

けど、大人になっても平気でこれをやってるバカがいるのに驚かされる

自分が支持する人がやらかして捕まって叩かれてると、推定無罪法則も知らんのかとか言ってやれやれしてるバカとか例えをあげたらキリがないくらいだ

特にこのはてな界隈ではそれがあまりにも目につく

俺は、共感性羞恥でそのうち死んじゃうぞ

誰かがこれがトレンドだと叫ぶとなびくクソITエンジニア

99.9%のITエンジニア自分の頭でものを考えないで頭の悪い声のでかいヤツになびく

この法則はまったく進歩してないと思う

2019-03-04

anond:20190304140008

読んでくださってありがとうございますあなたのその声で読んでくれる人が少しは増えてくれるかもしれません。

>というのは、例えばどこからどこまでが既知の事実で、何があなた仕事というか、新たな知見であるのかが不明でした。

統語法則は既にある知見です。フローチャートを重視するのは、私は無学なので、オリジナルのつもりですが私には分かりません。

大学勉強するのも良いかもしれません。両親を説得できれば、そうしてみたい気もします。

それから、この研究が何を目指しているのかが不明でした。

この研究は、ベーシックイングリッシュを通して、自然言語における関係記述の仕組みを明らかにすることを目的としています

まり工学というよりは言語学ですが、しかフローチャートなどの概念に慣れれば素朴な研究なので、工学的な応用もすぐに可能だと考えています

>もし実際にあなたの頭が狂っておいでなのでしたら、差し出がましいようで恐縮ですが、一応、精神科医受診するという選択肢を重視するようにお願い申し上げます

イライラさせてしまったなら申し訳ないです。私は、無学ですが、ただとにかくこの研究を世に出したかったのです。

anond:20190304111934

第一章『関係記述する方法としての「基準」とその基準からの「指定」』

このベーシックイングリッシュ分析においては、「基準」とその基準からの「指定」という概念が、フローチャートの他に重要ものとして出てくる。なぜか。

それは自然言語においては下の図のような統語法則が使われるからで、そのままで単語AとBの関係記述する際に、図の通りで、集合論的にどちらかがどちらかを直接的あるいは間接的に含むという風にしか記述できない。(木構造は、ただ何が何を含んでいるかを表しているという意味で、集合論を線で表したものしか無い)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#/media/File:Kafka_English_tree.jpg

※この英語の図では動詞主語を含んでいて、また「monstrous verminous bug」が「a」を含んでいると解釈されているが、事実として『主語動詞を含んでいて、またaがbugを含んでいる』と解釈するのも意味的には可能な文で、私は後者採用している。「monstrous verminous bug」は一語として認識されていると考えている。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#/media/File:Kafkaj.jpg

wikipedia「主要部」から引用https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8#%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8%E5%85%88%E5%B0%8E%E5%9E%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E%E3%81%A8%E4%B8%BB%E8%A6%81%E9%83%A8%E7%B5%82%E7%AB%AF%E5%9E%8B%E8%A8%80%E8%AA%9E

そこで必要になるのが「基準」とその基準からの「指定」で、ある単語基準に他の単語指定するということによって、二つの単語関係が様々に記述できるようになる。

例えばAとBが隣り合っていることを記述したいとする。記述する方法自由に設定できるならば、「A B」と記述すれば良い。これなら「右」という単語も「左」という単語必要無い。

ただ自然言語においては、これではAがBを含んでいるということになってしまう(あるいはBがAを含んでいるということになってしまう)。そこで、Aを基準にすればBが右にあり、Bを基準にすればAが左にある、というような記述方法必要になる。

(ちなみに「right」や「left」には、前後の他に上下必要になる。前後上下が定まって、右や左が生まれる。上下重力によって生まれていて、重力自然現象なので、この分析では「right」と「left」は考察対象外とし、付録の『本文に掲載されていない単語一覧』に掲載している。)

2019-02-28

"筋肉は裏切らない"

他人に期待して裏切られ、自分に期待してまた裏切られて、じゃあ何を信じればいいのかってなったとき

システムを信じるしかないんだよね

自然とか経済法則、体の反射とかホルモン作用とか運動と鬱との関係とか。

健康信仰…いつか裏切られるんだろうなあ

anond:20190228071740

ちょうど今読んでいる夏目漱石の「創作家の態度」に、そこら辺のご都合主義的に歪められた世界観に気付いてしまった読者の心理が書かれているところがあったので参考までに。

青空文庫でも読めるます

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/1102_14956.html

>>これは小説ではありません。事実だとして、あるものに書いてありましたが、私は単に自分に都合のいい例として御話を致します。

以太利イタリーのさるヴァイオリニスト旅行をして、しばらく、ポートサイドに逗留とうりゅうしておりました時、妙齢埃及エジプト美人に見染みそめられまして親しき仲となったそうでございます。ところがこの男は本国に許嫁いいなずけの娘があるので、いよいよ結婚の期が逼せまった頃、ポートサイドを出帆して帰国の途に上りました。ところがその夜になると、船足で波が割れて長く尾を曳ひいている上に忽然こつぜんとかの美人があらわれました。身体からだも服装も透すき通っておりますが、顔だけはたしかにその女だと分るくらいに鮮あざやかであります。ただ常よりは非常に蒼白あおしろいのであります。この女が波の上から船の方へ手を伸して、舷ふなばたを見上げながら美くしい声で唄うたをうたいました。それが奇麗きれいに波の上へ響くので、船の中の人はことごとく物凄ものすごい心持になりましたが、やがて夜が明けると共にかの美人はふっと消えました。やれやれ安心しているとその晩またあらわれました。そうして手を伸して、首を上げて、波の上を滑すべって、船のあとをつけて、いかにも淋しい声で、夜もすがら唄をうたいますそれから夜が明けると、またふっと消えます。そうして夜になるとまた出ます。そのうち船がとうとうネープルスへ着きましたので、かの音楽家はそこで上陸致して、自分郷里へ帰ると、手紙が来ております。差出し人はと見ると、ポートサイドにいる友人で、かねて自分と彼の女との間を知っているものでありました。すぐに開封して見ると、あの女は君が船へ乗って出帆するや否や、海の中へざぶざぶ這入はいって行って、とうとう行き方知れずになったとありました。

(中略)

ここに、こんな切な恋がある。これをどう云いあらわしたらば、云い終おおせるかとの試問に応じて出来上った答案と見なければなりません。世の中へ出て行って、どんな恋があるか探索して来いと云う命令に基もとづいた、報告書と見ては見当が違います。したがって客観的価値の少ないものができたのであります。真と認められないものになりました。だからこの話を聞くと、マグダの結末ほどには、はあなるほど、こうもあろうとか、こうあるかも知れないねと云う気にはなりません。しかしながらその代りに、ごもっともだ、こうもありたいね、こうあれかしだと云う気にはたしかになれます。あれかしと云う語は裏面に事実じゃないと云う意味を含んでおりますから、つまりは嘘だと云う事に下落してしまます。この下落が烈はげしくなるととうてい読めなくなります馬鹿馬鹿しくなります

例たとえば今の話しでも、もし船のあとを跟つけるものが、幽霊でなくって、本当の女が、波の上をあるいて来て、ちょいと、あなたとか何とか云って手招ぎでもしたらそれこそ奇蹟きせきになります幽霊ならば、有るとも無いとも証明ができないだけで済みますが、生きた人間が波の上を歩いては明かに自然法則を破っておりますいくら、かくあれかしと思ったって、冗談じょうだんじゃない、おのろけも好い加減にした方がよかろうと申したくなります。人を馬鹿にするにもほどがあらあね、まるで小供だと思っていやがると本を抛なげ出すかも知れません。

西遊記、アレビヤンナイト、もしくはシェーヴィング・オブ・シャグパットのようなもの面白味は別問題として論じなければなりません)して見ると私が前段に申した意味が自おのずから御明暸になりましたろう。すなわちいか主観的な叙述でも、ある程度まで真を含んでおらんと読みにくいものである、そう截然せつぜんと片っ方づけられるものじゃないと云う事であります。この幽霊のごときは極端の極端の例であるから積極的に真を含んでおらんとも云えましょうが、むやみに真を打ち壊しているものでないと云う事だけは、さきの説明で明らかでありましょう。しかも読んで馬鹿馬鹿しくならんのは全くそのお蔭である以上は、真の分子いかに叙述の上に大切であるかが分るでありましょう。 <<

彼の話の主題は別のところにあるのですが、つまりは「ある程度のつじつまがあっていないと、人は没入することができない」ということではないでしょうか。

西遊記アラビアンナイトについては別問題としているわけですが、完全な創作世界お話であっても、その世界の中でのつじつまがある程度あっていなければ読むのが馬鹿馬鹿しくなる。

まあその「ある程度」が人によって異なるのが厄介なポイントなので、こうして議論になるわけですが…

2019-02-27

ダブルという概念への疑問とプリキュア

ハーフという呼び名ネガティブからダブルにしよう、という働きがある

私はむしろダブルこそ言葉として、その成り立ちからネガティブさとは切り離せないものなのではないのか、という疑問を持つ

そしてそのネガティブさは多くの人間に対して向けられているものではないか、とも

少なくとも現状、違うルーツの両親を持つ呼称としてのハーフ言語的な概念は、当人を100とした、単純に両親の異なるルーツでもって50/50とする、またそれを前提としての略語、もしくは任意において一方のルーツベースとし残り半分の割合を指すものメディアで目にするものも含め一般的ものであるように思う

同じくクォーターも4分の3は言及せず、またベースとして略すもので、それはシンプル客観的で図式的な概念であり、本来単語としては感情的なあれこれの入る隙は無い

だがハーフネガティブなのだ、という

ダブルへ繋げる論拠として

単語として「半分」という意味である

そこから人として半人前だ、という含意の存在

あるいは血統主義から一方の国、この場合日本人が半分「しか」入っていないという差別意識を表す

またそこから上記の「半分」の意へ発展させたもの

というのがざっと目に入った大方の意見だった

正直に言うとかなりバイアスのかかった発想だな、と思う

先にクォーターハーフに並べたのはそれが言語として連なると解釈するからで、実際の用法としても多くでそう捉えられているからだ

ハーフは「半分」クォーターは「4分の1」

彼ら、彼女らの言うネガティブである単語からマイナスイメージで言うならクォーターハーフより印象は悪い

ハーフが半人前ならクォーター人間が四分の一しか出来ていない、となる

ハーフという言葉の指すところが日本人の血の割合である、という主張も日本において多くの場合単語が表す先が他国名となるクォーターでは通らない

繰り返すが言語的な用法としてハーフクォーター現実として連なっている

ハーフの「半分」という意味へ待ったをかけるのならクォーターもそうでなければ筋が通らない

クォーターに通じない論理ハーフ解釈する事は、ハーフでだけでなら可能だとしても論拠として不足が過ぎるように思える

クォータークアドラプルとでも言うのだろうか

だがダブル法則へ従って4倍という意味を調べたはいいが、それだと元々の4分の1のルーツを表すという意味合いとは違ってきてしまい、現在使われている割合意味での用法ではなくなってしま

アメリカクアドラプル(4倍)」では意味が通らない

それがルーツの数を表すのなら日本3アメリカ1のクォーター日本アメリカダブル、という事になってクォーターにあたる表現に穴があいしま

日本トリプルアメリカシングルとすべきなのだろうか

単純にハーフ上位互換として更にポジティブさを、というのならクォーターとの併用も違和感はない

だがなぜかそうではないのだ

単語の持つ意味や印象がマイナスイメージを想起させる、と主張するならハーフ否定してクォーターを許容するのでは整合性がとれない

そもそもこのハーフに対する話は日本和製英語として、その言外にいわゆるガラパゴス言語観への若干の批判めいた意も滲ませられ取り上げられている事も多く、それなら、と欧米一般的にはどう表現されるのかと興味がてらにさっくりと調べると何の事はなくhalfという単語も使われていた

ただ日本のように単語自体ルーツへの意味を含ませるのでなく、そのまま単語として国名民族名と並べてアメリカ半分と日本半分、のように使われるらしい

またpartも同じように使われるようで、こちらが日本で使われていたら分割という意味ネガティブさが見出されていたのかな、とも少し思った

ダブルはといえばこちらも結局は和製英語であり、更にhalfやpartより一般的でないようで、使うにしてもやはり単語単体では意味が通じにくい、という事だった

そういえば以前テレビ番組ハーフネガティブからダブルを広めたい、と言った女の子に同じくハーフアメリカ出身女の子アメリカでも普通に使う、言葉自体ネガティブな要素はない、日本でもそうだと思うという風に言っていて、その認識の違いを興味深く思っていたのを思い出した

ダブルハーフ海外で通じる通じない、という日本ガラパゴス意識という意味では変わらず、むしろダブルの方が単語の用例としては一般的ではない様だった

それでもダブルを通じさせるためには略さず言う必要がある

さないのであれば、また略さないそれがそのままダブル意味なのだとするのならガラパゴス、という部分でハーフ否定的になる理由はない

ならなぜダブルなのか

調べている中で表現としてmixというものがあり、ハーフクォーター、またそれ以外をも内包出来る親和性の面でもいいな、と思えたし、実際日本ミックス表現として使っている人も既に少なからずいるようだった

特に多民族国家ではhalfやpartやquarterでは表しきれない事もあり、mixが段々と単語として市民権を得ている、という印象を持った

そこからの輸入でのミックスという表現なのだと思う

言葉としてハーフクォーターと平行して組み合わせる事も可能汎用性も高く、会話や文脈によってはmixという単語自体ルーツの意を含ませる事自体も、ハーフダブル比較すれば難しくはないらしい

言語的にも、日本ガラパゴス言語感覚への問題提起としてもミックスを使おう、というならすんなりと腑に落ちる

違う言語から見て、初めて聞くハーフというそ言葉ネガティブさを含むように見えるかもしれない、と思う

そしてそれこそが嫌なのだ、という人もいるだろう

言葉における現状を知りようがない状態での誤解に罪はない

そして誤解とはいえネガティブな枠で自身定義される、それ自体への拒否感も理解できる

だがその場合ハーフという言葉言語として、用法としてのネガティブさは認められない

問題日本独自略語和製英語が生む対外的な混乱による認識差異、ただ1点だ

だがダブルという新たな和製英語を使おう、と言う

そしてハーフ言葉としてネガティブから、と言う

ミックスではなくダブルなのだ

単語として、ハーフ基準にそこに優るものとする発想から用意された事は明白で、それは先述した言葉としての有用性や論理を置いてけぼりにハーフという言葉への相対的な優位性のみを後ろ盾としており、当然その説得性にはハーフがどれだけダブルに劣るかの提示が不可欠であって、そのやり方としてハーフネガティブ論が持ち上がっているのではないか、と考える

実際ダブルを広めたい、とする場ではほぼ必ずセットとしてハーフマイナス面が語られ、ダブルポジティブさにしてもやはりそのネガティブさに対しての相対的ものに留まりハーフ差別的であるネガティブであるという言ってしまえば既成事実作りとそれを踏み台にしての消去法的優位性でもってでのみ語られる姿はどこか悪く言えばプロパガンダ的だ

ハーフマイナス面をいくら語ったところでそれはダブルの優位性の証明にはならないのだが、単語としての関連性を匂わせ、選択肢として提示する事でそう見せる、というやり方なのだと思う

そもそもダブルが持つとする言葉ポジティブさの論理は、一歩間違えば純血主義に対し方向は真逆でもベクトルは変わらない、同じ類の比較対象ありきの優生的優位性とも取れる危うさもあり、ともすれば強くハーフマイナス面を示す事でのあくま相対的であるとする主張はその指摘を避けるためのものでは、とも思ったが、そこまで考えていないようにも思う

賛同している多くもハーフネガティブさ、という主張をも含め「素敵な考え方!私達は理解してるし悪い慣習は変えて行こうよ!」というような諸手をあげてのもので、単純に深く考える前に助力になれば、という意が先に出ているようでもある

それにしてもダブル肯定するという事は当然過去遡って差別的ネガティブな要素を持つ言葉として使っていたという事を自分も含めて認め、もしくは受け入れる事であり、違うのだとすればそれは一方的に要はレイシズムからなる加害者だとされる事であるのにそこに違和感はないのか、と首を傾げてしま

多くの賛同者はただただダブルポジティブ!とやっているのだ

そのポジティブさはハーフという言葉相対的犠牲理不尽に強いた上でのものなのに、なぜそんな肯定的に思えるのだろう、と

かに現実としてハーフという言葉ナショナリズムから悪い意味をのせる人間はいるだろう

しかしそれは今の通例としての言葉概念上では明らかに例外であり、そのような人間が発する言葉に含まれレイシズムにその他大勢人間性を巻き込むのはナンセンスであるし、むしろ仮にダブルが使われるようになったとしてどうにかなるのか、というような現実用法とはかけ離れるレイシスト意図をその文化圏象徴のように語るのはそれ自体差別的であるように思える

その上でネガティブな印象に受け取るのは個人選択であり、本来意図される言葉の使われ方やそれを口にした人間人間性など意に介さずお構いなしにやるそれはあまりにも、という印象が拭えない

自身自尊心のために半ば言いがかりのようにして他の多くの人間性を否定する

ハーフネガティブから、というのは結局はそういう事なのだ

それら全部分かっていてもハーフという言葉ネガティブに取ってしまい、それがダブルという言葉自己肯定に繋がるのなら、とも思いはする

だが、それはあくま自己完結としてあるべきで、言葉やそれを使う人間をも巻き込むのは傲慢が過ぎるのではないか、と思う

「ただ自分に誇りを持ちたいだけ」「ポジティブにありたい、それが悪い事なの?」というような声も目にしたが、ネガティブさを押し付けなければ得られない、相対的しかない誇りやポジティブさとは一体何なのかとやはり首を捻る

そんなものでも彼ら、彼女らは良いのかもしれないが、そのためにレイシズムを含む言葉を使って来たと匂わされるこちらはたまったものではないし看過できるものでもない

その人間意図や場面を限らず、元の言葉から定義をし直そうとするその行為は紛れも無くこの私も含め、多くの人間への自己肯定理由にした小さな悪意であり、自尊心アイデンティティと向き合うためにそうする姿は健全とは言い難く、やはり違和感は拭えない

そして何よりやはり言葉としてあまり出来がよくないと思う

その人が言葉に持たせた意図やその言葉意味でなく、ネガティブだと捉えた自身根拠ポジティブになるためにその相手非難めく

近くにいたら少し距離をとるな、と思うし、それを「応援」する人間も怖いな、と感じるんだろうとも思う

少し前、流れていたツイートで、ハーフなんだね、と言う女の子に、それも少し前話題になっていたプリキュア男の子が半分じゃないよダブル、のように言っている画像を見た

そこには(曖昧だが)ポジティブな考え方はマネしていきたい、というような文章が添えられていた

画像男の子大和撫子パリジャンのダブルから、という言い方をしていた

しかしたら設定として、その男の子日本に来て間もなく、誤解の下にハーフという響きにネガティブさを感じたのかもしれない

そんな可能性を示す、そこには何の異議もない

実際そのダブル和製英語としてのルーツを示す略語でなく、単純に本来そのままの意味として使われているように見えた

現実的に考えてみてもそんな状況ならハーフという言葉に疑問を持ったとして、和製英語であるダブルを使う事は無いだろう

だが、これはアニメ

この場面の意図に、ハーフに代わる略語としてのダブル、という言葉存在が前提にあるのは明らかで、また画像に添えられたツイートもそのように捉えていたように思う

女の子が口にしたハーフルーツ意味を含む略語という側面でなく、単語それ自体で受け取らせ、ネガティブだと否定させ、その上で同じく単語用法そのままの意味ダブルという言葉を並べ、語らせ、そしてその比較ハーフダブルの印象へと繋げる

これはそのままダブル賛同者の論理のように見える

先述した通り、略さないのであればハーフという単語を用いるネガティブさ、という方向性での疑問は海外の用例からしても杞憂しかない

そしてまた、略さないのならダブルを用いて自身ルーツを表す事自体には大して問題もなく、それは確かにハーフ使用する場合より単純な印象としてどこかしら肯定的な雰囲気も持ってはいるようにも思える

だが、そこで略語としてのハーフ否定し、成り代わるよう安易にそこに収めようとやるから辻褄が合わなくなるのだ

もしこの男の子ハーフルーツを表す略語であり、一般的に使われる表現である理解しているならどうだろう

その場合、その子ハーフと口にした女の子差別的な要素をも含むネガティブ言葉無自覚にでも使った人間である意識の低さを指摘し、また同時に相手意図より自分が思う言葉意味を優先して否定から入るような、そんな子だ、という事になる

そしてそれは当然、その女の子だけでなく見ている子供たちへ向けられるものでもあるはずだ

言葉としての意義に悪者であるハーフ否定する事が含まれているのだからそうなるのは当然だ

これはあくまで仮の話ではある

だが同時に現実としてポジティブさ、という言葉の下で同じ事が無自覚に行われているのも事実

そしてそれは何の悪意も意図もなく、むしろ場合によっては羨望の意味さえ含ませハーフという言葉を使う、その女の子と同じ年齢の子たちに本来そんな必要のない罪悪感を負わせる事でもあるのだ

それは啓発なんてものじゃなく単なる大人の我だ

本当にとても理不尽言葉だと思う

今後、私はハーフという言葉を使い、クォーターも使い、ミックスという言葉も使い、また、もしかしたらプリキュア男の子が言っていたような国と国でダブル、というような、より肯定的な意を込めたとする表現本来ダブルという単語用法ひとつとして使う時が来るかもしれない

だが、ハーフという言葉自体とそれを口にする人間性の否定、というネガティブさを纏ったダブルという言葉を使う事はないだろう、と思う

そこにあるネガティブさを肯定する事は私にはできない

2019-02-23

万有引力発見みたいな気づきが、いま俺の中で起きてる(SF)

りんごが木から落ちる。

それは

世界構成する4つの力のうちの「重力」によって起きる自然現象

まだまだ世の中には解明できていないことがたくさんあるけれど、

ほとんどの物理現象はこの4つの力によって回っている…らしい。

…ここまでは分かる。

すげえわかる。

世の中の色んな物理現象は、何かの法則に則って起きてるんだな。

詳しい事は良く分からんけど、そこには何かしらのルールがあって、

細かなパラメータの誤差は有れども、物事規則的に起きているんだろう。

…ここまでは分かる。

ただ俺は小さなからずっと疑問に思っていたことがあって、

「世の中の全ての物が物理法則に従って動くなら、生物だって当然そうなんじゃない?」

生物も全て物理法則に従って動くだけなら、脳の動きだってそうなはずで、

じゃあ意識とか意思決定なんて存在しないんじゃない?」っていう奴。


この疑問を持つのもも定番ネタみたいなもので、

別に俺に限らずありとあらゆる人がこの疑問を持っていて、

それに対してこう結論付けているのも、今までさんざん見てきて知っている。

意識なんてものはない、そんなものは脳がつくりだした幻だ」

って奴。

でもいやちょっと待てよと。

俺の意識は確かに有るぞと。

俺は俺の意思を持って行動している。

今ここに俺がどんな文章を書くか。それは今俺がリアルタイム意思決定して行っている事であって、

決して物理法則に則って元から決まってた状況なんかじゃあねえぞと。

ただ、それを証明する事はどうしても出来ない。

この矛盾と疑問を子供のころからずっと抱えてた。

…ここまでが前説

で、

最近になって発想がそもそも逆なんじゃないか

と思い至り、

(ここからSFです)

生物とは、世界物理法則抗う事が出来る存在なんじゃないか

と思うようになったんだ。

より正確に言うと、

生物とは、世界確率に僅かに干渉出来る存在なんじゃないか

と。

何が言いたいかっていうと、

ネットにはじかれたボールがどっちに落ちてもおかしくない、みたいな状況で、

どっちに落ちるかを"意志"の力で選択する。

そんな感じの処理を実行していて、それが意思決定に相当する行為なんじゃないかと。

もう一歩踏み込むと、

意思決定の力による世界への干渉が出来る、

という状態が"生物"の最小単位であって、

それが出来なくなり、

物理法則なすがままに成らざるを得なくなる事が"死"に相当する。

という事なのでは無いかと。

そう考える事で、俺の中で色々と合点が行ったんだ。

まず生物起源について。

生物は「代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在」で、

それが何度も何度自己複製して、複製時の微妙な誤差を積み重ねて多様化し、

多様化と淘汰を繰り返して進化してきたという考えが、今広く支持されている考えだと思う。

これもまあ分かるよ。

万年何億年とトライアンドエラーを繰り返していれば、

単細胞生物もそのうち人間になるだろうと。

でも最初最初代謝して自己複製する、自己と外界の間に境界を持つ存在

そんなもん、自然現象で産まれるか?

地球をこね回していたらそんなものが産まれると?

確率的に凄い奇跡なんじゃないのか?って。

ただ、そもそもその奇跡自体生物なんだ、

世界干渉して、どうにかギリギリ生物としての必要条件を満たした最初奇跡、それが生物なんだと。


次に生物進化繁殖とその目的、あと今後の世界の行く末について。

生物はどんどん進化繁殖を繰り返し、

単細胞生物から細胞生物になって、

ついには人間になって(人間以外にも色々居るけど)、地球中に満ちるようになった。

更に人間は群れて行動して、群体として生物のように振舞っている。

もう「会社」とか「国」とかは生物の一単位と言っていいんじゃないかなと思う。

この進化繁殖は何のために繰り返され続けているのか。

その答えは「世界干渉するサイズを大きくするため」なんじゃないかと俺は思う。

最初奇跡自然現象としてはそうそう起きないような確率インチキ)は、

極小サイズ自己を複製するっていうだけの、小さな干渉だけだった。

それが今では、

海を埋め立てたり、山を削ったり、月に辿り着いたり、

太陽系外に機械飛ばしたりするレベル奇跡を起こせるようになった。

この進化繁殖を繰り返していくと、

この世界は今後どうなっていくのか。

そのうち生物は、地球の引力に当たり前のように抗う存在になって

地球規模、太陽系規模、銀河規模で世界干渉するようになり、

そしていつか、宇宙のありとあらゆる全ての現象干渉するようになる。


そこから先はどうなるのか

宇宙の全てに生物干渉できるようになった時代

今の人類がやってる「ちょっとここにビル建てるわ」的なノリで、

ちょっとこの宇宙デザインいじるわ」みたいな干渉を出来るようになったとしたら。

それはもう、新しい宇宙誕生みたいなもんで。

そうしていじくり回された宇宙の中の、

どこかの銀河のどこかの星で、

また極小サイズ奇跡が起きて、生物が産まれてる。

そんな設定のSFが読みたい。

2019-02-21

プログラミングと詳細設計

前職で三ヶ月だけプログラマをやってクビった。当時も今思えばプログラミング普通なりに普通っぽくできるけど設計書とかドキュメントとかそういうので何度もやり直しくらったような気がする。

自分自分の中では論理的な文を作ると思っているから、仮に設計書とかドキュメントとかが論理的ものなら全然馴染める気がするけど、というか理系職種のくせに設計書とかの類って全然論理的じゃなくて法則性バラバラすぎてもう嫌になる。

ある法則はたぶん上司感覚やその会社の慣習。せめて上司がそれを分かってくれていればいいのに、「これが正解だから」という態度でこられると意味がわからなくなる。

「これはこういう理由なのでこうしてください」と書かれるけど、俺からしてみたら「いやこれはこうだろ」「じゃあなんでこれはこうなんだよ」「何が一意なんだよここ一意じゃないじゃん」とか大量に意味からないポイントが見つかる。

これだけは認められない

2019-02-20

anond:20190219163134

単純に、男には年収ラインがあるが女にはなく、女は下方婚しない。

この法則から外れたやつが結婚できないだけ。

2019-02-18

anond:20190218100255

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%81%AE%E6%B3%95%E5%89%87

働きアリのうち、よく働く2割のアリが8割の食料を集めてくる。

よく働いているアリと、普通に働いている(時々サボっている)アリと、ずっとサボっているアリの割合は、2:6:2になる。

増田が言ってるのとはぜんぜん違うみたいだけど、

この働き蟻の法則人間にも適用できるというエビデンスは?

anond:20190218100202

働きアリの法則

そんな事もしらねーのかよ。ググレよ。

2019-02-16

anond:20190216194737

人間構成する先天的要素(遺伝子)と後天的要素(個人経験)の違い

優次は手記に繰り返しこう書いていたという。

<兄は自分コピーだと言う。その原本母親である。その法則に従うと、弟もまたコピーとなる>

 

父と母から同じ遺伝子を引き継いでいる、という意味では「生物学的なコピー」と言えるだろう。

しかし、同じ遺伝子を持って生まれても、生まれた後の経過が違えば、当然違う人間になる。

遺伝子がソックリの双子兄弟でも全く同じコピーにはならない。

 

従って、自分意思では選べない先天的な要素だけをもってして、犯人とその家族は同じであると断定するのは、科学的に見れば誤謬である

後天的な要素である個人経験や育った環境によって同じ人間にはならないことを考慮するなら、やはり犯人とその家族は別物と判断するのが正解だ。

 

加藤智大の弟さんは自殺すべきではなかった。

兄と弟は別の人格を持った個人であることを主張すべきだったのではないか

残念だが、弟さんの選んだ自殺という道は間違いだったと言わざるを得ない。

anond:20190215184234

まあな。

人間モラル根拠に、進化法則やら、動物習性やら、物理法則やら、自然科学理論をもってくるのは危険やな。

その理論が間違いだったとわかったらモラル否定される。

2019-02-15

動物好きな人悪人はいない」はウソ

動物が好きという同僚が結構サイコパスで何人も会社辞めた。

あり得ないなんてことは

あり得ない。

「xxな人はいい人」という法則なんてないからな。そんなものがあれば、面接採用に困ったりはしないんだよ。本物のクソ野郎はそれを欺いてくる。お前らの体が猟奇的腑分けされる前に、違和感を感じたら逃げろ。

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