はてなキーワード: ドーピングとは
(結論)こういう言い方はしない方がいいと思う。
(思考実験)適切に努力すれば、誰でも陸上100mで五輪メダルを獲れるのか?
論理的には、間違っている。なぜなら「全人類が適切に努力したとしても、確実にメダルを取れるのは3人だけ」であることは明白だから。努力が叶う確率3/70億、それは限りなくゼロに等しい。少なくとも「誰でも」でないことは明白だ。
しかし、現実論として考えれば必ずしもそうではない。全人類が競争に参加するわけでもないし、全員に「適切な努力」をさせるためコーチなどのリソースを提供する資金はどこにもないから。つまり現実的には、「一部の人間が、おおむね不適切な努力をしている」世界が存在するだけであるから「適切な努力」の適切さの度合いを厳しくすれば、「適切な努力をすれば誰でも」ということは不可能ではないかもしれない。まあ、極端な場合、それはドーピングなど非合法手段を含む「適切さ」であるかもしれないが(あとで剥奪されても「取った」ことは実現できる…という意味においてだが)。
(本論)
大抵の夢は「五輪メダル」ほどハードルが高くない。たとえば「音楽家になりたい」くらいの夢なら、世界中で毎年数十万人がかなえているくらいのレベルの夢ではないだろうか。そう考えれば、現実論として、「適切な努力をすればなんでも可能」論はそれほど的外れでもないだろうことは認めよう。実際、遺伝子レベルの優劣それ自体が、どれほどその人の人生に決定的な作用をもたらすかというと、そりゃ大したことはないとは言えるだろうね。だが、実際は、生まれ落ちた瞬間から全ての「努力」はスタートしているのであり、ときにその差は「才能」と言うしかないほどに絶対的な差となることもある。
たとえば絵を描くことを例にとれば、日常のものの見方、感じ方、興味の持ち方…など24時間全ての時間が絵を描くためのトレーニングに直結するような(それこそ夢の中も含めて)生活を送ったAくん12歳と、まったくそういう興味をもってものを見たことがないBくん12歳が同時に画塾に入塾したとしたら、いろいろな技術を両者とも初めて身に付けるとしても、描く絵の質は数ヶ月のうちに天と地ほどの差ができるだろうし、そこから得られる賞賛などの成功体験と逆に受ける劣等感…など周囲からのフィードバック、それによるモチベーションの差なども含めて考えれば、いくら後者が「後者なりの適切な努力」をしてもその差を埋めるのはまあ不可能だろう。そういう現象が世の中にあふれているのに、Bくんに「才能じゃないよ、後天的な努力、努力の質の問題だよ」と言っても、納得させるのはなかなか難しいだろう。
Bくんに対してAくんのことをどう説明してあげればよいのだろう? 「Aくんの方が努力してる」と言えばいいのだろうか? 現実には、Aくんは一日2時間しか絵の練習をせず、それ以外は、普通に景色を見たり興味のあるものを読んだりして暮らしているだけで、Bくんはその間一日6時間も絵の練習をしているとしても。それでもAくんの絵の方が圧倒的に「うまい」のだとすれば。その場合、Bくんに「君の努力の仕方は適切ではない」というのは、本当に適切だろうか。Bくんに、生まれてからの10数年間を全否定して、もう一度
赤ん坊がものを見るその見方、感じ方から(神経回路の形成自体をやり直させる勢いで)修正して…という教育を施すのが適切な努力というものなのだろうか。赤ん坊が数年で実現することを大人になってから行おうとすると十年以上の時間がかかるかもしれない、しかも、十年以上たってやっと、Aくんの12歳にようやく追いつくだけだというのに? 私なら「Aくんには絵の才能があり、君にはない。人の才能をうらやむのは意味がないからやめなさい。」と言うだろう。
何かをあきらめる言い訳として「才能」という言葉はとても便利だ。人生の時間というリソースは、誰にでも平等で有限だ。苦手な分野にそのリソースを投下するより得意な分野に投下する方が、本人も社会も得る利益は大きい。今のままのBくんにも別の「才能」がある可能性を否定するべきではないだろう。「才能」という言葉を言い訳にすることを、大人にも子どもにももっとカジュアルに許した方がいいと思う。
(参考)
作曲家の渡辺崇氏、中学生から助言を求められたので「夢は叶う」という旨を伝えると返ってきた答えが物哀しかった→様々な意見とそんな人々へのエール
Copyrightという世界的な概念があってだね、copyright infringementは世界的にダメという風潮があるよ。ドーピングという概念を例として適応するなら読者ではなく、企業だね。私企業が漫画村みたいなものをビジネスとして行うとすれば、それはドーピングしたと言えそうだね。これはもちろんダメで、もしやったら一瞬でバレて死んでしまうよね。ドーピングがダメという風潮を広げるというのは合理的じゃないよね、というか既に法により達成されているよね。第二・第三の漫画村に人が流れ込まないようにするためには漫画村よりも便利なものを作らないと意味ないよ。
ドーピングは手段としてダメというルール化には成功したけれど、速くなりたい。という欲望は、技術を高める修練を積むシューズなどの用具の性能を高める。という別の手段に昇華できたから欲望が満たされたと考えると、漫画村で知ってしまった欲望に対し正規で昇華する手段が乏しいというのはある。
旧態依然のままにすることの何が問題なのか分からないと何とも言えん。既得権益クレクレ厨にありがちな傾向だが
ドーピングが無くならないのと同様、第二第三の漫画村は出てくるだろう。でもドーピングはダメな行為として地球レベルで共通認識がある。それと同じ方向に持って行けばよいだけだと思う
ここだぜ。ここが重要だ。
相撲は相手を土俵の土につければ勝ちだ。その為には太ったり付き人をビール瓶で殴ったりなど手段を選ぶ必要はない。
相撲チャンピオンは通常横綱と呼ばれるが、横綱と呼ばれるためには別に痛みに耐えてよく頑張る必要はない。
痛みに耐えてよく頑張って褒められたとしてもそれは横綱になれる必須条件ではない。
そのスポーツにはそのスポーツのルールがあるんだ。障碍者だったりすればハンデをもらえることはあるかもしれない。
だけれども最終的に得られるスコアは頑張ったね! って声ではなく優勝旗だったりのはずだろ。
そこを認識ずらして「けがしても頑張ったから誉めて!」って言うのは、自身でそのスポーツに敗北しましたと言っていることと同じだろうということを言っているのだ。
今、ルール上オスカー・ピストリウスが通常の五輪に参加する資格があるのかは分からん。言ってみれば物理ドーピングしている訳だから。
だが、本来目指すべきは障碍者であってもそうでない人であっても同じステージで公平に争えることだろう。
誉められたって伸びるのは鼻の下だけだぞ?
はてな匿名ダイアリーだけでもそうだけど、
幸せを持たざるものは、どうやっても救われないで地獄絵図を作るキャストでしかない
一方、幸せな人生を送る側は地獄絵図なんてほぼ視界の外にして生きている
簡単に言えばアフリカの飢餓孤児をお茶の間のテレビで眺めながらホットケーキにメープルシロップかけて食ってる構図だ
もし真横に異常に腹の出た飢餓孤児がいれば内心穏やかでなく満足に食事も取れずに、
自分が食べる予定だった食べ物を分け与えるか、もう少し頭が良ければ救急車を呼んで入院させ点滴させるだろう
ところがどっこい、これは起こり得ない
何故なら遠いから
ただ遠いから、自分の生活と関わりがないからという理由で平然と無関心になれるしご褒美スイーツを食っても心を痛めない
今30歳、当時中学生1年の頃にアフリカの飢餓孤児をTVで見たときはフーンと思っていた
しばらくそんな国もあるんだと思っていたがふとしたとき気づいた
「俺と孤児のどこが違うの?」
肌の色とか民族とかDNAとかそういうのは割とどうでもいい話で
もしアフリカの民と日本の民がそっくりそのまま場所を入れ替えたら、
俺が飢餓孤児になってアフリカの子どもが食卓で目玉焼きを食いながら俺をTVで見ていたんじゃないかと
人によっては「日本にアフリカ人が住んでもアフリカのようになるだけだ!」みたいなことを言う人もいるかもしれない
じゃあアフリカ人が日本列島にたどり着いて日本人がアフリカ大陸に残った別の歴史世界の話でもいい
それとも俺の魂がアフリカの子どもで、アフリカの子どもの魂が日本人の体の中で入れ替わって産まれてきた世界でもいい
とにかく、完全に、運なのだ
運なのだ
こればっかりはどれだけ取り繕ったところで人生は運に支配されている
努力すれば変えられるという人も勿論いる
だが努力が公平であればあるほど、天才の努力に凡人の努力は勝てなくなっていく
甲子園に出場した甲子園球児が全員プロ野球選手になれないのと同じ理屈だ
プロ野球選手は圧倒的に眼の才能によって大きく分けられる
ドーピングは単純な筋肉量ではなくこういった鍛えにくい部位の筋力を増強させている
こうすることで恐ろしく早い速度のボールを肉眼でとらえることができヒット率が上がるのだ
結局、ボールをバットに当てる才能は天から授かりしものであり、
凡人はドーピングを使った「努力」をしなければそこまで到達できないのである。
しかしその努力はスポーツ界では認められていない、ただし公には。
では逆説的にすべての人間が同じ能力を持つクローン人間だったとしたらどうだろう?
発想も発明もファッションも日々の生活も何もかもどこを見ても似たり寄ったり。
嫌いなものはこの世から消え去り、自分の好きなものしか残らない。
ベースとなる人格がよほど凶暴でない、疫病が流行らない限りは一見、平和な世界に見える。
異文化があり自分と違う価値観があり、日々体験を更新していく方が個人の人生において充実しているのではないか?
自分が作った映画や小説など、所詮自分の想像以上の産物にはならないだろう
娯楽に頼ろうとしても自分の日記を振り返って読む感覚しか得られないだろう
なぜならその経験の解釈でさえも彼らは同じような解答しかできないからだ
明日も明後日も「この世は地獄だ」という日記を見かけるであろう
俺たちがそう思ったタイミングが別々に訪れ、別々のタイミングで同じ投稿をするだろう
そしてそこには同意のトラバさえつかず、なぜなら自分が分かり切ったことだから、自分の独り言に反応する必要性すらなく
ただ独り言が流れ続ける暗闇へと変わるだろう
ここで理想的解決としては運の最低の期待値をせめて飢餓孤児や産まれた瞬間殺される子どもでないように世界を作り替えることだろう
重大な疾患を抱える子どもを遺伝的コーディネイトしても良いかどうかは倫理観が問われるところだが
個人的には行ってもよいと考える
人間原理的に生存と繁栄は肯定され、そこに疑問の余地を挟まないのが当然だと思われている
絶滅しようがどうなろうが知ったこっちゃないというのが至極当然の感想だろう
この広い宇宙に知的生命体が人間しかいないという考えも妄信的で霊を信じるよりも俺にとってはオカルト的思想だ
また宇宙から寵愛を受けているから人間が誕生したというのもまた妄信的で人間原理によりすぎた思想だ
人間は宇宙から無関心であることに感謝しつつ、人間の選択そのものによって理想的な世界を手にするべきだ
理想的社会を手に入れるためならば人間は産まれる必要性があるかないかを選択することができ
恵まれた知能と肉体を一定以上備えた状態の子孫を望んだっていいのだ
関心があれば産まれたときから不幸な孤児をこの世に産むわけがなく、何らかの救済を宇宙の法則として残しているはずである
仏教には輪廻転生という言葉があり罪を減らすために現世に産み落とされるという
では産まれた瞬間からコンビニ袋に入れられ、トイレに捨てられ死んだ赤子はどこに罪を減らすチャンスがあった?
全く宗教が信じられないのはどれも神は人間に寵愛を与えているという観点である
俺は全く信じられない
俺が安心してホットケーキを食うことができるのは飢餓孤児が地球から存在しなくなった瞬間だ
それ以外では頭の隅から追い出して生活する逃避行動を取る以外にない
もしくは俺が自分の行動に矛盾性を排除するためには隣に飢餓孤児がいても無視して締めパフェを食う神経を身に着けるしかない
俺がどうしても神を信じて感謝することができないことはその1点だけでも十分すぎることだ
故に神や宇宙が人間にそもそも無関心であるという解釈を俺は信じている
そしてその上で神や宇宙が人間にとって安全装置として機能しないのであれば
人間にそれを作る選択権があることを人間自身が認める権利があるということだ
法について話をするのは、また別の機会にしよう
可能性の隙間があってそこを通り抜けたから存在しているのであって
寵愛を受けたわけでもなければ選ばれた存在でもない
宇宙・天体・この世の物理法則は自分らの隙間に入り込んだ生命に対しては無関心であり
故に生命は神や宇宙に頼らずに自分たちで選択しなければならない
もっと具体的に言えば俺が真に幸福にホットケーキを食べる瞬間は未来永劫来ないことになる
この世は地獄だ
まだ確定じゃないけどさ
推測で言うけど人事権握ってる連中が指示したら逆らえないって増田でみたけど
システムとして糞過ぎない?
政治家のお気持ちでこのシステムの脆弱性に見て見ぬふりしてくださいねみたいな
これすごくない?
マーフィーの法則じゃないけどいつか誰かがやらかすやつじゃんこれ
ロシアのドーピング事件の重要人物グリゴリー・ロドチェンコフとかさ
あるいはスノーデンなんかもそうだけど図太いじゃん
なんなの自殺ってしょーもな
なんていうか、日本の教育エリートって大学教授なんかもそうだけど、世界が狭すぎだよね
例えるなら中学時代に、学校が世界のすべてだと思う感じだろうか
頭がいいとか言いながら弱すぎる、官僚以外に行き場がないんだろうか、自分の人生が崩壊するみたいな?そんで自殺するしかないみたいな
なんでもありなら機械使えないと
ジャンプ競技ならジェットパック背負えばいいしフィギアスケートでも個人用ヘリで制限時間いっぱいまで回転し続ければ超高得点にならないかな
何が人間の身体の可能性の追求だ、本音ごまかして世界平等同じ立場で仲良しこよしのスポーツ大会なんて反吐が出るわ。
みんな究極の速さと力を求めてるんだろう!!??見てる方はこいつ怪我しねえかなこけねえかなあの国ぶっつぶせとか思ってんだろ!!??
こちとら一瞬の栄光のために祖国のために力をだしきって死ぬ、そんな本気のスポーツが見たいんじゃ!!!!
だからドラッグドーピング肉体改造洗脳なんでもありで人間の限界見せてくれや!!!!!
アメリカも最初は反対ですなんて優等生ぶってるけど中露の技術革新見たら焦って参戦してえぐい選手だすんだろうなああ
日本はヒロポン打って頭は戦時中のバーサーカー、体はサイボーグみたいなのでがんばるんやろうなぁあああ
みてえええなあああ
親衛隊さくっとつくった
反転の呪いはどっかで入手した秘伝書が1個あったからラハールちゃんに使った
うーんきゃらかい用アイテムはサブクラスマックスで9999にしたら戦闘時にサイコロ増やすのはもう捨てていいかもなあ
最初はすごろくめんどいとも思ってたけどまあこれはこれでいいのかもしれん掘っていくより早く終わるときもあるし
単純にマビ継承考えたらかなり楽だわ
3とか4はこれに比べたらやっぱわかりにくいよなあ・・・
4はかろうじてわかったっけかな
あとエキスでちょこっとドーピングしたら、ブレイブアップとマルチアタックなしのまちぇんじからのビッグバンで1ターンで終わるようになった
たまにかすりヒットで2ターンかかるけど、毎回マルチアタック。ブレイブアップする手間に比べたらたいしたことない
1時間で1000万ためられるな
でもまだ捕獲じゃなくてメガホンで投降に頼ってるだけだから捕獲できるようになったらもっと高速にできそう
んでふと思ったけどシーフをエキスの使うキャラに選んだの失敗だったなあ
あーあメタリカにしとけばよかった
まあ今更だな。。。
うーんでもあっというまに100h目前・・・やっぱディスガイアこわいわー
過去に,なんかのソシャゲで課金額のランキング順位による特別なサービスが企画され,猛烈な課金競争が起きて批判を浴びた事例があったと思う(検索したけど見つからなかったので見つけた人は教えてください)。
これ?
血のバレンタインとは、2月14日に引き起こされた惨劇である。
http://dic.nicovideo.jp/a/%E8%A1%80%E3%81%AE%E3%83%90%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%B3
Mobageが配信するソーシャルゲーム『アイドルマスター シンデレラガールズ』にて2012年2月に開催されたイベント「バレンタインパーティー」のこと。
1月末のコンプガチャ(「人は人、私は私」)で絞り取られていたところ、ガチャと同時並行してこのイベントがスタートし上位報酬(順位は道中ランダムでファンに配る「チョコレート」の数で競う)の十時愛梨のためにマラソンを走ることとなった。イベント中盤にはガチャのおまけとして3倍チョコレートという効果上昇アイテムが登場したが、ここまでは大した批判もなかった。
問題にされたのはイベント終盤で、追い打ちをかけるように突如ショップで3倍チョコレートの販売を開始したことにある。
あくまでオマケの地位にあった3倍チョコがランナー必須アイテムとなったことでそれまでの順位間の差が実質的に縮小し、競争は急に激化した。 それまでに多量のスタドリを使用していた上位ランナーは報酬圏内から落ちるという最悪の結果を避けるためさらにスタドリ(体力回復アイテム)でドーピングを行なう、というように急激な競争の激化がさらなる競争を呼ぶ悪循環になり、上位ランナーは吐血するような気持ちで終わりの見えない戦いを続けたという。
この時の3倍チョコレート投入は搾取傾向が強い運営の行いの中でも特に悪辣なものと記憶され、モバマスでの血のバレンタインはこのイベントを指すようになった。