はてなキーワード: 弁当とは
弊社の休憩室の電子レンジは最高出力700wだ。(追記:フラットテーブル(回らないタイプ))
そんなとき、とある課長が「ごめん、これ500wで6分かかるわー」と言いつつわざわざ500wに設定し直して6分チンしていた。
そこは700wのままで4分30秒くらいに設定すれば良いのでは……?
だが出社が始まって、食事のコントロールが今までのようにはいかなくなった
空腹感を感じた時、これまでは低カロリーだがボリュームのあるもの・高タンパク質のものを選べた
コミュ障豆腐メンタル引きこもり体質の自分にとって、四六時中周囲で誰かしらが話し、なんならマウント合戦が始まるような状況はストレスも大きかった
通勤時間は長く帰宅してからの夕食をきちんとコントロールした上で食べる、ことももはや面倒くさかった
在宅勤務の時は野菜と味噌汁で腹を満たしたあとにごはんを食べる、という食事もできたが、出勤帰りではスーパーの弁当やら惣菜やらになった
けど、通勤で片道20分往復40分の歩き、電車でも立っているのだし、なんせ疲れているのだしこれくらいは
そんなこんなで気づいたら2キロほど太っている
あっという間だ
と言っても、複雑な家庭環境の話ではなく、単に仕事で不在がちな父親に代わって近居していたじいちゃんが父親のような役割もしてくれたという話。
特に内容は無いけど、昨日の夜、なんとなく昔のことを思い出したのでダラダラと書いてみる。特に面白いオチはない。
俺の家は両親が共働きしてる地方公務員で、二人とも結構忙しかったから小学校から帰ると自宅のすぐ近くにある母方のじいちゃん家で晩御飯~お風呂までお世話になってた。自宅には夜寝るときと朝学校に行くまでいる感じで、俺にとってはじいちゃん家の方がよっぽど自宅という感覚だった。
じいちゃんは市役所勤務を定年まで勤めあげ、当時は完全に隠居状態であり、ばあちゃんと一緒に趣味の畑仕事をしながら、俺の面倒を見てくれていた。
じいちゃんは孫の俺に甘々で、色白の俺に対して、もっと外で遊んで日焼けしろと言いながらも「色白は七難隠すといって」可愛がってくれた(この諺は女子に向かって使うものだと思うけど)。俺がピザポテト好きだと言えば毎日おやつにピザポテトを用意してくれたり、晩御飯にモスバーガー食べたいと言ったら軽トラ飛ばして買いに行ってくれたり、デパートに行ったら必ずおもちゃやデパ地下の高いジェラートを買ってくれたりした。
俺もじいちゃんによく懐いていたし、じいちゃんはいつも近所の人に自慢してた。小学校の参観日に両親が仕事で来れなかったときはじいちゃんが来てくれた。
その時の授業は保護者の似顔絵を書くというもので、なぜか俺はじいちゃんの来ていたジャンパーのファスナーを一生懸命書いたらそれが評価されて市の表彰を受けた(大した賞ではなかったけど)。じいちゃんはその話を近所の人によくしてたし、その時の似顔絵はリビングのテレビの真上に飾ってたので、いつも気恥ずかしかった思い出がある。
あと、じいちゃんは達筆で習字を教えてくれた。習字の練習中は普段と違ってすごく厳しかった。でも、一生懸命教えてくれたおかげで身に付いた字の綺麗さは今でも人に褒められることがあるし、当時は習字の表彰をたくさんもらっていた。
そんなじいちゃんだけど、俺が小学校高学年になったあたりから体調を崩すことが増え、人工透析にも通い始めるようになった。同時にばあちゃんの認知症が発覚し、母さんが仕事をセーブし始めて家のことを結構やるようになった記憶がある。中学生になってからは部活で帰りが遅くなり、じいちゃん・ばあちゃんの夕食はデイサービスの弁当配達(体調に配慮した低塩味付けのやつ)、俺は母さんや父さんが作った夕食を自分の家で食べることが多くなった。
俺が高校生になると、じいちゃんは家よりも病院に入院している時間の方が長くなり、ばあちゃんは認知症ケアの老人ホームに入居した。
じいちゃんのお見舞いやばあちゃんの老人ホーム訪問は月に2~3回は母さんと一緒に行っていた記憶がある。
最後にじいちゃんとあったのは高2の12月、部活帰りに母親と一緒に入院しているじいちゃんのお見舞いに行ったとき。
その時、じいちゃんは俺の手を取って「相変わらず色白で女の子みたいな手だな」と言って笑ってた。だけど俺からすると、大きいと思ってたじいちゃんの手はいつの間にかしわくちゃで変に黒ずんでいて冷たくて、昔のように無骨だけど大きくて温かい手じゃなくなっているのを見て、急に泣きそうになった。だけど、高校生にもなって急に泣き出すのは恥ずかしいと思い、必死で涙をこらえながら「そんなことないでしょ。部活で豆だらけだし、俺の手だって大きくなったんだぜ」と言い返すので精一杯だった。じいちゃんは笑ってた。
次の日の深夜、病院からじいちゃんが急死したと電話があった。なんとなくそんな予感はしていた。
でも、葬式では周りがビックリするぐらい泣いてしまった。今もこの日記を書きながら涙が止まらない。
今でも何か文字を書くときはじいちゃんとの習字の練習を思い出す。
俺も息子ができたが、もう少し大きくなったら習字を教えてあげようと思ってる。
ああいうクレーマーに成功体験させ続けてるから付け上がるんだよ。
訴えるぞとか言うヤツ程訴えても来ないし、訴えた所で勝ち目も無いからさっさと警察呼んで叩き出せばいいだけ。
前バイトしてたスーパーで休憩中の札付けた店員が弁当選んでたらゴチャゴチャ難癖付けてきたババアは普通に警察に補導されてたわ。
二度と来るか!周りにも行くなって言ってやる!!!!って言ってたけど、翌日また来てたの草だった。
「子育ては大変、お金もすごいかかる」というけど、実際のところは自分たちで勝手に大変にして、勝手にお金をかけているんだよな。
習い事に金かけすぎだし、掃除や洗濯も頻繁にしすぎているし、きれいな弁当をつくりすぎだし、子供に綺麗な服を着させすぎ。日本の母親はすべてのことについて「やりすぎ」ている。実際、欧米の育児事情を検索すれば、いかに「いい加減」かがわかる。
日本は私立大学や医学部さえ目指さなければ、公立の保育園・幼稚園、小中学校、高校だけで教育を済ませれば、子どもの教育にはほとんどお金はかからないようになっている。児童手当も増えている。「子どもの教育にお金がかかる」は、それ以上のものを目指しているからであって、そこからは各家庭の自己責任だろう。
親は「だって周りもそうしているから」っていうんだろうと思う。それはよくわかるけど、周りに合わせていることは自分の選択であって、「子育ては大変、お金もすごいかかる」ことを世の中の問題にすべきではない。
まずパソコンが上手く使えない。メモもぐちゃぐちゃ。でも資格は持っているので勉強ができないわけでは無さそうだった。
あの頃の自分は2年目でまだ仕事で使うその資格を持っていなかった。
その人のやばさは2日目で気づいた。あまりにも仕事が遅い。1時間でできることが半日経っても終わっていない。
新人教育は2人目だったが、1人目はそもそも出来が良かったので、今回は教え方が悪いという流れになった。
周囲から、ちゃんと教えなきゃだめでしょ、という言葉が3週間続いた。
新人には何度も「ゆっくり丁寧に言ってほしい」「こんなのすぐにはできない」「ちゃんと人に合わせて喋れないの?」と言われた。
もちろん、二人分の仕事を請け負った。
なんとなく同じ部署の人が遠巻きに見ていたのを覚えている。だんだん誰も何も言わなくなってきて、私は『やばい新人担当』になった。
会社の雑用も、食事も、休憩も、コンビで動いた。運転も免許があるのになぜかできないということで、私がした。
数か月地獄のようだった。
今思えば巻き込まれたくなかったのだろうが、当時は突然孤立したように感じてしまった。
そして期限がある仕事を無視して、突然デスクや本棚の整理整頓を始めるのだ。
癖のようで、仕事を放り出しては2時間ほど掃除タイムに入ってしまう。
思い返せばその体制に変えた2日後だったろうか。新人が机をバンと叩いて大声を出した。
「いいかげんにして!教えたくないなら、教えなくていい!もう担当を変えてもらう!」
振り返れば部署で一番パソコンが使えて一番親切丁寧で一番優しく一番他部署にも顔が利いた私が、そんなことを言われる筋合いは無かったのだが(これは歳を重ね図太くなった私だから言えることである)
当時2年目、二十代ということもあり自分にひとかけらの自信もなく、気弱だからと先輩にいじられがちだった私は思いつめ、走って逃げて号泣。
近くに居た同僚が心配してくれて追いかけてきたが、涙を止めることができずに暫く休憩室に居ると、新人が現れた。
そして目の前でお弁当を広げだしたのだ。
「さっきは大声だしてごめんね。大丈夫?飴あげるね」
私は恐怖で逃走した。
戻った瞬間、騒動が一瞬で広まったらしく、周囲が鬼のように優しくなった。新人担当はそこで終わった。
その後も新人担当だった期間にやった仕事がミスだらけで、自分の分も、その新人の分も怒られたり、教え方が悪いのではとソリの合わない先輩にいびられたりしたのだが、
その新人はまだ同じ部署にいるが、やはり明らかに浮いた存在らしい。
急に帰ったり、急に遅刻したり、他部署の連絡をすっ飛ばすなどトラブルメーカーを発揮している。
なんかの宗教にはまってて、宗教グッズを応接ブースにかざったりなど自由だ。
新人が入ってくると取り入るように色んなものを買い与えているのも怖い。
社長はこの件を大まかに把握しているが、そもそも新人は社長の顔見知りで、セクハラを許すのでお気に入りのようだった。というか昔、不倫相手だったらしい。
なので社内評価は「私が若く未熟だし、年下に教えられたから新人もいらついたのだろう」ということになったようだ。
よく議論になるが、それは今でも社会が変わっていくべきことだと思う。
こんなことがあった今でも、私は結構辛抱強くマイペースな人に接していける人物だと自己評価している。
ただ、性格。口が悪い。他者にリスペクトがない。それに関してはもう仕事ができるできないの話でもない。
書いているだけで胃がキリキリするのだが、本当に胃というものは身体のサインだ。
あの頃の私は睡眠にも悩まされ、新人担当が終わってからも普通に仲良く接してくる新人へのストレスで自律神経がぶっ壊れた状態になった。
もっと早い段階で、この件に関してなにも対処しなかった会社を辞めるべきだったと今は思う。
今同じように悩んでる人へ。とにかく逃げろ。ぶっ壊されるぞ。
アラサー男の昔話
理由なんてよくわからない。田舎の学校でなんかおどおどしてオタクっぽい俺は虐めやすかったのかもしれない
小学校の時は無視されたり影でプークスクスされたり罵声を浴びせられたりする程度だったが、中学校になって自由になると思ったのに、中学校は輪をかけてヤベー不良みたいなやつらが俺を殴るわ蹴るわ
漫画みたいに脱がされて便所の水を飲まされる、なんてのはなかったが親の作ってくれた弁当を捨てられたりとかはまあ普通にあって(思い出したくないのでこれ以上は止める)
見事に不登校に。
といっても親に心配をかけたくなかったので、毎日学校に行く振りをして学校には行かず近所の橋の下とかでぼーっとしていた
だが田舎のおばちゃんがすぐに見つけて学校に行かないでいいのかとかいいだし学校に通報をしやがるせいで親にも連絡が行きめんどうなことになった
ああいうおばちゃんたち善意なのかもしれないがほっといてくれよ学校行きたくねえんだよ
虐めに遭ったとは言えなかったので親に詰問されても黙っていたが、とにかく学校に行きたくないのは察してくれたのか堂々と学校に行かなくてよくなった。
親は腫れ物に触るようで、理由を言えと言ったが言いたくもなかったし、学校に行ければ行って欲しいとか言われたが行きたくもないし
ネットやゲームしながらぼーっとする毎日でこれではダメだと思いながらも何も出来なくて、妹はダメ兄貴みたいに扱うし、動かないからどんどん太った
家族が寝静まった夜だけが歩き回れたから夜はふらっと夜道を歩いたりしていたがとにかく何もかもするつもりは湧かず、ただこのままではまずいが学校には行きたくない、何で俺を虐めたあいつらはのうのうと学校行ってるんだの恨みだけ
学校に通報しても、どうせまた影で虐められるんだろうしと思うと誰にも言えなかった
夜の散歩をしているときに時々すれ違うジョギングのお兄さんがいて、なんとなくお辞儀をするとこんばんは、と返事してくれてた。お兄さんは大人って感じだったから多分20代くらいかなと今なら思う
たまにであうと、こんばんわ、こんばんわ、と言いつつすれ違うのを繰り返していたがあるときお兄さんが地面に座っていて、ビックリしたので大丈夫ですか、とこえをかけた。
転けて足をくじいたのかも、というので肩を貸して灯りとかのあるコンビニまで連れて行って、ありがとうといわれ、ちょっと話をした
暫くお兄さんの姿は見なくて、一ヶ月位して走ってるお兄さんを夜中に見かけたときはほっとした。
お兄さんが立ち止まって、あの時はありがとう、捻挫しててさ、とお話をしてくれ珈琲をおごってくれたりとかで、時々夜に話すようになった
話相手のいない家族には嫌われている、友達もいない俺にはその夜の会話が嬉しくて、毎日夜散歩するようになった。お兄さんに会えないかなって。
会えば少し立ち話をしたりすることが続いて、お兄さんがどうして夜中にいつも散歩してるの、と聞いてきて、俺は誰にも言えなかった虐めの話をしてしまった
話しながら、あ、ドン引きされるかもどうしよう、と思っていたのに涙が出て止まらなくて泣きながら虐めの話をしていた
お兄さんは、そっかーと言って聞いてくれて、その時は得に何も言わなかったんだけど、その後数回会ったときに、俺も虐められてたんだよって話をしてくれた
俺は思わずどうなったんですか、と聞いたら今はもう大人だから学生時代の虐めなんて関係ないし元気だよと言ってくれた
わからないがすごい頭がいいという話は聞かない、といえば、お兄さんはこういった
「なら増田はとにかく自宅で勉強をしていい大学に入れ。どれだけ虐められていてもこの日本では頭いい奴が勝つし頭がいい奴が信用される。そいつらがバカなら増田は有利だ。誰でも知ってるような超有名大学にいけば、
あっという間に周囲はお前の味方になる。いいか、中学も高校もどうでもいい。大人は大学しか見ない。それこそ中学高校不登校でも東大に入れば、そいつらよりよっぽど強い」
びっくりしてたら「これは俺の経験談だ」とお兄さんはいい自分の話をしてくれた。
お兄さんは超絶エリートのお兄さんだった。
俺は「いじめっ子に勝てる」という言葉で俄然奮起しほぼ不登校のまま高校受験をした
高校は楽しくて、虐める奴もいなくて快適だった。夜の散歩はたまにしたけれど、お兄さんには会えなかった
でもお兄さんの言ったことは覚えていて、高校でも勉強をし続けて、お兄さんと同じ大学に行った。そのまま誰でも知ってるような企業に入って都会で生活している。
幸せだと思う。
いじめっ子達は地元で働いていて、会社がどの辺かもわかったが、俺の数分の一の年収で、なんかもうどうでもいい。
地元に戻ったときに当時の同級生に「すごいね」「不登校だったのに」と言われたら「当時○くんたちに虐められたから学校行けなくて家で勉強してたんだ」とわざと素直に語っている。
もちろん田舎の噂話の伝播力を信じてのことだ。
あの時のお兄さんが「頭がいい奴が信用される」と言ってくれなければ俺は多分今のようになっていない
名前も分かってるし、大学が同じだがあえて探さないようにしていたのに、最近お兄さんがお医者さんなのと開業したのを知ってしまった。
会おうとすればあえる。
でも、今更「あの時世話になった鶴です」といいに行く勇気がない。
俺の事はもう十年以上前で忘れているかもしれないし、「だれ?」と言われたら恥ずかしい。知っていたとしても会いに来るとか重すぎないかと考えてしまう。
でも俺の命の恩人なんだ。
この時期に山に行くとフクラスズメという超絶キモい毛虫(ガの幼虫)が大量発生していることが多い。頭と臀部?はオレンジ、胴体は黒がベースだが、そこにグロテスクとしか言いようがない文様がびっしりある。
これの幼虫は4月中旬から12月上旬にかけて目にするが、特に多いのが8月末~10月頭ごろ。
彼らは食草であるカラムシなどを、個体差こそあれ1日に50㎠(7cm四方)のペースで食いつくす。
カラムシの葉のサイズは大きくなったもので10cm~15cm程度と言われている。仮に13cm四方(面積にして169㎠)と仮定すると、彼らは3日強で葉っぱ一枚を平らげることになる。
そして幼虫である期間はおおむね2週間程度である。つまり1匹の幼虫が孵化してからさなぎになるまでカラムシの葉っぱが3枚以上食われてしまう計算となる。
そういう虫が一株に何十、いや何百何千もいるのである。市街地にちょこんとあるカラムシの群生程度はあっという間に食いつくしてしまうのは火を見るよりも明らかだ。
実際に彼らが食いつくし、10月なのに枝だけになったカラムシなどの跡を見かけたことが何度かある(パッと思い出したのだと天草上島・二弁当峠のすぐ近くにあったカラムシの群生/2007年10月14日正午過ぎの話)。
他の木や草がまだ緑色の葉をつけるなか、カラムシだけが葉が一枚もない茎だけの無残な姿をさらしているのである。そのざまは周囲から浮いていて異様である。
そして食い尽くした後は何千何万ものフクラスズメの幼虫が周囲を徘徊する。グロテスクな姿態の虫が数千匹単位で蠢いているのだ。
なんかあの道やけに黒いな~アスファルト新しくしたのかな~と思って近づいたら、道路一面をフクラスズメの幼虫が埋め尽くしているのである。彼らは住宅など建物内にまでお構いなしで押し寄せてくる。
彼らは動きも気持ち悪い。頭部を挙げてヘドバンみたいな威嚇はするわ、口から緑色の液体は吐くわ、移動するにも尺取り虫を何十倍も気持ち悪くした挙動をするわで、もはや動くブラクラ状態である。
彼らは踏みつぶされると緑色の体液を周囲にまき散らす。死ぬ時まで周囲を呪詛するとか下手なホラー映画の幽霊やクリーチャーより何万倍も怖い。チープな幽霊ごときで気絶していたフレッド長官に見せたらショック死しそう
彼らはガチの山奥や都心部にはほぼ出現しない。ただ、それ以外の野山~中山間地域~近郊都市にならどこにでも出没する。生息域も日本全域である。北海道だろうが沖縄だろうがこの国にいる以上逃げ場はない。
それどこから朝鮮半島やユーラシア東部(中国とかロシア沿海州)にも生息している。韓国でも2000年代にとある地方都市で突如大量発生してニュースになったほどだ。
関東でいえば八王子・町田・’(相模原市)橋本・横須賀などの近郊都市の中心部近くにまで出没し、カラムシを食いつくしては周囲に災厄をまき散らすのだ。(相模原市の)橋本駅より東に1km程度離れた住宅街に大量発生した話もある。
彼らはドクガやイラガのように毒は持っていないことや、アメリカシロヒトリやヨトウガのように農作物(※)や管理されている街路樹などに出没しないため行政の駆除対象になることは少ない。
ただ、精神的に攻撃を仕掛けてくるのがフクラスズメの幼虫である。彼らの精神攻撃を受けたくないので、9月前後には絶対に山などに近づかないようにしている。
余談だが、フクラ「スズメ」という名前だがスズメガの仲間ではない。スズメガの幼虫は臀部に上向きの突起があるイモムシ型だが、フクラスズメにはそれがないし毛虫だ。彼らはヤガの仲間である。
(※)1970年代後半の某年に福島の農業研究施設でクワの葉を食害していたという報告もある。ただ、彼らにとってはよっぽど餌がないと食べないレベルのゲテモノ?扱いのため、害虫と認識されることはほぼない。