はてなキーワード: 矮小化とは
どちらかと言えば表現規制反対派だが、この増田は問題を矮小化している。
なぜ、流通現場の話に限定するのか。「MeToo」を社内でやれ、当事者同士で話し合えと言っているようなもんである。
つーか、もうネットを騒がしちゃったんだから、そんな言い分後の祭りでしょ。
そもそも君たちは現場見てないでしょ、書店がどういう理屈で陳列してるのか知らないでしょ、だったら増田の話は聞く余地があった。
アホみたいな噛み合ない議論して
コミュ2話
ポイント1
フレデリカ「(間を挟まず)それでー? シキちゃんがここに来たかったのって――(以下略)」
間を挟まなかったのは、友人との論争を避けるためだろうか?
宮本フレデリカにはもうある答え、一ノ瀬志希にはまだない答え。
志希には「愛に生き続ける」「一瞬で愛に死ぬ」「楽しく生き続ける」「一瞬で楽しく死ぬ」選択肢があるのではないか。
どれもこれも魅力があり、しかし全ては選べない。迷っているのだ。
「秘密のトワレ」なんて歌いながら、Pへの深い愛情を持ちながら、絶対に行動に移さない理由だろう。
志希は「他に迷惑を掛けても、自分のしたい事はする」と考えているが、フレデリカは迷うことなく「みんなハッピー」
…書いていて思ったが、フレデリカは志希が致命的な事を起こす前に「娯楽」を提供しているのでは?
考え過ぎだろうか。
ポイント2
志希「(父親のデスクで家族写真を見つけた後)……ん? 隣にもう一枚、隠してある……?」
フレデリカ「(嬉しそうに)シキちゃん、だね。 アイドルの……お仕事の、写真」
志希「(少し考え込む)…………。」
志希「こっちの写真は、あたしがもらってこっかなー。」
フレデリカ「人間の目が前についてるのは、未来を見るためだからねー♪」
これは面白かった。
つまり父親にとって「今の志希」を見つめるのは「過去に縋る行為」の可能性がある。
もう再婚とかしているのか?
いや、それなら家族写真は何故OK? 娘の反対を押し切って再婚、しかし上手く行かず離婚?
そして、この時の志希の発言は暗くない。 父親に悪感情を抱いている訳では無いようだ。
「フレデリカは志希の過去を知っている」「志希の”ときどきいいこと言う”発言」
これが気になった。
フレデリカは「みんなハッピー」なので志希が嫌がれば口を噤む。
だがPは”志希が納得している”事実があっても「可哀想だ!」というかも知れない。Pが事あるごとにその過去をを持ちだせば志希はウンザリするだろう。
これは「Pを理解する」まではおあずけ。
後に奏から「海の向こうはどうだった?」と聞かれ「何も無かった」と志希は答えている。
話したくなければ「この話はまた今度」と言うはずなので、本当に「ケリがついた事」なのだろう。
そして「ときどきいいこと言う」
志希は普段から人の発言をしっかり聞き、それを評価している事が分かった。
最も親しいと思われるフレデリカさえそうなら、志希が「誰かに依存する、身をゆだねる」事は無いのでは?
コミュ3話
ポイント1
志希「わかんないことが怖いなんて、あたしにはぜんぜん共感できなーい! なんでなんでーっ!」
奏「あのね、志希。これは一般論だけど……普通、分からない事は怖いわよ(以下、一般論は要約)」
奏「人は怖いから分かり合うために努力する、だが完全には分かり合えない だから自身を矮小化し分かり易く記号化する」
奏「ちょっと。せっかく人が真面目に話したのに、台無しじゃない」
フレデリカ「でもさー。退屈になってくだけなら、『本当の自分』とか『理解』なんて、いらないのにね」
フレデリカ「それよりは、みーんなが楽しくなれる『ウソ』のほうが、ハッピーハッピーだと思うんだ♪」
まず、奏は志希へ「分からないかも知れないけど、教えてあげる」
そしてフレデリカが茶化し、志希も続く。
「みんなハッピー」が好きなフレデリカが何故「真面目な話」を率先して茶化したか?
当然「みんなハッピー」のためだ。
ここで茶化さなければ、奏は志希へ「理解できたか」聞くだろう。
そして志希は真面目に返す。「理解した」「理解できない」「途中までは理解している」
意見が奏と重ならなかった場合「誤魔化しをを好まない」志希では以前の心理テストの焼き増しになるかも知れない。
フレデリカが警戒するのも当然。
奏は「僅かでも理解し合う事」を大事なものだと考え、だから志希にも解説した。
話が切り替わったので意見は述べていないが、志希も持論は持っているだろう。
この後、志希は桃華に「分からないと言えるのは良い事だよ、半端に分かった気になるより、ずっとね(要約)」
……いつかもう一度「LiPPS」コミュが来た時は「Trinity Field」並みだと、私は期待している。
ポイント2
桃華「(二人のアイドルとしての姿勢に疑問を持ちながら)あなたたちはいったい、なにがしたいんですの?」
志希「(少し勿体ぶって)あたしはね、あたしがしたいことをしたいの。それ以外は、どーでもいー」
フレデリカ「フレちゃんは、みんながハッピーになることをしたいなー♪」
~フレデリカ、ここで「あとはお楽しみ、ご期待あれ」と言って会話を切る~
また答えを待たず切ったなコイツ!
だが二人はしっかり”軸”がある。
志希は「自分がしたい事をやる」
誰でもそう、と思うだろうか? だがそれならわざわざ口に出す必要も無い。
これは恐らく「自分に噓はつかない」と言っているのだろう。
相手を気にして自分の意見を出さない…何とも「家族関係がこじれそう」とは思わないだろうか。
対してフレデリカはブレない。
「みんなと楽しく」こそが目的。 そのためならば嘘も厭わない。
いつかこじれそうですなあ。
ポイント3
志希「……ふぅん?」
フレデリカ「なんだかさー、嫌だったんだー。シキちゃんのこと、勝手にわかられたみたいで」
「『本当は寂しがり屋の可愛いオンナノコ』なんてさ、すっごくわかりやすくて、つまんないでしょ?」
「カナデちゃんはそれが普通だって言ってたけど……、だーれも楽しくならない、退屈なだけのホントウなんて、アタシたちに くっつけてほしくないの(口調は明るい)」
志希「(笑顔になって)その退屈なものが、本当に真実(ホントウ)だったとしても?」
志希「……ふふ」
フレデリカ「それに、シキちゃんは、誰かに理解させてあげられるほど、簡単じゃないでしょ?」
志希「……ねーねーフレちゃん。フレちゃんはさ、あたしのこと、怖い?」
フレデリカ「ぜーんぜん、怖くなーい♪」
志希「(笑い声を上げて)いいね、いいねいいね! やっぱり、フレちゃん、すっごく面白い!」
「うん、いいよ。興味湧いてきた。フレちゃんとなら、あたしは何ができるのか。あたしたちの実験を、始めよっか」
~以下略~
長い。ひたすらに長い。
ちょっとまとめる。
フレデリカが「アタシたちを舐めないで、そんなに退屈な存在じゃない」と言う
志希は「いや、実際はそんなものだよね」
(今回のSR2枚中、志希だけ「自身は退屈な部分も有る」と発言しているので、これは志希の事)
フレデリカは「だったら嘘をつけばいい」志希はこの答えに思わずクスリと笑う
フレデリカは「怖くない」と返しそれを聞いた志希は堪えきれず、といった感じに笑い声を上げる
志希は「やっぱりフレちゃんは面白いね いいよ、興味湧いたし付き合ってあげる」
そして志希は自己評価が低い! 「自分は他より少しは頭が回るだけ」とか思ってたりするのだろうか?
ここでフレデリカは「だったら嘘をつけばいい」
話を伏せても誤魔化すことは無かった志希に「嘘をつけばいい」!
真意は恐らく(でも、その必要はないよね)(でも、そんな事しないでしょ?)こんなところ。
それが分かるから志希は笑う。
そして追い打ちに「それに、理解できる人いないよね」
これは、志希へのメッセージ。
志希にとっては志希は単純な存在。でも「客観的」に見れば志希はとんでもなく難しい。
ねえ、そうでしょう? だと。
そして志希は笑い、フレデリカに付き合う、と言った。
志希が笑ったのも納得だ。
嘘をついても「幸せ」を大事にするフレデリカ。なら、恐怖を隠しているのか?
志希が「簡単ではない」事を知るフレデリカ。なら、口では「簡単じゃない」と言いつつ自分は志希を理解しているのか?
本当に怖くないか、本当は怖いのか。
まあ、多分。
コミュ5話
ここは短い。
これだけだが…Pとしては大事だろう。
書いとく。
ここらで失礼致します。
さすがにはちまの900ブクマ越えはびっくりしたよね。一気に目が覚めたよ。
はてな民というのはなんだかんだ言って最低でも旧帝一工神筑早慶上智ICU国立医学部くらいの感じの集団だと思っていたんですよ。バカだバカだと言っても、低脳先生のように最低でも九州大学あたりを卒業しているような。
でもスマホの普及があり、すべての伏線となるサードブロガー(?)の発生、そして互助会アフィブロガー流入と席巻と撤退、この辺りでもはやまともな人はほとんど出て行ったような気がしていました。
しかし、ここにきてはてなダイアリー終了宣言。完全に完璧にひとつの時代が終わったということなんですよ。小難しい長文を読める人間がいなくなってしまった、あるいは小難しい長文の需要がなくなった(とはてなが見なした)ということです。はてなにおいても中途半端な自称理系ばかり増えて人文知というものが必要とされなくなりましたが、これは日本全体の雰囲気に連動しているようにも見えます。
人文知や教養を必要としなくなった中途半端な自称理系の選択したものがラノベ的なるものです。なぜ中途半端な自称理系がラノベに惹かれるかというと、構造がわかりやすく分析しやすいからです。そこには構造と論理しかないです。そして、こうしたラノベ的なるものというのは何もラノベだけではありません。
代表されるのがはちまや痛いニュースなどの有害まとめサイトです。対立煽りというのはラノベ的な感性にヒットします。わかりやすいからです。実際、ラノベオタクたちはラノベ天狗による悪質なtogetterまとめをブクマし続け(なんならラノベ天狗を称賛し)ています。アイロニカルな視線でそのまとめを見るのではなく、ラノベ天狗に同調して「そうだそうだ」といった感じなのもとても嘆かわしいです。物事を矮小化して型にはめてレッテルを張る、あるいは文脈から切り離して誇張してみせる、そういったわかりやすいエンタメが世間には溢れていますが、まさにはてなもそういったエンタメに支配されているように見えます。
この前、増田で話題になったB'z稲葉の話も似たような部分があります。わかりやすいちょっといい話に仕立ててあるわけです。そういうものに多くの人が釣られています。ベストセラーになる小説なども同じようなものでしょう。感情を煽って、雑にレッテルを張る、そしてそれがレッテルを貼っただけのハリボテだということをなるべく認識させないようにする、そのような本で溢れています。なぜなら需要があるからです。わかりやすいものしかわからない人たちがたくさんいるからです。インテリはてな民の皆様にはそんなものに心動かされないで冷静に観察していただきたかったです。しかしもうそんなことができる人間ははてなにもほとんど残っていないわけです。
痛いニュースやラノベ天狗のまとめというのは、「ここにひどいやつらがいるぞ! みんなで叩け!」というものです。これはとてもわかりやすいです。みんなで叩けばひとりひとりの責任もそれだけ分散されますので、より気軽に叩きに参加できるようになります。絶対安全地帯でノーリスクで一方的に攻撃、リンチして、「俺たちは賢い」「俺たちは正義である」とそんな幼稚な感情、全能感ばかりが肥大していきます。彼らは挫折感や屈辱を味わうことはありません。なぜなら彼らは自分にとってわかりやすいものにしか飛びつかないからです。それが頭の悪い人向けに編集された偏向まとめサイトやtogetterであり、ラノベ的なるエンタメ商品なのです。
そして今朝のできごと。
はちまが900ブクマ越え。このままだと1000に届いてしまうかもしれません。悪質デマサイトを多くの人が受け入れているわけです、自称インテリたちが集うはてなでも。
ラノベ、ビジネス書、スゴ本、こういったわかりやすいものに飛びつくのをやめて、専門書を正確に精密に読解するという訓練をするべきです。わかりやすいものに飛びついていては知力が鍛えられません。
「難解であれば高尚であり素晴らしいというのは間違いだ」というのはある程度は真実ですが、難解であることが悪いのではありません。難解なものを理解しない人は「難解なものは悪いもの」「わかりやすいものこそ素晴らしい」という思想になりがちです。しかし難解にしか語り得ない領域というのがあるのです。それは「意味」というより「文体」によって享受できる詩的な体験ともいうべきものです。そしてその領域に触れ、体験したことがあるかないかというのが知的であるかどうかのひとつの分かれ目なのです。
難解であることをほめ讃えよと言いたいのではありません。難解なものによって自分の知力を鍛え、見る目を養おうと言いたいのです。わかりやすいものに飛びついて、わかりやすい構造を理解し、わかりやすい意味を理解し、理解という快楽によって全能感が肥大していく、そんなことはもうやめようと言いたいのです。
はてなは今危機を迎えています。はちまが900ブクマを超えてしまったことの意味をそれぞれが考えてみるべきではないでしょうか。
ネット見てると、誰にとって「〇〇したほうがいい」というのがはっきりしないまま「〇〇したほうがいい」って言ってる人が多くて「そのアドバイス風のクレームやめてくれます?」って気持ちになる時がある。
あなたの感想?それとも意見表明して言ってる?そこがわかんない書き込み多すぎ。
愚痴ってるだけなのに主語が大きい人と、問題を矮小化して話す人をネットに多く見かけるから
「日本語教育は失敗だなぁ」って感じてる私。
一文の中で自分が批判してる行為を自分でやるのってすごいな。それとも自己紹介だったのか?脳みそ解剖したい。
的確に言おうと言葉を尽くすとオタクっぽいだ理屈っぽいだ言われるけど…
ネットって抑揚や表情ない分言葉尽くさないとほんと伝わらんぞ?って言いたい
時間がない時、スマホで大量の文字が打てない時ははシンプルに話す・書く努力と話題選びをするけど、
そうでもないのに的確に話そうとしてる感じがない・話題選びミスってるツイッター見てると
「この人頭悪いのかな?」って割と真面目に思うの俺だけ?
いや、本音で言ったほうがいいのか。
「頭悪くても、個人の感想でも、視野の狭い意見でも何でもいいから、よく吟味されてもないものをブログやツイッターに公開している人は、どうしたいの?」
って言えばいいのかな?
自己満なら叩かれてキレないで欲しいし、ウケ狙いなら洗練しろって言いたい
オンラインに書かなくてもいいことなんていくらでもあるのに、わざわざみんなが見られる場所にバカっぽい書いちゃう人が僕にはわかんない。
一応、ためになるか、意図が説明できる書き込みしかしないように努力してるんだけど…そういうことしてる俺が少数派なの?
マナーのつもりでやってたけどなぁ
できてないんだなよなぁ。脳みそ解剖したい。
キレないで欲しいっつうか、キレる資格ないというか、
キレてもいいけど、他人にも見えるところにキレるようなもん置いといたお前が悪いと言うか…そういうのがインターネットじゃない?って気持ちはすごくある。
WordやHTML+CSSで文章を書くのと比べて、桁違いに書きにくい。
お蔭で後年SQLに出会った時は、記法のセンスの素晴らしさに感動したわ。
何故なのかは知らないが、バックスラッシュに中括弧に$に^に、fracみたいな覚えにくい予約語のオンパレードにその他諸々、記法があまりにも暗号的すぎるんだよ。
マークアップ的要素があるくせに、XMLやHTMLよりも「どこからどこまで」を遥かに把握しにくいし。
あと、記法の問題だけじゃなく印刷に持っていくまでの処理もマジめんどくさいわー。
WYSIWYGを捨ててかかってるだけでも十分めんどくさいのに、dviにしてレイアウトを視覚的に確認しようとするだけで「文法間違ってます出力できませーん」とか、いい加減にしろアホ!と何度思ったことか。
こういうTeX使ったことある奴なら当たり前に経験している使いにくさを「インターフェース」と言ったのに、エディタの問題などと矮小化して捉えられるのは、正直言ってメチャクチャ不愉快だわ。
てか、viでもemacsでもなんでもいいけど、こんなのどんなエディタ使っても使いやすくならないだろ。
いろいろツール入れれば多少は負担が軽減されるのかも知れないが、そんなふうにいちいち環境整える手間を掛けてまでTeXで書く理由なんて微塵も感じられないから。
車の運転がAT全盛の時代にあってMTに凝るくらい趣味的かつ滑稽な話だよ、TeXは。
「C言語に対する最新最良の処方は、可能な限りC言語を使わないこと」というのは有名だが、これはそっくりそのままTeXにも当てはまる。
本日、沖縄県知事として尽力された翁長知事が本日永眠されました。67歳でした。
もともと翁長知事は沖縄自民党の幹部中の幹部で、翁長知事の前の知事である仲井間知事の選対本部長として仲井間県政の立役者として活躍した実績もあり、翁長知事の個人的なキャリアとしては、このまま自民党系の那覇市長であった方が安泰だったのかなぁと思います。
しかし、そんな翁長知事が安泰のキャリアを捨てて、不倶戴天の共産党と手を組んで、オール沖縄を地元経済界も巻き込んで作り上げたのは、当時びっくりしました。その結果、難攻不落と言われた自公政権を打ち破ったことは、歴史が一つ動いたような気持ちを抱きました。
県民の期待を背に誕生した翁長知事ですが、在任中はひたすら国との闘いでした。
辺野古の埋め立て基地に関する法廷闘争はもちろん、知事としての権限を法律の範囲内で最大限使い、工事を遅らせるように努力をしました。
そもそも、新基地反対を掲げて、大差で当選したことから、県民の総意としては基地反対が立証されていますので、その声に答えて基地建設工事に抵抗するのは当たり前です。
しかし、本土のマスメディアは冷ややかに受け止めるものもあり、中には翁長知事の政策と何も関係がない「カツラ」疑惑を書き立てるものもありました。沖縄県民が基地反対のデモや運動を炎天下のなかしていても、あれは大陸系のコミンテルンの手先、日当が支給されているといった怪情報が流されていました。あー、やっぱり基地問題は、日本の問題ではなく、結局沖縄の問題という認識が、本土の認識なのか、そんな気もしました。
そんな逆風の中でも翁長知事は、ひたすら先頭に立って、基地反対の運動を繰り広げてきました。
翁長知事が基地反対運動をしたのは、純粋に沖縄県民としての気持ちだけでなく、基地が無い方が経済効果が高いという事実があったからです。実際基地がいなくなってできた空白地には、大型ショッピングセンターといった商業施設が生まれ、基地でもたらされた利益以上に高い利益を生み出すことができました。
このような現実が、沖縄経済会からも支持を集めて、オール沖縄体制が生まれたわけですが、この理想主義としての基地反対、現実主義としての経済振興といった2つの視点を持っていた知事の方向性はやはり間違っていなかったと思います。
話が少し脇にそれますが、今年は長年沖縄問題に関心を抱いてくれた野中広務氏が永眠されました。
野中広務氏も、自民党幹事長も務めた人物ですが、やはり根っこにあるのが、平和主義でした。そんな平和主義のバックにあるのが、1945年の太平洋戦争です。
あの戦争では、沖縄県では20万人の死者を出した残酷なものでした。
しかし、そんな過去を無かったように忘れて、基地問題を沖縄県の問題に矮小化しているのが、現政権です。
翁長知事こそ、保守政治家だったといえます。同様に、日本を代表する保守政治家である野中広務氏が去ったことは、今年は何かしらの意味があるように感じます。
保守という言葉が、現在は排外主義、弱肉強食のような意味にすり替わり、弱気を助け、強気を挫くといった浪花節は無くなってしまいました。
次の知事がどうなるかわかりませんが、翁長知事の死はオール沖縄にとって大きな打撃であることは間違いありません。
とりとめもなく書きましたが、最後に言わせてください。
翁長知事、お疲れさまでした。
沖縄の未来を本気に考えて、病に侵されながらも身を削って頑張って頂きまして、本当にありがとうございました。