はてなキーワード: アバンギャルドとは
1話の腐オタ叩き表現別に不快じゃなかったなあ。ああいうオタクは実際居るしああでないオタクも居るにしろ。ミスチルが自分で「退屈なヒットチャートにドロップキック」って歌うようなもんじゃん。
というか相変わらず腐媚びはしてるじゃん。一松とカラ松が二人で宝くじ買いに行ったり。
そもそも論1期も2期もことさら腐媚びも男媚びもしてないしアバンギャルドシュールギャグというスタンスは一貫してんじゃん。それが偶然増田に刺さったか刺さらなかったかというだけの話では?
私も飽きはあるから確かに1期ほど熱くは見てないけどクオリティ落ちてるとは思わないし相変わらず面白くてついつい追っちゃってる。
作品を観るときに自分が男だか女だか腐だとかそんな妙な自意識を持ち出す必要が本当にあるだろうか?
ずっと観ているが、おそ松さんは一貫してアバンギャルドな表現をし続けていると感じる。なかなかそういう作風のものが他にないから、いつも興味深く観させてもらっている。なに受けを狙っているだとか、そういう穿った見方を払拭するくらいに多様な切り口でショートショート的な作り方をされていて、合成や宇宙海賊のようなSFの切り口にしろ、実松さんやイルカのようなドキュメンタリー/ハートフルストーリーのような切り口にしろ、結局はギャグとしてまとめていても風刺やパロディ、寓話的要素を詰め込む作りになっている。映像表現的にも多彩だ。それをみるに、この作品はクリエーターたちの創造力が発露される場となっているように感じる。そういう作品は観ていて気持ちがいいし、よい作品だと思う。
それを見る側の卑小な自意識によって、なに向けだとかに矮小化して、それでもってつまらないと断ずるなど、笑止千万というところだ。昨今、インターネット上の貧相なコミュニケーションに晒されているうちに、ずいぶんと傲慢な思考をする鯉になっている人間がたくさんいるように見受けられる。たとえば自分が絵を描くとき、それを鑑賞してくれる人のために受けをねらって描くのだろうか?そういう部分がないわけでもないが、それ以前に、まず自分の内に描きたいという思いがあるから描くのだろう。例えそれがビジネスであったとしても、その根本的な順序を違えていると創作なんてものは出来なくなる。おそ松さんという作品は、とりわけそうしたクリエイティブの欲望に忠実で居続けようとする思想性を帯びた作品であるように思う。その点で、誰に媚びているわけでもない作品であり、媚びているように見える部分は多分に風刺表現なのだ。
私たちは創作を見せてもらっている側であって、創作する側も、さきほど絵描きで例えたように、人間である。その人その人達の創作姿勢を汲み取ろうという親和的な姿勢なくして、見せてもらっている側が楽しむことなど到底できない。それはどんな作品についても言えることだが、その基本的なことを忘れて、自分の好きな要素だけ食べようとパクパクと口をあける鯉になっていないか、そのせいで認知が歪んでいないか、謙虚に自省する機会をすべての人が持つべきだと思う。
http://twitter.com/i/moments/887430878179323908
気持ち悪い文を頑張って読んでみた。このグローバリズム・リベラル(なんだこれ)はポリコレで包まれるお花畑を理想としているように見受けられる。
ポピュリズムによるリベラル浸透を期待して確信しきっている。こいつの中のマスとは理想郷の中における全体主義的理想民に他ならない。
何故ならここでのグローバリズムの中に多数小数の民族性・趣味・主張・宗教といった表現上のサイレントマジョリティの群れをポリコレ棒で叩いて認めていないから。女性向AV等を是としている割にこの点で矛盾している。
そうしてセクシズム・レイシズムを肯定する作品はそのうちマス向けコンテンツから消えていくと信仰しきっている。実に滑稽だ。世界は一つの性倫理…グローバリズムに落ち着くと考えてらっしゃる。
根底にあるグローバリズム・リベラルに日本的リベラルが無いのが救いでリベラル狂信者としては非常に誠実だと思うが言っていることは理想に沿わないものを排除したいだけ。
この点について一貫した理想を持っていて説明できている辺り福音者としてとても優秀だと思うが、日本の一般的ネットユーザを正しく理解したうえで福音を届けたいが為に曲解させた吠え方をしているから悪臭漂う
そもそもこいつというかリベラル民は【弱者・落伍者・貧窮者】といった範囲を救済するという理想の元から議論を始めているので現実に即さないことを言い出すからキチガイじみて見られる。
こいつを評価できるのはそのキチガイじみた中でもリベラルがネオリベ資本主義の仕組みに貢献しているという現実を理解していることだ。格差社会の是正という面においてリベラルが必要という論調自体には何ら問題がない。
最後にこいつの信仰しているリベラル自体(前期として)新しい自由主義なので、アメリカ民主党の内ゲバよろしく(後期として新しい)ネオリベを連呼するカッコ悪さは見苦しい。リベ・ネオリベ・リバ・アナーキズムなんてのはただの方法論でしかない。
いかなる理想でも追求し続けたら非理想郷に辿り着くというのが今日現在進行形の各国におけるリアリズムの一致した見解で、突き詰めるグローバリズムというたわけた妄想を議論に載せた時点で総ツッコミが来るのは当然だ。過去から現代においてグローバルに受けそうにない尖った創作がグローバル化してきた歴史を学ぶといい。なんならアバンギャルドでも勉強した方がいい。
※グローバリズム・リベラルはお花畑を英語で表した自分の造語です。しいて例をあげるなら富裕層独特の「みんな私達のようにお金持ちになーれ」的なアレ。平等≠リベラルにしなさいと上から目線で学者面がほざいているワケだが自説のグローバリズム性によって全体主義的観点に陥っている。
単純に津田大介のような胡散臭さ全開の人間が地元の芸術祭に関わるというのが嫌。
金沢市は山出保というリーダーシップのある市長が20年かけて、芸術と文化が街に溶け込んでいる景観を作り上げた。翻って今回の人選はどうだ。
あいちトリエンナーレはまだ次で4回目だ。ここで変にジャーナリズムとかメディアとかを出すと、祭り自体が鼻持ちならないものになってしまう。
文化庁とかのお固い催しにするならオーソドックスな人を選ぶべきだし、むき出しのアートに触れる原色体験を目指すならアバンギャルドな演出家を選ぶべきだ。
津田大介がやるようでは、作品や場所全てが彼自身の発信する道具として使われてしまうのが関の山だ。会期中にそれこそ東何某や茂木何某を呼んでトークセッションでもして、
「個のレベルで発信し、それが世間とリンクするという意味でアートとジャーナリズムは通じている」なんてしたり顔で発言してバズられたりするんだ。
大筋同意なんだけど、2つ目の理由は全く説得力が無いような。元増田に言うなら1つ目の理由(スカートの方が古い)だけで良かったような。
まずスカートのシルエット論が逆。リアルフォーマルであるドレスは、歴史的に見ても踝丈より長いフレアであるし、足を全く見せない方がフォーマル度が高い(ロングドレス>カクテルドレス)。じゃあなんでOLスーツは膝丈タイトなのかというと、個人的な見解としては。
1920年代以前は、女性のスカートは労働者階級も含めて踝丈以下(女性は足を見せないのが基本)だった。当時シャネルが膝(下)丈スカートを作ったのは、画期的なことだった。ちなみにシャネルのコンセプトは、女性を窮屈なコルセットから解放すること。膝(下)丈スカートは当時、超モダン。女が足を人前に晒すなんて、保守派からは非難轟々。
現在のサラリーマンの源流である都市型の知的労働者が登場したのはこの時代。タイピストなどの職業婦人も遅れて登場した。彼らは、モダン社会の中の超モダンとも言うべきウルトラ・ハイパー・モダンな存在。この職業婦人の服装として、当時の超モダンでアバンギャルドでアンチテーゼである膝丈スカートが相応しいと考えられた。
しかし、この時点でもまだ、女がズボンを履くことは考えられなかった。女がズボンを履く歴史は第二次大戦中の工場労働(男手不足)から。西洋の古典を読むと、女のことを「スカートを履いたもの」と表現する例が頻出する。第二次大戦以前は、服装の性規範は強く、女が男の格好を(男が女の格好を)することは難しく、社会的な逸脱を意味した。この辺の流れが、女がパンツスタイル(男の格好)なんて生意気であるという意識に繋がっているかもしれない。
OLのスカートのシルエットがタイトなのは、膝丈スカートの創始者であるシャネルのデザインがスタイルとして確立してしまったこと、当時の保守であるロングフレアに対してタイトが新しかった(それが超モダンな存在である職業婦人に相応しいと考えられた)ことあたりだろう。まあタイトスカート窮屈死ね!と思う人はシャネルを恨めばよいと思うよ。それでもコルセットからの解放だったんだけどね。
そして時代が流れ、かつてのアバンギャルドは保守本流の総本山となり、その理由も忘れ去られるほど時間が経ち、元増田の疑問に至る、と。
1:「お前が言うな」の声も想定していた——キュレーション騒動を受けてNAVERまとめが新方針を打ち出した理由 | TechCrunch Japan
2:筒井康隆氏が慰安婦像に関連してひどすぎる発言してる件 - NAVER まとめ
1:Googleがロボット検索でやってることを人力でやってるだけ、遠回しに「著作権侵害の証明責任は侵害された方にある」と開き直ってる。罪の意識が全くない…
1:「お前誰?」
1:四の五の言ってないではやく
2:像のとなりに何かの像を追加していい感じにするというのはどうか
1:“専門家ではない人がネットに落ちている情報をもとに「美味しいみたいですよ」と記事をまとめるケースが増えてきました。” < それが NAVER じゃね?
2:強烈な皮肉だと思うけどな。
1:NAVERまとめが役に立った事はないし、今となっては押し間違える事もないから正直どうでもいい。みんなも「楽して儲けてるやつが憎い」以外の感情はないのでは。
1:同じコピーでも検索エンジンが許されてるのはアクセスをもたらしてくれてWin-Winだからだが、NAVERまとめの場合はNAVERとキュレーター()が肥え太るだけでコピーされる側のサイトになんのメリットもないからなあ。
2:本人的にはポリコレにザーメンかけてやった狂犬な俺様なつもりなのだろうか。だとすれば勘違いだし、これは恥ずかしいなあ。もうボケちゃったのかな。歳はとりたくないものだ。。
1:これはもうLINEという会社の「体質」としか言い様がないね。いくら批判しても根っこのところが変わらないと思う。
2:(´・ω・`).。oO(素人に批判されるようじゃ手ぬるかったか、とヤル気に燃えた筒井氏がこれを上回るもっとえげつない表現で挑んできたらどうするの)
2:底の抜けた当世ともなれば、いくら不謹慎芸人ぶった(&俺は不謹慎芸が理解できる相対主義厨なんだ)ところで「アウトサイダーアートやりたきゃそっち行けば?」にしかならないのが辛いですね。
1:“ネット界隈で有名な人に引用されたら「ありがとうございます」となるのではないでしょうか”役員からしてこの認識とか、ほんまクズやな。
2:昔からこんなんやん。「俗物図鑑」とか読んでないのかしら。/この騒ぎで懐かしくなってkindleで短編集買って読んでたら、「問題外科医」で吹いた。
1:一ヶ月寝かせたTechClunchに悪意を感じてしまう。 / Naverまとめ側は前提の認識時点で相当「ハズしている」感があり各項目ごとにツッコミどころが満載。特に現段階でNAVERまとめを善意のサービスと認識している点。
2:胸糞悪い事を言うのが筒井だし、胸糞悪い言葉を集めた本だって出てるじゃないか。「あの爺またか……」と思わない奴は筒井作品まともに読んでないだろ?
1:死ね
佐野氏やコンペ参加者のデザイナーが1964年の亀倉雄策氏のデザインを未来へ引き継ぐために
幾何学なモチーフやシンプルなデザインを意識していたのは間違いないのだし、
色構成なんて日本の伝統色の赤や金を摘出してるんだからパクリもくそもないし、
第一こんな国の命運がかかった大舞台で堂々とどこぞの国のロゴの「パクリ」を発表できるほど、
図太い神経の持ち主は存在しないだろ!すっげープレッシャーで血便出る勢いだとおもうよ!!?
ちっとは考えろよ!コンセプト動画をしっかり見てロゴの意味を知ったやつだけ批判しろ!
シンプルなデザインは似てくるのは当たり前なの!国旗とかどこも似てるでしょ!
なんなのよもう!素人が口出ししすぎなのよ!ドームの件や衣装の件でごたごたしたからって
なんでもケチつけんじゃないわよ!あ~あこれだからデザインのデの字も知らない素人はいやなのよ!!
斬新だと「きもい」って言うし普遍的だと「パクリ」って言われるしたまったもんじゃないわよ!!!
ツイッターで呟くのは自作のポエムと飼い犬の情報だけにしろっつの!ったく!
ADCやJAGDA、海外のコンペの常連のデザイナーや著名なアートディレクターのネームバリューがあるからこそ
許されるデザイン(かっこいいと認識されるデザイン)も存在するんじゃないかって思う時が、時々ある。
手書きで適当に書いたような文字と写真がコラージュされたような構成が印象的なマヨネーズのポスターとかさ、
常識の文字組みをとっぱらった、文字組みが超アバンギャルドなデザインの雑誌の表紙とかさ、
印象的だけどなんか似たようなやつ見たことあるなと思わせるようなシンプルな色面構成で作られた広告とかさ、
「綿密にバランスとかが計算された斬新さ」だということ前提で、
デザインを知っている人間にとっちゃ「ここまでくると逆に斬新だ。なんかきれいだなかっこいいな」って思ったりするんだけど、
デザインのデの字も知らない、うちのオカンにとっては「へんなの」で切り捨てられちゃうわけよ
「これさぁ…デザインというよりはアートに近くね?クライアントが求めてることを
吟味して咀嚼して解決案として図に落とし込むのがデザイナーであって、自己表現したいならアーティストになれよ」って
講師に言われるようなそんなデザインが、大御所がやると許されるわけよ。「逆に斬新」「シンプルでインパクトがある」ってね。
何を言いたいのかって言うと、素人にも伝わるデザインは普遍的になりがちだから、デザイナーとしては
「斬新さ」「みんなに伝わる普遍的な美しさ」のさじ加減がすっげーー難しいの。
そのさじ加減ができるのがプロ。のはずなんだけど。
今回のような騒動になるってことは、実家のオカンにも「へえ、きれいやん」って言われるデザインが、
佐藤卓とかが言う、デザインだと気づかれないデザインが、一番みんなが幸せになるデザインなのかもしれないわね。
無難で、シンプルで、普遍的な美しさを持つロゴ。うん、伝統を重んじる日本ならこういうんがいいのかもね。
で、もう国民投票とかで決めたほうがいいのかしら。
http://anond.hatelabo.jp/20100322070125
まあいろいろあっても本音はそんな感じだよね、って思いながらブクマ開いたらちょっとくらくらしてしまったので、わたしも増田になってみたよ。
「友情」と簡単に言うけれど、そもそも「友情」って、どういう感情のことをそう呼ぶのか、自分の抱いているこの気持ちは本当に「友情」なのか、もしかしたら何か他の気持ちをごまかしてそう呼んでいるだけなのではないか、そういうことを少しでも考えたことはある?
たとえば高校生とか大学生の男女間でしばしば交わされるこの約束。
「男とか女とかそういうの抜きにして、お互いに一人の人間として仲良くやっていこう」
別にこの言葉が青臭いと言って否定はしない。
でも、もしあなたに、この言葉が含む矛盾を拾い上げることができないのなら、「男女間の友情」を語る資格などないとわたしは思いますよ。
だって「男であること」「女であること」も含めて、一人の人間でしょう。
「男であること」「女であること」を抜きにしたら、その人はその人でなくなるし、あなたもあなたではなくなるんだよ。
たとえ思春期・第二次成長期を迎える前の、一緒にお風呂に入っててもおかしくないような小さな子ども同士であっても、この約束は成立しない。
だって、生まれたときから男性は生物学的に男性なのだし、女性は同様に女性だからだ(ただし性同一性障害の方についてはこのように単純に断言することはできないが、あくまで自己認識としての性をイメージしていただけたら、と思う)。
ああ、思春期以前の子どもにはエロ衝動がないなんて思ってる人がいたら大間違いだからね。
知識がないだけで性欲はあるんだよ。
そりゃ現れ方は大人よりダイレクトだったり、大人よりかわいらしかったり、いろいろあるけどね。
また、同性愛者についても相手が同性に変わるだけでおおまかな話は同じだ。
いつから同性愛者だったのか、生まれたときからなのか一年ぐらい前からなのか、それもあんまり関係ないと思う。
で、上記約束によってマブダチとなった男女、何しろ波長が合うので話しても話しても話が尽きない。
他の男の子には話せないけどこいつにだけはなぜだか何でも話せる、みたいなそういう関係ってありますよね。
んで、今度いっそのことパジャマパーティしようよ!夜を徹して語り合おうよ!って話になります。
もちろんエロい展開になどなろうはずがない。
だって「男とか女とか抜きにして」仲良くしてるんですから。
相手はお互いにとって男でも女でもないニュートラルな存在なんだから。
さて友人A子がそういうことで今度そのマブダチのB太郎の部屋に泊まりに行くと聞かされたあなたはどう感じますか?
「まあ正直ちょっとだけ心配だけど、B太郎も信頼できるやつだし、普段の二人を見てる限りそんな間違いなんて起こらないよね。本人同士がそういう関係って認め合ってるんだし、それを尊重するべきだよね」
ぐらいなもんでしょうか。
なぜ「正直ちょっとだけ心配」なの?
あるいは
「いくら男女関係ないって言っても、それとこれとは別だよ。A子だけじゃなくB太郎のためにもやめといたほうがいいよ」
と忠告しますか?
あるいは
「またまた友達とか言いながら、もうB太郎のティンティンもフラグもビンビンじゃん!お幸せに☆」
と勝手に二人が「男女の仲として」結ばれちゃう想像をしますか?
そして、泊まりに行くのが同期の女友達「C美」の部屋だったときは、あなたは同じように心配したり忠告したり妄想したりしましたか?
しませんでしたね?
この場合、B太郎、A子、C美は全員異性愛者と仮定してください。
同性愛者を登場させたい場合はその人のところを別の性に差し替えて読んでみればいいと思います。
それともそもそも、A子はB太郎とのパジャマパーティなんて企画しないのでしょうか?
なぜ?
同期のC美とはやってるんです。
マブダチのB太郎とならやったっていいはずですが。
なぜ?
さらにB太郎視点でも考えてみます。
仮にB太郎がA子の提案に「いいよ、おいでよ」と、もちろん下心などなしに(ここもわたしとしては疑問符がつくところですが、まあそれはいいです)快くA子を招いたとして、A子がしゃべり疲れて先に寝ちゃって寝返りを打った拍子におっぱいが露出したときに、B太郎は欲情せずにすむのですか?
「うわっ!!あああやべー、変なところが元気になってきたあああ!!俺は何欲情してんだ!相手は大親友のA子だぞ!最低だ俺!最低だ!」
と、アスカで自慰をしたシンジ君のように自己嫌悪に陥るかもしれませんが、まあとにかく欲情はします。
しますね?
たとえA子が恋愛対象になるのはあまりにアレな外見だったとしても、無防備なおっぱい露出を前にしてまったく変わりなく平然としていられますか?
その自信はありませんね?
これがもしB太郎と同期の男友達D男だとしたら、寝返りの拍子にその逞しい男性器があらわになったとしても、せいぜい大笑いしながらぞうさんをマジックで書くぐらいでしょう。
これがA子のおっぱいなら、いくら仲が良くてもA子がたとえマツコデラックスであっても、乳首部分を中心としてマジックで目玉おやじを書くことなどできないはずです。
なぜですか?
あるいは最初からA子の提案を飲まない可能性もありますね。
なぜ?
いきなり「C美」とか言いながら詰問されても、某有名大御所はてなーの名クイズシリーズをパクってるみたいで相当印象悪いと思いますが(ごめんなさい)、答えは言うまでもなく「A子とB太郎が互いに異性だから」ということです。
つまり、男女間の「友情」と同性間の「友情」は、違います(繰り返しますが、同性愛者の場合もまったく逆の意味で違います)。
どう違うか?
性的対象となるかどうか、に決まってるでしょ。
相手が「自分にとって性的対象になる性を持つ存在」である場合、そうでない存在と同列に考えることはできません。
お泊まりの話はそのひとつの例ですが(勢いだけで殴り書きしたのではっきり言って蛇足ですが)、何より冒頭に書いたように、男性であること、女性であることも含めてA子であり、B太郎という人だからです。
で?だから何?という話ですが、ではそのように、異性間にある「恋ではない(と当人は思っている)のだけれど親密な感情」は、同性間の「友情」と同じように「友情」ということばで括ってよいものなのか?とわたしは思うわけです。
つまり、性的要因による互いへの配慮、あるいはそれによるある種の葛藤が不可避である(別に不可避ではない、そういう状況にははじめから遭遇しない、との反論も予想されますが、厳密にはやはり不可避です)男女の親密な関係を「友情」という言葉で定義するのは、あまりに乱暴なのではないか?それは人間関係を自分の中で熟成させるうえでひとつの精神的怠慢と呼ぶべき事態なのではないのか?ということです。
ここであの「友達以上 恋人未満」という魔法のキーワードが出ます。
しかしこれはほとんどの場合、いずれ恋愛関係に発展することが見込まれている関係です。
よって、これは「友情」という言葉の定義にかかる問題とは切り離していいと思います。
では「お兄ちゃんみたい」「お姉ちゃんみたい」「弟みたい」「妹みたい」といった家族愛に似た親密さはどう扱うべきか。
これは「相手を異性とは認識しているが性的欲求は感じていない」ということです。
しかし異性として認識しているのなら上記のようにおっぱいに目玉のおやじの落書きをしたりすることはできませんので、ていうかそんな落書きをするような人がこの世にいるかどうか知りませんが、注目すべきはあくまで「みたい」どまりで、本物の家族ではないことです。妹のように純粋にマスコット的にかわいがっていたロリ美少女が寝返りの拍子に意外とたわわなおっぱいを露出させたら、やはり一瞬でも吸い付きたい衝動に駆られてしまうのが男なのではないでしょうか。これが実の妹に同じような衝動を感じてしまうのであればちょっといろいろ人として違うと思うのですが、良識的なはてな村民にそんな人はきっといないと思います。
とにかく男女の関係とは多重的で、ひとつのことばでビシッと定義できるものではないように思います。
自分の話になりますが、わたしには学生時代からずっと連絡を取り合っている友達が何人かいますし、彼らのことを「人間的に」大好きです。
男も女も。
しかし、ふとした拍子である男子と図らずもエロい雰囲気になってしまい、その場はなんとか未然に取り繕って今はまた前と同じように仲良くしていますが、それ以降、ふたりの間に「例の件はタブー」との暗黙の了解ができ、同時に、再発を避けたい気持ちと、何かこう、アバンギャルドを互いに期待する空気が混在して変にややこしいことになってしまっています。
付き合いが長くなればなるほど、そして関係が密なほど、こういうハプニングで意識せずもがなのことを意識せざるを得なくなります。
これでもわたしと彼の間にあるのは「友情」と呼べますか?
わたしたちが「友情」と言い張れば、そうなるのでしょう。
しかし、本当にこれが「友情」ですか?
わたしには、これを「友情」と呼ぶだけの図々しさは持てません。
でも、仕方ないと思います。
男は女に性欲を持ち、女は男に性欲を持つようにつくられている以上、こういうきっかけは世の中に無数に転がり続けているのです(くどいですが、同性愛者については読み替えてくださいね)。
あるいはわたしのように生々しい性欲でなくても、相手を「異性であるがゆえに」親しく感じたり、大切に感じたりする気持ちも、性欲に由来するものです。
恋だってもちろん。
それらがほんの少しでも混じってしまうと、その瞬間から二人の間にあるものは「友情」ではなくなっていきます。
異性に、明らかに恋愛とは異なるのだけれども好意的な感情を抱くことがあります。
たとえば「尊敬」とかです。
でも「友情」とは、違いますよね。
両立することはあります。結構よくあると思います。
しかし、イコールではありません。
じゃお前にとっての「友情」って何?って話ですが、「愛」の一種だとわたしは思っています。
相手の存在を大切に思い、相手の幸福を願い、ともに過ごす時間を大切に思う、簡単に言うとそういうようなことで、性欲さえなければ男女間にも十分に成立する余地はあると思うのですが、やはり性欲がある以上、男女間でこういう関係を長期間育んでいくのは難しいというのがわたしの考えです。もう眠いので寝ます。