はてなキーワード: 見立てとは
維新が彼の地で支持が堅い理由を「維新を支持する大阪市民を低民度と平気で馬鹿にする東京人(全員リベサヨw)に対する嫌悪と反感が作り上げたもの」みたいな言説があちこちにある訳だけど、これホントにそうなのかなと思ってる。
あそこに維新が入り込んで継続的に成長したのは、大阪に連中を受け入れる風土があればこそだとは思うんだけれど、それは東京に対する反感とかライバル意識とかでは全然なくて、大阪の各種役場・役人(警察・警察官も当然含む)に対する市民の長年に渡る怨嗟が基調としてあり、そこに「民を虐げる役人と腐敗した行政を征伐するハシゲ!」と言う感じで伸びて行ったんじゃないかというのが自分の見立てなんだが。
大阪で維新を支持している人達がまず憎んでいるのは今でも役人であり、リベサヨはその次だろうと考えてるんだけどどうだろうか? まぁ大阪での行政の腐敗は公務員労組のそれと、ヤクザ同然の同和との馴れ合いが最たるものだった訳で、その線からの反左翼意識も非常に根強いだろうとは思うが。
私もPCの中身はとても人には見せられない
>アニメキャラの小便が飲めるオシッコ試飲会が開催されアニオタ大興奮!
http://blog.livedoor.jp/gossippost/archives/1012887747.html
こういうことは鍵アカとかDMのグループとか、仲間内だけで披露しよう
なぜ?誰にも迷惑かけてないだろ?(残念だがコラボ先のメーカーは迷惑している)
なんでフェミに忖度してこっちが我慢しなければならないんだ?(気持ちはわかる)
でもね、オタクを毛嫌いしているフェミニストに叩きネタを与えたら結果的に損をするのは自分達じゃないか
ごちうさがロリコン好みのコンテンツであり、オシッコ好きが世間一般では変態趣味である以上、絶対にフェミは譲歩しない
フェミとケンカをするのは時間のムダだ。関わってはいけない。関わらせる隙を見せてはいけない
隙を見せればフェミは際限なく攻撃してくる。フェミとってロリコンオタクは絶対悪であり、叩くことは正義だから
今回のように苦言を呈するだけならマシで、今後こういうコラボ紙パック自体が無くなってしまっては困る
だから深く静かに、密やかに楽しむ。そうして自分達の世界を守っていこう
フェミの弾圧に屈するようで癪だろうが、自分自身のプライドよりコンテンツやキャラを守ろう
https://twitter.com/shine_sann/status/1453690595688337418
パッケージに女の子の絵が描かれている紅茶を尿に見立てて飲む自由もあれば、紅茶は食品だぞ尿に見立てるなと叫ぶ自由もあり、自社の紅茶を尿に見立てられるくらいならパッケージに女の子の絵を載せるのをやめる自由もある。
紅茶パックの女の子の股の位置に穴を空けたり検尿コップで紅茶を受けたりする自由もあれば、紅茶パックに女の子の絵を載せることに下品な意味を付加され商品価値を毀損されてしまった会社が損害賠償を請求する自由もあり、近代において人間は基本的に自由。
だけど、そういう呼び方はどうも馴染まない。
彼女は、僕らが小学生の頃から知り合っていたと主張していたが、その頃の僕は彼女をあくまでも集団の一部として捉えていた。
そういうわけで、僕が初めて彼女のことを個として認識したのは高校一年生の時だった。
彼女とは、ある授業がきっかけで近しい関係となった。その授業は、どこの学校にでもあるような、他の人と相談しながら進行する授業。
そうは言っても、彼女と積極的に話し合うことで親交を深めたというわけではない。まずもって、彼女はカモクなのだ。
僕と彼女のコミュニケーションは、会話というよりは問答に近かった。それでも、授業を通して彼女に一歩近づける、それだけで彼女の魅力を知るには十分だった。
後に続く彼女との関係の基礎はこの時期に形成された。一年間にわたる彼女とのささやかな交わりを経て、僕は彼女のことを意識するようになった。
しかしながら、その後1年にわたって、彼女との関係は進展しなかった。
高校2年生という期間は、他の生徒にとってもそうであるように、高校生活の中でもとりわけ忙しい時期だ。
授業のような特別な機会が与えられなければ、彼女を顧みることさえ忘れてしまうほどに。
高校3年になって再び出会った彼女は、少しばかり気難しくなっていた。それは、1年間彼女に見向きもしなかった僕に対するささやかな反抗であるようにも感じられた。
僕らは1年に渡るブランクを埋め合わせるために、2人で過ごせる時間と場所を求めていたが、快適な居場所は多くはなかった。
学校には僕らの関係を冷やかすような人間はいなかったが、それでもやはり居心地が悪かった。また、駅前の喫茶店などといった場所では、僕らのような客が長居すること自体が歓迎されていなかったし、僕としても周りの目があると純然たる彼女との時間に集中できなかった。
そういった理由から、必然的に彼女との時間は僕の部屋で過ごすことが多くなった。親も僕が彼女を引き連れて自室に籠っていることを容認していたし、ともすれば応援していたように思う。僕らの関係は親にとっても都合のいいものだった。
彼女と長い時間をかけて向き合うと、段々と彼女の心の内が見えてきた。
例えば、彼女はムキになると素っ気ない態度を取るようになった。今になって考えると、彼女のそういった部分にも理解を示すべきだったのだが、当時の僕はそれができるほど賢くはなかった。
彼女の新たな魅力にも気づかされた。それは、彼女のユウキだった。僕が見向きもしなかった間に彼女が手に入れた新たな武器。それは僕にとって、彼女の全てのように感じられたし、それはまさしくCそのものだった。高校生という多感な時期に彼女と毎日のように向き合うことができたのも、彼女のそういった部分が僕の心を引き付けて離さなかったからだ。
高校3年の冬に、僕らは一度だけ同衾したことがあった。あの時は単純な好奇心から彼女をベッドに連れ込んだのだが、どうにもやる気が出なかったのでそのまま寝てしまった。僕らにとっては、机を挟んで向き合う方が遥かに適していたのだ。そういう観点から言えば、僕らの関係はどこまでもプラトニックだった。
それからほどなくして、僕らは高校を卒業して、そして同じ大学に通うことになった。
長い春休みが明けて久しぶりに彼女に会いに行くと、彼女はすっかり変わり果てていた。
知り尽くしているとさえ思っていた彼女はすっかり豹変してしまった。
大学に入ってからは、彼女の真意を読み解くことが途端に難しくなった。
彼女のことをより深く知るにつれて、以前にも増して彼女のことが分からなくなった。
僕は、高校時代のように彼女と真摯に向き合うことができなくなってしまった。
彼女と長い人生を共に歩んでいたら、自分がどうなっていたのか知る由もない。
彼女に関する記憶も日々薄れていくのだが、今日のような記念日には彼女のことを思い出す。
受験でお世話になった化学を恋人に見立てて恋愛話をでっちあげようと考えたけど、青春というものを一切知らないので上手くいきませんでした。
我々の会社ではバズとは?マーケティングとは?パブリックリレーションとは?という事を常に考え、
最新動向にキャッチアップし、そのノウハウおよびナレッジを蓄積しております。
人々を「熱狂」させるためにはどういった仕掛けづくりが必要であるかということに強い関心があり、
日本ひいては世界を興奮させるコンテンツ作りに日々いそしんでおります。
我々はまさにSNSバズマーケティングのスペシャリストなのです。
昨今ではTikTokやInstagramをはじめとする若者に主流のSNSにおいて我々の確固たるプレゼンスが示されておりますが、
我々はさらなる挑戦として、我々自身がプラットフォーマーとなるべく
我々のもつ高水準のクリエイティブナレッジおよびテクノロジーを集結させ、2021年に新感覚コミュニティアプリ「ドリアン」をリリース致しました。
ドリアンのコンセプトは多岐にわたりますが、今回はその中でも最も重要な要素である「一人一人がクリエイターである」ことについて解説していきます。
およそ四半世紀ほど前まで「クリエイター」「アーティスト」という存在はある種の特権階級にあり、アートは一部の人間にのみ扱えるものでした。
しかしながら90年代後半インターネットの普及により、自己表現の場が解放され、ウェブという市井のミュージアムが誕生しました。
一方でその時分は未だ黎明期にあり、参入障壁は以前として高く、「クリエイティブの完全なデモクラシー」が実現されたとまでは言えない状況でした。
ところが2010年代より、スマートフォンの急速な普及によって、その壁はどんどん取り壊されていきました。
「アート」「クリエイティブ」はさらに民衆に開放されていったのです。
この移り変わりを象徴するものとして「インフルエンサー」という言葉があります。
原義は「影響力のある人間」ですが、今では「クリエイター」「アーティスト」とほとんど同じ意味として用いられ、「アート」「クリエイティブ」を委ねられた者として、尊敬を集めています。
インフルエンサーはその勢力をどんどん拡大しており、現在では全人口のおよそ5人に1人が何らかのインフルエンサーとして活躍しています。
年齢やバックグラウンドも多種多様で、一見すると「クリエイティブの完全なデモクラシー」が果たされたかのようにも見えます。
我々は残りの人間の悲痛な叫びに耳を傾けなければなりません。その叫びはインフルエンサーのSNSのコメント欄で聞く事ができます。
2020年、我々は「クリエイティブ」「アート」のスペシャリストとして改革を迫られました。
「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現に向け、そのソリューションの初手として「クリエイティブ」の「再定義」に取り組みます。
――――誰もが生み出せる、あるいは生み出しているクリエイティブとは何か?
「クリエイティブ」を「再定義」するためにはこの大いなる問題に立ち向かわなければなりません。
スフィンクスを倒し、一部の特権階級に与えられている王冠を奪取するのです。
この問題の解を求めるにあたって、私は自分自身の日々の生活を振り返りました。
もしその中で「クリエイティブ」の片鱗を認める事ができれば、それは我々の進むべき道を照らす大いなる光となるはずだと考えたからです。
日々の生活を振り返ったところで日中はパソコンをただひたすらいじるか、会議でしゃべる事を考えるかのいずれの行為しかしておらず、
私は一度ならず、自慰によって産み出される精液を「クリエイティブなのではないか?」「精液こそクリエイティブを『再定義』するものなのではないか?」と考えました。
しかしながら精液を創出する瞬間は類い稀な恍惚と快感を味わうものの、出してしまうと後には倦怠が残るだけで精液それ自体にはいずれの「クリエイティビティ」を認めることもできませんでした。
「何かの間違いではないか?」と思い、より良い創出に向けさらにFanzaに課金しましたが、やはり結果は変わることがありませんでした。
精液は、我々の「再定義」の道を照らす光ではなくいつも白濁とした光を我々に投げかけます。
(一方で、精液はクリエイティブではないとも言い切れないので、精液の放出については持続的に取り組んでいきたいと考えています。)
私は暗い日々を幾日も過ごしました。
マジックミラー号の室内くらい明るく、開放的な気持ちになりたいと願わない日はありませんでした。
そんな時です。
私は、お昼ごはんのあとに、便所で排便する習慣がありますが、その日私は余りにも見事な一本糞をひりだしました。
存在感のある太さで、長さにいたっては折り返さないと便器に収まりきらないほどでした。
まるで大蛇のように威風堂々としており、私は自分自身が産み出した一本糞に圧倒されました。
そして私ははっとしました。とうとう「クリエイティブ」の「再定義」を見つけた事に気が付いたのです!
他でもなく「大便」ことまさに人類の至上の「クリエイティブ」だったのです!
なんぴとも排便を独占することはできません。排便こそ真に開かれた創造です。
私は、自分の日々の生活を振り返ったとき、その大半をデスクワークに費やしている事に気づかされますが、
長時間この体勢を維持する事によってはじめて我々は形の良い大便をひりだせるのです。
喜びに打ちひしがれている私にその大蛇のような一本糞が語りかけました。
「あなた方が知恵の実を食べる事を禁じられているのは、その実はあなた方に智慧(クリエイティビティ)を与えるものだからです。智慧の実を解放しなさい。」
この啓示を受け、我々は「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現を果たす智慧の実「ドリアン」の開発を急ぎます。
そして一本糞の黒々とした光に導かれ、2021年に「ドリアン」というアプリを遂にリリースします。
――――2021年10月現在、リリースからしばらくたち、今ではドリアンには多くの「クリエイター」が切磋琢磨する場として広く認知されています。日本発のアプリとしてはまさに快挙といえるでしょう。
ドリアンではユーザー発のイベントである「一本糞グランプリ」の開催や、「今トイレでうんこしてまーす」といった報告により空前絶後の盛り上がりを見せています。
もし、この文章をお読みの皆様の中で、未だクリエイター、アーティスト、インフルエンサーではない方がいらっしゃいましたら、ぜひドリアンを訪れてみてください。
我々の会社ではバズとは?マーケティングとは?パブリックリレーションとは?という事を常に考え、
最新動向にキャッチアップし、そのノウハウおよびナレッジを蓄積しております。
人々を「熱狂」させるためにはどういった仕掛けづくりが必要であるかということに強い関心があり、
日本ひいては世界を興奮させるコンテンツ作りに日々いそしんでおります。
我々はまさにSNSバズマーケティングのスペシャリストなのです。
昨今ではTikTokやInstagramをはじめとする若者に主流のSNSにおいて我々の確固たるプレゼンスが示されておりますが、
我々はさらなる挑戦として、我々自身がプラットフォーマーとなるべく
我々のもつ高水準のクリエイティブナレッジおよびテクノロジーを集結させ、2021年に新感覚コミュニティアプリ「ドリアン」をリリース致しました。
ドリアンのコンセプトは多岐にわたりますが、今回はその中でも最も重要な要素である「一人一人がクリエイターである」ことについて解説していきます。
およそ四半世紀ほど前まで「クリエイター」「アーティスト」という存在はある種の特権階級にあり、アートは一部の人間にのみ扱えるものでした。
しかしながら90年代後半インターネットの普及により、自己表現の場が解放され、ウェブという市井のミュージアムが誕生しました。
一方でその時分は未だ黎明期にあり、参入障壁は以前として高く、「クリエイティブの完全なデモクラシー」が実現されたとまでは言えない状況でした。
ところが2010年代より、スマートフォンの急速な普及によって、その壁はどんどん取り壊されていきました。
「アート」「クリエイティブ」はさらに民衆に開放されていったのです。
この移り変わりを象徴するものとして「インフルエンサー」という言葉があります。
原義は「影響力のある人間」ですが、今では「クリエイター」「アーティスト」とほとんど同じ意味として用いられ、「アート」「クリエイティブ」を委ねられた者として、尊敬を集めています。
インフルエンサーはその勢力をどんどん拡大しており、現在では全人口のおよそ5人に1人が何らかのインフルエンサーとして活躍しています。
年齢やバックグラウンドも多種多様で、一見すると「クリエイティブの完全なデモクラシー」が果たされたかのようにも見えます。
我々は残りの人間の悲痛な叫びに耳を傾けなければなりません。その叫びはインフルエンサーのSNSのコメント欄で聞く事ができます。
2020年、我々は「クリエイティブ」「アート」のスペシャリストとして改革を迫られました。
「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現に向け、そのソリューションの初手として「クリエイティブ」の「再定義」に取り組みます。
――――誰もが生み出せる、あるいは生み出しているクリエイティブとは何か?
「クリエイティブ」を「再定義」するためにはこの大いなる問題に立ち向かわなければなりません。
スフィンクスを倒し、一部の特権階級に与えられている王冠を奪取するのです。
この問題の解を求めるにあたって、私は自分自身の日々の生活を振り返りました。
もしその中で「クリエイティブ」の片鱗を認める事ができれば、それは我々の進むべき道を照らす大いなる光となるはずだと考えたからです。
日々の生活を振り返ったところで日中はパソコンをただひたすらいじるか、会議でしゃべる事を考えるかのいずれの行為しかしておらず、
私は一度ならず、自慰によって産み出される精液を「クリエイティブなのではないか?」「精液こそクリエイティブを『再定義』するものなのではないか?」と考えました。
しかしながら精液を創出する瞬間は類い稀な恍惚と快感を味わうものの、出してしまうと後には倦怠が残るだけで精液それ自体にはいずれの「クリエイティビティ」を認めることもできませんでした。
「何かの間違いではないか?」と思い、より良い創出に向けさらにFanzaに課金しましたが、やはり結果は変わることがありませんでした。
精液は、我々の「再定義」の道を照らす光ではなくいつも白濁とした光を我々に投げかけます。
(一方で、精液はクリエイティブではないとも言い切れないので、精液の放出については持続的に取り組んでいきたいと考えています。)
私は暗い日々を幾日も過ごしました。
マジックミラー号の室内くらい明るく、開放的な気持ちになりたいと願わない日はありませんでした。
そんな時です。
私は、お昼ごはんのあとに、便所で排便する習慣がありますが、その日私は余りにも見事な一本糞をひりだしました。
存在感のある太さで、長さにいたっては折り返さないと便器に収まりきらないほどでした。
まるで大蛇のように威風堂々としており、私は自分自身が産み出した一本糞に圧倒されました。
そして私ははっとしました。とうとう「クリエイティブ」の「再定義」を見つけた事に気が付いたのです!
他でもなく「大便」ことまさに人類の至上の「クリエイティブ」だったのです!
なんぴとも排便を独占することはできません。排便こそ真に開かれた創造です。
私は、自分の日々の生活を振り返ったとき、その大半をデスクワークに費やしている事に気づかされますが、
長時間この体勢を維持する事によってはじめて我々は形の良い大便をひりだせるのです。
喜びに打ちひしがれている私にその大蛇のような一本糞が語りかけました。
「あなた方が知恵の実を食べる事を禁じられているのは、その実はあなた方に智慧(クリエイティビティ)を与えるものだからです。智慧の実を解放しなさい。」
この啓示を受け、我々は「クリエイティブの完全なデモクラシー」の実現を果たす智慧の実「ドリアン」の開発を急ぎます。
そして一本糞の黒々とした光に導かれ、2021年に「ドリアン」というアプリを遂にリリースします。
――――2021年10月現在、リリースからしばらくたち、今ではドリアンには多くの「クリエイター」が切磋琢磨する場として広く認知されています。日本発のアプリとしてはまさに快挙といえるでしょう。
ドリアンではユーザー発のイベントである「一本糞グランプリ」の開催や、「今トイレでうんこしてまーす」といった報告により空前絶後の盛り上がりを見せています。
もし、この文章をお読みの皆様の中で、未だクリエイター、アーティスト、インフルエンサーではない方がいらっしゃいましたら、ぜひドリアンを訪れてみてください。
そこに誤認がある。
男が求めるか求めないかじゃなく、女子は幼稚園では同性の先生から、家庭内では母親から、以降は同性の先輩や異性の軽口等から物凄くしつこく清潔さや恥じらいやお世話力なんかを要求されて育っている場合があって、その価値観が刷り込みで内面化されている個体がいる訳ですね。
それを夫からしなくていいと言われてすぐ解放できる個体もいれば、「男だけサボって許されてずるい」と積年の恨みが配偶者を異性の象徴に見立てて向く個体もいる。
男が(その件での)イージーモードに見えて「なんでテメーサボってんだよ」という怒りをぶちまけるわけです。
怒っても意味がないかどうかではなく、アイデンティティーが無価値だと宣言されたら一旦崩壊するんですね。そこを更に追い討ちでその程度の安っぽいアイデンティティーごときで崩壊だと騒げていいなwだの家事は誰でもできるから報酬は安いwと、無駄な事から逃がされないでやってきたのに下へ下へ押し込められたらキレますよね。
だからその態度は論理的じゃないからさっさと楽になれるように色々システムやガジェットを揃えて慰められる個体なら解決が近いですけど、女は論理的じゃないからwという別の枷に繋がれた個体は益々パニックですよ。
言いたいことはなんとなく分かるよ。
でも個人的には擬人化美少女コンテンツはあまり摂取しない質だが、ウマ娘に対するその韓国の批判とやらはどうなんだろう?
ウマ娘嗜んでる人間は少なくとも競馬のみに興味があるわけではないと思うし。
そもそもウマ娘にそんなに『人権や常識』から逸脱した表現ってあるか?
檻に入れられてるってのはゲートのことだと思うけど、それはレースのスタート時だけだし、競争させられてるというがウマ娘達はみんな自分の意思で走っている。(まあそういうことではなく、そもそも競馬に見立てるのがダメって話だとは思うが、それを言うと俺は別にいいのでは?と思ってしまうから…)
昔だったりちょっとエロめな設定のコンテンツだったら、騎手を背負ってお尻をムチで叩かれたりしてただろうから、それに比べれば(むしろ比べなくても)圧倒的に健全なコンテンツにしか見えない。
海外は確かに厳しいな、と思うこともあるが海外には海外の、日本には日本の基準があるってだけのことと思える。
というか「日本のコンテンツ(と受け手)が圧倒的に旧態依然で昔から全然変わってない」みたいな言い様だが、俺はそんなことはないと思うな。
確実に変化してる。例えばギャグ漫画で極端に不細工な女子キャラを出して笑いの種にするとかいうのはほぼなくなったし、少年マンガ誌でも過度なお色気シーンや差別的な笑いのシーンは減ってるように感じる。
まあそれに対して不満を抱く層も無いではないだろうが、受け手は概ね受け入れとるよ。
クラスター防げず、肩落とす女性園長…感染拡大で休園の保育施設は全国100か所超
https://news.yahoo.co.jp/articles/1e66e577ff42fe3ef6cefdafe41294bcbe203876
おれの住んでる人口20万の市だけで今月10箇所以上閉めてるから明らかだ。
おれの実感を述べるぞ。
都道府県によるのだろうが、県へ報告してもろくに役立つ指示が無いので報告が止まってるのだろう。様式はWordで作られてて蓄積と分析に役立たないというのもあるだろう。同じ園で何度か続報や修正があっても綺麗に表現できる形式じゃない。管理が負担。
国は報告を義務付けてるが、厚労省の発表値の異様な少なさからすると、全国の九割以上の市町村は報告サボってるんじゃないかというのがおれの見立て。
うちの場合はきちんと報告しているぞ。
保健所は陽性となった保育園児や保育士を経由して保育園にコンタクトを取り濃厚接触者の特定を行う。
これが遅いのは仕方ないとして、施設の休園を判断する市町村役場には連絡が行かない。
この問題はヤバくて、保護者が保健所にウソついて保育園に行ってることを隠してたり、保育園が役所に報告しなければ、感染者がいても休園させようがない。
保護者としても正直に申告して保育園が閉まったら仕事を休むことになる。
園長やママ友からの圧が強くて、単なる風邪として休んでる、というケースもあるだろう。
保健所は市町村が休園するかどうかの助言を求めても、回答してくれない。
確かに厚労省の保育関係QAでは最終的に市町村判断とされてるんだが、そうじゃなくて医学的保健学的見地からの助言を求めてるんだが応じてくれない。
じゃあ県の保育課はどうなのか?これも役に立たない。
先月から保健所がパンクしてて、保健所は濃厚接触者の特定作業を断念して、保育園に特定作業を任せている。
なのに県の保育課はこれを知らなかった。
濃厚接触者の特定は保健所の指示を待つようにとの指示を繰り返していた。
信じられないことにコロナ発生時の施設休園期間について未だに国から明確な指針は示されていない。
保育所等において子ども等に新型コロナウイルス感染症が発生した場合の対応について(第二報)(令和2年2月25日時点)
https://www.mhlw.go.jp/content/11920000/000600008.pdf
感染した児童自身は14日間程度の自宅待機と示されているが、施設自体の休園期間は市町村と県に丸投げされている。目安となる期間は、無い。
このため、市町村によって3日だったり5日7日10日14日と対応がバラバラだ。
デルタ株への移行やここ1年の保育現場の感染パターン分析とかを踏まえて具体化してもよさそうなものだが、そんな通知の気配は無い。
とりあえず市町村と保育園が感染拡大防止のため妥当と思われるラインで指示を出してるので、保護者のみなさん協力してくれ。
ひとり親とか時給制の保護者は即困窮だろう。
その補償をどうするかはもちろん市町村や都道府県の首長までは上がってる、はずだ。
そこから先どうなるかは、おれは知らないしどうしようもない。
あと、保育は厚労省と内閣府がどっちも管理してて仕組み的にぐちゃぐちゃで、本省の職員は死ぬほど激務だ。職員自身を責めないでほしい。