ことインターネットでは、思想や支持する政治スタンスによって左から右のカラーリングを分け、しばしば自分と違うカラーリングの人をバッシングする様が観測できます。
しかし、至極当然ながら、カラーリングでの敵味方のカテゴライズは非常に危険です。集団効果は、異を唱える人間がいないことから自体を悪化させるため、お互いがお互いのイエスマンである関係は非常に不健全と言えるでしょう。
そして、バッシングする際に、相手のバックグラウンドを浅薄だと断定し、それ故の容赦のない罵倒をしている姿も散見されます。
ネトウヨ、パヨクとバカにするさまがまさにそれに当たるでしょう。
実際、ネトウヨと罵倒されても仕方ない、パヨクと罵られても仕方ない、そんなふうに思ってしまえる無茶苦茶な人もいますが、それはそれらの言葉が実際使われる頻度よりは遥かに希少なものです。
何故なら、呼称される側が、"その考えに至っても仕方がない"というシチュエーションが大半だからです。
例えば、私はここ六年ほどの韓国政府には一定の猜疑心を抱いていますので、韓国政府がおかしいと思うことは多々あります。
原発に関する強い否定をする方々にも少々距離を置きたくて、放射能を過度に怖がる事がかえって福島の方々を苦しめている様は正視に耐えないものがあります。
一方、組織犯罪処罰法の改正案の際は常に政府への不信感があり、ろくに修正されずに可決したことは心の底から落胆しました。急すぎだろあれ。
また、辻元清美と埋め立て作業員の関係に関しては、私は完全にデマと判断しています。
しかし、人によっては私の韓国や原発への言及をネトウヨ認定するかもしれませんし、組織犯罪処罰法改正案の話や辻元清美の言及ではパヨクと認定するかもしれません。
しかし、それって結局、自分が信じるスタンスと違うからってラベリングして叩いてるだけじゃないですか。それこそ浅はかじゃないですか。
人がその発言をするまでには、前提として知っている情報があって、それは見たテレビのチャンネル、読んだ新聞等によって変わってきますよね。
また、どんな知識を今まで培ってきたかによって、情報の受け止め方、咀嚼の仕方は違います。
それらの一人一人の違いは、たった一つのイシューの違いでネトウヨだのパヨクだので判断できるものでは到底無く、物凄い幅のあるグラデーションなのです。
さっき韓国政府の話をしましたが、日本から見ると無茶苦茶に見える政府の対応も、国の文化や制度を理解すると、なるほどと合点のいく場合も少なくありません。
ゲーム理論に基づけば、条件さえ揃えば多くの人は同じ行動を選択します。だから、何も不思議なことではないのです。自分の殻に入ったまま批判をしても仕方がないのです。
であれば、自分とスタンスの違う人間が何故そんな発言をするのか、考えに至るのか、そこに至るまでの流れを、相手の浅薄さと断定せず、何か理由があるのでは、と考えてみて欲しいのです。
原発の放射能の問題は、シーベルトやベクレルと言った単位が、どの値からどれくらいの健康被害が出るのか未だにはっきり断言できず、かつ政府への不信感も合わさることでとにかく怖がっている様子が見て取れ、自民党はエネルギーのベストミックスと位置づけ原発の廃止をする様子がないことから、恐怖感を持っている人はとても強いアレルギーを抱く様子が想像できます。
それらの人の人生に、原爆、スリーマイル島、福竜丸、チェルノブイリと言った深刻な事故の記憶が深く刻まれているなら、尚の事です。
テロ等準備罪と言われる組織犯罪処罰法改正案も、政府が立法事実にしてることが全部薄弱な根拠であることに目はつぶるとして、完璧に事件を未然に防ぐには、NSAのような事前の操作能力がプライバシーを侵しかねないほどの大きさで必要なのも、理解はできます。
辻元清美の一見も、生コン会社との献金の話は本当でしたし、籠池夫人のメールが修正求められてそれにメディアが応じたのも、メディア不信の人間からすると、極めて辻元清美に有利に動いたよう映るのもよく分かります。また、訂正報道をしたのも、TBSラジオであり、TBSは過去、石原慎太郎の発言を事実と違う形にテロップをつけて放送したことがあるため、信用に値しない、と判断する人もいたことでしょう。
考えはわかる、理解はできてる。
それでも、違うものは違うときもあるのですよ。でもそれは、発言者がネトウヨだからでもパヨクだからでもない。前提にする知識がまちがっていたり、あるいは不足しているから、事実に即していない発言になるのです。
韓国政府は、バックグラウンドや法制度、政治のルールを把握すれば、行動は理解できますが、それが国際法や外交の態度として適切かどうかの指摘や非難は、妥当な範囲でされて然るべきです。
原発を過度に恐れるのと福島への偏見をもつのは、感情論が先行している側面は否定できないでしょう。地域の測定データは常に掲載されており、農産物は問題がないと断定できます。健康被害は今後も観測が必要とはいえ、今のところ現れていません。
恐らくリスクがあるだろうと推定できるので怖がるのと、リスクがゼロじゃないから怖がるのとでは、随分違うじゃないですか。この場合、後者の怖がり方をしているように見えるわけで、その場合、この世に絶対がない以上、安心は得られないって事になります。それは極論だとしても、大丈夫であろうってデータが出ているのですから、それを無視して原発を恐れるあまり、福島を過度に恐れるのは、差別につながるってリスクを知って頂くことで、大丈夫であろうってデータを真摯に受け止めて欲しいです。
組織犯罪処罰法改正案も、政府の説明する立法事実が根拠薄弱である以上、仮に荒れる議題だとしても、プライバシーと犯罪抑止の議論はしっかりとするべきだったはずで、その点政府は本当に不誠実であったと言わざるを得ません。
辻元清美の一件も、何故籠池夫人がその話を知っていたかという視点に当てると、メールを送ったタイミングのほぼ直前に、そう言った無根拠のデマが松山昭彦氏らのブログに載る形でネットに出回っていた事を確認できる以上、それを見た夫人がメールを送って、そのメールがマスメディアに掲載されていたであろうと言う流れを把握して、真偽を推し量ることが必要です。
もちろん、この四つの話題、私のこの書き口に批判があることでしょう。
しかし、批判されても全然いいんです。私は私の知り得る限りの情報から、これらの話の結論を持ってきました。違う結果が出たのなら、それは違う前提知識によるものです。その知識をもとに私を批判することは、私に新たな知識と知見を提示することであり、それは私にとってもとても望ましいことです。
真実の探求やより良い形を求める際、ディベートという討論方式が用いられます。
これは、いわゆる言論の喧嘩ではなく、それぞれの立場になって、立場をロールし、それぞれの立場で知識を用いることで、より良い決断や探求を行うための会議話法なのです。
自分と違う意見の人間がいたら、すぐに「あなたは間違っている」と言うのではなく、「何故そう思うのですか」と聞き、自分との違いを浮き彫りにしながら、相手の立場なら自分はどう考えただろうと想像する。それだけで、随分言論は平和になりませんか。
私の両親は共に政治思想はリベラルですが、父の場合は洋楽にハマってアメリカ文化に興味を持ち、その一環で公民権運動に感銘を受けた背景があります。
母の場合、フォトジャーナル誌を出先の銀行で読んで衝撃を受け、以後反戦の思いが強まるとともに、中東問題に強い関心があるためであります。
二人とも、共謀罪反対、自民党を快く思ってないって点では一致していますが、根っこに同じものが根ざしているわけでは、全然ないのです。それも、同じ時代を生き、長らく生活を共にしてきた夫婦であってさえ、です。
それだけ、一人一人、考えに至るまでの前提って違うと思うのです。
だから、ネット上で自身と違う意見があっても、想像の翼を広げて見てください。向こうにいるのは同じ人間です。必ずしもその人はあなたより劣っているのではなく、あなたと違う人生を送ってきただけなのです。