はてなキーワード: 草刈りとは
年金だけでは足りない、2000万必要だから大変だって話にピンと来ない。
そんなに使わないし、2000万くらい60歳までに普通に貯まるでしょ。
俺は高卒地方工場勤務年収430万くらいの32歳独身一人暮らし。
もう貯金通帳の数字が1000万を超えている。財形貯蓄と従業員持株会をあわせたら2000万近く。
ちなみに株は会社の補助と値上がりで300万くらい上乗せされている。
車はコンパクトカーだが新車で買う、年に1~2回は飛行機や新幹線に乗って旅行にも行く。
月の生活費は家賃入れて12万くらいだが別に節約している意識は無い。
少し変わったところと言えば、大家さんが農家なので休日のヒマな時に手伝って米や野菜をもらっているくらい。
節約出来ているとしても月に1万くらいなので貯金に与えるインパクトはさほど大きくない。(むしろ月に2~3回半日駆り出されて最低時給割っている予感)
結婚して専業主婦を抱えているとか、子供が2~3人居て習い事にお受験とやらせているなら大変なのはわかる。
公務員や正社員の友人に聞いたところでは独身だと俺と似たようなペース、既婚共働きでもほぼ同じ。
子持ちの場合は大学の学費やこれからかかる費用を積立してて、それらを除けば俺の半分くらいのペース。
非正規には聞けなかった。
老後に2000万必要で大変、とても出来ないと言ってる人はみんな非正規とか専業主婦持ちなのか?
またはものすごい浪費家?
俺にはよくわからん。
普通に働いて普通に生活したら30代で2000万くらい超えるでしょ。
ここに住む前は会社の寮だった。
隣に入居した新人がベランダでタバコ吸う奴だったので退去したわ。
両親は共に公務員で遺産と生命保険も有って、明らかに俺より金もってる。たぶん1億に近いくらい。
ボケたり病気になったら老人ホームに放り込めと常々自分で言ってるからそうするつもり。
休日に揃ってキャンプやってる元気中年なのでまだ先の話だろう。
子供が生まれたら1000~2000万かかるのは知っているが、大学卒業前提で22年の猶予がある。共働きなら余裕だろう。
俺は家事がそこらの20代女よりできるから共働きでも何も問題無い。休日に姉貴や親戚の家で子守しながら料理作れるレベルだ。
そもそもウチの地方に大卒で給料がガツンと上がる仕事が無いから高卒で十分だと思っている。
国立大学余裕な出来の良い子ならいかせてやるが、私立のバカ大学に行きたいと言い出したら自分で奨学金借りてどうぞと言う。
そんな事言うと結婚出来ないぞと親戚から言われているが両親は理解してくれているので構わない。
俺の年収が地方にしては多いという指摘が有るが、多かったとしてもお前たち生活費12万以下に抑えてるの?
家賃3万のところに住んでる?
稼ぎも無いのに無駄遣いしながら俺の年収が多いと呪われてもなぁ。
俺は今から年収が半分になったとしても、60歳までに2000万は普通に貯まるよ。
絞るつもりなら車を原付きにして雨の日は親の軽トラでも借りれば月10万以下行けると思うが、皆さんはどう?
社会人なら毎月3万は絶対に貯金しろ、持株会や財形は得だから目一杯いけという親の教えを守っているだけだが、怒っている皆さんは教育してもらえなかったの?
ちょっとよくわからない人が発生しているが「俺はお前より金を貯められないけど、お前より賢い(要約)」って主張している人は何?
俺より金が無い人は、俺よりバカだから金がたまらないのではないのか?
お金を使う計画性が無い、仕事を選ぶ知性も無い、友人知人とコミュ取って何かを調達する事も出来ない。ナイナイ尽くしじゃないの?
子供が居るから貯まらないと言われても、お前結婚してて二馬力だよね?としか思わない。
病気などの個別案件は知らない。俺は週7で働いても平気で大病した事が無いから病人の気持ちはわからん。我が地方の褒め言葉は「働き者」だ。
別に病人や障害者に同じ事しろとも思ってないし。病人や障害者は国を頼って生きればいいと思うよ。お大事にね。
うちの親や近所の地主さん大家さんは金持ってるから非常に余裕がある。
逆に金の無い奴は他人の話を聞いてすぐに怒る。
この経験から推測するに、キレている人達は金が無くて生活に余裕が無いのだろう。
中国語を勉強していたら、「一定甜的橘子」という文章に遭遇した。
内容は、一休さんのようにとんちを聞かせて上手いこと言い訳して難を逃れるというたわいもない話。
けれども、このテキストを読んでいると不意に他のことを考えてしまう。
ぼくの両親の実家は愛媛で、母の実家は瀬戸内海に面する小さな港町だった。
出身を言うと「みかんだよね」と、得意そうに、ときに申し訳なさそうに言われる愛媛県民のどれくらいがそうしているのかわからないのだけれど、ぼくの家には子どもが生まれたらみかんの木を植えるという習わしがあった。種からではなく、苗から植えて、遅くとも小学校の入学までには自分のみかんを食べる。一つの通過儀礼だったのだ。
みかんを植えたのは母がたの祖母である。祖母は、無口で芯を持っていて、彼女を知る人から言わせると、珍しい人、であった。ぼくが物心つくころには祖母と祖父は仕事を退職しており、いつも家にいた。だから、ぼくと兄は、よく遊びに行って、いろんな場所に連れて行ってもらった。魚市場、港、砂浜、そしてみかんの木のある山へと。
みかんの木の植えてある山までは歩いて30分ほどかかる。それに道は急勾配だった。それでも還暦を超えた祖母は、ぼくたちを連れて山に登った。祖母の畑は頂上に展望台がある山の中腹にあり、海が綺麗に見える。天気の良い日には、猫のほうが人口より多いという島が見えるが、当然のごとく猫は見えない。
少しだけ耕された土地と、植えられた数本のみかん。鍬やはさみなどの農業道具を保存する小さな小屋。土地自体は広いのだけれど、管理されている土地はそれくらいで、他は好き勝手に雑草が伸びている。
祖母の話では、2週間に1度ほどこの山に登り、ぼくたち兄弟の木の周りに生えた雑草を抜いているらしい。体調を心配する母に「この子らはまだ弱いけん、守ってあげなね」と言い、行く頻度は実がなるまでの間、ずっと一緒だったそうだ。
山に行ったことは覚えているのだけれど、初めてみかんを食べた日のことは覚えていない。母曰く、「あまり甘くなくて美味しくなかった」とのこと。それから毎年、雪が降りはじめる少し前に「あまり甘くないみかん」を食べるようになった。クソガキだったぼくは、祖母の苦労など知らず、甘くないから、あまり食べなかった。
数年後、ぼくは高校に無事入学して、少し遠くの学校で寮生活を始めた。家に帰るのは数ヶ月に一度になり、祖母の家に行くのも同じくらいの頻度になった。祖母の体調が優れないと聞いたのが夏のこと。秋にはステージ4のがんが見つかり、ホスピスに入り苦しんでいた。そして、春を迎えることなく、年末に、みんなに看取られて亡くなった。
最後に交わした言葉は今でも覚えている。というより、忘れられない。
祖母が亡くなり、祖父は持病の腰痛が再発して、買い物に行くことも、もちろん、山に行くこともできなくなった。山には誰もいかなくなり、土地の権利を売るかどうかという話になったとき、「ああ、そういうのもあったね」と言われるほどには忘れられてしまった。
誰に言われたわけでもないが義務のように毎年草刈りに行く父は、年末年始にぼくたち兄弟に対して山の話をする。
「〇〇の木はまだ残っとったぞ」
心の中で「当然だ」と思う。
その木に実るみかんは甘いのだろうか。
そもそも、今でも実るのだろうか。
twitterで「#先生死ぬかも」というタグが流行っているので以前、私の勤務していた地方の私立高校のことを書こう
20年くらい前なのだが就職して寮に入るように言われた、寮とは職員の寮ではなく生徒の寮である
その高校での教員の一日はまず、寮で6:30にワンフロア15人位の点呼を取る、その生徒たちと一緒に草刈りや掃除をする
7:30に生徒と同じ食堂で給食を摂り、校舎に向かう(寮は校舎の隣りにある)、授業をして、部活をする、これは他の学校と同じだ、ただ高校なのだが生徒と一緒の食堂で給食を摂らねばならない
その後18:00に3度めの給食を食堂で摂り、その後はだいたい学校に戻り仕事をするのだが、週に1,2度19:00から寮の生徒と何らかの行事・会議(寮にも学校と同じように委員会がある)をやる
このような生活なので学校の外に出ることがほとんどなかった。行くのはコンビニだけである、しかし、夜にまちがってコンビニで生徒と会おうものなら最悪で夜間に無断外出ということでその処理が始まり収集がつかなくなる
もちろん男子高校生が夜の10時ころ近所のコンビニにいきトラブルになることなどほとんどないのだが、みつけたらそうなるので、近所のコンビニには行かないようにしていた。近くにパチンコ屋とゲームセンターがあってそこに生徒がいると通報が入り、夜、見回りの仕事が増えたこともあった
部活動は希望が通ればいいのだがだいたい通らず、運動部になったので日曜は練習や試合である、(ちなみに私学なので土曜日は授業があった)
よかったのは平日に授業がない日がありその日は学校に行かなくてもよいというルールが有り、少なくとも午前中(午後は残務処理や部活のためだいたい学校に行った)は寮の部屋で寝ていてもよかった、この半日があったから死ななかったのかもしれない
このようなシステムでは本当に死ぬと思い担任になる前に15年ほど前、勤続3年でその学校をやめてしまった(最もその年で寮は出ることになっていたのだが、結婚したら夫婦でまた数年間入らなければいけないという法律を無視した内規があった)
流石に現在はこのような運営はしていないはずだが、ここ数年で現役の教員が3人死んでしまったと学校の関連サイトに載っていた
太平洋戦争の最中、じいさんは広島県の呉にいた。海軍のパイロット養成校(予科練と言っていた)に所属していたじいさんは、パイロットではなく整備工になるために入ったらしい。
呉は今では見る影もないが、当時は軍港としてかなり栄えていた。有名な大和と武蔵もその目で見たらしい。建造していることは内緒だったが、あんなでかいんはバレバレじゃ、と笑っていた。武蔵は山口の沖ですぐ沈んでのう、と目を細めながら言っていた。何人か、同期も武蔵と一緒に沈んだとも。
整備工になるために予科練に入ったじいさんだが、残念ながらじいさんが最高学年に上がる頃には戦況は悪化していて、訓練機すら飛ばせない状況だったらしい。
じいさんはその頃から毎日毎日、軍事工場で飛行機を作っていた。
元々、機械弄りは好きだったじいさんは飛行機を作るのは楽しかったらしく、メキメキと腕をあげたようだ。あまり戦争のことは話したがらない人だったが、海軍の飛行機がいかに苦心されて作られていたかは楽しそうに喋っていた。
戦争に負けるな、とは何となく感じていたが、上官が怖かったし、そんなことを口に出せる空気ではないころ、呉にアメリカの飛行機が不時着してきた。
勉強がてら、じいさんは同期と連れだってアメリカの飛行機(グラマンといっていた)を見学に行った。
そこでじいさんは「あぁ、この戦争は負ける。」と確信したそうだ。
「わしらはな、飛行機を手でネジを締めて作る。アメサンのはどうじゃ。リベットうちじゃ。ダダダダダ、と作るわけじゃ。作る数がそもそも違う。こんな戦争、勝てるわけがない。」
グラマンがそもそも内地まで飛んで来とる。本土決戦で、みな死ぬ。
それが、17歳のじいさんの太平洋戦争に対する結論だった。死にたくはないが、死ぬしかない。
昭和20年8月6日、じいさんは工場でいつも通り、朝の体操をしていた。突如として、工場のガラスが、ビリビリ、と音をたてて鳴った。なんだなんだ、と外に出ると、有名なキノコ雲が広島の街のほうにあがっていた。
原爆だ。
じいさんの生死を分けたのは、宇品の工場に配属されなかったことだ。宇品に配属されていた同期は救出隊として投下直後の市内に入り、黒い雨を浴びてその後の10年でバタバタと死んだらしい。
運の悪い事にたまたま休暇で広島の市内に戻ってしまった同期は、大火傷を負って呉に帰ってきた。1ヶ月もしないうちに亡くなったそうだ。
そうして、知り合いや同期が死んでいく混乱のうちに、戦争は呆気なく終わった。
じいさん達の基地には進駐軍がやって来てキャンプをはったので、仕事もないじいさん達はキャンプに忍び込んでは物資をかっぱらい、闇市でさばいていたらしい。「あそこは元々わしらの基地じゃしのう。」とあまり悪びれずに言っていた。
実家に帰ってこないじいさんをひい祖父さんが連れ戻すまで、そうやって生計をたてていたらしい。
戦後、予科練は学校としては認められず、じいさんは小卒の学歴になってしまい、ずいぶんと苦労したらしい。職を転々としながら、職業訓練校に通って資格を手にし、最終的には水道工として定年まで勤めあげた。
飛行機を作っていた頃の経験が生きたのかは分からないが、子どもの頃のじいさんは自転車や草刈り機の発動機やら、何でも直せる人だった。
じいさんは戦争によって勉強することも出来ず、学歴も手にすることが出来ず、戦争を恨んでいたのだろう。戦争の話はしたがらず、呉には生涯、足を運ばなかった。
本当は、京都大学で物理学を勉強したかったじいさんは、自分の学歴の無さを生涯恥じながら、87歳でこの世を去った。
苦労しながら水道工として定年まで勤めあげ、身の回りのものは何でも修理できたじいさんは、恥ずべき事なく、立派な人生を歩んだと思う。
病害虫に強く、猿や鹿に狙われない。栗のように実の中に虫が入ることがない。
放任でも5年で1樹当たり10kgは採れ、樹齢10年なら20kgは収穫できる。
デメリットは、剪定しないと日陰から枯れたり、樹高が高くなりすぎることくらいか。
おすすめの品種は、なんといっても南高梅。受粉樹には、小粒南高がおすすめだ。
株間は7mはほしい。5mと紹介している本もあるが、放任なら7mのほうが良い。
手入れは、5月前半に草刈り・消毒、6月に収穫、8~9月に草刈り・剪定の3回だけ。
もちろん、これはまめに管理した場合で、消毒はしなくても良いし、剪定だって2年に1回でも良い。
剪定ついてだが、難しく考えない。来年花になる”花芽”をできるだけ残しながら、”開心自然形”っぽくなるように切るだけ。
開心自然形は適当にググって欲しい。切りすぎても梅は桜のように弱くないから大丈夫だ。
収穫したら加工をしよう。梅干し、梅ジャム、梅酒と保存のきくものばかりだ。1年分の梅には困らないだろう。
【追記】
なんかこの時期になると
街路樹を剪定するチェーンソーの音がなんとも田舎を思い出すわ。
干し草と言ったら上等すぎるけど
あのさ、
旅先で出会った行きずりの人と
連絡先交換しても
結局何したら良いのか分からないまま連絡しないのよね。
私のワールドは広がらないわ。
どうりで。
たまに観光客道に迷った人案内するんだけど、
ぜんぜんしゃべれないけど何とか案内できたわ。
うまくホテルに着いたと思う。
で5分ぐらい歩いてたから
意気投合して話したのね。
連絡先交換したけどそれっきりよ。
そんなもんよ。
まあ雪釣りの人だもんね。
うふふ。
少しでも柑橘成分を混ぜたら
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!