はてなキーワード: 愛玩動物とは
雑種の犬というのは大変すがたがよくない。
「雑種でも可愛い犬はいるよ」という声がある。確かに小型犬のミックスとかいう純血と純血の組み合わせは人気がある。可愛ければ。
しかし、中型犬以上の雑種というのは本当に可愛がられていないし、醜い容姿だ。
京都で古い木造住宅に住むジジババに雑に外で飼われている醜い雑種の犬を見た後、家の中で大切に飼われている黒柴犬を見た時は強烈な格差を感じた。
しつけや去勢などもあるのだろうけど、黒柴犬は人間に懐いているし、愛想を振りまいている。しかし、雑に飼われている醜い雑種の犬は吠えるだけだ。
黒柴犬は自分が可愛い姿で人から愛されているのがわかっているように、雑種の犬はその逆にみえる。
そのマンションから太い道路を挟んだ先にはトタン屋根の汚い家があって、それまた雑に飼われている雑種の犬がいた。
可愛くない姿をしていたし、吠えてばっかりだった。
ある夜、幼い自分は眠れず、太い道路をみていると、毛色がものすごい汚い、野良犬が足をすこし引きずって飼われている雑種の犬の前まで歩いてきて止まったのだ。
すると、飼われている犬は野良犬にものすごい勢いで吠えたのだ。吠えられた野良犬は、飼われている犬を通過して、またどこかへ歩き始めた。
子供のときは野良犬がかわいそうと思ったが、今は一番恵まれている犬というものを考えるようになった。
部屋の中で大切に大切に飼われているダックスフンドやらには、全く関係ない世界だ。
あの犬は雑種の盗まれる心配のない価値のない犬であるため、野良犬と遭遇したのだ。
犬というのは容姿である程度の一生が決まっている。醜く生まれたら負けなのだ。
人間もある程度そうかもしれない。
自分の父親が稼いだ小金が溶けた2025年。人々は重税と物価高と貧困で喘ぎ苦しんでいる。
持病持ち2.5流大学3流学部の醜男は今よりもありとあらゆるものをこじらせているのだろう。きったねえ肌つけたきったねえ顔の腎臓病のキモいおじさんになっている。 死んだほうがいい。
僕は千代田区には住めなくなっているだろう。
金をもった年寄りが千代田区で裸の顔のいい女にリードを付けてかわいがっているのだろう。オマール海老のビスクや老人の肉棒をなめている。
リードに付けられた裸の顔のいい女は枯れた釘宮理恵のような声で「わんわんっ」とか「ニャアニャア」言っているはずだ。
慶應大学という学歴と愛玩動物としての利益を享受しているのだろう。
僕は金持ちの老人を妬まないだろう。きれいな顔で肉棒なめてる愛玩動物のハルちゃんを妬むはずだ。
ハルちゃんは老いによってポイされるはずだ。運が良ければ最後まで飼われるが。
女犬である彼女がポイされて死んでも、僕は老人ではなくハルちゃんを妬む。今までの人生と、死んだことが羨ましいからだ。
2025年、夜の学食でほうれん草の巣ごもり卵しか喰っていないのにガタイがいい汚らしいドブスな同じ学部の女はどうなるのだろうか知ったこっちゃない。2015年現在。僕を含めて、同じ学部の男のほとんどはあのほうれん草の巣ごもり卵のドブスを女としてみていないのは確かだ。
2025年を考えて死にたくなるけど、明日もあさっても限界だ。
Avidメディアコンポーザーとかカメラとかマイクなんてなくなれ。
おっぱい揺らした、性的魅力で人生を謳歌するであろうプルーンプルーンのおっぱいをつけた顔のいい女なんかもう見たくない。○○○大学なんてゴミ大学行きたくない。考えただけで死にたくなる。死んだほうがいいのだけど、人生というのはファミマTポイントカードレベルにやめルのが難しい。ロープを買っても、ファミマTポイントカードなので、うんざりして辞めたいのにやめる手順にうんざりしてやめるにやめられない。
はてな匿名ダイアリーに似たことを何度も投稿するのをやめなければならない気もする。
どうにかしないと思いながら2025年まで生きるのだろうか。
http://megalodon.jp/2015-0614-1835-00/anond.hatelabo.jp/20150614182953
いや、だってそのhttp://anond.hatelabo.jp/20150629120652の増田、どう見ても専業主婦/夫を見下してるし
どう見ても可愛くならない女子中学生が将来、可愛くなることはまあない。
整形をしてもマシになる程度の女がおおい。可愛くない女は何を救いにして生きていくのか。
ついでに僕は若人のときからキモいので、キモいおじさんになるの確定である。未来が輝いてるぜ。
昔、おばさん一人が経営している個別塾に通っていた。個別塾と大手予備校に通った結果は大変輝かしい結果となった。
輝きすぎて、爆発しそうだ。
個別塾には元水道橋のJKで今は超一流大学で女子大生をやっている容姿の悪い女がいた。体型もボッキしないどうしようもない感じで、目は小さく鼻もくちびるも形は悪く、イラストの蛸のような顔だった。肌はどす黒く、肌は強い天然パーマがかかっていた。
顔を大きくして肌を汚くしてペニスと病気を持たせて知性を抜けば、僕みたいなものが出来上がる。
普段教えてくれる人が休んで代わりにその女に教えてもらったことがあった。英単語でリベラルという言葉があったので、リベラルと保守についてその女はテキトーに説明した。
保守は自民党の人の「女性は家庭を〜」みたいなやつでと言った気がする。
経済学では特に威厳ある一流大学の学生である。こんなテキトーな見方をしているわけがない。だが、そういう風に説明したからにはやっぱり何かあるのだろう。僕は女性であるというメリットが享受できない悪い容姿だからあんな風なことを言ったと思った。容姿がいい女は愛玩動物のような扱いを受けれる機会が多いだろう。にゃーんにゃんにゃんって。そういう女は現状を肯定することが多いはずだ。楽だし、幸せなことが多いから。しかし、超一流大学の容姿の悪いJDは愛玩動物になれない。だけど、超一流大学に入るからには優秀だ。女という性が邪魔で、社会で活躍したいのだろう。世の中がそうなっていないのに苛立ちを感じるのだろう。努力をして超一流大学に入ったわけだし、いつも経済学の英語の論文を読んでいるのを見ると凄いなと思うが、やはりブスだなと自分のどうしようもない不細工な僕の評価がはいってしまうからまぁ僕はどうしようもない。
一方で愛玩動物なのにいろいろと幸せな女子医大生も見た。肌が滅茶苦茶な僕を毛嫌いしている様子な気がしたけど、気にしない気にしない。
元四ツ谷のJKで将来の旦那探ししないっとなぁとかほざきやがる輩だった。色々とけなしてやりたいが、彼女にあって僕にないものというのが醜さと持病なので泣くだけだ。愛玩動物としての喜びを享受しようとする者に、旦那探しの場と将来の保険税金が大量に注ぎ込まれていると感じた。僕も愛玩動物になりたい。
今日もプルーンプルーンな胸をもった容姿の女を歯ぎしりしながら見ていた。正直限界だと感じて、クレジットカードでロープを買い出したのには本当にどうしようもねーなと感じた。こんな文章書き続けてもどうもならないけど、楽しい女の話とか書くと頭がくらっくらっしてロープしそうになるから、書きたくないし、書けない。ブコメを得て、そこから救いを見出そうとしたけどアホだからただ稼ぐのに一生懸命になると言いたくないけど、嘘かかない程度になってしまうようだ。学校のシナリオの課題とかやった先にどうしようもない状態の四回生がいるのを見ると死にたくなる。
容姿がいい女が就職で有利なのはやっぱりである。あぁ、あぁ、あぁ。
どうにもならない。就職とかよりも、大学が楽しくなさすぎるのと、あぁ、慶応に行ったはるちゃんや、かなちゃんが愛玩動物としての喜びと、高い社会的地位を両方獲得するのだからまぁどうしようもない。あぁ、◯◯◯大学◯像学部万歳である。金蔓な僕万歳である。4年間で八百万で専門学校と大して変わんない感じなの素敵だ。
父親が稼いだ金数万でセックスはしてくれるだろうが、欲情はしてくれないだろう。一目惚れなんて言葉があるけど、それって要は性的欲情だ。僕に一目惚れはなんてしてくれないだろう。顔じゃねえとか説教する人はどこでもいるけど、なんだかんだで美人がみなさんお好きである。疲れたから、大学にいるブス巨乳を思い出してオナニーして寝ます。
http://megalodon.jp/2015-0613-0413-55/anond.hatelabo.jp/20150613024315
http://anond.hatelabo.jp/20140718021723
上の子も下が二人目、三人目となれば次第になれるので、体の良いお世話係も板についてきてそれなりに世話ができるようになる。
それまでは妹・弟というのは単なるおもちゃだ。なお、もう一人下にできると、中間子は長子の下僕になる。
しかも下の子が泣けば上二人は怒られるわけだ(より怒られるのは長子だと思うが)
長子はだいたい親が張り切っているものだが、二人目になると飽きて長子にまるなげすることが往々にしてある
しかし長子と中間子が同じ道を目指すわけでもないし、そもそも長子のアドバイスはまるで役に立たないことのほうがずっと多い
面倒なので長子が言ってたってことにすると何でも通るが、長子にはうまいことやってるとか睨まれるので納得がいかない。
ちなみに一番下は親も「これが最後だし…」とかって乗り出してくる逆にかわいそうかなとは思うが、大人の意見が大事なときもあるので羨ましかったりもする。
長子は下の子が産まれるまでは一人っ子で、つまり末っ子と同じ状態なわけだが、彼らが自力で何かできるようになると年端の行かない下の子らも同程度かちょっと下手なくらいのことを自力でできるように強要される。
外泊みたいな楽しいことならいいが、子供時代は手伝いとかおつかいとか、正直そんな小さい子にやらせるなよとおとなになって改めて思うことを普通にやれといわれるし、もちろん成功するのが当たり前、失敗したら怒られる。
あと、長子に対しては初めてなので色々口うるさい人がいるが、下の子らには「あれ?いってなかったっけ?」みたいなことがたくさんある。末っ子はいつまでも赤ちゃんなので大人は甘いが、中間子はそういう時は長子側なので、結局何も教えられず自力で何でも解決していかなければならない。ちなみに長子はあてにならない。たいてい大人からの助言が入っていて自分では考えなくて良いからだ。
時にうまく長子に擬態したり末っ子に擬態して親の目をかすめ取ることもできるが、基本中間子は独立心が強いことが多いような気がする。多分目をかけられていないせいである。
そもそも親が末っ子を妊娠した時点で中間子は末っ子ポジションではなくなるのだ。長子ほど親の愛情を注がれていないにもかかわらず、早ければ乳児、遅くても幼児のうちに自立しなければならないのは子供には辛い。まぁ慣れますけどね。
お下がりとかも末っ子はたいてい「お下がりばっかりで可愛そう」とか言って新しいものを買い与えられるのはどうかと思うが、たしかに三人目、四人目になればお下がりもぼろぼろだし新しく買い与えられるのはしかたがないのかもしれない。しかしかわいそうがられるのはいいもんだナ。ちょっとそういう扱いされてみたいナ。
http://news.mynavi.jp/column/catmarriage/001/
他人に対して怒りを覚えるなんて脳が腐ってるんじゃないのか。
猫だよ? 飼う必要ないよね。
こんな感じで犬や猫を好きだの愛しているだの言うくせに、飼ってる奴を見るとモヤモヤする。
胃がもたれちゃう。
なので吐く。
この間、妹が猫を保健所から引き取ってきて育ててる。とかって話を嬉しそうに話してた。
保健所で今にも殺されそうな猫がいるのにペットショップなんかで買えないよ!
って、さも良いことをしたように語っていた。
俺は偉いな! とだけ言った。
でも本当は
良いことしたようなこと言ってるけど
お前がペットショップで猫を飼わなかったせいで
保健所でもペットショップでも変わらねぇよ。どっちみち猫は殺されてんだ。
って思ってた。
売れ残って処分されるのも、保健所で撲殺されるのも、どっちも同じくらい悲惨じゃないか。
そこに何の違いがあるというのか。
どうせならペットショップで自分の好きな容姿の猫を買って子猫~成猫になるまで育てた方がお得じゃねえのか。
結局、犬や猫を飼う人がいるせいで犬や猫は日々不当に殺されているってことだ。
好きだからって理由で飼うの?
自分勝手すぎない?
人間本意すぎない?
己じゃない個の生命を好き勝手に扱って良い権利がお前にはあるの?
ペット全般に言えることだけど、本当に好きだったら飼わなきゃいいのに。
ペットを飼わないと、何か問題あるの? ないよね。
自分が満たされるために少ない命だけを救って、多くの命を見捨てていることに罪悪感は覚えないの?
需要が全く無くなれば、少なくとも不当に命を奪われる犬猫は少なくなるのは分かってるはずだよね。
商売なんだからさ。誰も買わなかったら売れないよね?
そもそも飼育されてなきゃ、捨てられることもないわけだし。
そういった問題が解決するまでペットを飼うのを我慢できないの?
まぁ一生解決しないかもしれないけど、一生ペットを飼わなくたって別に問題ないでしょ。
そこら辺の折り合いをどうつけてれば厚顔無恥に犬猫好きです飼ってますなんて言えるわけ?
http://rlee1984.hatenablog.com/entry/2014/03/03/190909
読んだよ。
正直俺は、お前のことが好きだ。
だから、お前のことを悪く言う奴が嫌いだ。
とは言っても、増田の十一人の中でも俺はまだ地位が低いから、今のこの流れをどうしようもできない。
だけどこれだけは知っていて欲しい、俺はお前のことが好きだよ。
もちろん全肯定するわけじゃないけど、君の真面目な所や、丁寧な言葉遣いや、一所懸命さが大好きだ。
それは君がはてな村の入村届けとしてあの長文のレポートを投稿したときも、教育論を語っている今も変わらず好きのままだ。
会話ができないとか言われてるけど、俺はそうは思わない。
君は間違ってない。
このまま良い所を存分に伸ばしていって欲しい。
いや、もう君はそのままあるがままに十分素敵だ。
お願いだ、そのままの君でいてくれ。
増田たちやアルファブクマカーたち、もうコウモリを叩くのは辞めてくれ。
彼は何一つ悪いことはしていない。
コウモリをカゴの中で飼って、オウムのように芸をしないと怒るのは辞めてくれ。
コウモリは洞窟で狩りをして生きる動物なんだ、俺達の愛玩動物じゃない。
俺達の愛玩動物はクラゲやミーアキャットやわる子やトピシュだけでいいんだ。
本当にお願いします。
何か勘違いしてるみたいだけど、
どの業界であれ、「顧客とは誰か」を定義することは業界の側からも可能であって、
ナマポかどうかは基準にならないとしても他の基準を設ける事自体は可能なのは
常識としてわかっているよね?
愛玩動物連れをご遠慮願う飲食店、長時間のお喋り及び待ち合わせ厳禁のコーヒー専門喫茶店、
線引きってきちんと理由さえつけば結構自由になるもんなんだよね。
そしてそれは当然で、どこの業界だって(建前上であっても)ある程度ポリシーとか理念を打ち立てて
行動基準としてるんだから、理念に沿わない相手は顧客の枠外として切って捨てることが
どの業界であれ、たかだか一個人の自由意志より優位なものがあるんだよ。
客だからって要求が何でもまかり通るわけないじゃん。
主人公機のカイゼリンは色の変化する装甲、くびれたウエスト、変わった関節、ハイヒールなどに作者のロボ哲学全開でデザインされている。そのデザインはそれは剣で相手をぶった切ることに全て投入さてれいるように思えて仕方がない。可動幅の広い関節やウエストの構造は体重移動を助け振りかぶる動作のパフォーマンスを高めるための造りではないか、とそして細身なのは軽量化のため大型のはパワーのため。なにしろレーザー効かないからね、切るしかないのだ。ビーベロックとどめにしか使えないし。
哲学全開な作りといつもの仮面フェイス、いいじゃありませんか。関節の構造一つ見てもちゃんと理由がある。まさに機能美、兵器としての美しさ。
機能美と顔やら装甲形状という永野ロボの様式美が合わさって超格好いい。え?機能美劇中全然表現されていないって?速すぎて見えないだけだよいつもの永野じゃん何いってんの。立つ所がクライマックスでしょ?様式美だよ様式美。ぶっちゃけメロウラのほうが好きです。パンフの印刷美しい。
最後嫁リサイタルだけどBGMが広々としたカーマインプラネットの雰囲気に合っていた。殆ど船が進んでいるだけの序盤でも楽しめたのはBGMの効果がでかい。永野もベースで参加しているだぜ?
ただ記憶に残らない。良かった記憶はあるけど細部を思い出せない。それで良い、BGMはもり立てるためにあるのであって強い印象を与えてはいけないと思っている。だって音楽の印象が強いと「泣けるわー」「派手だったわー」くらいしか内容が残らないやん?シーン一つ一つを舐めるように見る作品なら音楽は脇役寄りが良い。
序盤音楽なかったらコーラ飲んでポップコーン食べていると思う。映画館で飲み食いしたこと無いけど。ああ愛玩動物のラブってう生き物が恐竜みたいなのにあま噛み?されている時ボグッて頭が潰れるような音がした気がするんですけど気のせいなんですかね。
トリハロンの声、PVで聞いた時はやる気ない感じで主人公ボイスじゃないなと思ってたけど、やる気ないシーンの声だった事が判明して納得。戦闘の時の声とかボットバルト、ボットバルトいう時とか王子らしく青年らしい感じがよく合っている。ベリンは嫁ボイズなのは仕方ないよね、気の強い声とか自信の無いときの声とか上手だし何も言うことがない。ボットバルトは早口のシーンが多いのだけどそれに合わせて声優を選んだかのか早口でも男らしく滑舌の良い声、顔から汗ダラダラだったり核弾頭使うシーンも無いけど渋い、画面の引き締め役キャラにですね。一人はいないと。LDIはエロい。
よくある旅モノなのだけどその中で互いの力を理解し合うていう事に焦点があてられている。ベリンがトリハロンをフォローしないとか神官が最後まで言いたい放題だったりとかスルーされている。あとFSS要素なんて全くの解説なし。FSS知らないと誰だこのキチ○イとかなにこの傘頭とか、戦闘機みたいなの戦わないのかよとか最後の少女何となること請け合いの謎が一杯。そのくせ最後はトリハロンとベリンが和解してプロポーズもどきの発言したりとかしてめでたし、めでたし。でも、こんなに脇道、謎要素を多く含んでいるのにも関わらずストーリーはきっちり繋げられていて、めでたし、めでたしという気分になる。
別に戦闘シーンが少なくてタンパクだったりとか本編より最後のアシリアスタイル動いてるぅぅぅで、記憶が塗り替えられた訳じゃないです。その時は町もエストもSサイズなのだけど随分と町は子供っぽいんだなぁと思った次第です。エストはいかにもロボット然としていてファティマっぽいなぁと思ったのですが町は少女のような振舞です。実際外見は少女なのですがFSSの町はマスターが自害したり、その後泣いている娘に泣くなと毅然と言ったり、病んだマスターを看病したりと苦労人感のある大人びたキャラだったので意外な一面でした。
ところで「めでたしストーリー」なんて書いたけどトリハロンの国は後に星団最大級の軍事国家になって他国の戦争に加担したりする軍事国家になりました。トリハロンのプロポーズもどき台詞の「その花を踏みにじられることはベリン、君を踏みにじられるのと同じだ」は踏みにじられる、しかもトリハロンの子孫(確定情報なし)の自国をを他の惑星に移すという大事業によって。沢山の血が流れることになる。しかも失敗。そして最後は泥沼の戦争をして星ごと国が無くなるという。トリハロンの子孫と思われる、フィルモア8世も病死か戦死で早死する可能性が濃厚になった。というのもクリスの横にいたのは金髪のフィルモア8世ではなく黒髪のフィルモア9世だったから。白髪染めしただけかもしれないけどね。というかクリスかどうかも確定してないや。でもFSSまで通すとめでたしエンドじゃなくなるのも凝ってて面白いよね。
面白い2chまとめ記事を見つけた。いわゆる命の大切さを自覚させる教育についてのもの。
「豚を殺して食べる授業ってあったじゃん?あれってやり方が悪いよな」
http://oryouri.2chblog.jp/archives/7471447.html
元記事では「ブタがいた教室」
(http://goo.gl/DV423)(Wikipedia)
という映像作品が焦点になっている。これは生徒たちに生きているものを食べるという意味を考えさせるという目的で、1年間「食べる約束」でPちゃんと名づけられた子ブタを飼育する児童の活動の記録だ。容易に予想される通り、殺すべきか殺すべきでないかを巡って児童らは激論を闘わすことになる。以下、この作品における子供たちと家畜(あるいはペット)としてのブタとの関係について少し考えてみようと思う。なお、児童の下した最終的な決断がどのようなものであったかはここでは重要ではない。
とくに考えてみなくとも、この教育方法が愛玩動物と家畜を意図的に混同させてしまっている点で偏向していることはすぐ看て取れる。牧場や屠殺場の労働者と異なって、児童たちにとって家畜を殺す選択とは生活上の要請や主体的な投企ではないし、それらに束縛された社会的な半義務からも解放されている。かれらは「ブタとともにいる今のこの経験」をまったく外部から与えられた教育機会として甘受しているにとどまるため、必然的に(屠殺という)未来との緊張的な関係はほどかれてしまう。つまり、ブタは形式的には家畜として存在していても、児童たちにとっては犬や猫のようなペットとなんら変わらないし、その素朴な誤認が改められることもない。
農家で働く人々のなかには、家畜を愛称で呼んで慈しみながら育てる者もおそらくいるかもしれない。だが、衛生管理、給餌、畜舎の環境整備、精神状態への配慮、成長の仕方への注視といった諸々の世話は、家畜を取り扱う職務というひとつの社会的役割の枠の中で分化した業務である。したがって、それが職務である限りにおいて動物との関係は尊重されるのであり、家畜への愛情とはひとつひとつの労働の只中から立ち現れるものだ。だからペットのように対象を没入的に愛玩することが先行しているわけではないし、そうした依存は成立しようがない。この意味で、公共的領域に属する家畜は私的領域で人間を慰めることに専念するペットと同一視することはできない。
この教育が欠陥を抱えているのはまさにそこで、生物を食べるということの意味を考えさせるはずが、ペットを家畜として扱う行為の是非がそれ以前に立ち現れてくる羽目になることだ。あるいは、「教育機会として与えられたブタを、教育目的として屠殺すること」という奇妙な倫理問題が登場してくることになるのだ。だから、ブタの形式的な存在よりもむしろブタとの実質的な関係を重んずる児童ならば、きっと殺すことに猛反対することになるだろう。それも、生命の尊さという観点からではなく、先ほどまでは愛玩していた動物を教育用だからという理由で屠殺することの倫理的な疑問からである。
「生命を奪って食物をいただくことは非常にありがたいことなのだ(屠殺はやむを得ないのだ)」という結論に子供たちが至ると教師が期待していたのならば、その教師は教育の権力と子供の阿りにあまりに幻想を抱いていると言わねばならない。なぜならば、当座の問題として、子供たちにとって「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必要は一切ないのだから。感情に束縛された反対者がこのことに気づくかどうかは別として、この葛藤は両者を厳密に区別さえすれば解決する話ではある。我々が生活的・社会的な意味から屠殺を要請されているのは家畜用のブタという一般的な対象であって、Pちゃんという特定的に指示された一匹のブタではないだろう。
こうなると初期の教育目的から大きく外れた論理が子供たちを支配するようになっているのが理解できるだろう。屠殺がそれ自体として容認されるべきか否か、また、容認されるとして我々はそのことをいかに受け止めるべきなのかという課題は置き去りにされる。うってかわって幅をきかすのは、「それが屠殺から回避されるべきペットであるか否か」という二択問題でしかない。
つまるところ児童の躊躇と反発は、動物一般を屠殺することにではなく、愛情を受けるに値するペットを屠殺することに向けられることになる。もし教師がこの洞察の対象を臆面もなく「命の尊さ」と名づけ、児童らがそれを真に受けるとしたら、それは教育的にも、児童の感覚を支配する論理から言っても、致命的な取り違えを犯すことになる。なぜなら、そこで問われている生命の価値とは、その動物が与えられている人間の愛情という尺度によって一律に測られるものにすぎないからだ。この錯誤は一部の動物愛護団体も陥っている、言うまでもなく極めて未熟な人間原理である。
屠殺に賛成する児童にしても、その意見の後ろ盾となっているのはそのブタが屠殺されなければならない社会的制約にあるのではない。先にも述べたように、「ペットとしてのブタ」が同時に「家畜としてのブタ」である必然性に欠けているため、それを論拠とすることはできない。代わりにあるのは、教師やクラスの皆と「食べる約束」で育てたのだから言葉通り(あるいは教師や学校の期待通り)食べるべきだという自閉的な教条主義でしかない。そうした子供たちを支えているのは、ブタは一時的にはペットであったかもしれないが、家畜という名目は残っているのだから今や再び家畜に戻るべきだという同一性への信念である。したがって、生活的・社会的要請という家畜の意義はやはりかれらの目には隠されたままだ。
こうした事態はなぜ起こるのだろうか。まだ児童にペットと家畜の類別がつかないからでは決してない。生活上の要求や社会的責務と切り離された、教育という特殊な環境によって本来の弁別がゆがめられてしまったところに原因はある。一般的に家畜とペットの存在は公共的・私的という形ではっきりとした線引きがなされており、特に家畜に関してはその取り扱いに恣意性がはたらく余地はない。ところが、社会的要請という文脈から切り離してこれを教育という場に持ち込んだ途端に、垣根は崩されて恣意性が生まれることになる。つまり、そのブタは家畜になることもできるし、ペットになることもできる。その不安定さがすでに本来の家畜とは別物である以上、当然「生きているものを食べる」という普遍的な行為を考察する可能性から遠く離れることになる。
結論として、この教育が「命の価値」や「生きているものを食べる」ことについて考えることを目指しているとしたなら、それは完全な失敗だと思う。教育の目指すところが悪いのではない。学校の一クラスの中に一匹の家畜を持ち込んで、なお家畜の意味が無条件に保たれると思いこんだ教育者の甘い認識こそが問題なのだ。それは単に牧場見学や職場体験を学校の内側で再現することではない。家畜は数え切れないほどの社会的紐帯に繋ぎとめられた動物である限りで家畜と呼び習わされるのであって、周りを取りまく環境との避けがたい関わりを黙殺したところで家畜の理解にたどり着けるわけがない。
俺の嫁が漫画編集者なんだけど、あの業界だとこういう人結構いそうな雰囲気感じるね。
まー男を見る目が養われてないんだろうけど、経験ないとそれも無理ないんだろうな。
(恋愛に限らず)一般的なアドバイスとしては「自分の心に従うこと」だけど、心というのもネットやら何かの偏った情報でねじ曲がった色眼鏡のことではないからな。むずいな。
増田が言うようなささいな幸せというのは、表面的に実現するのは簡単だけど、それはやっぱり表層に過ぎないんだな。
増田が抱えているコンプレックスやグチャっとした内面は、相手もやはり何かしら抱えているもんであって、それをお互いがきちんと受け止めなければならない。
(男に一方的に庇護される愛玩動物として生きたい、という女も結構いるが)
どんな相手だったらそれを受け入れられるのか、という観点で考えるといいかもしらんな。まあそれもそれなりに付き合ってみないとわからないんだけどさ。