はてなキーワード: パワハラとは
スポーツってようするに人間を競走馬と同じように扱うってことなのよ。
でもそれをやると30代ぐらいから人生の先行きが極めて不透明になる。
残されたのは元フィジカルエリートであることをアピールしての肉体労働だけど、現業に使えせてみると周りの高卒と比較して10年20年の遅れがあるくせにやたら偉そうな新人が誕生してしまう。
結果として過去のエリート意識に苛まれたまま腐って家族とかに当たり散らす救いようのない無職が量産される。
こりゃあかんよ。
実際、競走馬の世界だって牡馬は種馬になれる一部エリート以外は辞めたあとの人生に苦しむけど(主にオーナーが)、牝馬だったら産んで育てるって役目を負える。
なにより男性スポーツ選手を法律で禁止すれば今問題になってる男女不平等も解決するよ。
自己自認が女のカマ野郎やテストステロンどばどばの癖に女性選手と言い張ってる連中を排除してクリーンファイトがしやすくなる。
甲子園だって男臭いハゲの集団ばかりだからあんなに柄が悪いんであって、女性が女性に教える形にすればもう少しパワハラは減るでしょ。
なにより男が女に教えるようなことがあるからセクハラが産まれているのが今のスポーツ業界の問題なわけだけど、それが女限定になれば正常化されると思う。
今すぐにとは言わないけど22世紀に向けて男性がスポーツ選手になるのは禁止していこう。
会社でかつてパワハラしてきた元上司が人事異動で出世メインストリームからはじかれたの爽快。
もう何年もその元上司のせいで心を病みかけてて、なんとか踏みとどまってきたんだけど
最近すごく生きるのつらくてTVのニュース見てて引っ張られそうになることもあったりして本当ヤバかった。
見ている人は見ていてくれたんだなと思う一方で、なんでこんなに時間かかったんだよと腹が立ったりもしてる。
あと心が軽くなったと同時にすごい乱暴な気持ちが沸き起こってきて
アイツもっとひどい目にあえばいいのにと意地の悪いことばかり考えてしまう。
元上司のせいで私の心の中の善良な何かが死んだんだよね。
もし人生を特定の時点からやり直せるとしたらどこから?というIfを時々延々と考えてしまう。
もう耐えられない。
穏便に辞めようと思ったが無理だった。
今朝退職代行に頼んだら、すんなり終わった。
昨日の理不尽な引き止めは何だったんだ。
ちなみに朝は抑鬱で体が重くて、何もしたくない。
何してすごしゃいいんだろう?
ちな一人暮らし。
はじめは月一くらいの頻度ひどく気分が落ち込む時期があった。
心療内科、精神科に行こうとも考えたけど調子の悪い日は病院に予約する元気も勇気もなかったし、調子のいい日はやっぱ気持ちの問題かな…と過ごして一年余り。段々と調子の悪い日が良い日を上回るようになって、ついに慢性的な抑うつ状態が続いた。
症状も頭痛やめまいに加え、不眠や慢性的な眠気が激しくなった。部屋はどんどん汚くなり、独り言で暴言が増えた。
それでもなかなか病院に行く気にはなれなかった。ストレスの原因は明らかに仕事だったけど、労働環境は控えめに言っても良い方だった。休みたいときに休めるし残業代もきちんと出る。残業時間も常識の範囲内。同僚の慣れ合いは正直苦手だったけど、パワハラも無茶ぶりもなくて、「うつの原因となる職場」とは言い難い環境だった。だから、自分の不調もたまたま調子が悪いだけとか性格の問題だと思っていた。
でも仕事にも影響が出始め、この状況がずっと続くのはさすがにまずいと思い、少し調子のいい日に心療内科を予約した。診断結果はうつだった。
そう言ってもらって少し救われた部分はあった。やっぱりそうだったんだと安心できたし、日々感じている絶望感が病気によるものならマシになる可能性もあると思えたから。一方で、ちょっとしたストレスで壊れてしまった自分にも少し絶望した。自分より長時間残業してる人、ストレスの高い環境で働いてる人たちもいるのに恥ずかしい気持ちになった。
とりあえず薬を処方してもらったけど近いうちには休職しようかなと思ってる。すごく言いづらくてイヤだな。
自分は症状がまだ軽かったから病院にいく選択ができたけど、もう少し重くなってたら行く気力も起きなくなってたかもしれない。重くなったら周りに引っ張っていってくれる人がいない限り治療にもたどりつけない恐ろしい病気だと感じた。
自分みたいに客観的に見て割と恵まれた環境にいても普通にうつだったってことあるから、まだ大丈夫かなって思ってる人も重くなる予兆があったら一度病院行くべきだと思う。手遅れになる前に。
「新入社員の彼、上司の指導が厳しそうだから、君から来週の担当定例でチーム替えを進言してもらえない?」
と、話を受けたのは先週の金曜日の午後。
入社10年目で最早ならマネージャーになっているけど、そうならなかったしそうなれなかった担当者にそんなこと言うなよと思いつつ
その担当定例というのは管理者とチームリーダーが参加し、毎週チーム内での進捗とか課題を共有する場だ。
その場で多分言うのだろう、
「彼のスキル習得状況を考えると、そろそろ次の担当に移してあげた方がよいと思います。」
まぁ、OJTという名の育成担当かつチームリーダーである自分が言うのは間違ってはいない。
ただ、こうも思う。
確かに今の担当の上長は職人気質で厳しいが、そこで得るものも成長するものある、そこで成長していくのもあるのだろう。
そう思うし、それを当の新入社員に問えば、おそらく彼はこういうだろう。
彼はその職人の下から離れ、ゆるふわ上長の下に行くのが組織として求められることなのだろう。
自分の10年前を思い出せば、そんな配慮もなかったし、今でいうところのパワハラが常態ではあった。
それを今の様にカバーしてもらえればここに至るまでに心を病むこともなかったし、良かったんだろう。
その一方で、あの日々が自分の成長につながったのかという生存者バイアスを感じることも無くもない。
何が正解か、正解なんてないんだろうけど、今の優しくなった世界では今の彼の処遇を何とかする、それが最善解何だろう。
と、明日の午後にあるその担当進捗で彼の異動を自分が進言するのだろう。
それはまぁ間違いではないし、それが良いことなのだろう。
ただ、何とも言えない引っ掛かりを持ったまま、明日の月曜日を迎える。
最近構築されてきた「優しい世界」への向き合い方がまだ理解できない30代。
世界はこれからも優しくなっていくだろうし、それは正しいことなんだろう、でもなんともその正しさに少々の違和感がある。
それをなんと表現すればよいのだろう。
anond:20220530192850の続きになります。
(はてな社に問題の記事の削除依頼を申請した結果、2022/05/31削除措置を済ませたとのご連絡をいただきました。対応して下さったはてな社の方々にご迷惑をおかけし、誠に申し訳ありませんでした。)
私が、町山智浩の後輩男性(以下"X氏"と表記します)の元・妻の女性たち及びX氏に精神的苦痛を与えた記事を書いた当時の、動機や心理を思い返すと、自身のハラスメント体験に重ねて情報を捉えていたのが大きな要因だと思います。
ハラスメント被害そのものの苦しみだけではなく、私の身近にいる人間の中には、私の苦しみに対して理解や共感を示してくれない人、被害回復の手助けをしてくれない人が存在し(もちろん、理解や共感や手助けをしてくれた人も存在しましたが)、そのような心無い人たちの存在は、深い無力感や孤立感を私に与えました。
そうした無力感や孤立感に苦悶していた時、私は町山智浩のインタビュー記事の情報に接しました。今となっては、そのインタビュー記事の中で語られたセクシャルハラスメントの被害も現実のものではなかったと判明していますが、その情報を知った当時は本当の話であるものと私は思っていました。私は、その記事の中のセクシャルハラスメント被害者を、私自身に、被害者を助けようともしないで町山智浩の側に付いている(という誤ったイメージを、町山智浩の虚言によって付与された)X氏を、私の助けになってくれなかった人たちに、それぞれ重ねていました。
加害者の町山智浩に苦しめられるだけではなく、家族・伴侶であるX氏すらも加害者の側に立っていて、セクシャルハラスメント被害者である元・妻の方は、孤立無援で苦しんでいる。そのような(今となっては誤りと判明している)イメージが、私を強く捉えて離さなくなり、居ても立っても居られなくなりました。
ハラスメント被害の経験者である自分には、加害者の町山智浩と、町山の味方となって彼女たちを顧みない(と誤認していた)X氏を批判する義務や権利が有るのだ。抗議の声を上げられない彼女たちのためにも、自分だけは代わって抗議の声を上げるべきだ。たとえ他の人たちが彼女たちを顧みなくても、せめて私は彼女たちの何らかの助けにならなくては。そのような思いを私は抱きました。
言論人である町山智浩が、自発的な意志によって、広く販売される雑誌の誌面に掲載されるインタビュー記事として公開した情報なのだから、それをピックアップして公の場で批判することには十分な道理が有ると考えたことも、私の行動に拍車をかけました。
MeToo運動の我が国へ波及する様子も見て、何かが変わるような、私でも変えられるような気もしました。
しかし、私が町山智浩のインタビュー記事をピックアップして情報を伝播したことは、実際にはX氏の元・妻の女性たちを助けるどころか、却って苦しめる結果にしかなりませんでした。
X氏についても、もし私が冷静になれていれば「本当は、町山智浩のインタビューに抗議などをしたいのに、権力勾配の存在やマインドコントロールなど何らかの理由によって、町山に対する抗議の声を上げることが困難な状態に置かれているのかもしれない」という可能性も考慮して、仮に誤認情報に基づいてX氏に対する批判や非難をするにしても、もう少し抑制の効いた、精神的苦痛を与えたり名誉を傷つけずに済むような書き方が出来たのではないかと思います。しかし実際には、既に明らかになったとおり、私はそれが出来ませんでした。
私は、X氏を悪魔化していたのだと思います。悪魔化することで、あのような筆致で記事を書くことも正当な行動なのだと、私は勝手に思いこんでいました。非常に身勝手で独りよがりな正義感であったと思います。
今でも、セクシャルハラスメントやパワーハラスメント、それ以外にも人間としての尊厳を踏みにじるような行為について、それらを他人が行っているのを認知したならば批判するべきであるし、抗議の声を上げてそれらを止めさせるべきであるという考え自体には私も変わり有りません。しかし、たとえそうするべきであったとしても、やはり冷静さを欠いて感情的になったり、節度を失ってはならないのだと、今さら遅きに失することではありますが、改めて痛感しました。
はてな匿名ダイアリーは、かつて「保育園落ちた、日本死ね」と題する記事によって、日本の社会全体に議論の空気と改善の動きを促したことがあることを、私は知っていました。
ハラスメントの苦しみについて理解や共感を得ようとしたり、抗議の声を上げようとすると、個人情報を知られて二次的被害を受ける可能性を考えて、被害者は躊躇するものです(これは、経験者の方々にならば共感してもらえると思います)。しかし、はてな匿名ダイアリーならば、二次的被害の可能性を回避することと、私のような弱い人間でも抗議の声を上げることの両立が可能かもしれないと考えました。
ここ数ヶ月、日本の実写映画業界の周辺では、監督や俳優によるセクハラ・パワハラ・性的暴力が露見して報道されることが増加しました。明らかに道理がないそれらの事案に対してですら、被害者の人たちに対して「自業自得だ」というような心無い声を浴びせる人たちが少なくありません。あるいは「それらの監督や俳優は、才能の持ち主なのだから、少しばかりの過ちを犯しても寛大な処分で済ませよう」と言う人たちもいました。町山智浩のインタビューや問題発言に対しても「町山さんのことだから」と言って、問題視せずに済ませる人たちが少なくありませんでした。
こういった著名人の立場の強さと非・著名人の立場の弱さの差によって、押し潰されているハラスメント等の被害者は少なくありませんし、弱い人間に対する理解や共感を示さない人たちから二次的被害を受けることもあります。それらに負けずに抗議の声を上げることを弱者でも可能にする、はてな匿名ダイアリーのような場は貴重であると私は考えています。
しかし、私のように身勝手で誤った正義感に基づいた独りよがりな断罪の振る舞いは、はてな匿名ダイアリーの価値を損ないかねないものであり、そのような意味でも私は罪深いことをしたと思います。
思いつくままに筆を進めてきたために論理性に欠ける文章となりましたが、X氏の元・妻の女性たちやX氏に対して私がしたことは、何ら正当化できないことだけは言うまでもありません。たとえ、私がハラスメント被害者であったとしてもです。
こうして書き連ねたことも、結局は自己正当化に過ぎないのかもしれません。まだ私は本当の反省ができていないのだと思います。
いったん筆を置きます。
パワハラ上司とかお気持ち表明管理職とかクソの役にもたたない奴がいるのがその証拠
ITエンジニアにもいろいろいるけど、残念ながら相手にしているITシステムにはパワハラできない
怒鳴りつけたらパソコンが直るわけでもないし地道な努力より閃きが優先される
if(age==1) alert()
if(age==2) alert()
って書き続けるより
って書く方が評価される
とかマジで言う
少なくともコンピュータを相手にしている時点でITエンジニアの方が圧倒的に優秀
パワポ職人がマウントとるのは「高い視点でのモノの考え方」「熱意を持ったやり遂げる力」とかのポエミーな部分だけ
「本当に価値を生み出しているのか」
「実際に実現できたのか」
2つ目の追記が長くなったことと修正部分があることから、独立して記しておく。元の文章を書いた時の私の気持ちと、今の私の気持ちである。元の文章は、いくつかの修正を加えたが、次のようなものである。→anond:20220527204733なお、最初から私は、誰それの元・妻ですとは一言も書いていない。その点に関してだけは明確にしておく。
2022/05/30告訴をちらつかせている人物がいるが、私はその人物の元・妻ではない。繰り返しになるが、最初から私はそのように称していない。本来ならば、セクシャルハラスメントの被害者として、特定されたり好奇の目に晒されるような二次的被害を防ぐために個人情報を曖昧にして書いた。それなのに、告訴をちらつかせている人物からは「自分の元・妻ではないから、このセクシャルハラスメントの被害の話は虚偽」と言われ、私は非常に苦痛を強いられている。痴漢冤罪をピックアップすることで痴漢の被害者の声を掻き消そうとする人たちがいるが、それと同じことをセクシャルハラスメントの被害者に対して行っていると、告訴をちらつかせている人物には自覚して欲しい。
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元の文章で私は、自分が誰なのかも、文中に書いた登場人物が誰なのかも書いてはいなかった。私は誰それの元・妻ですとも書いていない。
では何故、私はフィクションと銘打って、人物を特定しない書き方をしたのか。それは、これが「普遍的な物語」だからだ。被害者となる人間、なった人間は、私だけではなく誰でもあり得るし、加害者もまた同じく誰でもあり得る。被害者の側に立たないで、加害者の側に立つことを選択する第三者も、同じく誰でもあり得る。だからこそ、読み手に「これは自分のことを書いているのでは」と自問自答して欲しくて、自省を促すために、そういう書き方をしたのだ。そういう意味でならば、読み手に「自分のこと」という思いを抱かせる狙いが有った。想像力がある読み手ならば、性別を入れ替えたりセクハラをパワハラに置き換えたりして、より考えを深めてくれることだろうと、淡い希望も抱いていた。
しかし、それを「これは自分のことを書いているに違いない。だから自分に対する名誉毀損だ」と決めつけて、法的な措置をちらつかせることで圧殺しようとする人間が出てくるとまでは思いもよらなかった。それはまるで『ホテル・ルワンダ』の公開に対して「これは関東大震災の朝鮮人虐殺を描いていて、日本人を攻撃している。日本人に対する名誉毀損だ」と言うようなものではないか。
自分のことではないならば「この文章に書かれた人間の同類にならないように、自分は気をつけよう」と省みれば済むことではないか。
私が「ある人物の妻ではない」ことによって、何故「私がセクハラを受けた話」まで無かったことにされねばならないのか。ルワンダの虐殺被害者でなければ、虐殺の被害者ではないと言うようなものではないか。自分たち以外に、この社会を構成している人間が存在しないとでも思っているのか。
仮に、ある痴漢事件で冤罪により罪を問われている人間がいたとしても、それとは別の痴漢事件の被害者に対してまで、被害を訴えたり加害者を批判したとしていることを「これは冤罪で苦しんでいる自分のことを書いているに違いない」と決めつけて「痴漢の冤罪を作るのは止めろ」と言うのは、いくらなんでもおかしいではないか。
セクハラを含めたハラスメントの被害を受けるのは、とても苦しい。それ自体が苦しい上に、顔や名前を出せば好奇の目に晒されて、さらに苦しむ。その一方で、その苦しみを誰か他人に分かってもらいたい、共感してもらいたいという思いも湧く。以前、はてな匿名ダイアリーでは「保育園落ちた、日本死ね!」という記事が書かれたということを知っていた。だから、ここでなら匿名を保ったままで、自分の辛い気持ちを吐き出して理解や共感を得られると思ったのだ。
それを今、私は「お前は自分の妻ではない。だから、お前のセクハラ被害の話は嘘に違いない。正体を暴く」と脅されている。理解や共感を示してくれる人ばかりではないだろうとは予測してはいたが、まさかSLAPP訴訟によって口を塞ごうとする人が出てくるとは思わなかった。
私は、私が救われるために、私自身の物語を書いた。私自身の人生や尊厳を、無かったことにされたくなかったから。セクハラだけではなく、ハラスメント全体を減らしたい、無くしたい気持ちがあったから。たとえ過去の自分は救われなかったとしても、未来の他の誰かが同じような苦しみを味わうことは防げるかもしれないと思ったから。
「この文章は自分のことを書いている。だから許せない」と言う人間は、私が私自身の話を書く行為について、許可や不許可を下す権限が有るのか。例えば「今、そんな文章を書かれると、自分が誤解を受けて困るから止めろ」とでも言うつもりなのか。では、私は、いつになれば声を上げることを許可されるのか。一年後か?五年後か?十年後か?その日は、やって来るのか?文章を修正し始めて理解したが、そんな日が私に来ることはなさそうである。
この文章を書いた人間である私が、ある特定の人間の妻ではないからという理由で、嘘つき呼ばわりされて、勝手に私の苦しみが無かったことにされるのは、極めて心外である。
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上のようなことを追記として書いたが、今となっては全てが空しい。
元の文章に「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い。」という一文を、私は修正として挿入した。そのような修正を施したのは「この文章は自分のことを書いている。許せない」と主張する人物が、弁護士に頼んで告訴すると言っていることを知って、怯んだからである。セクハラを受けた時も自分には弁護士を頼る資金力は無かったが、今もそれは変わらない。仮に告訴されたら、赤子の手をひねるよりも簡単に私は敗北するだろうと思った。
「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い」と書き添えたことで、私の文章からは普遍性が失われた。私の文章を読んだ人間の誰もが皆、セクハラを含めたハラスメントの問題を自分自身のこととして受け止めて欲しいという思いから書き始めてアップしたはずの文章だったのに、私は「一部の人間はこの問い掛けの対象から除外される」ことを意味する一文を書き加えたのだ。また「実在の人間・団体・事件には一切関わりは無い」と書くことで、私は自分のセクハラ被害も無かったと宣言したのだ。
私は、セクハラを含めたハラスメントを無くしたいと思っていたはずだった。しかし土壇場になって、我が身かわいさの保身に走った。こんな私に、ハラスメントを無くすことはできそうにないと思い知った。この先、何があろうと、仮に誰かが何か慰めを言おうと、私は私自身が怖気づいて逃げたことを知っている。ずっとそれを忘れないだろう。
私は、何も変えられない。私は、他人どころか私自身をも救えない。ハラスメントを無くしたいなどと、身の程知らずの願望を抱かなければよかった。私は私自身にとっての裏切り者だ。