はてなキーワード: 無責任とは
①生きていく能力がない
②能力を獲得するやる気がない
③生き続けたいとも思わない
この3つが揃ったら、国が設備を整えてとっとと安楽死できるようにしてほしい。
世の中にはこの先、生きれば生きるほど状況が悪くなるだけの人間がいる。自分もその一人だ。
生きてれば何とかなるなんて無責任に言う人はいるが、絶望的な状況から社会復帰できる可能性があるのは、最低限の生活能力と社会性があって、何とかなろうというやる気がある人間だけだ。
社会のせいでも親のせいでもなく、自分の無能と怠惰がこの現状を招いたとわかってる。自分が同情の余地すらないクズであることを自覚している人間に、今さら頑張って生きていこうなんて思えるわけがない。それどころか、いつ逆恨みで社会を呪う人間に成り果てるかわからない。そんな風に思っている人間は、自分の他にもそれなりにいると思う。
そういう人間が完全な無敵の人になる前に、安らかに処理する仕組みを作ることは、どちら側の人間にとっても利益のあることであると思う。
相手もアセクならセックスできないことに罪悪感を持つ必要はない
途中で自分の性欲を自覚したりやっぱり面倒くさくて無理になったらフェードアウトすればいい どうせアプリだ
よく言われる「まだ良い人に出会っていないだけ」なんて無責任な野次をいちいち真に受ける必要はないが、それはそれとしてまだ試していないことがあるとか、将来心変わりして寂しくなる可能性が無くはないと思ってるなら早いうちにやるべきだ
お前は恋愛そのものには興味がなくて、これからも積極的に恋愛市場での価値を高めるような努力をするつもりはないんだろう
アセク自認の女に対して男の数は極端に少ない(そういうコミュニティにいてもゲイの偽装目的だったりする)から多少ダサくても若ければモテる
表現の不自由展の問い合わせの一件一件は単なる問い合わせだけど積み重ねれば業務がマヒするような事態になり判断を狂わせる。
日本人の99.9%が賛成してても0.01%が猛反対するような話でも1万人の怒れる市民が殺到する。
そういう社会的な悪影響を無視して無責任な発言してるのが批判されてる。
やだじゃない
行けーっ行くんだ
せっかく風呂も入ったし着替えたし予約取ってあるんだろ
信頼失うぞ
行けーっ立ち上がれーっ
立ち上がれーっ
うるせえ行け
四の五の言わずに行け
無になって行け
行けーっ頑張れよーっ
そら行けおら行け頑張れ頑張れ
絶対行ったほうが良いって
ここは頑張らないと
元気でしょ?元気じゃん
また逃げるのか
ここは逃げるが負けだぞ
あーほら
負けた
なんでさぁ
なんでこういうことするの
とりあえず電話して
ほんとクズだよね
言い訳ばっかり嘘ばっかり逃げてばっかり
もうどこにも追いつけないね
ここ最近、SNSやネットニュース上では「親ガチャ」「毒親」という言葉が流行しているが、自分はどうもこれらの言葉が好きにはなれないでいる。
いや、正確には「言葉自体」が嫌いなのではなく、「その言葉を使うことを無条件に肯定する人間や風潮」が嫌いなのであろう。
その嫌悪感は、「親の言うことは無条件に正しい」「産んでくれたことに感謝しろ」「みんな大変なんだ、自己責任だ」といった無根拠な精神論、根性論によるものではないということは、初めに強調しておきたい。
どうも、インターネット上ではこれらの言葉に反感を抱く者は、上記のような精神論を振りかざしていると、誤解により、若しくは意図的にレッテルを貼られ、
「無理解な大人である」とカテゴライズされることを免れないようだが、せめてもの抵抗として、ここにその旨を記しておこう。
さて、私が「毒親」「親ガチャ」を不快に思う理由は、主に以下の3点にまとめられる。
この3点について、それぞれ考えを述べていきたい。
(精神的、身体的、性的)虐待をしている、経済的に困窮している、近所とトラブルを起こす、アルコール中毒者である、自身の進路や恋愛への過干渉、単に性格が合わない等々、
しかしながら、その言葉の意味の含有する領域があまりに広いことにより、非情にカジュアルな意味合い
(具体的には、自分の意見を聞き入れてくれないといった、思春期にはありふれたような悩み)でも使うことができてしまう。
この言葉の使用者の目線で言えば、自らの具体的な悩みを抽象的で使用しやすい概念を指す言葉に置き換えているので、
当然自らの状況が「毒親」「親ガチャ」に該当するのであると確信を持てている状態となる。一方で、この言葉を見る者からは、
「毒親」「親ガチャ」といった抽象的な概念を指す言葉から、発言者の具体的な悩みを推し量ることは難しい。
こういった「発信者」と「受信者」の理解に隔たりが生まれることは、良い状況を生まない。
発信者は深刻なSOSのつもりであっても、受信者は「カジュアルな意味合いで使っている者との区別がつかず、無条件に肯定し難い」のである。
この問題は、単なる親との不和を指す言葉として「毒親」「親ガチャ」を使う話者が増えれば増えるほど、深刻化していくだろう。
では、そういった発信者と受信者のすれ違いを解消するには、どのような方法を用いればよいのか。
私は単に、それぞれの問題に相応しい言葉を使うべきだと考える。
虐待は虐待、貧困は貧困、我儘は我儘なのであって、それ以上でも以下でもない。
果たして、「親から虐待を受けているから早く家を出ていきたい」「貧困のツケを子供に払わせるような親を恨んでいる」といった趣旨の発言に対して、
冒頭のような「親は悪くない/自己責任だ」と心無い言葉を浴びせる者が、そう多くいるだろうか。
たとえ同じ悩みについて語っていたのであっても、「毒親」「親ガチャ」と表現するより、遥かに受信者にはその深刻さが伝わるだろう。
「毒親」「親ガチャ」の言葉の定義の曖昧さに起因するカジュアルな響きは、「万引き」「いじめ」といった言葉において指摘されているような、問題の矮小化という欠点を抱えている。
(いじめや万引きは、その加害者や責任者が使うことによる問題の矮小化を指摘されているので、正確にはやや性質が異なることは承知しているが、毒親、親ガチャは被害者自らがそれに類似した矮小化を招いていると言える。)
自分の悩み、心の叫びを誰かに聞いてほしいのであれば、より正確に、相手にそれが伝わる言葉を用いることも一つの工夫であろう。
「毒親」「親ガチャ」といったサーチに引っ掛かりやすい、目につきやすい言葉を用いて形容することで、より多くの人の目に触れる可能性は高まるというメリットも確かに存在する。
よってその言葉自体を使うことを非推奨するわけではないが、用いる場合も自らの具体的な悩みを併記する方が、真剣に捉えてくれる人は多いはずだ。
これは、「毒親」「親ガチャ」を使用する側の問題ではなく、「受信者」の、更に言えば「大人」の責任の問題だ。
「毒親」「親ガチャ」を使うことは何も悪くない、どんどん使うべきだ、批判者は恵まれているだけだ、こういった無条件な肯定は、同世代の共感からくるものとは限らない。
自分が虐待などに苦しんだ、などの経験を持つ「善意の」大人からも多く寄せられている。
しかし私には、どうも「嫌ならやめよう、逃げよう」論と同様に、自らが責任を持たなくて済むのを良いことに、軽々しく注目を浴びたいだけの者や、
「毒親」「親ガチャ」といった言葉の存在を社会問題に繋げたい者といった、「悪意ある」大人が多分に含まれているように思えてならない。
(思えてならない、というのは正確ではないかもしれない。実際にそういった趣旨の発信を観測したことや、発信者のbioおよび過去の発信を観察した結果などから鑑みるに、上記の大人が一定以上の確率で紛れ込んでいるのが事実だ。)
1で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」は曖昧な言葉で、本来は「虐待」「貧困」などといった深刻な問題から、単に思春期特有の不和なども含まれている。
そこに新たな社会問題が生まれたのではなく、「元々そこにあった問題が別の呼称をされている」に過ぎない。
もし社会的な問題が新たに生じているのだとすれば、青少年がSNSを使用する機会が増えたことにより、そういった「無責任な大人や唆したい大人」の意見へ触れる機会も、必然的に増えてしまったことこそが問題だ。
(無論、SNSの繋がりによって救われる人も多い。SNSそのものが青少年に悪影響である、と主張するつもりは全くない)
本来であれば、後から思い返して「自分が若かったな」で済む話を、周囲や社会へ責任を転嫁するような、拗らせてしまった人が量産されることは、自分は望ましくないと考える。
(「じゃあ『悪い大人』の狙いを嘯くお前の狙いは何なのだ」と聞かれたら、自分の幸福を守るためです。単に拗らせた他責性の強い人が社会に出てこられると迷惑なので。
ついでにその人自身も拗らせない方が幸せだとは思っていますし、正確な言葉でSOSを求める人が増えた方が、社会全体の利益に繋がるとも考えていますが。)
これも言葉を使う若者というより、それに付随する議論で生じる「悪い大人」の話に近い。
冒頭で述べた通り、「毒親」「親ガチャ」へ不快感を示す人は、その論の内容について考慮されることなく、「無理解な大人」のレッテルを貼られることが多い。
加えて言うと、「あなたは恵まれた家庭環境(親ガチャ当たり)だから恵まれない人の気持ちはわからない」というレッテル貼りを、非常によく見かける。
この論は全く筋が通っておらず、安易に社会の分断を加速させる、極めて悪質極まりないものであると私は考える。
何故ならば、「毒親」「親ガチャ」否定派の家庭環境についてはどう頑張っても想像の域を出ることはなく、属人的な論法でありながら「人」の部分を故意に都合よく歪めているからだ。
このやり口には一欠片ほどの正当性もない。
「毒親」「親ガチャ」という言葉へ好意的な者の家庭環境が、批判的な者よりも劣悪だったという根拠は何一つない。そもそも家庭環境そのものに対する評価が極めて多様なベクトルからなされるものであり、単なる比較がしづらい。
更に言うならば、「『毒親』『親ガチャ』批判派には人の気持ちがわからない」論者は、この点を最大限悪意的に利用し(または思慮深くないためか)、他者の家庭環境をジャッジしている。
親ガチャ批判派「自分も貧乏だったけど…」→虐待されてないだけマシ
親ガチャ批判派「自分も虐待されていたけど…」→裕福なだけマシ
といった具合である。彼らは相手によってゴールポストをずらすことで、自分たちが相手よりも恵まれていないことを強調する。繰り返すが、そこに根拠は何一つないのである。
先ほど、家庭環境については想像の域を出ない、と記したが、珍しくこの点についてある程度確度がある情報が世に出ているにも関わらず、誤った「ジャッジ」がなされた例もある。
昨年、某男性アイドルが「親ガチャ」という言葉に難色を示した件について、多くのネットユーザーが「お前は恵まれていただけだ」「アイドルになれる時点で親ガチャ当たり」
しかし、当該アイドルは幼少時に父親から身体的虐待を受けていた事実をカミングアウトしており、ニュースにもなっている。
虐待を行い、我が子に恐怖を植え付ける父親を、どういった基準で判断すれば「親ガチャ当たり」なのだろうか。全くもって理解に苦しむ。
「毒親」「親ガチャ」といった言葉を無条件に肯定する者の中には、勝手な想像で同情し、勝手な想像で批判する、
真の意味で他者の心に寄り添うだけの器量を持たない人間が多くいるということが、あの一件だけでも証明されたと言っていいだろう。
家庭環境について想像の域を出ないことは、「毒親」「親ガチャ」を使う人に対しての批判にも当てはまる。だから私は、「毒親、親ガチャは甘え」と、使用者そのものを批判するつもりはないのである。
ただ、「その言葉が多用され、繰り返し無条件な肯定をされると、社会は少し良くない方向に進む」と考え、非推奨しているに過ぎない。
・最後に
以上、3点にまとめて私の意見を述べてきた。
おそらく、「こうやって書くお前自身親ガチャ当たりなんだろ」と、全く内容を理解しているとは思えないコメントや反応も来るかもしれない。(そもそも誰にも反応されないかもしれない)
属人的な話をしたところで正当性が担保されるとは考えていないため、私自身については語る必要はないと思っているが、やや長めの文章を読めない人のために、家庭環境のうち、あまりよろしくなかったと感じている点を一応書くことにする。
私の両親は治療を要するレベルのアルコール中毒者で、父は酒を飲むと理不尽に怒るため、家の中で遭遇しないようにしていました。
母は酒を飲むと暴力へのハードルが著しく下がる方だったので、対処に苦労しました。今の関係性は身バレを少しでも防ぎたいので書かないことにします。
今回の文章を通して、それぞれの立場の人に伝えたかったことを簡単にまとめて、締めくくりたいと思う。
然るべきところ(学校や児童相談所)へ相談しましょう。インターネットで愚痴をこぼすことで発散するのも、それはそれでいいと思いますが、
本当に困っているなら、より正確な表現を用いた方が、真剣に聞いてくれる人は多いはずです。あと、悪意ある大人の、わかりやすいけど破綻しているような話には気を付けましょう。
その不快感の理由を言語化しないと、単なる無理解な大人と映ります。
深刻な悩みを抱えているかもしれない人へ、心無い言葉を浴びせるのは絶対にやめましょう。
本当に心配なら、言葉に不快感を示す人を煽ったり、無条件な肯定をするのでなく、
相談を呼びかける、貧困解決や、虐待防止運動をするNPOなどへの寄付をする(又は呼びかける)など、もっと当事者たちのためになることがあると思います。
10代女性が乳児の死体を遺棄したやつ、父親も逮捕すべきっていう論がどうにもしっくり来ない。
出来た子供に対する責任と、それを殺して捨てた責任って全く別のレイヤーな気がする。
中絶しない、産んで殺して捨てるって選んだのは女性自身だし、それを男が悪い社会が悪いって言うのは男尊女卑的というか父権主義的な感じがしてしまう。
AV新法もそうだけど、いまのフェミニストって本質的に女性の判断力や責任感を軽んじてる気がする
過去のフェミニストたちが死に物狂いで勝ち取った女性の自由に対して責任が生じるのは当然だし、それを果たせるとした上での自由のはず。女性を過剰に保護したり男へ責任分配するのは、むしろ逆に女性蔑視なんじゃない?
「頼まれてもないのに自分からわざわざ生み出した命ですが、面倒を見ることはできないし、責任を取るのも嫌です!生まれてきたこいつが悪い!」←これあまりに幼稚すぎるだろ
本質が、縁日で買ったミドリガメを川に捨てる5歳のガキとまったく変わらないんですよね
自分で引き取った命に対しては真摯に向き合い、最後まで責任をとり、面倒を見ろよ
「働かないと面倒見切れないぞ」みたいなことを、なぜかまったく恥じらわずに言い切れる親が多いのってちょっと信じられないんだよな
頭5歳児じゃん
ゴールデンレトリバーに、それ以上デカくなったら面倒見切れないぞって胸を張って言えるか?
ふつう、最大サイズまでデカくなっても面倒見切れる環境を整えてから飼うよな?
それが命に向き合う際の最低限の礼儀ってもんだよな
どうしてそれができないんだ
ひとがマジメな話してんのに対して、つまんねー冗談を引き合いに出して、ちょっと笑って、流す
はてブってそういうの嫌う場所なんじゃ……いや……そうでもないな
はてブってそういえばもともとすげえ冷笑的な感じの場所なんだった
これがトップに来てんのが、ホント、正体見たり!って感じですよ
精子時代のお前に責任がある、という究極の自己責任論についてはもう、ノーコメントとしか言えん
たぶん少年院は全く不要・参政権なんかも0歳から与えるべきだ!みたいにお考えなのでしょうね
オマエ、もしかしてあらゆる人権系の叫びにそんなことを言って回ってるアナーキスト なのか?
だとしたらガチでカッコいい
そうじゃないんだったら黙ってろ!
そうだそうだ!
俺は正直、自分の感情だけで言うなら、いまの彼女と子供を作りたいよ
でも、この世!
この世やべーだろ
いとしの我が子にそんなことはさせられねえよ
俺も比較的マシそうな職場を選んだつもりなのに1日10時間以上労働がデフォだしな
やってらんないっすよマジ
やらせらんないっすよコレ
あなたみたいなのが、俺の求めるところのまっとうなコメントなんだ
建設的なんだ
憲法を引き合いに出して、ヒステリックな感情論じゃない、別方向の話をする
そういうのが一番いいと思う
ですよね…
まあ、ヒト用の保健所があったらいいんすけどね…
ただまあ、ちょっとイヌネコと事情が違うのは、ヒトの子供は親自身が明確に自分の意思で生み出してるってとこだと思うよ
ペットショップの犬も、里親募集の犬も、捨て犬も、自分が生み出したわけじゃねえじゃん
存在自体はもうしているし、自分が関わらなかったとしてもなんらかの形で死を迎えることは確定している
子供はさあ、わざわざこっちから働きかけて、非存在だったのを存在サイドに引き込んでるわけでしょ
で、世話しきれなかったら殺します、っていうのは、ちょっと良くない気がするなあ!
実際これは結構そうですよね
人間くらいの知能をもって生まれてしまうと、他者に完全に保護されるのもそれはそれでキツイって話になりうる
そこは厄介なところだよなあ
なので俺はそもそも金とか関係なく一切生まないのがいいよな…ってなっちゃった
お前はトリコ?
どこにでも現れて超ネガティブなコメントを残していく反出生主義おじさんと獣は檻にいれとけおじさんホント好き 尊敬してる
思想的にはたぶん俺とほぼ同じだし…
これマジでひとを見る目がなさすぎる
俺をニートにさせろって話なんだよ
全てはそこに収束するんだ
婆さんの遺産が1500万くらい入ってくるらしいんだけど、それでニートになれるか?っていうと、なれないじゃん
ゼツボー的ですよ
自分の稼ぎじゃ何十年もかかるような額の金が転がり込んできても、その金じゃ数年くらいしか生きられねえ
何なんだよこの罰ゲーム
労働ひいては人生って罰ゲームじゃないですか?ホントにきついんだよ俺は
なーにが「働けニート」だよ
働きたくないんだ俺は 働きたくないのに、働かないと生きていけないじゃん
苦しいんだよ ただ苦しい
やめてほしいんだ
うるせーバカ!
バカって言われてバカって言い返すのはバカなんだぞバカ!バーカバーカ!
実際みなさんは俺の親ではないし、俺の生に対してなんの責任もないので、ホント正当なご意見だと思いますよ
マジ?俺の生涯年収2億にも届かなそうなんだが……"足りねえ"ってコト?!
これマジで何なんだよ
何がどう違うんだ
「にじいろちょうちょうさんは、あおいろちょうちょうさんとちがって、さいきょうなんだよ😭」みたいな、幼児特有の謎脳内設定の開示、ということでよろしいか?
意味わかんねえんだよ
助けてくれ 頭がおかしくなる
もうおかしいのかもしれない
俺はもう嫌なんですよ
無責任な自由放任主義というのは「古典的自由主義」という古い人たちのことで
いま現在のリベラルは「自由のために規制すべし」という人たちのことなので
どっちのこと言ってんの?という感じではある
いや、女が悪いよね?そんな男に股開いたのは自分だよね?
でもそうしたら無責任膣内出しが増えるーとか言うんでしょ?
無責任膣内出しが増えようが減ろうがそういう男に股開くのは女なんだから女がちゃんとすればいいだけはい論破
やさしい男を選んだ結果だね?
女がゴムを用意しろよまず。今日セックスできるか否かって女が決めることなんだから女がゴム用意するのは当たり前。
男が「前もってゴム用意してきました!」って言ったら「何今日ヤる気満々なのキモ」ってなるのがオチなんだから男が用意するのは構造的に無理
左派系野党が「減税」を掲げていることについて、正直うんざりしている。自分はゴリゴリの護憲派左翼なので、これまでもこれからも自民に投票することは絶対にないが、「減税」を掲げる野党勢力が大きく勝ってほしくないのが正直な気持ちだ。
たとえば、もし消費減税を掲げる野党勢力が選挙で大勝利して、減税しないと国会が収拾つかなくなった場合を想像してほしい。それを実行するのは左派系野党ではない。あくまで「消費減税するなら社会保障を3割削るぞ」と明言している自公政権(及びネオリベの維新)である。「社会保障費の膨張」に危機感を持つ財務省も、大ナタを振るうきっかけができて大喜びのはずだ。
このように左派系野党が大勝利して減税がめでたく実現した場合、社会保障は立て直すのも困難なまでにボロボロになってしまう。年金や医療が減るだけではなく、岸田首相が掲げる介護士や保育士の賃上げ政策も頓挫するだろう。減税で瞬間的に消費は増えるかもしれないが、長期的には将来不安で消費の慢性的な冷え込みをもたらすことになる。
もちろん野党は減税の財源を社会保障の削減に求めることには反対している。しかし他方で、野党の選挙の看板としては、「社会保障の維持と充実」ではなく「減税」が優先されている。減税を看板に選挙を戦っている以上、減税の生贄が社会保障になることに無責任であってはならないだろう。マックス・ウェーバーの『職業としての政治』でも読んでほしい。