はてなキーワード: お題目とは
(参照:「優生学について知りたいのに、誰にも聞けない」https://anond.hatelabo.jp/20220120142843)
つまり最近進撃の巨人でジークが主張してるエルディア人安楽死計画(エルディア人の断種)なんかは反出生主義というかもろ優生思想な訳ね
https://anond.hatelabo.jp/20220121151104
行為者(ジーク)が「対象(エルディア人)が苦しんでいるのは生まれてきたからで、生まれてこなければ苦しまない。対象の苦しみを失くしてあげよう」と思っているならそれはその対象について「反出生主義」(対象がそれを望んでいるという意味ではない)。
断種の対象を疾病または災禍ととらえて「対象者が今後生殖をおこなわなければ(対象者以外の)人類がより良いものになる」というのが「優生思想」。これは断種「されない側の視点」の話で実行者の真意がどこにあるかとはまた別の話。
まあどんなに理想的に聞こえる理屈をこねまわしても断種対象者以外のホンネは個人的な妬み恨み復讐メシウマ優越感または自分がその対象になりたくないという恐怖だったりするわけだ。そしてその行為の対象がマイノリティーの場合「対象者自身はどう考えているか」はあまり考慮されない。というか相手の立場になって考えられれば初めからそういう発想は出てこねーんだ、そもそも。
いや違うな。
それが対象にとってどういうことか分かってるから自分は嬉しいし自分にはされたくないし、でもそいつらにはそうしてもいいという理屈を小賢しくひねくり回すわけだ。「社会のタメですー(笑)」とか言って。
人間の中からケモノが顔を出せば理屈は喜んでシッポを振ってついてくる。
無意識にしろ意識的にしろホンネをゴマ化す(ヘ)理屈を自分で唱えてりゃまだいい方で人口のうち多数を占める愚民は「これは社会(国家・世界・人類)にとって良いことなんです。あなたに損はないですよ」と言われりゃさも自分は正しいことをしてやってるんだというドヤ顔で他人を踏みつけ自分の動物的な感情を充足させ、勘定は政府やら世間やら他人に回す。自分には何の才能もなく何の努力もしなくてもたまたま多数側に生まれただけで他人より優れていると思い込めるんだからそもそも文句はないが、ひょっとしたら何割かは「社会が良くなる」というお題目を本気で信じているかもしれない(それは自らの優越感を意識していないという意味ではない。社会のためはオレのため、二方三両得ってだけの話だ)。
「ミンシュシュギ」のオダイモクも愚民が唱えりゃただの多数決の独裁になる。「自由で平等」なのは多数派の間だけでそのうえ独裁者は「多数」だからそのうちの誰一人として自ら責任は取らない。「衆愚に生まれて安心安全」システムだ。
本当の「民主主義」は「多数決」とイコールではない。民主の「民」は多数派だけでなくすべての少数者ーー病人かタワキ違いハク痴外人アイの子こども年寄り男女女男童貞オタク売タその他ーーも含めて全員自由で平等でなければいけないし、民一人一人は全員が自分自身のそして社会の「主(あるじ)」として全てのことに責任を負わなければならない。代議士はあくまで民の「代表」でありその責任は最終的に民全員に帰する(だから代議士は民意に従う責任がある)し、少数者(マイノリティー)だけにババを引かせるやり方は民主主義ではない。
自分に都合がいいことを聞いた瞬間に思考を停止する低級な動物が多用したがるキメ文句のひとつににベンサム(1748 - 1832。イギリスの哲学者・経済学者・法学者。功利主義の創始者)による「最大多数の最大幸福」という言葉があるが、これは「個々人の幸福の総和を最大にするのが正しい行為・政策である」という意味で(愚民がそうであってほしいと願うような)「多数を幸福にするためなら少数を不幸にしてもいい(そうすれば幸福な人数が最大になる)」という意味ではもちろんないし「少数の不幸は多数のメシウマ」を肯定するものではない(当たり前だ。普通にサイテーである)。個々人の幸福の総和を最大にするにあたってベンサム自身は「個々人が幸福を追求できるように法律で私的不可侵領域を定める必要がある」としている。ようするに「たとえ多数派がそうすることで幸福を感じるとしても他人の私的なことに手出し口出ししてその人を不幸にしちゃいけませんよ」ということだ。たとえば自分が幸福になるために自分が結婚したりしなかったり子供を産んだり産まなかったりするのは正しいが、自分が幸福になる(感情的にも経済的にも社会制度的にも)ために他人に結婚させるさせない・子供を産ませる産ませない権利は誰にもありませんよ、ということである。
この「他人」がマイノリティーであっても当然全く同じことでたとえ「同性カップルは結婚しても子供が生まれない。税収が減る年金が高くなる国が(:読み:「オレが」)損する」と思っても自分が結婚したい時に結婚して制度上の優遇を受けられるなら他人に同じことを禁止する正当性はない。「結婚はするが子供は作らない」のは同性カップルに限った話ではないし、それでも制度上の優遇が不当だと思ったら結婚に付随する優遇措置は一律に廃止すればいいのである。少子化が問題であるなら公的な扶助、優遇措置は既婚未婚ジェンダー性指向等いかなる属性にも関係なく実際の出産または養育の実態に対して行うべきだ。
生殖というのもまた自らの生存に次ぐ(どちらかと言うと結婚制度よりもなお)私的な不可侵領域であるがこれを本人ではなく誰か他の人が「おまえは生殖してもいい。おまえはダメ。社会のタメだから(笑)」とやるのが優生思想である。特定の人たちを(未来の)社会から「居なくすれば」社会はもっといいものになるらしい。しかし居てもいい人間いけない人間を本人の都合以外で選ぶ社会はすでに民主的な社会ではない。
社会のメンバー全てに平等の権利を認めた結果として社会に何らかの不利益が生じた場合、民主的な社会ではその不利益は全てのメンバーに平等に配布されなければならない。利益は多数派だけに分配し不利益はマイノリティーだけに分配(またはその逆)してはいけない。個人の幸福の総和は全ての人の幸福を高め全ての人の不利益を削減することで得られなくてはならず、不利益を一部少数者に集約した上で「[その少数者の属性]なんてこの社会には存在していない」ことにして残りの幸福だけを勘定してはいけないのである。それが「民の一人一人全員が社会の『主(あるじ)』として責任を負う」ということである。
もちろん「民主主義」というのは人間の価値観のひとつであり宇宙の絶対法則ではないので他者に由来する不利益に対して責任を負うことを一切拒否するのも個人の自由であるが、その場合民主主義社会によってもたらされる幸福の方も全て自ら辞退するのがフェアな態度であろうと思う。民主主義社会において多数派に属することの恩恵は(本人が自覚しているいないにかかわらず)計り知れず、本来数的にもその影響力も取るに足らない少数者・社会的弱者にイジワルするためだけにその恩恵を手放すというのも到底得策とは思えないが、けだし度し難きは小人なり。生まれつき享受している恩恵というのは本人には認識できないものなのかもしれない。
★この記事はいわゆる「"LGBT"教育」についてそのへんの素人が管を巻いている話です★
前段は省くが、高校生を対象としたデザインコンテスト(毎日・DAS学生デザイン賞 第36回高校生デザイン賞)の結果一覧を見た。
その中の「プロダクト部門」で部門賞を受賞している作品が(より正確に言うなら、この作品が部門賞を受賞していることが)むちゃくちゃショックだったのでここに書いておく。
審査員を非難したい気持ちはなくはないが、問題は日本全体のLGBT理解の鈍さだと思うので、運営(毎日新聞社と(一社)総合デザイナー協会)だけを責めるのも違うと思う。
「これが日本の現状なんだよなあ」みたいな諦め感と「それにしてもひどいな!?」という憤りを書き散らしているだけなので、関係者の方々はどうか適当に読み飛ばしてほしい。
早速本題に入るが、本大会のプロダクト部門賞受賞作は、『Say hancall』という作品である。こちらの作品紹介のスライドを見れば分かる通り、「性別」を表す記号を組み合わせた図柄の「はんこ」が4つ並んでいる。
みなさんは「LGBT」について考えたことはありますか?
日本は異性愛者が一般的だという考えが多いと思いますが、少なからず同性愛者・両性愛者・心と体の性が一致していない人がいます。今もなお、そのような人たちへの差別意識がある人は多いのではないかと思います。ですが、人生は一度きりだし自分らしく生きるのが一番だと思いませんか?
そこで私はSay hancallを提案します。男女の記入欄にぽんっと押すだけで自分の性を理解してもらえます。世の中のイメージは無視して自分の性をオープンに楽しんで欲しいです。
デザイン意図としては、いわゆるシスヘテロ(「心身の性」が一致する異性愛者)が「一般的」な日本社会で、LGBT当事者が差別に負けずに「自分の性を理解してもら」い「自分の性をオープンに楽し」むことを応援する、「LGBT理解」を目的にしているのだろう。
しかし、私はこの作品がその目的を達成できているとは到底思わない。むしろ、逆効果なのでは?とすら感じてしまう。
以下にその理由を思いつくまま列挙する。
・「男女の記入欄」に何で性指向を記入しなければいけないのだろう? 性指向に関わるLGBと性自認に関わるTを同列に扱うこと自体に無理があるというのはもう散々言われていることだが、現在の日常的な質問で「性別は?」と聞かれて「異性愛者です」と答える機会はまずないだろう。にもかかわらず作品の企画としてそれが通ってしまうのは、日本のLGBT教育がいかに「性的マイノリティー」の解像度を上げないままお題目だけ唱えているかの証左ではないか。
・「自分の性を理解してもら」うことをカジュアルに考えすぎではないか。性指向や性自認に限らず、人種や家族構成など自分が持つ「マイノリティとしての属性」を誰かに打ち明ける、理解してもらうということは、本来すごく負荷がかかる行為だ。嫌われるかもしれない、わかってもらえないかもしれない(そして現実としてそれが杞憂で終わらないことは少なくない)……当事者たちは、そんな不安を抱えながら、カミングアウトする/しないを決めている。間違っても、マジョリティ側が「自分らしく生きるのが一番! 言っちゃおうよ!」と強引に背中を押すことがあってはならないはずだ。
・徹頭徹尾「"LGBT"問題」を他人事として扱っている雰囲気がある。LGBT当事者が「自分らしく生きるのが一番」だと思っていないとでも言うのだろうか。そうしたくても社会や周囲の人々、内面化された自分自身の偏見から、「自分らしく生きる」ことを抑圧されているケースが多数ではないのか。「世の中のイメージは無視して自分の性をオープンに楽しんで欲しいです。」などというのは、本来マジョリティ側が負うべき、現在の差別的な社会を是正する努力を放棄した上で、マイノリティが「自分の性をオープンに楽しむ」ことを強要し、それをもって「LGBT差別の根絶」を図る、極めて傲慢とも捉えうる発言だ。
以上のような理由から、私個人はこの作品を受け入れ難かったし、もしこれが「LGBT理解を促進する素晴らしいデザイン」だと称賛されるのなら、それはとんでもない話だな、と思わざるを得ない。
これは習作だなと分かるやつなら納得できるんだよね。
Unity触ってみた結果報告だったり、自分で組んでみたプログラムのデバッカーを募集する方法の一環としてのフリーゲームは理解できる。
完全に趣味でやってるとしか思えないフリーゲームでも1,2時間でクリア可能なものなら納得は出来る。
売り物になるようなレベルのフリーゲームを作って無料で配ってる人達はなんなんだろう?
たとえば片道勇者なんかは後にSteamで配信されたけど、追加要素は+αの域を出なかった。
それが意味しているのは「元々商品として値段がつけられるものを無料で配っていた」ということ。
何も「人間がやることは最終的に金儲けの手段」なんていうつもりはない。
たとえばこの増田も、「フリーゲームがなぜ無料なのか」というテーマでどっかのニュースサイトから依頼されてたなら、こんな雑な話の展開はしないでもうちょいいろんな方面に気を配る必要がある。
少なくとも一人以上のフリゲーム製作者にキチンとアポを取って、最低限N=1でいいから「本人の声」を取ってこないといけないだろうけど、別に金もらってるわけじゃないから完全に自分の思い込みだけでキーボード打ってソレで終わりだ。
著作権的にグレーなネタを雑に使うだとか、フリー素材の使用要件が緩くなるとかそういうメリットは確実にある。
売れ筋のインディーズの中には絵にリッチ感なんて微塵もないし、クリアタイムも平均3時間ぐらいのだってあるが、物が良ければ高評価を受けている。
それに十二分に匹敵するだけのモノを作っておいて「無料です。感想よろしく」で終わらせる作者の考えが結局わからない。
多くのユーザーにプレイしてもらいたいということなのだろうか。
それとも「無料なのである程度のバグは許してね」で済ませたいのだろうか。
こういう話をすると「お前も作れば分かるよ」という人がいる。
ハッキリ言う。
「作って分かるのは、自分が作ったときの気持ちだけだ」がその答えだ。
たとえば自分が何かを無料で公開する場合は「作ったもののクオリティに対して責任を持ちたくない」に集約されてしまう。
つまる所、「気楽にやりたい」である。
私個人の価値観では創作において最もストレスフルなのは「他者からの評価に対する不安」である。
「制作と製作の違い」というありがちなお題目があるが、私にとってのそれは「制作は責任の介在が絶対ではないが、製作は責任が絶対的に介在する」となる。
生存や娯楽に必要なものを手にする対価として金銭を稼ごうとしたとき、金銭という絶対的な価値のものと交換するにあたって製作には責任がのしかかる。
そこから離れて創作を行いたい時に、私は無償で何かを作るが、それは社会への奉仕ではなく、ひたすら自分への奉仕活動となる。
全てのフリーゲーム製作者が私のように自己への奉仕活動のみを目的に創作物の無料公開をしているとは思えない。
論拠は単なる直感であり、その直感は「世の中はそんなに狭くない。皆が自分と同じ考えのはずだなんて、人間の多様性を軽んじているだけの馬鹿の思い込みだ」というものである。
だが、私は彼らではないので彼らの考えが分からない。
知る方法は結局の所は聞きに行くことになるのだろうが、私はコミュ障なので聞きに行きたくない。
好奇心を満たすことの対価としては、他者とコミュニケーションをとるのは重すぎる。
言い忘れた。
この話にオチはない。
まあ、それ自体はどうでもいいのだが、どうにもその目的が「自分が思ったことを書けるようになりなさい」とのことだった。
だって、現代日本で「思ったことを書く場面」って存在しなくないか?あくまでピュアな視点だが。
読書感想文なんてのはちょっとませた子供なら「読む大人が望む文章を書く」課題だということに気づいているじゃん。
社会において、自分が感じたこと、思ったことをそのまま表明する場面ってなくない?
SNSなんてのはワンチャンバズってチヤホヤされるだとか、いいねやRTやブクマ稼いで承認欲求稼ぐためのツールじゃん?
アニメや漫画の感想をブツブツ呟いてたり書き込んだりしてるやつらってみんなそれが目的なわけじゃないですか。
もっと「相手からレスを貰うため」みたいな微弱な動機かもしれんけど、
どうあがいても「ウケ狙い」からは逃れられないよね?
読書感想文だって言わば国語の先生相手の「ウケ狙い」の文章なわけだしな。だから別に読感文自体が不必要な宿題だとは思わんが。
そしたらもうさ、「思ったこと」なんてものからはどんどんと離れていくのは必然的じゃん?
このアニメ面白かった!この映画面白かった!なんて本当に思ってるわけないじゃんね。
むしろ自他の感情を上手い事言語化したような文章を作り出す選手権なわけじゃん。俺が得意なやつな。
てか娘が読んでいた若年層向けのキャピキャピ雑誌でも、「SNSに思ったことなんて書いちゃダメ!」とカリスマギャルが書いているレベルで「SNSで思ったことは書かない」なんてのは常識だ。
話を戻す。
もっとオフィシャルな場面、入試や就活で書く『志望動機』だの、会社で書く『所感』だの。
そんなもん自分が思ったことを正直に書く馬鹿なんて1人もいないわけじゃん。
私小説作家にでもなるんか?でも私小説作家だの純文だののやつらだって読者受けを考えてる以上「思ったこと」なんてのを純粋に書くわけねえんだよな。
日常でも思ったことを書く場面なんてねーよな。家族や親戚にメッセージをよく送るけど、思ったことなんて書いたら間違いなく離婚やら村八分案件になるじゃん?
もうテンプレな文章でそれっぽい感謝のメッセージ書くマシーンと化すわけじゃん。
これから二週間後にはバチバチ送り合う「明けましておめでとう」だの「今年もよろしく」だの、そんな文章と同レベルに感情なんざ籠ってないわな。
現にこの俺の文章だって俺が純粋に思っていることや考えていることを書いてるわけじゃないしな。わかるだろ?
逆に聞きたいんだよね。
「思ったことや感じたことを文章にする」なんて能力本当に必要なのか?
戦略3に関しては確かに甘いと言えば甘いけど、青識氏のような界隈内で知名度がある人がこういうポジティブメッセージを発することは意味があることだと思う。
結局この手の戦いは"正義っぽい"お題目を掲げて"正しいっぽい"雰囲気を出せる奴が強い。
フェミニストを名乗る表現規制派が好き勝手暴れられているのは、やっぱりフェミニズムというお題目上の正義パワーによるところが大きい。
そうした雰囲気の戦いにおいて、ポジティブメッセージを打ち出して『規制派の横暴に対して、純粋なコンテンツ愛を基に草の根で抗うオタク』みたいな印象を拡散するのは、長期的に見たら意義のあるの戦術だと信じたい。
それと同時に、規制派の非を拡散して『署名を無視したフェミ議連』みたいなネガティブな印象を広げる攻めの活動も必要になってくると思うけど。
多様性を尊重せよ、という主張。あれって結局能力主義の別名なんですよ。
例えば、とある人種だけで構築されたコミュニティがあったとします。そして、そのコミュニティの構成員には能力の高低がある。
このコミュニティをより強くしたいと思ったらどうします?コミュニティの構成員をとある人種の人に限るという不合理なしばりを止めて、人種関係なく能力のある人を募るでしょう。そして能力の低い人は追い出す。
それを能力主義という名目でやると角が立つから、多様性を尊重しようというお題目を生み出したわけです。
追い出される側の人は当然文句を言いますが、そういう人たちには「多様性を尊重できないから文句を言っている」というレッテルを張ればお題目のもとに排除できるわけです。
多様性を尊重できるコミュニティは強い、と彼らが言うことの正体はこれです。
だって、その多様性を尊重できるコミュニティとやら、誰でも入れるコミュニティのふりして、結局ゲーテッドコミュニティだったりしません?
そもそも世の中自分とは全然違う人ばかりなのに、とりわけ多様性を尊重しようと主張するのが変ですってば。それって主張する本人の周りは均質な人間しかいないコミュニティだってことを逆に示してません?
そういう均質なコミュニティが行き詰まりを見せたから自己改革をしていかねばならないけど、そこで多様性の尊重をうたえばきれいなお題目の元能力主義改革を進められるわけです。