はてなキーワード: 自体とは
仏教の根本概念である「空性」は、あらゆる現象が固有の実体を持たず、相互依存的に存在することを説く。この空性の世界は、無限の可能性を内包する量子の海のようなものだ。我々の認識する現実は、その海面に一瞬だけ浮かび上がる泡沫に過ぎない。
空性の海は、常に揺らぎ、無数の可能性を生成消滅させている。この絶え間ない生滅の過程は、仏教で説く「諸行無常」の原理そのものだ。観察という行為は、この無常の流れの中から一瞬の「常」を切り取る営みと言える。
仏教の「縁起」の教えは、全ての現象が相互に依存して生じることを説く。観察という行為は、この縁起の原理が顕現する瞬間である。無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程だ。
縁起の網の目の中で、観察者と観察対象は複雑に絡み合っている。観察という行為は、この網の目の一点に触れることで、全体に波紋を広げる。この波紋が、混沌から秩序を生み出し、無定形の可能性を具体的な形へと結晶化させる。
仏教の「無我」の教えは、固定的な自己の存在を否定する。観察者と観察対象は、互いに独立した存在ではなく、深い次元で結びついている。観察という行為自体が現実を創造するのだ。
無我の視点から見れば、観察者は宇宙の一部であり、宇宙もまた観察者の一部だ。この相互浸透的な関係性の中で、観察行為は宇宙が自己を認識する過程とも言える。我々の意識は、無限の可能性の海に投げ込まれた石のように、現実という波紋を生み出す。
仏教の「刹那滅」の思想は、全ての現象が瞬間ごとに生滅を繰り返すという考えだ。我々の意識は、無数の可能性が交差する点に位置し、刹那ごとに新たな現実を選択している。
この刹那滅の過程は、無数の平行世界が絶えず分岐と融合を繰り返す様子とも解釈できる。観察という行為は、これらの無数の世界線の中から一つを顕在化させる。しかし、選ばれなかった可能性は消滅するのではなく、別の次元で実現し続ける。
「如来蔵」の思想は、全ての衆生に仏性が内在することを説く。物質の本質も、固定的なものではなく、むしろ可能性の集合体だ。観察されるまで、物質は明確な形を持たない。
如来蔵は、全ての可能性を内包する根源的な「場」とも解釈できる。観察という行為は、この無限の可能性を秘めた如来蔵から、特定の現実を引き出す過程だ。この過程で、混沌としたエントロピーの高い状態から、秩序立ったエントロピーの低い状態への移行が起こる。
仏教の「般若智」は、現象の本質を直観的に把握する智慧を指す。観察という行為は、この般若智が宇宙の根源と交感する瞬間だ。それは、無限の可能性の海から特定の現実を引き出す神秘的な過程であり、混沌から秩序を生み出す創造的な営みである。
般若智による観察は、単なる物理的な測定ではない。それは、観察者の意識が宇宙の根源的な創造性に直接参与する霊的な行為だ。この過程で、宇宙の無秩序は一時的に減少し、意味ある秩序が生まれる。
仏教の「中道」の思想は、極端を避け、調和のとれた道を歩むことを説く。観察という行為も、この中道の原理に従っている。それは、完全な無秩序(高エントロピー)と完全な秩序(低エントロピー)の間の均衡点を見出す過程だ。
観察によるエントロピーの減少は、この中道的な均衡への移行と解釈できる。それは、混沌と秩序、可能性と現実性、無と有の間の微妙なバランスを取る営みなのだ。
仏教的視点から見れば、観察という行為は単なる科学的プロセスではない。それは、悟りへの道程そのものだ。観察を通じて、我々は空性の海に触れ、縁起の網の目を認識し、無我の真理を体験する。それは、刹那滅の流れの中で如来蔵の無限の可能性に目覚め、般若智によって宇宙の根源と交感する営みなのだ。
この解釈において、量子観測によるエントロピーの減少は、混沌から秩序への移行、無明から智慧への覚醒を表現している。それは、科学と宗教、物質と精神の二元論を超越し、存在の根源的な一元性を示唆するものだ。
我々の一瞬一瞬の意識的な観察が、宇宙の秩序を生み出し、現実を形作っている。そしてその過程こそが、悟りへの道筋なのかもしれない。観察という行為を通じて、我々は宇宙の創造に直接参与し、同時に自己の本質を悟っていく。それは、科学的探究と霊的覚醒が一つに融合する、深遠な悟りの道なのだ。
とある「高学歴・フェミニスト」の欧米人女性ジャーナリストのSNSをウォッチしている。
知り合いがこの人物に悪評を振りまかれ、係争になり、知り合いが勝ったのだが、
相変わらず悪評を振りまいているので(名前を出さず、具体的な表現もせず、姑息なやり方で)発言を追っているのだ。
この界隈の人たちは、いかに自分たちの業界で女性が軽く見られ、安く買いたたかれ、常にセクハラされているかを主張し続けている。
統計的にその業界で収入に男女差があるのは事実であるようだし、セクハラを受けている事例もあるようだが、
その他の言葉があまりにも軽くて元々共感する事が出来ない人たちだった。
今日は朝から彼女の最近の投稿を見て思わず笑ってしまった。(以下、私怨に基づいた罵倒)
ここ数カ月、彼女はプライベートで色々あって眠れない、食べられない日々を送っていたのだそうだ。
彼女は元々テレビを見るような人間ではなく、カフカやランボウ等に耽溺して来たが(あーはいはい、知識人知識人。)
気を紛らわせるために見た各国のリアリティショーが、ここのところ現実からの逃避に役立ち、気を紛らわせてくれたのだそうだ。
女性たちを追い詰め、暴力を振るうような表現もなく安心して見ていられるのでハマっている、
一部のこういう輩が世間をギスギスさせているのにはほとほと嫌気がさす。
欧米人から見るとアジアの国の個別の事情などなんの興味もないのだろうが(それも腹立たしい)
「韓国人男性は女性をリスペクトしてくれて紳士的で、うちの国の男どもとは大違い。癒されるわー。」
という言説になるのは考えにくい。
韓国の出生率低下については様々な分析があり、教育費と居住費の高騰が主な理由として挙げられていると思うが、
ジェンダーロールの改革が社会の変化に追いついていないというのも要因のひとつとして言及されることが多い。
フェミニストを名乗って物を書いているなら、少しは自分以外の事にも関心を持ったらどうなのか。
それにしても韓国のコンテンツ産業は相変わらずうまい事やってるんだなと改めて感心した。
女性向けの恋愛ポルノ(それ自体は何も悪い事じゃない)を現代風にして、世界に発信する事に成功している。
現実と虚構の区別のつかない人達の中では韓国のイメージは爆上がりなんだろう。
日本の「ネット・フェミニスト」にも韓国のコンテンツは人気がある印象がある。
では現代とジジイ世代と何が違うかと言ったら「アニメの皮」とかいう単語がなんかズレてるっていうか。
「にくじゃがにカレーの皮を被せた」とか「にくじゃが本体で勝負しろよ」とか思わないじゃないですか。
同じものとか、要素の一部とかいうものを、完全に別ものとして分離してしまって一個の存在として理解できないっつーか。
それは幼少期ににくじゃがが好きだった思い出とかがそうさせるんだけど。
でもまあどっちが真実かの話したら、やっぱりカレーはカレーで、なにか皮を被ったにくじゃがでは無いと言うしかないんだと思うな。
「自分は永遠に公平な視点など持てるはずがない」は語順が良くないけど、「自分は公平な視点など永遠に持てるはずがない」じゃないの?
「永遠の公平」なんて考え方があるの?
コミュニティノート:Apple Vision Proは、Appleが開発した最新の拡張現実(AR)および仮想現実(VR)ヘッドセットです。この製品を購入すること自体が個人の自己認識や価値に直接影響を与えることはありません。しかし、Apple Vision Proを使用することにより、新しい技能や知識を習得し、クリエイティブなプロジェクトや仕事に応用することで、自分自身を向上させることは可能です。
その中で「ディズニー・サンリオ好きはメンヘラなので避けろ」というのがあった
サンリオのキャラクターグッズを常に身に着けている成人て、風俗嬢とか地下アイドルくらいしかいなさそうで、そこはちょっとわかる気もする(婚活の場にそんな女性がいるのかは疑問だが)
ただ自分の周りで「ディズニー好きの女性」ってめっちゃくちゃ多いので、海外旅行好きに比べて割とスルーされていてびっくりした
ちなみに自分はディズニーランド開園した時既に思春期だった為、当時は「遊園地は子供の行くところ」という認識もあり、家族で一度行ったきりで男性とデートするようになってもわざわざ行ったりしなかった
ディズニー映画もアニメ自体ほぼ見ないので、ビデオやDVDをレンタルした事もない
キャラクターにもそこまで思い入れがなく、グッズを買いたいとも思わない
周りの友人は子供がいると一緒にランドに行ったり映画を見たりするようだけど、小梨の為そういう機会もなかった
また、私より下の世代は、幼児期からディズニーで育つせいか、大人になっても変わらず好きという女性が多いみたい
20代~50代くらいの周囲の女性陣は、「年1、2回はパークに行って、お土産を買うのが楽しみ」「アニメはほとんど見てる」くらいの人ばかりなんだけど、このレベルでも許されないのかな?
皆全然メンヘラじゃないしふっつーの人ばかりだよ(既婚者もたくさんいる)
特別趣味もなく、たまの休みに上京してディズニー行くのが楽しみ!レベルでも「趣味ディズニー」とか書きそうじゃん
ディズニーに全然興味のない自分はかなりの変わり者なのか?と感じてたくらいだったので、そこまで嫌われてるとはつゆ知らず
海外旅行好きの件もだけど、「年一回程度アジア辺りに言ってグルメや買い物を楽しむ」ゆるフワOLみたいなのと、ガチバックパッカーと一緒くたにしてるのと同じで、そこだけで切り捨てられちゃうのもどうなの?と思った
単体テストというのは、画面を手動で操作してスクリーンショットを撮る仕事だった。エクセルで仕様書を書き、レビューをしていたが、レビューアーはテストケースよりも、枠線の整え方に気を配っていた。
誰かが自動テストを導入しようと言い出した。「再現性がある」「保守性が高まる」「もっと良くなる」と口々に言われていた。
でも、テストコードを開発する工数はどうするのか、開発コードが増えればさらに大変になるのではないかと不安があった。
それでも、これが実現すれば、何かが大きく変わる予感がした。
アプリケーションフレームワークはStrutsだった。フォームをポストする瞬間にカオスが生じ、50行の無駄なコードを書き、100行の読みにくいコードを理解することが技術者の条件だった。
ある人が「レイヤリング」という概念を持ち出し、別の誰かが「DI」と言い出した。アプリケーションアーキテクチャという言葉も登場し、ファウラーという人物の名前も聞こえるようになった。
新しい構造が提案され、それに影響を受けながら、「いつかは美しいアプリケーション構造が生まれるのかもしれない」と夢を抱いていた。
当時、PerlでCGIを作っていたが、PHPやRubyが登場した時は、正直Web"サイト"を作るためのものだと侮っていた。
しかし、次々と洗練されたWebアプリケーションフレームワークが生まれ、StrutsやJavaEEよりもはるかに使いやすくなっていった。
数多くのWebフレームワークの中で、どれを選ぶべきか悩みながら、「いつか完璧なWebフレームワークが現れるかもしれない」と期待していた。
サーバーは冗長化され、ReversProxyを使い、セキュリティのために構成を変更してきた。そしてクラウドが登場し、Dockerなんて本番で使えないと言っていた時代から、
気がつけばどこに存在するのかもわからないクラスターの中で、コンテナアプリが動いている時代になった痛快だ。
かつてLinuxマシン一台を「鯖」と呼んでいた時代から、世界は目まぐるしく変化し続けるとかと思っていた。
誰かがAjaxと言い出し、別の誰かがReactと言い出した。「こんな方法でHTMLを作って良いのだろうか?」と疑問に思いつつも、「Webはアプリケーションだ」という感覚が強まっていた。Webアプリケーションがどう進化していくのか、未来を感じることができた
私たちは、ソフトウェアを開発すること自体に大変さを感じていた。新しい技術やフレームワークが次々と登場し、その都度課題が解決される一方で、新たな課題が生まれる。これほど面白いことはなかった。そしてエンジニアたちには一体感があり、誰もが自分なりの方法で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。だからこそ、今は少しつまらない。変化は穏やかになり、「お金を稼ぐ」という目標だけが共通となり、課題は個々の事象に閉じ込められている。しかし、それが悪いことではない。ただ、私たちの時代が変わったのだ。
かつては、私たちの目の前には普遍的な課題があり、それぞれがそれぞれの場所で課題を解決し、そのフィードバックループが世界を動かしていた。
生成AIで例えると、それをどう使うかではなく、エンジニアが一丸となって生成AIをチューニングしていた。世界情勢で例えると、世の中の飢餓を全世界の人がアイディア出して、解決しようとしてたいた。
今でも、普遍的な課題は世界中に転がっているが、それらは高度で、私たちには手が届かないものが増えてしまった。
ITは面白かった。プログラミングが分かるだけで、世界の課題を一緒に解決できる時代だった。それぞれが自分の場所で働くだけで、世界を動かしていた。そんな時代が終わってしまったと感じる。
老害といえば昔話だろ!
ITが面白い時代はすでに終わっているし変化も遅くなった - きしだのHatena
https://nowokay.hatenablog.com/entry/2024/08/21/002459
https://blog.satotaichi.info/Only_old_fossils_say_IT_is_boring/
「IT」「面白い」の定義が人それぞれだから話がかみ合わんよね。いつもの主語大きすぎってやつ。
その結果で、面白いことといえば既存産業をITで強くするというDXのようなものが流行り、新しいサービスというのも車がやってきたり料理がやってきたりスキマ時間に働けたり、物理サービスをより最適化するような、どちらかというとITは裏方になったものが多くなってきてますね。
って言っているから、純粋な情報技術部分のみの話をしているんだろうね。前置きが長い&ツッコミポイントが多いから議論が発散しちゃっているけど。
後者の記事でも「問題解決」のセクションでは同じようなこといっていると思う。
ネットによるクルド人の冤罪が酷いみたいな記事とかエントリとかあるけど正義君の彼らは判って無いんだよね。クルドとか関係無いのよ。外国人自体来て欲しく無いんだわ日本に。正義君の彼らはそこが判らない。
ご指摘の点について、いくつか重要な観点から考えてみましょう。
日本の仏教僧侶がユダヤ教のタルムードに関心を持つことは、宗教間対話の一例と見ることができます。異なる宗教的背景を持つ人々が互いの教えを学ぶことは、相互理解と尊重を深める上で価値があります。
「神仏」という言葉は、日本の宗教的文脈において一般的に使用される表現です。これは日本の宗教的伝統における神道と仏教の融合を反映しています。しかし、ご指摘の通り、この表現は一神教の観点からは問題があるかもしれません。
仏教における「仏」の概念は、必ずしも西洋的な意味での偶像崇拝とは一致しません。仏像は悟りの象徴や瞑想の対象として扱われることが多く、それ自体を神格化するわけではありません。
同様に、日本の「神」の概念も、西洋の一神教における神の概念とは異なります。日本の多神教的な世界観は、自然や祖先への畏敬の念を表現する方法の一つと見ることができます。
ノアの七つの法則(ノアの子孫のための七つの戒律)は確かに、非ユダヤ人が守るべき倫理的指針とされています。偶像崇拝の禁止はその一つですが、これを文字通り適用することは、異なる文化的背景を持つ人々にとっては難しい場合があります。
宗教間の対話と学びは重要ですが、それぞれの宗教や文化の文脈を理解し尊重することも同様に大切です。一方の宗教の教えを他方に直接適用しようとするのではなく、互いの違いを認識しつつ、共通の倫理的価値観を見出すことが重要かもしれません。