はてなキーワード: ネトウヨ認定とは
ことインターネットでは、思想や支持する政治スタンスによって左から右のカラーリングを分け、しばしば自分と違うカラーリングの人をバッシングする様が観測できます。
しかし、至極当然ながら、カラーリングでの敵味方のカテゴライズは非常に危険です。集団効果は、異を唱える人間がいないことから自体を悪化させるため、お互いがお互いのイエスマンである関係は非常に不健全と言えるでしょう。
そして、バッシングする際に、相手のバックグラウンドを浅薄だと断定し、それ故の容赦のない罵倒をしている姿も散見されます。
ネトウヨ、パヨクとバカにするさまがまさにそれに当たるでしょう。
実際、ネトウヨと罵倒されても仕方ない、パヨクと罵られても仕方ない、そんなふうに思ってしまえる無茶苦茶な人もいますが、それはそれらの言葉が実際使われる頻度よりは遥かに希少なものです。
何故なら、呼称される側が、"その考えに至っても仕方がない"というシチュエーションが大半だからです。
例えば、私はここ六年ほどの韓国政府には一定の猜疑心を抱いていますので、韓国政府がおかしいと思うことは多々あります。
原発に関する強い否定をする方々にも少々距離を置きたくて、放射能を過度に怖がる事がかえって福島の方々を苦しめている様は正視に耐えないものがあります。
一方、組織犯罪処罰法の改正案の際は常に政府への不信感があり、ろくに修正されずに可決したことは心の底から落胆しました。急すぎだろあれ。
また、辻元清美と埋め立て作業員の関係に関しては、私は完全にデマと判断しています。
しかし、人によっては私の韓国や原発への言及をネトウヨ認定するかもしれませんし、組織犯罪処罰法改正案の話や辻元清美の言及ではパヨクと認定するかもしれません。
しかし、それって結局、自分が信じるスタンスと違うからってラベリングして叩いてるだけじゃないですか。それこそ浅はかじゃないですか。
人がその発言をするまでには、前提として知っている情報があって、それは見たテレビのチャンネル、読んだ新聞等によって変わってきますよね。
また、どんな知識を今まで培ってきたかによって、情報の受け止め方、咀嚼の仕方は違います。
それらの一人一人の違いは、たった一つのイシューの違いでネトウヨだのパヨクだので判断できるものでは到底無く、物凄い幅のあるグラデーションなのです。
さっき韓国政府の話をしましたが、日本から見ると無茶苦茶に見える政府の対応も、国の文化や制度を理解すると、なるほどと合点のいく場合も少なくありません。
ゲーム理論に基づけば、条件さえ揃えば多くの人は同じ行動を選択します。だから、何も不思議なことではないのです。自分の殻に入ったまま批判をしても仕方がないのです。
であれば、自分とスタンスの違う人間が何故そんな発言をするのか、考えに至るのか、そこに至るまでの流れを、相手の浅薄さと断定せず、何か理由があるのでは、と考えてみて欲しいのです。
原発の放射能の問題は、シーベルトやベクレルと言った単位が、どの値からどれくらいの健康被害が出るのか未だにはっきり断言できず、かつ政府への不信感も合わさることでとにかく怖がっている様子が見て取れ、自民党はエネルギーのベストミックスと位置づけ原発の廃止をする様子がないことから、恐怖感を持っている人はとても強いアレルギーを抱く様子が想像できます。
それらの人の人生に、原爆、スリーマイル島、福竜丸、チェルノブイリと言った深刻な事故の記憶が深く刻まれているなら、尚の事です。
テロ等準備罪と言われる組織犯罪処罰法改正案も、政府が立法事実にしてることが全部薄弱な根拠であることに目はつぶるとして、完璧に事件を未然に防ぐには、NSAのような事前の操作能力がプライバシーを侵しかねないほどの大きさで必要なのも、理解はできます。
辻元清美の一見も、生コン会社との献金の話は本当でしたし、籠池夫人のメールが修正求められてそれにメディアが応じたのも、メディア不信の人間からすると、極めて辻元清美に有利に動いたよう映るのもよく分かります。また、訂正報道をしたのも、TBSラジオであり、TBSは過去、石原慎太郎の発言を事実と違う形にテロップをつけて放送したことがあるため、信用に値しない、と判断する人もいたことでしょう。
考えはわかる、理解はできてる。
それでも、違うものは違うときもあるのですよ。でもそれは、発言者がネトウヨだからでもパヨクだからでもない。前提にする知識がまちがっていたり、あるいは不足しているから、事実に即していない発言になるのです。
韓国政府は、バックグラウンドや法制度、政治のルールを把握すれば、行動は理解できますが、それが国際法や外交の態度として適切かどうかの指摘や非難は、妥当な範囲でされて然るべきです。
原発を過度に恐れるのと福島への偏見をもつのは、感情論が先行している側面は否定できないでしょう。地域の測定データは常に掲載されており、農産物は問題がないと断定できます。健康被害は今後も観測が必要とはいえ、今のところ現れていません。
恐らくリスクがあるだろうと推定できるので怖がるのと、リスクがゼロじゃないから怖がるのとでは、随分違うじゃないですか。この場合、後者の怖がり方をしているように見えるわけで、その場合、この世に絶対がない以上、安心は得られないって事になります。それは極論だとしても、大丈夫であろうってデータが出ているのですから、それを無視して原発を恐れるあまり、福島を過度に恐れるのは、差別につながるってリスクを知って頂くことで、大丈夫であろうってデータを真摯に受け止めて欲しいです。
組織犯罪処罰法改正案も、政府の説明する立法事実が根拠薄弱である以上、仮に荒れる議題だとしても、プライバシーと犯罪抑止の議論はしっかりとするべきだったはずで、その点政府は本当に不誠実であったと言わざるを得ません。
辻元清美の一件も、何故籠池夫人がその話を知っていたかという視点に当てると、メールを送ったタイミングのほぼ直前に、そう言った無根拠のデマが松山昭彦氏らのブログに載る形でネットに出回っていた事を確認できる以上、それを見た夫人がメールを送って、そのメールがマスメディアに掲載されていたであろうと言う流れを把握して、真偽を推し量ることが必要です。
もちろん、この四つの話題、私のこの書き口に批判があることでしょう。
しかし、批判されても全然いいんです。私は私の知り得る限りの情報から、これらの話の結論を持ってきました。違う結果が出たのなら、それは違う前提知識によるものです。その知識をもとに私を批判することは、私に新たな知識と知見を提示することであり、それは私にとってもとても望ましいことです。
真実の探求やより良い形を求める際、ディベートという討論方式が用いられます。
これは、いわゆる言論の喧嘩ではなく、それぞれの立場になって、立場をロールし、それぞれの立場で知識を用いることで、より良い決断や探求を行うための会議話法なのです。
自分と違う意見の人間がいたら、すぐに「あなたは間違っている」と言うのではなく、「何故そう思うのですか」と聞き、自分との違いを浮き彫りにしながら、相手の立場なら自分はどう考えただろうと想像する。それだけで、随分言論は平和になりませんか。
私の両親は共に政治思想はリベラルですが、父の場合は洋楽にハマってアメリカ文化に興味を持ち、その一環で公民権運動に感銘を受けた背景があります。
母の場合、フォトジャーナル誌を出先の銀行で読んで衝撃を受け、以後反戦の思いが強まるとともに、中東問題に強い関心があるためであります。
二人とも、共謀罪反対、自民党を快く思ってないって点では一致していますが、根っこに同じものが根ざしているわけでは、全然ないのです。それも、同じ時代を生き、長らく生活を共にしてきた夫婦であってさえ、です。
それだけ、一人一人、考えに至るまでの前提って違うと思うのです。
だから、ネット上で自身と違う意見があっても、想像の翼を広げて見てください。向こうにいるのは同じ人間です。必ずしもその人はあなたより劣っているのではなく、あなたと違う人生を送ってきただけなのです。
最近、ニセ科批判とネトウヨの結びつき、みたいなのについてツイッターでよく見るので、思うところを書いてみることにする。
先に、俺の立場について書いておくと、もともとニセ科学批判クラスタにいる(た)人間である。以下、いろいろと書き連ねたような事情もあって、最近はニセ科学批判クラスタを批判的に言及することが多くなってきたが、やっぱり世界は科学だろう、という思いは変らない。
余談だが、ニセ科学批判クラスタを批判する人、というのがニセ科学勢力とか、トンデモ勢力というのは意外に成り立たない。そういう連中を自分が積極的にフォローしてないというのもあるかもしれないが、その手合いはまず自分たちに批判的な人がいることについて詳しく言及すること自体が不都合なので、あんまり触れないのではないかとも思う。クラスタの言説に詳しく触れながら批判する人というのは、何だかんだいって「ニセ科学は嫌い」寄りの人間が多いようだ。
あらかじめ書いておくと、自分の見解は、「ニセ科学批判とネトウヨは本来、つながらない」である。しかし、そう言い出す人がけっこういる、というのも理解できないではない。まして、「またネトウヨ連呼厨ガァー!」などと言い出す気にはなれない。なので、どうしてそう思われるようになってしまったのか、といういくつかの自分の思っている理由について書いてみようと思う。
なお、あくまで自分の観測範囲ベースなので、それ以上のエビデンスや統計的な根拠はない。ほしかったら基盤Bでも持って出直してきたら調べてやらんでもない。
ニセ科学批判とウヨの親和性、という問題が語られるようになったのは、やっぱり3.11以後が決定的である。いちおう、3.11以降について、特に放射能デマをめぐる後始末についていうなら、ニセ科学批判派がおおむね正しかった(細かいとこで間違いや軽口があったのは否定しない)というのは間違いないので、これはどんどん認めていくべきである。そして、その上で、致命的なレッテルを引き寄せる結果となったことについてもそろそろ考えるべきだと思う。
3.11直後にデマ批判をする人が、今となってはかなり信じがたい形で「ウヨ」と手を結んでいたのは確かだ。これはひとえに、デマの流布をほっておくことが人権問題になりかねない状況だったことによる。一例としては、ゴリゴリの左派な左巻健男が石井孝明をRTしていたことがあるくらいである。それは、個人的にそこはRTしなくてよかったんじゃないかと思うツイートだったが(別にどうしてもしなきゃいけないRTでもなかった)、しかし当時はそれでも連帯できるところは連帯しないといけない事情だったのも確か。とはいえ、そのRTを見てニセ科学批判派の中にいる自分でも嫌悪感を覚えたので、その外にいて、かつ左派寄りの人がどうとらえたかは想像に難くない。
元々、デマ批判を発信していた人には政治的には左派が多く、その中には、事態が落ち着いた今は左派クラスタのなかへと帰っていった人も少なくない。今となっては、「福島差別」について関心が高いアカウントというのの少なからず割合がただのウヨアカウントであり、人権問題に危機感を抱いて近づいてきたというよりは単に「ダシにしにきた」ことも明らかになりつつあるのだから、この時期のことについては、ちゃんと後処理をしておくべきではないかと思う。一方で、安易にウヨレッテルを張った側も、そのレッテルについて再検討する必要がある。
ニセ科学批判というのは多層的に発信される。最初の発信者、つまり、積極的に資料をあたったり文献をあたって、情報を発信していた人はもちろんいるにしろ、その人たちの話がどう広まっていったかといえば、メディアが広めた場合ももちろんあろうが、ツイッターなどネットではそれを再発信する人によって広まったわけだ。この人たちの中にも濃度がいろいろあって、「なんとなくRTした人」「そういう話を見たら積極的にRTする人」「RTして、自分でもそれをベースに意見をいったりする人」「それがさらにバズって積極的にニセ科学情報を集める人」とまあ、いろいろだ。
こうなると、ニセ科学批判クラスタといっても、もともとの「ニセ科学批判派」の声は流通する情報の割合的にはごくわずかということになる。
俺がやばいと思う層は、じつはこの水増しされた部分である。デマ批判が機能したのはこの部分あってこそなので、水増しという言い方は語弊があるのかもしれないが、しかし、ネトウヨとニセ科学批判がむすびつけて論じられることに責任があるのはこの層ではないかとも思う。
この層、とひとくちにいっても、いくつかある。
まあこれは文字通りの「ウヨ」層だ。前述の石井孝明とか、池田信夫なんてのもそうだろう。この亜種(1A)としては、ウヨというよりは「左派が憎い」というイデオロギーをかぶせていくケースもある。佐々木俊尚とか、伊藤剛あたりがそうだろうか。そうそう、伊藤剛と昔仲良し今は犬猿の仲の唐沢俊一も忘れてはいけない。君たちお仲間だよおめでとう。あるいは、こうやって膨らんだ層を客層にあてこんだ「御用文化人」というケースも亜種(1B)の一つだろう。いちえふの作者なんてのはそうだと思う。最初はけっこうまじめな信念を持って作業員のルポを始めたんじゃないかなー、とは思うのだが。
言っちゃあ何だが、科学は正義である。しかも、ある程度実証が積み重なれば、相対化しようがない正義だ。本当は正義とか正しさなんて一ミリも興味はないのかもしれないが、とにかく人を叩く根拠がほしいならず者にとって、こんな都合のいいものはない。しかも、人権問題としての問題意識までくっついている。人権なんて一ミリも興味がないのかもしれないが、以下同文。
正義の暴走がデンデンという人はネットによく転がっているが、あまりこの点には言及しない、どころかこの正義だけは振りかざすのが大好きだったりもする。彼らの心情は、よくわからない。
一昔前のメディアに流れる文章には、理系に対する嘲笑や偏見がいりまじったものというのが結構あった。それを見た理系人が、お前ら哲学で作った飛行機に乗れるのかよ、というような反発を持つのは想像に難くない。俺も昔はそうだったし。それは仕方ないところもあると思う。
ところが、ネットは理系の研究者がどっぷりつかっていたり、エンジニアがどっぷりつかっていたりする場なので、そういう人が意外にマスをもてる世界である。それはいいことでもあるんだけど、結果、「理系カルト」のようなものが出来てしまうという面もある。その結果、「文系」をバカにするようなアカウントが出来上がる。昔、科学ネタやアニメ談義が話が合うという理由で高専生や理系大学生をけっこうフォローしていたのだが、どうもこういう方向に流れていく人が多く、非難がましいツイートが増えた結果リムられたりリムったりブロックされたりが増えた残念な記憶もある。
これらの人が、放射能デマ批判、さらにはより広いニセ科学批判に群がったわけだ。どれもこれもあまり近づきたくないタイプである。
しかし、本来の意味でのウヨはこの中では(1)か、せいぜい(1A)までに限られる。それが全体のうちどれくらいの割合を占めるかというと、あんまり高くないと思われる。おそらく、悪印象のかなりの部分は(2)(3)に起因しているのではないか。(2)と(3)は、本来的にはウヨ思想とは関係がない。しかし(2)はそもそもモラルを欠いている層で、ネットイナゴといわれる集団に近い。そういう人が、ネトウヨ思想に親和性を持つのはまあ時間の問題である。(3)は正直因果関係を断定しづらいのだが、確かに自分の観測範囲では重なる人が多い。理系でもウヨ色の薄い人は理系絶対主義みたいなところには陥らない、みたいな雑な印象がある。
そうすると、本来は関係のない「ウヨ」と「ニセ科学批判」がセットで観測されるということが大量発生する。しかも、(2)(3)は人間性として最悪の、できればブロックしておきたいタイプだ。どこをどういじっても、ニセ科学批判がいい印象を持たれる展開がない。しかも、こういうアカウントに限って、やけにRTされる数が多く、ダメな方向にネットへ広がっていく。
(この部分追記)「冷笑系」と呼ばれるような集団がともかなり重なっている、というのもいくつかの反応で見かけた。これはもっともだと思う。特に(1A)や(3)あたり。
後出しじゃんけん承知で言うと、推敲前は言及していたのだけど、定義にやかましい人の怒りが二乗になりそうなのと、話がとりとめもなくなったのでなんとなく端折ってしまった。けれど、ニセ科学批判との関係について考える場合には、「いわゆるネトウヨ」より重要なカテゴリーかもしれない。
ネトウヨの定義というのは曖昧である。むしろ、厳密に定義したところで境界線附近の人間が大手をふって歩き出すだけなので、ある程度曖昧でいいと思う。ライトノベルの定義みたいなものだ。物語シリーズはラノベかとか三毛猫ホームズはラノベかと言ってる分には意味もあろうが、そこにかこつけて「聖書はラノベでは」とか言い出す奴はつまみ出せばよい。
しかし、世の中には問題児がいる。自分たちはつまらない理由でネトウヨ扱いされた、だからネトウヨを名乗ってトンチキなことを言い募ってやる!と言わんばかりの連中である。いまどき子供でももう少ししつけられていると思うのだが、そんないい大人がネットにはたくさんいる。被害者意識をこじらせているとしかいいようがない。本人はネトウヨ認定したほうが悪いと思い込んでいるのかもしれないが、申し訳ないが狂人の真似だと言い張って東大路通を走る人間は京大生でなければ狂人である。京大生でも狂人かもしれない。
菊池誠氏があんなふうになったのは、一つのきっかけはここにあると思う。しかし、年齢的にも知性的にも社会的立場的にも、責任能力を逃れられる人ではなかろう。自分の不始末は自分でつけていただきたい。きっかけのもう一つの原因(と俺が思ってること)は、次の項で述べる。
ジャンルは違うけれど、所謂「キモくて金のないおっさん」を名乗りたがるネット住民、についても似たようなことが言える。
ツイッターにはRTとかふぁぼという機能がある。ふぁぼはまあいいとして(最近はこれもTLに流れてくるようになったが)、RTは誰が何をRTはしたかが、ある程度分かる。
RTの基準は人によっていろいろだろうが、まあ第ゼロ近似としては「それに共感するんですね」だろう。直後のツイートで批判的に言及でもしておかないと、そう思われないほうがおかしい、と思う。
ここでめんどくさいのは、「それに共感するんですね」の「それ」はツイートの文章そのものであるかツイートしてる本人であるか、である。直感的には、前者だろう。後者は雑な見方に映る。ただ、発言を属人的に見ない、というのはけっこうなことに見えるが、発言主と合わせて文意を判断しない、ただの無責任な態度となることもある。見てる側が、いつも「こいつはどうしようもない奴だな」と認識していれば、それをRTする方も同類とみなされることもある。そんなのおかしい、という人もいようが、そういうものだ。
さてここで上のニセ科学批判情報の発信の話になる。発信者する側も、自分が発信した情報を受けて賛同し、意見を述べたり非難したりするツイートを自分のRTという形で放流するということをよくやる。別に発信者じゃなくてもやると思うから、ニセ科学批判に集まった人も、さらにそれをやるわけだ。
ところが、その放流元が「札付き」であった場合、それを「ニセ科学批判に賛同してくれた」という文脈だけで読んでくれる人は、あんまりいない。ごくふつうのアカウントなら、はいはい賛同者だね、ということになる。ところがそうじゃない場合は問題だ。そりゃあ、ツイート単体ではいいことを言ってるように見えたりするかもしれない。でもそれを、みんな属人的に見ないでくれるだろうな、というのはおめでたい。
でもまあ、そういうことが一度や二度あった、というだけなら、まあどうということもないかもしれない。しかし、これを長く繰り返し続けていくとどうなるか。
「お前はそういうやつなのか」で離れる人というのは離れられる側にとっても、分かりやすいし素直だ。だが、「お前のRTうぜえわ」で離れる人も出てくる。離れられた側は、もしかしたらなんだか事故にあったつもりになるかもしれない。自分はただ「賛同できるツイートを流しただけなのに」、と。
それもそうかもしれない。でもそれが繰り返されるうちに、クラスタ自体が、濃縮されてだんだん汚染されていく。そして、やり取りをする相手というのは、本人も気づかないうちに影響を与えていく。フィードバックされちゃうのだ。
2012年か2013年くらいまでは、きくまこ先生もそこまで変ではなかったが、その後加速するようにヘンな発言が連発されていくのは、こんな感じだったのではないかと考えている。
ニセ科学批判そのものを凶器として振り回す層というのが出来た結果、その印象がネットイナゴ、あるいはネトウヨと非常に近いものになってしまう。あとは災害が広がるのみだ。子宮がんワクチン、水素水、EM菌。本来ならネトウヨと関連付けられる要素なんてないものも、そのスジのアカウントが言及してはバズる、という光景は、「そこ」がイニシアチブを握っている、と認識されることになる。そうなれば、ウヨに批判的な人は近寄りがたくなる。もちろん、もともと発信元として活動していたような人は、自分が左派であろうと発信を続けるだろう。でもそこまで中心にいない人は、距離を置くか、あるいはニセ科学批判派の語り口に疑問を持つようになる。
このような先鋭化の過程で、本来なら近しいところにいるはずの、歴史修正主義批判や、反知性主義批判(本来の意味も、日本で独自に派生した意味もどっちも含まれる)との溝が深まっていくことになる。めんどくさいことに、これらの集団は原発や巨大科学のようなものには批判的で、甚だしい場合は放射能デマに一定の親和性がある人もいたりするので、頭が痛い。
よく、ニセ科学批判クラスタはこれらのニセ社会科学・ニセ人文科学の問題には無関心だと言われる。発信する側については実際には必ずしもそうではないアカウントも多いのだが、群がっている層については確かに無関心…… どころか敵意を持っている人が少なくない。理系人が多いので馴染みが薄いし慎重な態度でいる…… というのはなくはないのだろうが、どうもそれだけで済まないところがある。歴史問題や法律あたりに目をつけて観察していると、「馴染みが薄いからかかわらない」ではなく嬉々としてトンデモさんを引っ張ってきて何かつぶやいている、という光景を目にして頭を抱えることになる。
「Aを批判しているのにBを批判しないのはなぜか」はほっといてくれというのは分からないでもない。ただ、それは本当にたまたまのこともあれば、党派性を後ろに秘めてみて見ぬふりをする場合もあるので、けっこう一概には言いにくい論点である。状況証拠次第によっては、判断材料として持ちたくなる疑問であるのは確かだ。また、別にこういう「疑問」はニセ科学批判クラスタだけが受けるものではなく、左派がいちゃもんのように昔から言い立てられてきたことでもあるので、やはり状況しだいでこう問いたくなるのも当然だろう。
こんなことが続いていくうちに、ニセ科学批判クラスタは「身内」に甘い、というような見方もされてくる。そんなことないよ、と言いたいところだが、最近たまにはてブあたりに上がってくるニセ科学批判批判へのブクマコメントなど見ると、妙にニセ科学批判サイドへの批判を矮小化しようとする「ニセ科学批判者」のコメントが見受けられたりして「ああこの人もかあ」という気分になってくる。
先日ツイッターで問題になっていたのは、これのようだ。mika_berry氏というツイッタラーがリフレとニセ科学批判とネトウヨのつながりについて言い始めてそれにニセ科学批判派やネトウヨの定義が気になるタイプが反発して少し炎上のようになったらしい。
経済には明るくないので、具体的なところには踏み込まない。が、ニセ科学批判クラスタ、あるいはもしかしたら理系クラスタまで枠を広げてもいいのかもしれないが、けっこうな割合がいわゆる「リフレ」に近づいたのは確かにそうだなと思う。
ただしここも距離の違いはけっこうあって、単に「反緊縮」に近づいた人もいれば、はっきり「リフレ」に近づいた人もいる。俺も反緊縮については多分同意すべきなんだろうな、と思う。
なぜこういう動きが起きたかは分からない。単に、時代的に緊縮はもういい、という風潮だったのかもしれない。反緊縮は数字を勘定してイメージしやすい「ロジカル」なものだからという、もっともらしい理由がつけられるのかもしれない。それはわからないのだが、しかしこの「リフレに近づいた側」の少なからぬ人が、その後決定的にウヨに近づいていくことになる。
これも理由は分からない。反緊縮には賛同する、という程度の人は、あまりそっちへ動かなかったからだ。アベノミクスなるものがあったからといって、他の論点がいっぱいあるのだから、ウヨに近づく理由にはならないのである。むしろ経済で結果を継続して出せるように安定させるためにこそ、おかしな動きは徹底的に批判すべき、と思うのだが、なぜかそうならない人というのがいた。ニセ科学批判クラスタの外にもそういう人がやはり「なぜか」いて、新たな集団を作るようになる。リフレで経済的に豊かになることを期待するクラスタ、というよりは「政権を応援しマスコミを憎み野党のアラ探しをする」クラスタとなる。経済には明るくないのでよくわからないのだが、アベノミクスのような政策はほっとくだけだと企業が潤うだけだと聞く。こういう人が「再分配を求めるべき」「企業は給料をあげよ」というような動きをしたという話を寡聞にして聞かない。本当に経済が大事だと思っていたのか、いまいちよくわからないところがある。
昔ながらのニセ科学批判は、党派性から距離を置いているつもりの人が多い。これは「左派が多い」という、上で書いた話とも別に矛盾しない。もちろん、ノンポリもいる。俺だって党派がかるのは大嫌いだ。
それはいいんだけど、そうありたいと思うこととか、自分たちはそうだと思い込むことは、あんまり何かを担保してくれることではない。
ここ10年くらいのインターネットの歴史は、ノンポリが政治的な層、特にウヨに振り回される歴史だった。
1970年ごろの学生運動家だって、多くは本質的にはノンポリだったという話はよく聞く。でも、左翼運動の迷走についての責任を問われないかといえば、そんなことはないだろう。
俺が思うのは要するにそういうことだ。ニセ科学批判=ネトウヨというくくりは、なるほど雑だ。だけど、それを一笑に付せる無邪気さは、ちょっと俺には持てない。
http://gigazine.net/news/20170501-boring-company/
さすがにねーわと思ってはてなーも言ってるけど、はてなーはこれが中国初のニュースだったら
渋滞回避を狙った中国の「またがりバス」がまさかの実車化、今後は実験走行も開始
http://b.hatena.ne.jp/entry/gigazine.net/news/20160803-china-elevated-bus/
中国の勢いを感じる。中国すごい。それに比べて日本の保守主義を垣間見る。
みたいにとりあえずはちゃんと認めとかないとネトウヨ認定されたんだろうな。
バスの方は去年あたりに、色々問題が持ち上がって放置状態とかのニュース以降さっぱり聞かなくなって、褒め称えて熱狂してたはてなー達もそのニュースにブクマつける気すらしないほどに飽きちゃったみたいだけど。
おいやめろそういうこと言ってるとネトウヨ認定されるぞ!