はてなキーワード: ラブドールとは
この事ははてなブックマークで知りました。兄の口からは直接聞かされていません。
「レイプ犯が児童型ラブドール愛好者だったら児童型ラブドールを規制するのなら、レイプ犯がパンを食べていたらパンを規制するのか?」
という理論にみんな納得してるけど、
「法律と科学は違う。科学は結論が一意に決まる」って意見も、言いたいことはわかるが賛成できないな。
科学だって世のことわりの全てを明らかにしているわけじゃない。まず仮説があって、検証して、それで「たぶんこうだろう」って学説が確立されて、それが通説になっているだけ。過去の研究の蓄積から、正しいと「思われる」理論を探す作業。新発見でそれまでの通説がひっくり返ることもあるし。
法律だって同じ。過去何千人もの法学者たちが意見を交わして判例が積み上がってきて、正解がわからないなりにシステムを確立してきた。
その知識の集積をガン無視して、素人感覚で「ラブドールは被害者いないじゃん。だから適法。規制とか違法とか言ってるやつは感情的。頭おかしい」みたいなこと言い出すの、科学的知見をガン無視するエセ科学信者と変わらんでしょ。被害者がいないもの全部適法にしたら、例えば飲酒運転とか賭博薬物とか全部適法になって日本の秩序崩壊するぞ。
で、単に法学を知らないのはいいよ。仕方ないよ。これから勉強すればいい。
問題は、そんな基本的なことも知らない・わからない連中が「ぼくのかんがえたさいきょうのらぶどーるほうりつろん」を開張して、同レベルのアホ共がそれを持ち上げて、バカなくせに他人をバカにし出すところ。そしてバカだから自分がてんで間違っていることにも気がつかない。救いようがない。
・マビマビ(実践カード):相手の現在の手札の中から、男性性を持つキャラクターカードを無条件に全て捨てさせる。ポリコレパワーが高いキャラも男性性さえあれば流せるので便利である。
・多産DV(規制カード):相手のフィールドに出ているキャラクターの人数×10ずつ、相手の全キャラにダメージを与える。数で圧倒されている場面では良いカウンターとして機能する。
・ラブドール(規制カード):相手のフィールドに出ている男性性持ちキャラのうち既婚者以外の3体に大ダメージを与える。または、自分のフィールドに出ている女性性持ちキャラの3体をエンパワーする。ただし自分と相手のフィールドのどちらかに闇属性または光属性持ちの男性カードが出ていると、そのキャラが暴走し、それ以外の自分と相手の全てのキャラに大ダメージを与える。使い所を慎重に見極める必要があるアイテム。
どうして日本には小児性愛者の肩を持つ人が多い?その性癖になった以上は仕方ないことなんだろうが、ラブドールがあれば攻撃しないとか言う人も多かった 逆にそれさえなければ実行に移すと言ってるようなもので、その異常性に気がつかないことがおかしいんだが
・現行法/判例では児ポ法の保護法益は個人的法益と社会的法益とされている
・我が国の法制度の基となっているドイツ法における児ポ規制ではより社会的法益が重視されており、実際、幼児型ラブドールは違法である
・日本における幼児型ラブドール違法論も、社会的法益を重視した立場と考えられる
くらいは超基礎的な理解として、保護法益は個人的法益のみとした方が運用上適切なのでは、みたいな指摘ならまだわかる。
が、「きちがいフェミが俺たちをキモいと思い込んで感情的に攻撃してきているのだーきえー」といった何の根拠もないお気持ちポエムがバズる日本、きびしい。
はてなー、エセ科学はボロクソに批判するのに、エセ法学(というかエセ人文学全般)には甘いよね。
自分の感覚に都合の良い見解であれば、明らかに法学の基礎も抑えていない、よくわからんインターネッツおじさんの素人法解釈を持て囃したり。
最近で言うとラブドール関連とか。個人の人権を侵害しない限り何でも許されるーとか社会的法益全否定じゃん。というか社会的法益って言葉すら知らなそう。で、そういう指摘されると急いでWikipediaでググってきて、さもはじめから知ってましたみたいな顔するのよな。
https://note.com/mentane/n/n138f7bfbf2ce
POPに「合法レイプ」って書いてあるけど、販売店さんサイドのこういう認識に問題があるのでは。
おれゲームするけど、ゲームのPOPにGTA5やメタルギアとかに「合法殺人 ゲームならあなたの夢が叶う」とか書いてあったら、ゲーム買わない人は「販売店も買う側もそういう認識でゲームやってるんだ」ってなるじゃん。ゲームする俺だって不快になるんですけど。
論旨は「どうして女さんは人のオナニーの道具に勝手にいちゃもんつけるのか」じゃなくて、「どうして販売店側はそういう認識でラブドールを販売しているのか(そして業界はそれを許しているのか)」だと思うんですけど。
なんか「もともとラブドールは性の発散のやり場のない障害者用に作られたもので云々」とかの話も出てきてるけど、だったらなお一層、こういう売られ方してることが問題だと思うんですけど。いかに?
フェミニズムを上回るポリコレ力をあてにしようと、ラブドール規制反対派が遂に障害者を錦の御旗として出してきた。
曰く、障害者の性欲が暴走して手が付けられなくなり、周囲の女性が傷つけられる悲劇が相次いだと。
もしラブドールで「学習」してしまったら彼らは責任をとれるのだろうか。
それに対して規制派曰く、薬物投与で性欲を止めるべきであってラブドールは必ずしも必要ないと。
ラブドールなるものがあるらしい。おっさんなのでへー以上の感想はないが、法規制すべきとまで激しく爆発している女性とか多いらしい。
そこに論理的な説明を試みる人たちが結構いるが、そういう人らの立場に立つとなんか分かる気がした。
女性からすると嫉妬して怒ってるのではなく、彼女らの認知のどこかにあるスイッチを押してるから怒るのだ。
それはおそらく二つあり
「私たちの体や精神は工業製品ではないが、そのように扱われてきた」
「男は工業製品と実際の女をきちんと分けるべきだが本能的にできない悲しい生き物」
ではないだろうか。
前者は正しい、が、もしかしたら過去にそのように扱われていなくとも、扱われたことにさせるような洗脳が施されている可能性はある。
後者は大きく間違っているが、過去の経験や周囲の情報によってそう思わされている可能性はある。
ここであえて洗脳と言ったが、おそらく彼女らの人生の中で自然に植え付けられていると思う。少女漫画とかトレンディドラマに出てくる理想的な男性こそが男性の正解であり、そうでないならおかしいというような洗脳。
さて、昔はオナホというような明らかに「器具として穴が空いたシリコンの塊」でしかなかったが、ラブドールともなるともはや人間の、それも男性の都合と性癖だけを取り入れたかなり美しいものができてきて、かなり自分たちによってきている。
「男性は結局ちくわみたいなシリコンの塊では満足できず、限りなく自分たちにおもちゃを寄せたいのか、この文脈の先にあるのが我々女性なのか」
そう思わされてるのではないだろうか。
客観的に見てそれは間違いだ。男性はおもちゃはおもちゃであり、人間は人間という区別がつく生き物だ。ラブドールを買って使ったとしてもそれは人間ではないから人間として扱ってないのであって、実際の女性をラブドールにしたいけど捕まるからお金を払って渋々ラブドールを買っているわけではない。
つかない男性もいるがそれは男性の全てではない。だが、そういう性質の男性を捕まえて「これが男性一般が持つ男の本性」みたいに歪めて伝えている人がいるのだろう。
おいおいおいおいおいおいおいおい。
わざとか?
https://twitter.com/Jeremy_L_Mercy3/status/1265605108164816896
元垢は鍵つけたが↑を見ればわかる通りその画像は5月26日の投稿。
https://twitter.com/kazuuuuuuuus/status/1262321710990348288
なぜラブドールが話題になっているのか、なぜ非難するツイートが多いのか?ですが。
「女児体型のラブドールを『合法レイプ』という売り文句で販売していた」
というのが発端です。
犯罪行為を「夢」と表すのは度を過ぎている。 pic.twitter.com/dNLLKhTUsA— ああいうこんなへんな不良品権利保障外蛆虫マスクから溢れたギロ (@giro_switch) May 28, 2020
「生身の異性に対して性欲を発散するのではなく、物体に対して性欲を発散することがキモいように見える」というのはなるほどなあと思う。
人間なら誰でも自慰ぐらいするだろうに、その道具が穢らわしく感じるのは不思議な感情と言える。
かといって風俗行って生身の異性に対して発散したところで誉められることは決して無く、叩かれることに変わりは無い。
最近小児型ラブドールの是非についてはてぶで話題になっている。はてぶではラブドール愛好者である増田の反論と、規制推進派のツイッターとがホッテントリ入りしていた。はてぶ以外で議論がどのように展開されているかは確認もしていないので知らないが、そもそも糾弾されている我々小児性愛者のが置き去りにされている気がしたので意見を述べる。
ただし我々小児性愛者と書いたが、私自身小児性愛者を自称することには抵抗がある。DSM-5で定義される"The individual has acted out these sexual desires, or is experiencing significant distress or difficulty as a result of these desires."は自分には当てはまらないので。それでも子供に対し性欲を掻き立てられるし、その手のイラストを描いてもいるため他から見たら小児性愛者と断じられても仕方がない。
さて、ラブドールについてだが、以前欲しいと思ったことがあり購入を検討したが結局買わなかったし、買わないで正解だったと思う。高額であることのみならず、部屋の容量や引っ越しの可能性も考えたらおいそれとは手が出せなかった。ラブドールそのものが極めて上級の趣味なので、槍玉にあげられている小児性愛者の一人としても今回の運動には今一つぴんと来ないのである。実際はてぶを見て知っただけで、増田が記事を書かなければ恐らく知ることも無かった。change.orgにはたびたび署名しているが、自分のところには周ってこなかったし。それもあって本来のターゲットである小児性愛者ではなく人形愛好家に弾が当たったのではなかろうか。
もちろん将来そこそこの広さのある終の棲家を得られたなら、そしてそのときに小児型ラブドールが今よりも精巧であったなら購入したいとは思っているので、規制には当然反対である。反対するのが至極当然である。
一方で規制推進派をただ否定すればいいかというとそうでもなく、規制したがる人たちの危惧も無碍にはできまい。規制に賛成の立場のブクマで星を集めているのは「それをきっかけに欲望が芽生えるか、あるいは加速するのでは」というものだ。ご丁寧に実例を紹介してくれる人もいた。
こうした意見に対して、どう対応すればいいのか正直分からない。とりあえず私自身は自分こそがその反例だと思うので自分について少し述べることとする。
まず私の小児性愛の目覚めは幼児期のナルシシズムと同年代の少女へのコンプレックスのためだと思う。小学生ごろまでは綺麗な服を着られる姉がひたすらに羨ましく、その結果として女装癖があった。女の子の自分がどんな形ででも注目されたいという欲望があった。その後自分は女の子にはなれないと諦めたことで、自分の中で理想形が小学生までの少女に固定されたのだと思う。近年中学時代の友人と再会する機会があったのだが、彼の第一声は「今でもロリコンなん?」であり、つまり私は「生粋のロリコン」であると自他ともに認められる(ちなみにロリコンという呼称は大嫌いだ)。
その後長じるに及んでその手のイベントがあったかというとけしてそんなことはなく。単純所持禁止前までにその手の動画を見たこともあるが自分でも、とはならなかったし。姉や親族に子供ができて、私がしばしばお世話をしたけれど別段何もしなかったし、そもそも今の仕事が子供と関わる仕事だがこれまで悪いことは何もしていない。
しかしこんなこと言ったところで、「情欲をいだいて子供を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」とまではいかなくとも、意識していなくてもセクシャルなことをしているに違いないとか、自己申告乙とか、今後どうなるか分からないとか、よしんば認めてくれたところで反例1だとか言われるだけでしょう。
ただそれでも私が強く主張したいのは、「欲望」と「実際の行動」の間には深い溝があり、その溝を乗り越えられるのは限られた人間だけだ、ということです。私が初めて彼女とセックスすることになったとき勃起できずに気まずい空気が流れた原因は、私自身の性癖もあるが、人間という情報量の多さに気圧されたからだ。子供とこれまで幾度も接してきたが、彼らそれぞれの「個」に圧倒されて、個性を剥奪された単なる「性的対象」としてなどけして見ることができなかった。
結局犯罪ができる人間というのはとことん相手を見下せるか相手との共感性が皆無な人間なのだと思う。だからこそラスコーリニコフも殺人と超人思想を結びつけたわけで、肯定的な表現をするなら「乗り越えられる人間」ということになる。
そして犯罪者が乗り越えてしまっているものは、他にもあるがまさに「社会における自分の立ち位置」であろう。家族、親類、職場、友人のことなど考えたらけっして悪いことなどできないはずだ。それでも犯罪ができてしまう人というのは、尊重しうる他者がいない人なのではないだろうか。
最初に小児性愛者と断じられても仕方がないと言ったが、やはり私が自分には当てはまらないと述べたところの定義こそ重要だと思う。何人か医者の友人がいるのだが、精神科医の友人(娘がいる)は「イラストを描いて欲求を昇華できているのはとてもいいことで、全く問題がない」と言ってくれた。また別の友人は、私のことを彼女に紹介する際「凄いロリコンだ」と言ったら、彼女は「その人を治療できるのはあなただけなのよ」とかなんとか言ってきたので「理性で制御できてる以上単に個人の趣味」と諭したという。理解ある友人がいて幸せだし、だからこそ裏切れないとも思う。
小児性愛者に危惧を覚える、その感情は理解できるのだが、小児性愛癖を持つものが実際の行動を伴うわけでもないし、罪を犯せる人間というのは特別なのだということは一考してほしい。私としてはラブドールの規制なんかよりも、人権教育を通じてお互いを尊重できる社会を気づくことが大切だと思う。
当方いわゆるロリコン。艦これのリベッチオが最愛の嫁であり娘である。
いやね、これが大人の女ならさ、いくらキモい思いをしてくれた所で対等な関係なわけじゃん。大人同士。腐ェミニストもキモいし、俺もキモい。キモいもん同士、まあ共生していこうや、と。
だがこれ相手が小児となると話が違う気がしてくるんよ。大人の女に喧嘩を見せるのは別にいいけど、子供に見せたら虐待みたいなもんで、子供型ラブドールが存在していることに「キモい、怖い」と思わせてしまうのは、たぶんかなり良くないことなんじゃないか、と
「小児性愛のカジュアル化」に問題があると考えるのは、対人性愛優位を自明視した認知の歪みでしかない。問題があるとしたら、「性愛のカジュアル化」にある。セクシャルマジョリティが主導して守ってきた性の規範を、マイノリティが拒絶することにより、「性愛のカジュアル化」が現象として起こっているという事実はあると思う。しかしそれ自体がセクシャルマイノリティの「政治活動」としての側面があり、一方的に断罪することはマジョリティの傲慢である。「批判するな」とは言わないが、慎重になるべきだし、そうした政治性に注目することなく「批判」に終始するなら「ただのポジショントークだ」との誹りは免れないだろう。
批判者が「小児性愛のカジュアル化」と呼ぶものの一つに次の事例がある。
「娘の成長を見てくれ」と言って筐体で遊ぶ小さい娘さんの写真を2枚貼ったツイートにも、リプ欄で「えっちです」ってのがあったんだけど、こういうコメントを気軽に送れちゃうのも社会で小児性愛がカジュアルになりすぎた結果だと思うんだけど— E (@nice_comp_net) May 29, 2020
しかし、これは所謂「キャットコール」と呼ばれるセクハラの一種であり、「対象が児童だから」問題なわけではない。批判者も、「対象がもし成人ならば何も問題はない」とは言わないだろう。このような事例は「性愛のカジュアル化」によって支えられる悪しき文化であり、批判すべきは「性愛」であり「小児性愛」ではない。これを以って小児性愛を批判するのは無理があるし、「小児性愛は悪だから悪なのである」というトートロジーに陥ってるようにも見える。では、なぜ彼らは小児性愛を殊更に敵視するのか? 以下は既存の議論焼き回しである。
小児性愛と成人性愛の本質的な違いはただ一つ、「児童との合意は(少なくとも現代の倫理規定では)成立することがあり得ない」という点である。児童との間に「合意のようなもの」がいくら存在したとしても、それらは全て「合意」とは見なされないし、見なすべきでない。(「合意」の定義と児童保護について慎重に議論を重ねた未来では何らかの変化があるかもしれないが、それについて議論するにはあまりにも論点がずれているし、ここでは触れない。)しかし、「故に小児性愛は許されない」と主張するには論理の飛躍がある。ここまでの前提の下で自明と言えるのは、「児童との性的接触は許されない」という一点である。
「児童との性的接触は許されない」と「小児性愛は許されない」はもちろん同値な命題ではない。彼らがこれを同値と見なすのは何故か?それは彼らが、「性的欲望とは常に性的接触によってのみ満足するものであり、それ以外の性的行為は全てその為の準備に過ぎない」という偏見を抱えているからであろう。今回、多くの人形性愛者、フィクトセクシャル、さらにはアセクシャルを自認する人々からも批判が殺到した理由はそこにある。
「(実在児童を対象としない、無機物を対象とした)児童ポルノは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」と主張する人々は、「成人と性的接触を行うことは、児童との性的接触を実行するトリガーとなる」とは言わない。なぜなら、彼らにとって「性的接触」はそのまま「性的満足」とイコールであり、それが「ゴール」であると無根拠にも信じているからである。
前節では、問題の本質は「小児性愛のカジュアル化」ではなく、「性愛のカジュアル化」であると言った。では「性愛のカジュアル化」は本当に問題なのか? 結論としては、確かに問題であると私は思う。うぐいすリボンの荻野さんも以下のように言っている。
逆に、実質、ポルノとしてマーケティングするものであるのなら、18禁でなくとも、広告だけでなく、表紙の陳列やらまで含めて、賢明にどんどんゾーニングして頂くというのが、多分最適解なんだけどねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) November 13, 2019
その理由としては例えば、①性的プライバシーの問題、②依存性の問題、などが挙げられる。あるいは、「そのような問題を内包する言動」こそを「性愛のカジュアル化」と呼ぶべきである、という定義づけも可能だろう。
①を語る言葉として「性的自己決定権」「私の身体は私のもの」などがある。余談だが、これは、ラブドールのような性的表象、および自慰を愛好する人々にとっても重要な概念である。実際、他人の自慰を制限しようという試み自体が「性的自己決定権」の侵害であり、セクハラだという批判もあり得る。(参考↓)
「男女を問わず、自慰は最も内密の行為である。誰の権利も侵害せず、自分の性的趣向と欲望を満足させる行為であり、性的自己決定権の領域に入っている。女性を卑下するという理由で自慰道具を禁ずるとしたら、女性を卑下せずに可能な自慰行為とは何なのか?」 pic.twitter.com/3lyXymSaF0— NPOうぐいすリボン / Uguisu Ribbon Campaign (@jfsribbon) May 29, 2020
話を戻そう。性とはそれ自体が深くプライベートなものである。故に、他人の性的領域に、物理的にも精神的にも安易に踏み込むことは許されない。「性愛のカジュアル化」には、その越えてはいけないハードルを下げてしまう効果があるのではないか。自らのプライバシーを切り売りしている限りは「下ネタ」であっても、他人のプライバシーを暴いたり、そこに土足で踏み入るような言動は「セクハラ」になる。(「下ネタ」を話題にすること自体が話題への参加を強要し得る文脈において、それらの区別は曖昧だが、それを語り尽くす労力は私には残っていない。)お互いのパーソナルスペースを尊重する文化を守るためには、適切なゾーニングを守り、強行的な「性愛のカジュアル化」を防ぐことも大切だと私は思う。
②の問題は意外にも語られることが少ない。これは、「ポルノにはなぜ年齢制限が設けられるか?」の問いに対する答えでもある。逆に言えば、「未成年にポルノを見せるべきでない」理由として、「正しい性教育」的なものを挙げるのは、性のスティグマ化に資するのみで未成年に良い影響を与えはしないだろう。
ここまで、「性愛のカジュアル化」は問題であることを述べた。一方で、それらを安易に断罪することもできない事情もある。それは次節で述べよう。
荻野さんは次のようなことも言っている。
いわゆる2次元系の性表現が、本当に純粋に「ポルノ消費」されてるだけなら、こんなには揉めてないんだよね、というところを、表象を批判する側だけでなく、擁護する側もなかなか自覚できないというのが、この話の味噌なんじゃないかねぇ。— 荻野幸太郎 / OGINO, Kotaro (@ogi_fuji_npo) October 22, 2019
ここで、各国のゲイ・パレード、プライド・パレード(LGBTパレード)の様子を見てみよう。
https://www.huffingtonpost.jp/letibee-life/taiwan-lgbt_b_8448268.html
https://lifevancouver.jp/pride_parade_vancouver
https://rocketnews24.com/2012/06/30/224561/
https://www.youtube.com/watch?v=MWiZwUFWs5E
やはり、非常に過激でセクシーなファッションに身を包む参加者のことが目に留まるだろう。しかしだからと言って、彼らに向かって「ゾーニングを守れ!」と叫ぶことがどれだけ暴力的か、理解していただけるだろうか?
彼らがこのような「性」を明け透けに表現しているのは、それ自体が政治的意味合いを持っているのである。それ自体が政治的表現なのである。そして我々の「性」の表現にもまた、そのような側面があることは決して無視できない。対人性愛的なものに背を向け、「オタク」的な性表現をオシャレなものとして、隠語的なコミュニケーションのために消費する文化がウケた理由は、人々がそのような政治性を間違いなく見出したからである。それは単なる「ポルノ」ではなく、「我々の性のあり方」をありのままに表現した、アイデンティティそのものなのだ。
とはいえ、我々の消費する全てがそのような政治性を帯びているわけでもないし、また全てがポルノ的でないわけでもない。実際のところ、単なるポルノが悪ふざけで表に出てくることもあるだろう。しかし、それらの区別は決して容易ではない。物理的には全く同じインクの配列であるものが、文脈や作者の意図次第で、時にポルノであったり、時に政治的であったりする。それらは私やあなたが独善的な基準で決めつけていいものではない。「法的規制に反対する」という言葉は、私刑を推奨する標語であってはいけない。表現の正しい用法用量というのは、表現者と受け取り手一人一人の良心に委ねられるべきなのである。
さらに言えば、政治性とポルノ的であることが、多くの場合両立してしまっているところにこそ問題の複雑さがある。その区別について「語るべきでない」とは言わないが、本質的に「区別は不可能である」ことを前提に、慎重に語る必要がある。そのような必要な慎重さを欠いた言説こそが、「差別だ」と糾弾される所以なのである。
誤謬を見出して批判することは容易である。しかし、否定することが目的化した人々で集まって、こちらの政治性を矮小化するような言説ばかりぶつけられては、議論にならない。「我々が言いたいこと」は、この文章を通しても伝わるはずであると信じている。