はてなキーワード: ドーピングとは
まだ人に言える時期ではないので増田で。期待も大きい分不安も大きい。妻の体調を気遣う毎日だ。
ここまで長かったな。
22歳のころから妻と付き合い始め、30歳の時に結婚。ずいぶんのんびりした関係だ。
俺は若い頃、子ども欲しいなと思いつつも、結婚はしたくないというよくわからない考えだった。決して人には言ってなかったが。ゲスっぷりを最大にして言えば、自分の子どもは欲しいけど家庭を持ちたくないっていうクソミソな考え方だ。特に俺の場合、20代の頃はエネルギーが有り余ってやりたいことが多すぎるので、自分の時間はどうしたって欲しい。とはいえ、子どもそのものは欲しい。でもちゃんと幼稚な考えという自覚はあったので、結婚はしばらく先だなって思っていた。
俺が29歳の時に父親がまた随分と調子悪くなった。毎日心配し看病する母を見て、結婚って悪くないもんかもなって思った。ちょうど付き合っていた彼女も、自分のやりたいことに一区切りがついていたタイミングだったこともあり、流れのまま結婚した。結婚する前は誰と結婚するかはとても大事なことだと思っていたし、この彼女で本当に大丈夫か??って考えてもいたが、まぁなんとかなるっしょくらいなノリで結婚した。多分、他の誰よりも良かったと思う。
体調のよろしくない父も無事結婚式にでれた。思えばこの結婚式を見届けることで、親父は思い残すことがなくなっちまったのかなと思う。
その後の結婚生活は幸せそのものだ。どんな夫婦よりうちは仲がいいんじゃないかとすら思えるくらい仲がいい。しかし一つ大きな問題がある。セックスレスだ。そう、うちはセックス無しでとても仲がいいのである。
夫婦関係自体が良好なので、レスでも問題ないといえばないのだが、当たり前だがレスでは子どもが出来ない。ただ当初は妻もそんなに欲しがっていなかったこともありのんびり構えていたら、あれよあれよとこの年齢だ。女性は早ければ20代後半から不妊がはじまるし、男だってもう活発な精子は少なくなってくる。幸いにも妻の友人関係にもだいぶ赤ちゃんが増えたこともあり、妻も出産に前向きになった。妊活が始まった。
レス夫婦の妊活は大変だ。一度やったら一ヶ月くらいはする気になくなるので、排卵日付近に何度もというわけにはいかない。そもそも無駄打ちを避けるためにテンガルーペで精子を観察し、病院へ精子の検査をしにいき、とりあえず大丈夫そうだということを確認した上でテンガサプリを毎日のむ。自慰もほどほどにして元気をつけておかないと正常な精子が減るしち○こ自体小さくなるし。
妻は妻で基礎体温を計るところからはじめ、排卵チェッカーを毎日朝夕確認し、排卵の状態をチェックする。そもそも卵子が受精できるタイミングは24時間もない。精子は2〜3日生きるとは言われているが、それでも徐々に子宮内で死んでいくことは確かであろう。
排卵チェッカーで今日がその日であるということがわかってからは、俺はドーピングを使い、決戦にそなえる。またエロ動画もあさり、ムラムラを蓄える。この辺はほぼ義務だ。そうじゃなければ嫁に対しちんこが立つことはない。ドーピングは翌日頭痛がひどく、仕事もままならないが、バファリン飲んでどうにかするしかない。
まだ安心できるわけじゃない。ちゃんと育ってくれることを願ってやまない。これから妻の人生も子の人生も背負うことになる。
でも嬉しくてたまらない。
生まれてもいないこの子を、全力で守っていかねばならないという使命感にかられている。
今まで友達やネット上の「子どものために〜〜〜」的な発言はあんまりよくわからなかった。子どものせいにしてんじゃねーよとも思った。そんな自分を心から恥じる。
1か月で75キロまで落とした
本来であればこの身長だと68キロくらいが適正らしいのでまだ落とす必要がある
1か月の内訳は、毎日ジムで2時間の有酸素運動、食事の量を2割ほど少なく、野菜多め、おやつをなるべく抜く、という内容
ただこんなメニューでこれからも続けることなんてできるわけなく、いずれは運動の時間を減らし食事の内容だけでコントロールしていかないとダメになる
俺は食ってしまうから太るというパターンだから食事の量を減らすのが本当にガチでマジで苦痛だ
最初の二週間は起きて寝るまでずっとお腹がすいてる感じから逃げられず少し間食をした
今もやはりお腹がすいてる感じはするけど最初頃よりはまだずっとマシだ
思うにお腹いっぱい食べてしまうというのはなんらかの精神疾患なのかなと思う
その量で満足感を得られるのはまだもう少し先のような気がする
感想とか聞けたら嬉しいです
小学校低学年の頃買ってもらった。最初は赤と緑の2つが発売され、理由は全く覚えていないが赤を買ってもらった。
たぶん普通に緑より赤色のほうが好きで草より火のほうが強いということをゲームをする前から当時の俺はわかっていたのだろう。
主人公の名前はデフォルトのままレッドだ。これはその後何度もリスタートする度に変わらず貫き通した誇りある名だ。
この先の将来でもし現代のポケモンをプレイすることが訪れたとしても、俺はレッドという名前だけは絶対に変えない。
現代のポケモンは何色なのか知らないが、『ポケモン ダークマター』だったとしても主人公の名はレッドだ。
最初に選ぶポケモンはもちろんヒトカゲ。赤を最初にプレイした人間で植物や亀を選ぶやつがこの世にいただろうっか。
いや、たぶんいないだろう。同様に緑が最初のプレイの人間もここは、トカゲと亀は選ばんだろう。そうでなければ、筋が通らないではないか。
最初のバトルはたしか負けても大丈夫だったか?いや負けることなんてあったのか?たしかとりあえず終わったあとはHPは回復されてる親切設計だったはず。
あ~思い出した思い出した。最初にポケモン持たずして草むらに入ってしまったんだよな。あれは流石に危なかったぜ。ネズミに襲われるとこだった。
ヒトカゲは上級者向けなんだ。序盤のジムリーダーに対しての相性が悪い。だが俺はいつだって厳しい道の方を選択するんだ。
当時の俺もゲームをする前からそれをうすうす感じて赤を選んだのかもしれない。
カスミとかいう女もひどいぜ。しっぽの火が消えたら死んでしまうというのに、水鉄砲やバブルこうせんなんて。こっちは風前の灯火なのに自己再生なんて。
そういやハナダの橋で5人ぐらいに立て続けに戦いを挑まれてたな。なんかどんどん強くなる鬼畜仕様だったような。
船に乗ったな。いっぱいトレーナーがいた。電気のジムリーダーがピカチュウの兄貴分のライチュウ使ってたな。
フラッシュを覚えることができるポケモンは貴重だったな。貴重というより要所要所で必要になるからサブメンバー的に一匹は置いとかなきゃみたいな存在。
ただ技自体は使えないから、ただの懐中電灯代わりでレベル上げることもなかったな。フラッシュ覚えてくれたポケモンは何だったかな。思い出せない。
スロットしたなー。あれ目押しできるのか?確率なのか?マンションの階段で同じマンションのちょっと年下のガギとずっとスロットしてたな。
スロットなんてやらなきゃよかったぜ。知らなければよかった。あのとき手を出さなければ今頃どれだけお金が貯まっていたか。憎き任天堂。
ギャンブルの世界は甘くないぜ。俺はいつも厳しい道を選択してしまう。
ロケット団の悪さにはてをこまねいたね。ちょくちょく街々で悪さしてやがる。そのたんびにいつも俺が時間を使わなければいけない。
おんなじようなポケモンばっか使いやがって。組織ってのも確かに大事なのかもしれないが、個性が潰されてるぞ。社風なのかなんなのか知らんが、もっと自分たちの気に入ったポケモン集めればいいのに。ダーク系一色じゃないか。いやピッピとかもいたか。
サファリゾーンもよく行ったな~。餌あげたり、石ぶつけたり。なんかめちゃレアなポケモンもいたな。出現率数%ぐらいの。ラッキーだったか?
出てきたときはさすがの当時の俺も緊張してたな。そもそも歩数制限ありのテーマパークってひどくね。パーク内の最短コースを考えながら目的を果たすなんて、落ち着かなくてちっとも楽しめやしない。だからよく動かずにその場で釣りしてたよ。釣りをする分には歩かなくていいからのんびりできる。いい魚も釣れるしね。魚ってか龍!?
伝説のポケモンの目の前では必ずレポートを書いたね。いっぱいボールぶつけたな~。ボールがコツコツ動くタイミングに合わせてボタン押したりしてな。まあ意味なんてないんだろうがおまじないだな。あれもHP残量と状態異常を考慮した確率なんだろな。何度も何度も投げてさ。でもめっちゃ簡単にゲットできるときもあって、ゲームボーイ持った手がビクッてなるぐらい驚いたな。伝説のポケモンはゲットしたら即スタメン入りだ。街に戻ってすぐ伝説のポケモンと交換されパソコンに転送されるポケモンの気持ち考えたことなかったな。共にずっと旅してきてたのに。まったく、情ってものを知らない当時の俺だった。
『フリーザーが一番強く、サンダーが一番好きで、ファイヤーが一番美しかった。』
四天王との戦いにはまんたんのくすり?いっぱい持ってったな。ドーピングだよ全く。はかいこうせんがこわかった。アタラナイデクレッ!って祈ってた。やったと思ったら最後にライバル、グリーンの登場。強かった。が、俺のポケモンたちは頑張ってくれた。最強パーティーは結局なんだったんだ?ファイヤー、フリーザー、サンダー、リザードン、カビゴン・・・後何だ?プテラか?いやギャラドスか!あれ?リザードンとかいたか・・・・?
殿堂入りしたときのチャンピオン感やばかった。俺は強いっ!て思った。
で最後にハナダのどうくつだね。野生のポケモンのレベルにびびった。街の近くなのに危なすぎる状況だろ。街に攻め込まれたらチャンピオンの俺がいなかったら、あっという間に世紀末になってしまうぞ!
この時のためにとっておいたぜマスターボール!これでミュウツーも一発だ!からのあれ?マスターボールない。どっかで間違って使った!?マジカヨ
ポケモン赤をまだやりこんでいる時期にローソン限定でポケモン青の発売が決定!めちゃほしい!ぶっちゃけ最近はヒトカゲ選んでません!ゼニガメ一択です!
任天堂は戦略的だ。というか革命的だ。売れる構造を演出してる。
赤緑青で出てくるポケモンが少し違ったり、そもそも一つの色ではポケモン図鑑を完成させることが不可能というゲームソフトとしては革命的に今考えればそりゃないよ的な話だ。
いやしかしケーブルで友達と交換できるってのは考えたやつほんとに素晴らしいよ。友達との交流の場にポケモンを持ち出し、それでみんなで遊ぶ。楽しかったよ。
あれとあれ交換しようみたいな。商売的にもほんとにすごい。あんな環境じゃみんなで遊ぶときにGBはもちろんポケモンは絶対持ってないといけない。
そんな環境であれば親が与えるのもこれはしょうがない。爆発的にはやらせたよねほんと。
俺の両親はまあまあわがまま聞いてくれるタイプだったから、ゲームボーイとゲームボーイポケット、ポケモン赤青と買ってくれた。
これは最強の環境じゃないか。自分ひとりで好きなように必要なポケモン交換できるじゃないか。赤の俺VS青の俺みたいなドリームマッチだってできる。
クラスメイトには三色揃えてた人とかもいたし、ほんとにこの仕組はやばいよ。任天堂さん儲かっただろうね。素晴らしい。最高のゲームをありがとう。
スロットを覚えさせ、その後の人生で俺をギャンブル依存症にしたのはいただけないが。
青が手に入りこれをメインカラーとすることにした。さらば赤よ。人が新しいもの好きなのは知っているだろう。伝説のポケモンと一緒だ。だが変わらないものもある。
青でも変わらず主人公、いや、俺の名は!!誇り高き名『レッド』だ。
パソコンがある家だったんだ。当時はXPぐらいかな?スマホはおろか携帯電話もまだ普及してないポケベルっての?そんな時代。
親が買い物に行って、姉もいない間に2次エロ画像を見るばかりか、インクジェットプリンタで印刷して部屋の本棚に隠してた。15枚ぐらいのお気に入りを。
印刷の途中でインク切れしたりエラーで中途半端に止まってしまい、心臓がちぎれそうなぐらい焦ったこともあった。そんな時代。
ネットの世界で禁忌に触れることとなる。『ポケットモンスター 裏技』だ。レベルを100にする方法、ふしぎなあめを99個手に入れる方法、なみのりピカチュウをゲットする方法。
なんでもありだ。街をワープする、所持金をマックスにする。だが当時の俺にとって裏技というのはかなり危険であり罪という認識だった。
やってはいけないこと。ゲームボーイが壊れたりポケモンができなくなる可能性も考えた。親にも怒られる。
俺はすごく悩んだ。何日もだ。夜も眠れなかった。やっていいことなのか、思いとどまるべき事なのか。だがあまりに魅力的な内容ではないか。
俺はポケモン赤を裏技専用ソフトとすることにした。青は汚さない。大切だから。赤に犠牲となってもらおう。
もう、やったね。ほんとにやった。やりまくった。裏技と名のつくものは全てやった。
たまにデータ消えたり電源が落ちて最初からとかあるぐらいで、わりと大丈夫だとわかり、親にも公認で裏技しまくってた。ウェブのページを印刷もしてた。印刷したのを得意げにみんなに持ってったりしてた。小3病とでもいうのだろうか、俺ヤバいやつ、すごくねって思ってた。
ミュウを手に入れたときは眺めたね~。ステータス眺めたね~。図鑑の151番めを眺めたね~。
裏技ブームも過ぎ、メインカラーの青を最強、そして図鑑完成を目標に真面目にプレイした。青に出現するポケモンは青で。青に出現しないポケモンだけ赤から送ることに。
ケーブルつないだときはドキドキだった。裏技がわりと大丈夫とわかったとはいえ、汚れた赤とメインカラーの青がケーブルで繋がることに恐怖を覚えた。
なるべく手短に、必要なポケモンだけをというミッションをこなした。
そして苦労はしたがやっと図鑑完成。自分の好きな最強パーティーもできあがり、メインカラーの青が完璧なものとなった。
カメックス カビゴン フリーザー ファイヤー サンダー ミュウツー といったところだろう。
図鑑を完成させると、タマムシシティのプログラマーとかいるところで表彰状がもらえるのだ。それを眺め思った。
唯一心残りなのは図鑑が151匹でなく150匹だというところだ。
裏技でミュウを手に入れる事はできたのだが、それを青に送る勇気は当時の俺にはなかった。いやおそらく今手元にあっても俺は送らないだろう。
勇気とは違うのかな。完璧な青にまがいもののミュウを送り込むことにやはり抵抗がある。ミュウを送ってしまったら自分が仕上げた最高の作品にドロを塗るような気がして。
公式のプレゼントが当時まだやっていたらな~。というのが心残りなのだ。
ちょっとネタで軽く書くつもりが、クソみたいに長文になってしまい、クソみたいに時間を使ってしまった。
匿名ダイアリーに投下するのがなんかもったいないと思える労力を使った。
しかしもともとこんな話に価値なんてない。自分のブログに載せてどうなるんだという内容だ。ここが妥当な場所だろう。
少しでも懐かしんで貰える人がいれば幸いです。
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みなさんは6月2日が何の日かご存知ですか。
私もそれを知ってから今年で2回目。
せっかくの日なので、私も少し、摂食障害のことをみなさんに知ってもらえたらという思いで書き綴ります。
自己満足です。
ただ自分の過去をこの機会に振り返ろうと思って記す備忘録です。
ある程度道が拓けたと感じている今の思いも綴れたらと思います。
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でも摂食障害はそれだけではありません。
大量に食べては吐く過食嘔吐、
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きっかけは1kg増えてしまった体重を落とさなきゃとダイエットを始めたこと。
たったそれだけです。
でも何も食べなかったら4kgくらい落ちたのが気持ちよくて、
また何も食べず体調を崩してしまったのを周囲に心配してもらえたのが嬉しくて、
どんどんハマっていきました。
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当時は難関の大学を目指しており、寝るとき食べるとき意外は言葉どおり全て勉強に費やしていたりして知らず知らずにストレスが溜まっていたこと。
母親から強く責められることが多く、もともと自己否定感が強かったこと。
色んな私の性格に、ダイエットというきっかけが合わさって、拒食症の世界に引きずり込まれて行きました。
大学合格とともに手に入れたのは、身長164cm体重37kgの身体でした。
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当時は自分が大好きでした。
大学合格のため一日中誘惑に負けず勉強できる自分もすごいと思いました。
もちろん口には出しませんが、自分の周りの人たちはそれができない心の弱い人だと内心見下していました。
今思えば、一番心が弱かったのは自分自身です。
摂食障害でドーピングしないと、生きていけないほどに心が弱かったんです。
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完璧主義だった私に、一人暮らしや大学は、良くも悪くも色んなことを教えてくれました。
授業でSを取らなくても、単位がもらえること。
勉強のため毎朝5時に起きなくてもいいこと。
夜遅くまで友達と飲んで、ときには昼の12時に起きたっていいこと。
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そんな中で完璧主義は多少和らいで、そのせいなのか体重も5,6kg自然に増やすことができました。
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そこで、私がどんなに高校生の頃自分の首を絞めて生きていたのか、思い知りました。
母から色んなことを言われました。
「〜ちゃんは少食だから、このお店の定食全部は食べられないでしょ?」
「〜ちゃんは今でもきっと朝早くから起きて勉強してるんだよね、えらいね」
「部屋いつも綺麗にしてるのね、えらいね」
自由に生き始めた自分を押し殺して、少し高校生の頃に戻って「いい子」で過ごした4日間はとても苦痛でした。
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このあたりから父と母の関係が更に悪化したこともあって、家族とは連絡を極力取りたくないと思うようになりました。
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そして時は流れて12月。
忘年会シーズンで、色んな団体の忘年会に参加しなくてはならず、体重は更に増え、拒食になる前の体重をついに超えました。
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もともと、飲み会など食べ物がたくさん出る場は、何をどう食べていいのか分からず、苦手でした。
飢餓から解き放たれた獣のような感じで、たくさん食べて、翌日後悔します。
だいたい今までは、その翌日に断食をする事でなんとかやり過ごしていました。
そう振り返ると、大学に入ってからも完全に拒食症から解き放たれていたわけではありませんでした。
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12月は飲み会続きで、翌日断食をすることもできず、不安と恐怖だけがつのりました。
自分で自分の制御が効かなくなり、気付けばコンビニやスーパーで大量に買い込んでは、一度に食べるのが習慣になりました。
その頃新しく始めたバイト先で、毎日暴言を浴びていたストレスも原因にあったと思います。
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ここで忘れないで頂きたいのは、非嘔吐過食に苦しむ人たちは、いつも頭の中は「痩せたい」でいっぱいなのだということです。
行動と照らし合わせたら、信じていただけないかもしれませんが、誰よりも痩せたいと思っています。
いつも「痩せたい」で頭が支配される病気、それが摂食障害なのかもしれません。
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拒食症の時から一変、非嘔吐過食の時は何もかも頑張れなくなりました。
朝起きるのもつらく、おしゃれをするのもつらく、化粧もしなくなりました。
勉強も頑張れませんでした。
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そして拒食症の頃、自分で内心バカにして来た対象が自分そのものとなりました。
ダイエットすら頑張れない。
勉強も頑張れない。
過食して家にこもって涙を流してばかり。
そんな自分が大嫌いになりました。
高層の建物に忍び込んで、飛び降りようとしたこともありました。
すべて死に切れないことが怖くて、最後まではやり遂げられませんでした。
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医者にも行きました。
初めて行った医者では摂食障害は専門には診ていないところだったからか、個人的に心が傷つくことを言われ、薬を出されて帰されました。
そしてまた誰もわかってくれないという思いで、過食が酷くなりました。
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ただそんな私も、色んな人に支えられて、あれから1年以上経って、普通の食事を取れる日は増えて来ています。
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2回目はすがるような思いで専門病院を訪ね、そこで良い先生と出会えました。
「過食しないと生きていけないくらい、心が辛いんだよ。過食は悪じゃない、ないと生きていけない大切なものなんだよ。」
そう言われてからスッと心が軽くなり、過食は減ることはありませんでしたが、罪悪感で心がはち切れそうになることはなくなりました。
今は授業の関係上、病院に通うことはできていませんが、今でもたまにまた話を聞いていただきたいな、と思うことがあります。
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また大学を休みがちになった時、1人だけ熱心に私に電話をかけたり、家を訪ねたりしてくれた友人がいました。
その子は私とは対極的の楽観主義者で、今はどんな状況でもその子に励ましてもらって頑張ることができています。
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今の自分の体型はとても、嫌いです。
今でも痩せたいといつも思っています。
特に生理前は特に気持ちが崩れやすく、学校に行けない日もまだまだあります。
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でも私は摂食障害を経験できて良かったと、心の底からと言ったら嘘になりますが、少しだけ、思っています。
もし摂食障害にならなかったら、私は挫折を経験せず、自分より劣る人の気持ちなんて考えず、内心バカにして生き続けたでしょう。
そんな私の心を広くしてくれました、また人の気持ちがよりわかるようになりました、思いやりを持てるようになりました。
神様から「お前はこのままではいけない」と与えられた試練だったのではないかと、今は考えています。
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先ほども述べましたが、私もまだまだ万全ではありません。
身体は健康的になりましたが、時には辛くて辛くて仕方ない日もあります。
まだまだ自分が大嫌いです。
人と自分を体型や成績、全てのことで比べがちです。
摂食障害と私のおつきあいは、きっとこれからもしばらく続くんだと思います。
それでも平穏にお付き合いをして、いつかはお別れをしたいです。
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一番伝えたいのは、「一見健康そうに見えても、摂食障害と闘っている人は沢山いる」のだということ。
これは摂食障害の9つの真実、というものにも取り上げられています。
http://peerful.jp/articles/eating-disorder/7255.html
あなたの周りにももしかしたら、闘ってる人がいるかもしれません。
気づいたらそっと、見守ってあげてください。
辛そうな時は寄り添ってあげてください。
それだけできっと救われます。
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タイトルのとおり。仕事も何もかも頑張れなくなって、今までやれていたことまでできなくなってしまった。
診断名はADHD。
以下に概要と経緯を書く。乱文だが聞いてくれ。
30代前半、会社員。
いままでの三十余年、苦手なことや違和感を感じることがあっても、なんとか努力と工夫と時間をかけることでカバーしてきた。
会社には新卒で入社して以来10年以上在籍しているが、人事評価を見ても、悪いとき、良いときの波は激しいものの、成果を出して高い評価を得たこともありそこそこにやれていたと思う。
生育歴も軽く書く。
田舎の市出身、核家族、小中高大は国公立校卒。大学から首都圏で一人暮らし。
友人は多くもないが全くいなかったこともない。
その頃自分は、何か悲しいことがあると突然黙り込んで周りをシャットアウトしてしまうことがあった。他の友達はそんなことしない、自分は何かおかしいな、と感じたのがきっかけだったと思う。
そんなわけだから、小学校の中学年にもなると「自分は知能か何かの問題があるに違いない」と確信していた。
ただ、両親や友達に気づかれたら軽蔑されて嫌われてしまう、隠さなきゃいけないと強く思っていた。担任教師は何か気づいていたかもしれないが明確に指摘されたことはなかったと思う。
運や周りの人に恵まれたおかげで、幸いにも今まで発達のせいで大きなトラブルを起こすことなくやれていた。
ただ、うっかりミスややらかしは度々あり、周囲には迷惑をかけていた。
そんなわけで大人になる頃にはネットで知識もつけて自分はADHDだと思っていたが、依然として周囲の同僚や友人にはバレたくないという気持ちが大きかった。
人知れず治そうと、過去3度精神病院に行き診断を求めたこともある。いずれも診断はつかなかったが。
今回、4度目の診断を求めて精神病院に行ったのは、仕事での行き詰まりを感じたためだ。
少し前から他部署から異動してきた社員とタッグを組んで仕事をすることになった。自分が前任者のため、引き継ぎや情報共有をしながら業務を進めるのだが、どうにもうまくいかない。
今まで、スケジュール管理やタスク管理、作業漏れのチェックなどで苦手を感じることは多々あったが、自分ひとりなら残業などで帳尻を合わせてなんとか収めてきた。
それが、2人分となると本当にダメだった。ミスは頻発、スケジュールは遅れ、タスクは滞る…
だんだん精神的に参ってきて、夜は眠れず、朝は起きられなくなり、頻繁に頭痛やめまいやふらつきを感じるようになった。
上司や友人知人に相談もしまくったが良い解決策も見つからない。状況が改善するならドーピングでもなんでもしたい、そうだ自分のADHD傾向が解決すれば良くなるはず…
ということで、発達障害を扱っている精神病院に向かったのだった。
病院ではチェックシートのようなものに2枚ほど記入し、30分の問診を受けた。問診では色々なことを訴えた。朝起きられないこと、スケジュール管理が苦手で仕事に問題が出ていること、イライラしたときなどに手指や体をソワソワ動かしてしまうこと、自宅の部屋が散らかり放題なこと…
したらあっさり診断が下された。
正直、拍子抜けした。過去3度の病院では診断が下りなかったし、もっと生育歴を調べたり知能検査などをするのかと思っていたから。
そんなわけで薬を処方されて、それ以来ADHD患者として通院している。
前置きが長くなった。
自分が病院に行ったのは、そもそも仕事において行き詰まりを感じており、仕事の状況が改善するならと思ってのことだった。
やる気をすっかり失ってしまったのだ。
今までは、苦手なことがあってもなんとかカバーしよう、カバーしなければという気持ちで頑張ってきた。
なんでも努力と工夫でやってきたし、頑張れば普通の人のようにできないことはないはずだと思ってやってきた。
何か困難があるたびに
また、何をしていても
「実は自分は満足な仕事ができておらず、この10年ずっと戦力外だったんじゃないか」
のようなことを考えこんでしまい、作業の手が止まってしまうようになった。
仕事は滞り続けている。
毎日出社するのが辛い。
このまま迷惑をかけ続けるのであれば会社をやめなければならないと思うが、やめたところで行き先がない。
死ぬしかない、死んだら家族や親族に迷惑がかかるだろうが死ぬしかない、
その前にいま抱えてる仕事は引き継いでおかなければいけない。しかし引き継ぎはうまくいっていない、死ねない、でも死ぬしかない…