はてなキーワード: いでとは
募集をかけていた求人の採用が、やっと決まった。求人誌掲載・ハローワーク求人票掲載から1か月。条件だってほかと比べて特別に見劣りするわけでもないのに、応募が5通来るまで3週間、そこから面接して、ようやくのことだった。どんなに氷河期でも、中小が人余りになることは永遠に来ないように思える。
応募してきた5名のうち、3名はPCによる履歴書・職務経歴書付きだった。採用選考の手続き中も、上の了解を取るときも、履歴書が手書きで文句付ける人なんてまったくいなかった。ちなみに、PC、手書きを評価の高い順に並べると、PC・PC・手書き・PC・手書き。
うちみたいに履歴書が手書きかどうかなんて気にしないところは、もちろんたくさんある。それが、ネットになるとどうして「企業はみんな手書き重視派! だから日本の企業なんてみんなクズでダメなんだ!」みたいなことになってしまうのか。いや、理由はわかる。センセーショナリズムで煽った方がみんなに見てもらえる仕組み、(Twitter|はてブ)で話題になったものしか見ないネットサーフィン…… 結果、ひいき目に見ても「6:4」ぐらいでしかないようなものが、ネットでは「10:0」であるかのような言説ばかりになってしまう。時には、「3:7」の「3」の方が「10」の椅子に座っているようなものも。
だからなんだと言われたら困るけど、とりあえず就活しているみんなは、PCでもいいからバンバン履歴書を送ってほしい。ありきたりのセリフだけど、受けない試験には絶対合格しないから。
「カンニング解放論者に聞きたい事」の元増田ですが、私は京大生では無いし、京大の受験経験すら無いです。(10年以上前に地方の国公立大学受けた程度の人間です。俺は)
何でも持ち込みってのは、「今までの制度でもカンニングあったでしょ?カンニング嫌ならこれぐらいしか妥当な方法はないでしょ?」っていうカウンターであって(…)
「カンニング嫌だったら、ネット通信を全て許可すべし」という理屈がいまいちわからないです。ボディチェック込みでの持ち込み物の制限は可能と思うので。大学側の手間暇を無視すれば。
それは同感です。…そして、学歴を大切にする人にとって「ズルして大学に入ろうとした人がいる」ってのは相当なショックだろうな、と。
「京大に入るような人は知識も有るし、人間性も高い人と思っていたのに、カンニングして入ろうとした人がいるなんて!」「そして、それが試験会場ではバレなかった、という事は、過去にもそういう不正で大学に入った(≒学歴を手に入れた)人が居るかもしれない!」という。
文系SE自体は悪くないと思うよ。うちもそういう人そこそこいるし。
でも、そもそもの「就職活動」ができてないと思う。
このツリーをざっと流し読んで思ったのは、「内定を取ること」が目的になってるなぁと。
本来は何が目的だ? この先(少なくとも数年は)その会社で仕事することだろ?
内定はその手段に過ぎない。
時給だけよかったらどこでもいいなんてことはまずない。どんな仕事をするかが先でしょ。
なのに、就職活動になると、取引先(どんな分野の仕事なのか)も見てないって、変じゃないか?
ざくっと書いたけど、こういうところは考えてるのかな。
極端な話、面接がすんなり行かなくたって、採用される人は採用されるんだ。
自分の場合、筆記はできたけど面接がほんとグダグダで絶対ダメだと思ったら、内定出た。
自分はコミュ障に近いと思う。人付き合い苦手だし、初対面苦手だし、あがり症だし。
なので、当然面接もダメ。面接官が「そんなに緊張しないで(笑)」と言うくらいガチガチ。
でも内定出ちゃった。
入社してから、たまたまその面接官の部下になったので、聞いてみた。
増田の面接は確かにメチャメチャだったけれども、押さえるところは押さえてたから、と。
たとえば、簡単な確率の問題をその場で解くのがあったのね。
何でも持ち込みってのは、「今までの制度でもカンニングあったでしょ?カンニング嫌ならこれぐらいしか妥当な方法はないでしょ?」っていうカウンターであって、カンニングを認めないなら君の言うままでもいいと思うよ。
極端なハナシ、脳同士で念波を送りあえる時代になったら、入試なんて要らないもんね。
個人の知識ストックがそこまでいらない時代にあえてストックさせるという意味では、時代逆行型だと思うけど、足りない脳みそに知識フローさせてやる人間育ててんだからうるさい黙れっていうのも説得力あるしね。
「あの京大がカンニングされた」ってのはインパクト大きいよね。学歴大事な人々にとっては。なんていうの。
他の人が書いてたけど、私は「クリック1発で三桁に送れるようになられても社会全体のコストが上がりそう」などの事情があると思うよ。
上記にまとめられているような優秀な方や民間企業パスした方には、阿呆な企業以上に阿呆な学生がいるということを想定していただきたい。
この辺は一般論を言ってるだけに見えたので。
あなたの会社では何故ダメということにしてるのか?という質問です。
1行目見落としてたので追記。
「望ましい」というアナウンスとのことですが、実際に手書きでなくても通すことはありますか?
あるとすれば何か基準はありますか?
手書き履歴書とそうでない場合とで、冷やかしの比率に有意な差があるかどうか検証されたことはありますか?
もう少し言うと、エントリーシートだとかなんとか言って作文させたりするわけで、そういう条件付きの比率で見れば大した差は無いんじゃないかと思うわけですが。
個人情報を明らかにしたくないという理由で自分のブログには書けないので、ここに書かせてもらう。
現役京大生だが、今回の入試不正問題で感じたことを書く場がほしかった。
自分が思ったことを書きつづるだけなので、論理とか矛盾とかあまり気にせずに書く。
だからもし読んでくれる人がいれば、あまり重く受け止めず読んでほしい。
2度ほど誤報もしたマスコミは馬鹿だと思ってるが、逮捕は正統だと思っている。
でもそれは、自分も京大入試を経験したってのが大きいのかもしれない。
4大学の中では同志社も受験したが、俺が書きたい話にはあまり関係ないので今回は触れない。
受験当時の俺は、とにかく京大に行きたい、京大以外の大学には行きたくないと思ってた。
今になって振り返ると、そこまで京大にこだわる必要なんてないだろって自分でも思うけど、当時は京大しか目に入ってなかった。
その理由は話すと長くなるから、要点だけ書くけど、
俺は高校生の頃、高校がすごく不自由な場所だと感じていて、とにかく息苦しいし生きにくいと日々思っていたので、
おそらく「自由の学風」で「放任主義」、おまけに「変人が多い」と噂の京大に入りさえすれば、自由が手に入ると信じきっていたんだと思う。
(これは今になって思うのであって、当時はまだそこまで自分を客観視できていなかったけども。)
現役で落ちたときは悔しい思いをしたし、受かってた滑り止めには行かず、浪人することに決めた。
浪人のときは、aicezukiもそうだったようだけど、センターで点がとれず、D判定だったときは、追い詰められた気持ちになった。
俺は模試でもD判定のことが多くて、二次試験で挽回できる見込みも低かったし、受かる自信はほとんどなかった。
それでも上述のように、京大へのこだわりは異常だった。
滑り止めも受かってたけど、京大に行けないなら死ぬと決めた。
センター試験後に決めたというと語弊があるかもしれない。
心の中で、可能性としてずっと考えていたものを、確信に変えたという方が正しいだろう。
(余談だが、だから俺は、aicezukiが自殺の方法を質問していた日時がセンター2日目終了後だと知って、ものすごく納得したし共感した。)
二次試験までは、勉強の間、ノートの余白に「死にたい」と書きまくっていた。
二次試験が終わった後、合格発表までは、後期試験の勉強の傍ら、遺書の下書きや自殺方法を真剣に考えていた。
そして迎えた合格発表の日。俺は受かっていた。
その瞬間のことは今でも鮮明に思い出せる。
自分の番号を見た瞬間、涙がグワッと溢れてきた。
そして、「あ、俺、生きてていいんだ」と思うと、涙が止まらなかった。
俺は信仰心とか全然ないんだけど、そのときだけは神様から「死ぬな、生きろ」って言われたような気がした。
それまで死ぬことしか考えてなかったのに、いきなり「生きる」という道が目の前にバーッと、それこそ白い強烈な光みたいに開けてきた。
なんだかこれ書いてる今も涙出てきた。あのときほど強く「生きよう」と思ったことはない。
今だからこんな風に言えるけど、俺は京大入試に文字通り命をかけていた。
俺の例は極端かもしれないけど、京大に限らずどこの大学でも、入試を受ける一人ひとりに、いろんな思いがあると思う。
そしてその思いは、極論かもしれないけども、実際に入試を体験しないとわからない部分もあるはずだ。
「追い詰められていた」っていうのは、カンニングの理由にはならない。
追い詰められてる人間なんていくらでもいるし、俺やaicezuki以上に追い詰められていた受験生もたくさんいるはず。
京大入試の特異な点は、試験を受けるほぼ全員が第一志望だという点だと思う。
在学生や受験生の人には申し訳ないし、今から書くことに悪意は全くないんだが、
早稲田や同志社ですら、東大・京大などの国立大志望者からすれば、滑り止めとしか見ていない場合も多い。
けれども京大は違う。ひやかしでもない限り、全員が並々ならぬ決意と共に受けに来る。
「京大じゃなかったらマスコミがここまで騒いでない」「京大は大騒ぎしすぎ」という意見もよく見るけども、この点を考えれば、京大だから大騒ぎになっているのは当然のことだと思う。
俺は、入試は人生に大きく影響し、人生を変えるものだと思っている。
けれどもそれは、「良い大学に入れば良い就職ができる云々」という意味ではない。
大学なんてものは、「どこに入るか」よりも、「入ってから何をするか」の方が重要だと思う。
特に、京大なんかだと、「京大に入ること」が目的になってしまい、
いざ入った後に何をしていいかわからなくなり、無気力になってしまったり、受験からの解放感が強すぎて、授業にも行かず毎日家でダラダラと過ごしてしまったり、という状況に入学早々陥る人も珍しくない。
就職活動でも、聞かれるのは「大学『で』何をしたか」ということだ。入るまでの努力の日々なんか聞かれやしない。
じゃあ俺が「入試は人生に大きく影響する」と思うのはなぜかといえば、
それは、「勉強の末、第一志望に合格した達成感」や「頑張ったのに第一志望には入学できなかった挫折感」を感じるという経験は、非常に大きなものだし、人間の生き方や考え方にも影響を与えるものだと思うから。
挫折感を味わった人は、その後奮起して、負けず嫌いな努力家になるかもしれない。また反対に、虚無的になり、努力を放棄する道を選ぶかもしれない。
入試での体験をどう受け止めるにせよ、その体験があることで、その人の人生は間違いなく深みを増すはずだ。
しかし、達成感も挫折感も、カンニングをし、他力に頼って入試を切り抜けた者には味わえないだろう。
もちろん合否という結果は出るのだから、ある程度の達成感や挫折感は得られるはずだ。
しかし、完全なる達成感、完全なる挫折感は、自力で入試にぶつかっていった者にしか感じることはできないと思う。
繰り返しになるが、俺は一個人としてはaicezukiの逮捕は妥当だと思ってる。感情論だと自分でもわかってはいるが。
このことについて、「カンニングを偽計業務妨害にするのはおかしい」という意見の人も多い。
実際に2chやTwitterでも、そのような議論が数多く見られる。
でも俺が気になることが、ひとつある。
それは、そのような議論をしてる人たちの中には、罪状について「業務妨害」「業務妨害」と、「偽計」の部分を略している人が非常に多いということだ。
俺は、このことに強い違和感を感じている。
「カンニングされたのは大学の監視体制が悪かったからだ、だから自業自得であり、業務妨害にはならない」という意見の人も多いのだけれども、
みんな「偽計」の部分の重大さを忘れているように感じる。
今回の件で真に重大なのは、「業務妨害」の部分よりも、「偽計」したという事実だと思うのだが。
「偽計」の省略され具合から見ても、みんなその点を忘れてるんじゃないだろうか。
でも、カンニングは罪に問われてもおかしくない行為だと信じているし、
もしカンニングを罪に問える適切な法律が現時点で存在しないのならば、早急に作るべきだと考えている。
http://anond.hatelabo.jp/20110303182614
まあいろいろ思うことを書きなぐる第二弾です。便乗マーケですね。えがみひろゆきが得意の。
個人的に思うことしか書いてないので、興味ないなら読まなくていいですよ。
敬意というのは内発的、誘発的なもので、自発的なものではないですよね。
たとえば、ホリエモンに敬意を持っている人ってのはやっぱり取り巻き見ればいるんだけど、だけど実際前科者ってだけでリスペクトはないわーって人もいる。どっちが多いかは知らない。
ひろゆきもそう。裁判所の申告踏み倒す奴だぞー!って言っても、リスペクトする人はするんだよね。
禿(孫正義)もそう。Xevra先生がどれだけ禿を嫌っても、リスペクトする人はする。というわけでリスペクトってのは各人に於いて差があるのが普通なわけだ。
少し僕の話をしたい。
僕は「誠意」と「敬意」は使い分けている。僕なりの「誠意」というのは、自分の仕事上に対する責任だ。言ってしまえば、プライド。仁義っていうとあれだけど、他のすべてを曲げてもこれだけは貫く、というものは、勤め人でも自己意識低い人でも何かはあるはず。僕はこれを「誠意」としている。だから、相手が差別的な目線で何かを語っても僕はそれをそのまま文字に起こす。仕事上の僕は徹底的に自意識を殺し、空気化するように努め、それをただ淡々と文字にすることを心がける。それが僕の誠意。
だから、前から繰り返し書くけど、罵倒芸にも満たないただのクソガキなグラスィーズキングが、彼なりの信念を持ってそういう活動をしているというなら、僕は彼のやり方を支持しよう。(残念ながら、今までの彼、これからの彼にはそれが見えそうもないが。)
で、次に「敬意」の話だ。僕は仕事上自意識を殺すと書いたように、僕は仕事上「敬意」は払わない。だから、敬意が見られないから依頼は断ると言われれば、(それは当然のことなのだが)、では叉の機会に、ということになる。
ただし、相手と対面するという性格上、円滑に事が運ぶよう取り計らうということは欠かさない。少なくとも相手をバカにすることはしないし、仮にバカにしたいことがあったとしても、その場では絶対に言わない。もしかしたらそれが「敬意」だとか言う人がいるかもしれないが、先にも書いたように「敬意」と「誠意」は僕は使い分けるし、僕はそれを「敬意」だとも思わないし、敬意自体に個の差があるのだからそれを敬意だと主張すること自体もナンセンスだと思うし、僕がこうして敬意とはなんだリスペクトが何だとつらつら書き並べること自体も愚かしいことだと思う。
で、前の記事にも書いたけどそれはマナーと似たようなもんで時に形式化して強制されるんだな。僕はそれが一番嫌いなんだけど、それはいいや。
で、ちぇすこさんとグラスィーズキングやりとりってなんかいろいろ論旨論点が飛んでるんだけど(そもそも議論の体も為してないただの罵倒合戦にすら見えるんだけど)、
アレの何がヤバいって、要は「生理的嫌悪感」なんだよね。「あなたとは付き合えません、生理的に」ってやつ。ブコメにも吐き気がしたとか言ってる人いたけど、そりゃそうだ。読むのも不快だもん。
などなど、はてなーのみなさんにしてはやはりカモ、ハトに擬態するカモなんですね。で、実際鍋にしたけど毒で食えねえってとこに居ると思うんですが、人間好き嫌いあるもんで、ああいう人間が嫌いって人はやっぱり多いと思う。私も嫌い。
だから、前にあんな事書いたけど、今回のあれっていわゆる「敬意」とは違うんじゃないか、と思うわけです。ヤベーキモイわブロック、で済んだ話だと思うんです。ほんとはね。
なんというかいい感じにマッチングしちゃったというのもあるんでしょうが、そこまで騒ぐもんかね、と個人的には感じております。
まあ、そっからいろいろ見れるもん見れたんで、外野のブクマーとしては面白かったんじゃないでしょうか。当事者たるちぇすこさんとしては納得しない点もあるでしょうが、そこはまあ、本気なら裁判所で、とかいろいろあるでしょう。まだTwitterとかでやってたらメガネの土俵にいることは明白ですし、周りはなんだかんだ言いながら観客として満足しちゃうし、あまりネット上というのはいい場所ではないんじゃないか、と思うところでご飯が炊けたので撤収しようと思います。
そんじゃーねー。
自分は「システムなんてどこも似たようなものだろう」と思っていたせいで、会社が注力してる業界についてはあまり関心を持ってきませんでしたし、それについての質問もあまりしてきませんでした。今思えば、これはかなりまずかったのかも知れません・・・。
新卒なので当たり前ですが、採用段階で買われるのは将来性で、数年後に本来のSEの業務に移行させてゆくという企業が多いです。
増田です。文系の割合が4~5割の会社がほとんどで、自分もプログラムを組めるってこともあって無謀な戦略を取ったとは思ってないです。なんでSEっていう反応が多いので一応書いておきます。
例えば、http://anond.hatelabo.jp/20110304170528この面接官増田。
そもそも、元増田の言うところの手ごたえと、
具体的に言ってはどうか、と書いたのです。
上手に聞いてきた場合、どうして採用が難しいか(あなたを落としますよ、とは言わない)を言う場合はあります。
100社には100通りの理由がありますし、
落ちた理由を聞いてくる(そしてこちらも応えられる)方はそこを理解されています。
その会社とは縁がなかった、という事はそこがどういう理由で落としたにせよ、聞く事で本人のマイナスにはなりません。
勿論、一社、もしくは一人の意見は万能ではないから危険で耳にしたくない、という考え方は自由です。
下の引用は俺の発言じゃないんだけど、内容には同意だからまあいいか
少なくとも俺には、どこからが発狂なのかを明確に定めて指弾しようなんて意図はないよ
「文句や否定を述べること自体は異常ではないけれど、明らかに発狂してる人は明らかに異常だよね、それってきっとエンターテインメントとして割り切れてないんだろうね」というだけの話
「文句」や「否定」と、「執着」や「発狂」は区別されるべき
なるほど、「執着」や「発狂」だけを攻撃しているんだという主張だね。
増田の中では、「自分の気に食わないシーンやストーリー」を批判するのは、どこから発狂になるのかな?
「これはひどい」と言ってる人のうち、どれくらいの割合で「頭のネジの飛んでる奴」がいると思って居るのかな?
是非に聞いてみたいな。
ぐだぐだ言ってないで即座に面接の練習を。「たかが面接」ではなく就活では面接がほぼ全て。それだけ落とされるってことは自分では気づいていないあからさまな欠点がある可能性が高い。
現在大学4年で卒業を間近に控えている。去年の2月から就職活動を始め、これまでに50社受けて全て落ちた。今も続けてる。
志望は全てSE。(←なんで?っていう疑問が多いですがここではひとまず志望理由とか身の程とかは関係ないので書きません)
大学はニッコマの文系で、サークル、アルバイト、ゼミはやってきた。話の題材には困らない。コミュ障ではないし、大手病でもない。
自分で言うのもなんだが、客観的に見て、ひどい欠点がある学生ではないと思う。それでも内定は出てない。
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書類や筆記は大体通るが、面接で落とされることが多かった。
落とされては落胆し、その後冷静さを取り戻して落ちた原因を考えることを何十回も繰り返してきた。
それにも関わらず、相変わらずいつまでたっても面接に落ち続けた。最近、自分が面接で落ち続ける理由は、自分なりに面接に落ちる理由を考え対策しているつもりで、実はただ空回りしているだけだからなのではないかと思うようになった。
選考結果にはフィードバック(企業からの評価、コメント)がない。面接にはもう慣れたが、フィードバックがないせいで自分が落ちた原因が分からないまま何も改善されることなく就職活動をしてきたのだと思う。
大学にはキャリアセンターというものがあるが、そこで面接の練習をして問題点を指摘してもらえば良かったのかもしれない。しかし自分の中に、たかだか面接のために練習なんてしていられるかという気持ちがいつまでたってもある。これは自分の弱みなのだろう。
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こういうニュースを受けて、昨今の学生はメンタルが弱いな、と思う人はたくさんいると思う。
自分も、就職活動が始まる前は、たかだか就職活動で気を病むなんてどうかしてる、と思っていた。
今では、そうは思わない。自分が今精神的に崖っぷち、とまではいかないが崖の付近まで来ているからだ。
最近、就職できないことがなぜこうも人の心に悪い影響を与えるのか考えるようになった。
1まず、前述したように、選考結果にはフィードバックが無い。学校のテストの様に、間違えたところの原因を追及して改善してということがしづらい。これは非常に気持ちが悪く、回数が増えていくと、まるであり地獄の中にいるような気分になる。
2また、面接を何十回と重ねて失敗し続けると、人の心というのはそれに対する動機付けが弱まる。心にネガティブな印象が刻まれ続けるので、だんだんと足が重たくなってくる。
やがて、不可能なのではないかと判断するようになる。なってしまう。頭の中ではいつか内定にたどり着けるだろうと考えることはできるが、面接に落ち続けることによるインパクトの前ではそのような考えはあまり意味がない。
3そして、人(自分)は自分の価値を相対的に判断しようとする生き物だということ、あるいは人は嫉妬する生き物なのだということを強く感じるようになった。
日本人の新卒内定率が氷河期に入って2割ほど落ちたところで、世界的に見るとかなり高いままだ。おまけに正社員やらホワイトカラーやら贅沢するなという声があがることがある。自分も、そういう声を聞いて、確かにと考えたこともあった。恵まれない人がたくさん存在するのに、自分は贅沢だなと思った。
内定率が下がっている中で、内定にたどり着く人は確かに存在するということ、その数というのも決して少なくはないということ、自分は考えようによっては現時点で平均以下でなのであること。自分の感情(自分の価値)は自分のごく身近な人間によって規定されてしまうのだと理解した。
社会的な欲求を満たすということ、あるいは社会的な承認を得るということはこういうことなのかと思って、疲れを感じるようになった。
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最初に、自分はこれまで50社受けたと書いた。1年間で50回外出すれば7日に1社受けたことになるが、1つの会社につき訪問数が1回だったり3回だったりするので大体何日間就職活動に費やしたかはわからない。理系学生と違って研究室などはなく、単位も取れていたので、フルで就職活動をすれば100弱はいったのではないかと思う。
就職活動初期の昨年冬頃に比べたら、春、夏と季節が変わるにつれて確実に足が遠のいていった。前述した様に、落ち続けることで動機付けが弱まってしまったのだろうと、自分を分析する。
もし今自分が人事、あるいは面接官を担当していた場合、めげずに年間100社弱周ることができる人を採用するだろう。この無間地獄で自分をコントロールし続けることができる人を、誰よりも尊敬したいと思う。
追記
今朝はてなを開いて驚きました。一通りブックマークコメントを読みました。
みなさんありがとうございます。
横だが、エンターテインメントと割り切ってるなら、気に入らないものはクソゲーと割り切るはずであって、発狂して騒いだりしないと思うよ
「エンターテインメントを超越した何か」として扱ってるから、ああいう異様な反応になるんじゃないの?
Togetter - 「francesco3氏」と「めがねおう氏」の炎上ツイートまとめ
その昔非モテというものがあり、今では二つに分かれ、ひとつは『関わってはならないサイト』に、もうひとつは非モテを名乗ることをそのものをやめた。
なぜそうなっているかと言えば、「ママのお人形」と形容される元来の資質もあるだろうし、他者に不快さを与える先天的な顔の造作の悪さもあるだろうし、今で言えば発達障害などの広汎的な不良もあるだろうが、いくつかの要因を元に、慢性的に幼児期からカジュアルに疎外されつづけた結果といえると思う。
カジュアルな疎外というのは、単にキモいといわれるようなこと、それだけである。
長年にわたり複数からキモいとか、なんでお前もいんの?とか、私の机に触らないでとか、二人組作ってーなどと言われ続ければ、塵も積もれば山になるのであって、人格の奥底に自分が自分であるが為にキモいという意識が形成されていく。
『自分が自分であるが為にキモい』というのはすなわち、自己表現してはならないということである。
自己を表現したら不快と思われるような存在否定の意識であり、自己表現をしないか、キモい自己表現のみが許される。服装は典型なオタクルック、闇に隠れるように地味さで、声は誰にも聞かれぬよう細々と小さく、趣味もキモいと思われるような一人遊び。
そのために非モテたちは、非モテとなる以前は名前のない誰かであった。分かり易く憐憫・同情されるほどのエピソードは持たず、しかし慢性的にカジュアルに疎外され、誰からも慰めて貰うことなく、その結果哀れで卑屈な人格が形成されているが、他者からみれば『努力不足』『甘え』と形容される、どこにでもいる名前のない誰かである。
ネット時代が到来し、名前のない誰か達に自己表現の春がやってきた。
彼らはいつのまにか集い、巣を作り始める。だが看板無き場に人が集うことはない。大きな前提条件として『モテない』が自然発生的に選択された。『モテない』は実に分かり易いカジュアルな疎外の経験として、大多数の『キモいひと』に共有されていたからだ。そして彼らは、喪板や非モテと言ったコミュニティを作り上げた。
カジュアルな疎外経験を自分語りすることによって、彼らははじめて互いに憐憫・同情・受容する場を得たのだ。
匿名か顕名というネット特有の大きな距離感はむしろ、疎外されることのない安心感としてうつった。
真の自己が孤独だと感じていた者が、自分以外の同じような経験に触れることは、なによりの癒しとなる。
場に癒された者は、自らも場に溶け込もうとし、その為の経験は十分に豊富で、そしてその経験も平和的に共有されていった。
自己表現の病を抱える者にとって、名前が付くことは実に安心できるもの。しかし、非モテで安心することは、失敗である。
コミュニティが形成されれば、時と共に煮詰まっていくのは仕方ないこと。
コミュニティが生まれればそのなかで更なる承認を得たいとする意識がうまれ、ばかげた内部闘争が始まるが、全くもって無意味なゴミに過ぎない。大別すれば2種類あり、一方はとにかく『モテたい』ひと達である。自己否定の表現である『モテない』と、希求の『モテたい』はおおいに違うので、自己を非モテに受け渡した人は揉めたのだろう。
そもそも欲望の大本は何だったのか・・・といえば、彼らはただ、自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった。でなければ、コミュニティが形成されることもない。
『自分を知って貰い憐憫・同情・受容されたかった』という感情。
非モテの感情を規定する両輪。慢性的なカジュアルな疎外のなかで肥大化した攻撃性と、受容されたいという弱々しい自意識。具体例を挙げるなら、秋葉原加藤の理不尽に暴発した攻撃性と、被害者よりも加害者加藤の生活史に思いを馳せてしまうやさしさ。これがいまでは具象化され、非モテコミュニティに顕現している。一方はミソジニーであり、もう一方は同族に対する共感。しかし、この共感さえローカルなものであり、矯正されるべき共感とされる。
ミソジニーといえばフェミニズムに関連があるが、非モテはフェミニズムと親和性が高い。
痴漢vs痴漢冤罪に代表される主語の大きな人たちによる性別間代理戦争も親和性の高さの表れと言えば確かにそのひとつであるが、何よりも『自分が自分であるが為にキモい』から救済されたいとする意識が、『女性性からの解放』つまり自己表現を闘うフェミニストと親和的といえる。
なぜミソジニーになるのか。単に誤爆してるだけだ。抑圧移譲。弱い者達が夕暮れ、さらに弱い者を叩く。たとえ疎外されたとしても、誰かを疎外してはならない。疎外の中で肥大した攻撃性を纏って許されるのは、『性差別構造』を背にする女性か、その立場にたつ者のみである。慢性的なカジュアルな疎外は、そのカジュアルさから『敵』を固定することができない。非モテが背にするものは何も無く、敢えてあるとするなら非モテホモソーシャル程度なので、孤独に籠もることは正しい選択肢だ。
さらに言えば、性別間代理戦争は、権利を勝ち取ったフェミニストに対する非モテの嫉妬でしかない。単純化すれば、なぜこちらを助けてくれないのかという叫び。何故お前らは『俺<男性>の理不尽な被害にも思いを馳せないのか』、という怒り・妬み・嫉みを、最も強く表現できる闘技場。『痴漢vs痴漢冤罪』は場として使われている。
すべての被害体験は理不尽なものだが、女性の被害はたまたま『構造的な問題』と合致していたが故に、同情され、受容される。もっと言えば、女性への同情・受容は、『男性への攻撃』を纏っている。誰からも慰めて貰うことない非モテは、受容される女性の姿に妬む。そして個人的な被害体験の記憶に、『なぜあちら側だけ』『なぜこの上殴られるのだ』というような思想的疎外感が加わり、ミソジニーは加速していく。
女性の被害意識が『構造的な問題』として処理されても、非モテには適用されない。なぜならば、非モテの被害意識はきわめて個人的な女性からのいじめや暴言を発端とするからで、男性・女性全般とは無関係なのだ。『男性の最底辺』が理不尽な被害を受けたに過ぎず、男女全般で見れば男尊女卑の構造は維持されているのだから、転嫁することは不可能である。『構造的な問題』があるならば、非モテが被害を受けたことではなく、被害の声を上げられなかった場合に限られ、これは男性性暴力被害者が女性のそれよりも過小視される問題と地続きといえる。男性は何があろうと、強く逞しくあらねばならない。
弱々しい自己を守ろうと、パワードスーツのごとく男性性<攻撃性>を身に纏うミスを犯したあわれな非モテの、女性全般やフェミニストへ向けられた言論なんてものは、単なる無知か差別意識の発露として処理され、一方で男性性防護服を脱ぎ捨てた非モテは、代わりに身を守ってくれる<他者のやさしさ>も得られないのだから、自らのために立ち上がるような力すら失い、わずかに残る白馬の王子的な空想を胸にして、世界との関わりから後退していくばかり。だいたい、未だに男尊女卑がスタンダードなので、このような非モテ男など取るに足らぬ『例外』に過ぎず、決して『マイノリティ』を形成するほどではないのだ。
一部の非モテたちは何を思ったのか、個人的な左翼趣味を土台に恋愛至上主義を打倒するなどと言う大いなる目標を掲げたが、残念なことに、こんなものは『例外』が個人的充足の希求を社会そのものに直結してしまった時点で無理筋である。結局、Twitterでゆるゆると馴れ合う以下の充足しか得られず、破滅に至った。
男性性を剥き出しのままにする自制なき非モテは、そのアクティブさから結婚なり、非モテを道具に用いて商売に転化するなりで成功し、それはまさしく健常な男性の姿。これが正答である。
一方、自制ある非モテは元あったところ『名前のない誰か』に戻っていった。攻撃性は厳しく律され、女性全般などに誤爆することなく、過去の記憶に、自らの内側に、抽象的な世界そのものに向かい、生まれてこなければ良かった、既に全ては終わっているという意識に至る。その自制の強さ故に自己表現の病から抜け出せないのなら、孤独のまま人知れず終えるしかない。
非モテは死んだ。出口など無い。あるものは残骸のみ。
昨日、本当に好きで好きで、行きつけにしていた居酒屋に行った。
食べログにもぐるなびにも載っていない、カウンターを含めても15席の、隠れ家みたいなところだった。
年が明けて初めて。3ヶ月ぶりに訪れた。
そしたら、何だかとても残念になっていた。
店内の壁を埋め尽くしていたメニューは、小さい黒板1つに収まっていた。
黒板のメニューも、手間をかけないで出来るものばかりだ。
前に来たときに美味しかったのを頼んだら、「今は黒板のしかやっていなんで」だそう。
日本酒を注文すると、以前は升+コップで出ていたのが、少し大きめなコップに注がれるだけだ。
原因はすぐに分かった。
調理に集中していた店主が、注文を取ったり、お酒を注いだり、お会計もやっている。
メニューが縮小したり、手間のかからない料理ばかりになるのも当然だろう。
料理は美味しいし、メニュー表に載っているものだけってのも普通と言えば普通。
ただ、これまで、このお店で味わってきた"+α"がなくなったことがショックだった。
来週、予約してた分でもう1度行くけど、その後はしばらく行かない。
のれそれ楽しみにしてたんだけどな。
短時間で大きく変わるのだ。
新しいお店を探しに行こう。
Mituko Kitamuraさん 実は私、仕事が芸能関係で、某女性タレントとかのマネージャーやってるんです。 今メッセさせてもらったのはタレント本人の希望でどうしてもお話したいと‥。 もしよろしければ少しお時間いただけませんか? 本人は最近まではテレビや取材、雑誌の特集などで忙しく、私から見ても精神的に疲れてるようで・・ お恥ずかしい話、私では彼女をケアできなくて…ここまで心を閉ざすのは初めてなんです。 急なお願いになりますが、彼女を助けてあげてはくれませんか? 実は本人と一緒に友達を探しながら色々辿って見ていたら、 何か感じる所があったらしく、メッセージを出しておいて欲しいな…、と言われました。 私はマネージャーとしてどうにか彼女を支えたいと思い、 事務所に内緒で彼女の要望に答えてあげようと思ったのですが、結局は事務所にばれてしまいました。 当然のことですが、本人がネット上で一般の方に連絡をするようなことは固く禁じられています。 名前も出せないので、本人はfacebookに登録すらすることが出来ません。 ma4@ezweb.ne.jp ここにメールをしてもらってもいいですか?本人と連絡が取れるように致します。 わたしのfacebookの登録が事務所から見られてしまうと何をしようとしているかが分かってしまう可能性があるので、退会をする予定です。 そうするともうfacebook内で連絡を取る事が出来なくなってしまう為、 メッセージでお返事頂いても私からお返事は返せませんし本人の名前を記録に残るメッセで送ることも出来ないのです。 (名前をネット上で公表したりしてしまった日にはあっさりクビになっちゃいます><) …もちろん、これは私と本人からの一方的なお願いになりますので、 色々なご事情で彼女と連絡を取って頂くことがご無理であれば仕方ありません。 このままメッセージを削除して頂ければこちらから二度とメッセージを送ることもありませんし、連絡等一切行いません。 でも、来てくれる事を待っています。彼女を助けてください。 ma4@ezweb.ne.jp メールを頂く事がご無理であればこれでお別れになってしまいますが、また、お会い出来る機会があれば幸いです。 それでは。
http://d.hatena.ne.jp/magisystem/20110304#1299201707 とおなじやつだ。
作った経験と理論とどちらがプログラマになるのに有利なのか大学生に聞かれた。
「やりたい事があるのが大事。それがあればあとはぶっつけで動いて、否応なしにプログラミング力はつく。」と俺は経験的に思っている。それが良くわかるエントリをリンクしておくので参考にされたい。
http://anond.hatelabo.jp/20100725043438 プログラミングを身に着けるには
http://anond.hatelabo.jp/20101203150748 自分でWEBサービスを作りたいと思っている人へ
http://i.2chblog.jp/archives/1845528.html 年収1500万円超えたフリーのプログラマだけど何か質問ある?
以下、よく聞く意見について。
そうした採用しかしない企業がどのような状態なのか考えてみるべき。
http://blog.livedoor.jp/lalha/archives/50254634.html プログラマー面接時の技術的な質問事項(アプレッソ版)
http://anond.hatelabo.jp/20100813023359 FizzBuzz(の仕様を聞かされても)書けないプログラマ問題と面接について大量にレスがついている。ダメな面接の具体例があるので参考になるだろう。
あなたはそんな天才なの?ほんとうにあふれ出る才能だけで自分が評価されるような人間だと自信があるなら、もう日本にいないか、少なくとも俺と話してる場合じゃないんじゃないの。
理論さえ修めていれば、優秀なプログラマになれるのかというとそうでもない。音楽理論を修めていれば優秀な作曲家になれるかというのと同じ。なんつーか適性やセンスの問題、、とあまり言いたくないんだが、プログラミングにもそれがたしかにある。
ここで、とりあえず何か作ってみるというのが大事なわけ。作ってみると適性がわかる。そして伸びる。適性がなくても無理やりやってれば上手い具合に自己開発できるかもしれない。無理やりやるのが楽しいかと言われると不安だが、楽しさに突然気づく可能性が無いともいえない。伸びる過程で理論が必要だと気づいて必死に身に着ける人もいる。ほら結局理論が必要だ、だから学歴が全てなんだよってのはちょっとまて。確かに、適性があるなら大学で専門的に学んでいれば、あとから必死に独学するよりも要領のいいコースに乗ったことになるだろう。けど、学んだ人全員に適性があるわけじゃないんだよ。
適性とかそんな次元じゃなく理論だけで世界を制するような人材なら就職でそもそも悩んでいないと思う。しかし世の殆どの人は俺も含めてそこまで天才じゃないんだ。だから殆どの人にとって、自分が本当に出来るのかどうか知るには、やってみる必要がある。殆どの人にとって、理論だけで自分には人より才能があるという気になり、そのせいで実際にやってみなくなるのはただリスキーなだけだ。
http://www.aoky.net/articles/jeff_atwood/why_cant_programmers_program.htm どうしてプログラマに・・・プログラムが書けないのか?
http://anond.hatelabo.jp/20100128004640 IT土方なんて、ただの甘えでしかない
http://www.pixiv.net/member_illust.php?mode=medium&illust_id=16763692 T京K芸大学マンガ学科一期生による大学四年間をマンガで棒に振る (分野は違うけど考えさせられる事は多い。非常に話題になった作品)
もともとお互い"依存"からスタート(新生活でちょっと大変だった)
↓
自分だけ立ち直る・順応/彼氏さん新環境になじめず私だけが頼り
↓
ハートマークいっぱいに甘えてきて、デートの感想を好意100パーセントで書いてきた。
三回目のデート。別れ際、我慢できなくなって背中を向けた彼女を抱きしめた。
「エッチしたい、俺。硬いのあたってるでしょ?」って言うと「うん・・・」って。
「まだ早いよ。まだ寒いし、もっと暖かくなったらさ」って意味のわからない拒否り方。
「無理。今したい。可愛いからしたい」って言うと「そう・・・」って理解してくれた。
ネカフェにしたのはホテル代が惜しかったから。なるべく安く済ませたかった。
しかし、俺、ゴムのつけ方わからない。正確にはわからないふりをした。
「ゴムのつけ方わからん」って言ったら、「私もわからんよ。頑張って」って笑う。
「でも、変な付け方して外れちゃったほうがやばくない?病院でしか取れないらしいよ」
って言ってみる俺。真意はもちろん、生で入れたかった。
興奮しすぎで言葉になるかならないかぐらいの勢いで「気持ちいい」って言う俺。
「なら、よかった」って答える彼女。
「いく! いくよ?」」って俺が言うと彼女は「え?うん」って答える。
何をされたのかわらかないのか、きょとんとする彼女。理解して「え?」と一言。瞬間、泣き出す。
「信じてたのに」って何度か口にする。俺、「ごめん」と何度も謝る。
泣き止むまで頭をなでたり、背中をさすったり。「大丈夫だよ」も何回も言った。
ふたりとも大学が休みで暇だらけだからまたすぐデートする約束をしていた。
だから、どこ行こうか決めようとメールを送った。いつものようにハートだらけのメールが来ると思った。
「うち、体力ないの。なんか疲れちゃったあ。ごめんね。明日はムリかな」って返ってきた。
そうか、明日は無理か。じゃあ後日改めてまたデートしようっと。
で、じゃあ次いつにしようかってメール送ったら返ってこない。
「体力使わせちゃってごめんね。いつでもいいから返信してくれるとうれしいな」って送るも、ない。
ちなみに彼女の自宅は住んでいる市の名前しか知らないんで会いに行けない。
もうこのまま会えないんだろうか?
個人で対応するしかない時代が来るかもしれない。しかしそのために必要な環境は整っているとは言い難い。その中で若者はどう動けばいいのだろうか。
日本の現在を考えると、一番大きい問題は「建前の半壊」だ。モラルとも常識とも言い換え可能ないわゆる社会通念が半分壊れ半分生きているのが若者を苦しめているのではないか。年功序列だったり終身雇用だったり、男らしさだったり女らしさだったり、挙げればきりがないが政治経済文化のみならず個人の意識もまでも揺らいでいる。
しかしだからといって原点に立ち戻ることもすべてをぶち壊すことも出来ないだろう。どっちつかずで本音と建て前に翻弄されて苦しむ。そんな若者が増えているように思える。
たぶん対処法を事柄別に考えることが一番の近道なのだろう。けれど、個人がすべて自分でそれを考えるのはキャパシティオーバーになると思う。