多様性を尊重せよ、という主張。あれって結局能力主義の別名なんですよ。
例えば、とある人種だけで構築されたコミュニティがあったとします。そして、そのコミュニティの構成員には能力の高低がある。
このコミュニティをより強くしたいと思ったらどうします?コミュニティの構成員をとある人種の人に限るという不合理なしばりを止めて、人種関係なく能力のある人を募るでしょう。そして能力の低い人は追い出す。
それを能力主義という名目でやると角が立つから、多様性を尊重しようというお題目を生み出したわけです。
追い出される側の人は当然文句を言いますが、そういう人たちには「多様性を尊重できないから文句を言っている」というレッテルを張ればお題目のもとに排除できるわけです。
多様性を尊重できるコミュニティは強い、と彼らが言うことの正体はこれです。
だって、その多様性を尊重できるコミュニティとやら、誰でも入れるコミュニティのふりして、結局ゲーテッドコミュニティだったりしません?
そもそも世の中自分とは全然違う人ばかりなのに、とりわけ多様性を尊重しようと主張するのが変ですってば。それって主張する本人の周りは均質な人間しかいないコミュニティだってことを逆に示してません?
そういう均質なコミュニティが行き詰まりを見せたから自己改革をしていかねばならないけど、そこで多様性の尊重をうたえばきれいなお題目の元能力主義改革を進められるわけです。
まあそういう連中は子供を数産まないし一人当たり教育コストがうなぎ上りだから、そのうち一般庶民に数の力で打ち倒されるのでは。