はてなキーワード: 自体とは
いや、そういう意味じゃなくて https://hatena.blog/ のトップページに上がってるブログの雰囲気はブクマとは全然違うよね。
どうしてサービス自体は全くの無色から始まるのにそういうユーザ層の偏りが出てくるのか不思議でしょうがない。
母親もよく精神を病んでいたからその影響も少なからず受けているゾ
弱者男性であるポッチャマは生を受けた時点でオスとして幸せになれないことが確定しているゾ
この遺伝子で生まれた時点で終身刑ゾ どれだけ足掻いても叫んでも抜け出すことはできないんだゾ
海外の大学を出て今は国の機関で働いているゾ フルマラソンだって走ったことあるんだゾ
でもそういう後天的な努力をしても、遺伝子が変わることはないんだゾ
多少稼いだ金で買春することくらいできるけど、買った女が見ているのはポッチャマではなく万札なんだゾ
一度くらい、「遺伝子を求められている!」と感じられるような体験がしてみたかったゾ
中高生の時点でその悦びを味わってる奴らもいるのにゾ
そもそも遺伝子というシステム自体、倫理性のかけらもないクソシステムだゾ
生命の尊さなんて欺瞞だゾ とどのつまり自己複製機能を持った分子がモゾモゾ動いてるだけゾ
一つ一つの動物個体には意識があるのに、遺伝子システムは個体がいくら苦しもうが知ったことじゃないゾ
ポッチャマが無限の苦しみを味わおうと、遺伝子システムからしたらいち淘汰でしかないんだゾ
子供じゃなくても、何かを教育する側というのは加害性を常にはらんでいるゾ
そういう加害性に無自覚なやつばっかり繁殖するせいで世の中からパワハラはなくならないんだゾ
ポッチャマには夢があるゾ
しばらくこのまま仕事をして、国の中央の動き方というのを観察するゾ
ある程度わかったら離職して、弱者に訴えかけるような教義の宗教団体を作るゾ
規模を拡大して、公明党よろしく国政に口を出せるようにするゾ 機をうかがって海外進出もするゾ
そしたらスパイを使って世界中の対立を煽りまくって、核戦争を起こして核の冬を到来させるゾ
生命全体は無理だったとしても、人類滅亡へのカウントダウンは一秒でも早く進めたいゾ
誰になんと言われようがやるゾ 当たり前だよなあ
最近Xでよく見るので、自分が消耗しないためにも所感をメモっておく
日本が舞台のゲームで、あえて黒人を主人公になっている。最初期に問題になっていたのは2点だと理解している
で、その後色々と↓のような批判も出てきている。最初のはもしかしたら初期からあったかもだけど、それ以外は正直場外乱闘という印象
というわけで個人的には大して気にならない、というか、気にして消耗したくない。ただ、Reddit/Xを見た感じだと、
という仕草はそれなりにあって、これには少しげんなりした。
問題が多すぎるが、
このAIがそもそも【色塗り】としても全く機能しない
ことを、デモムービー自体が証明している。
皆様、二枚を見比べてもらいたい。
→ https://t.co/w07ziRFhbO pic.twitter.com/WSaCJoi3E4— ☕️( ´_ゝ`) 🍉🍹🎐 (@nia_nemu) July 22, 2024
イチャモンかと思ったらまっとうな指摘だった。
まあ半分くらいは俺自身に知識が無くおそらくはそうなのだろうというレベルの判断しかできないが。
この時点で
古典籍の挿絵をカラー化するEvo-Nishikieモデルです。これらのモデルが、歴史や文化を学ぶための新たなコンテンツ作成に利用され、浮世絵に関する興味を増すことにつながり、日本や世界の人々が浮世絵や日本文化に興味を持つきっかけを生み出すことを期待しています。
この世には優劣がある。
勝ち負けがある。
有利不利がある。
それ自体を辛いと言われては始まらない。物理法則が辛いと言ってるも同じ。
そういう事実とどう向き合うかだよな~。
アメリカとか中国のガソスタの火事動画はちょくちょく見るけど、日本のは見ないな
まず、感情的な表現は避け、冷静に議論を進めましょう。お互いの意見を理解し合うことが目的です。
1:推定と確定の違いについて:
確かに、推定と確定を区別することは重要です。私が指摘したのは、春画に黒人奴隷が描かれていないことをもって黒人奴隷制度の存在を否定するのは早計であるという点です。これは確定的な否定ではなく、より多角的な検討が必要であるという立場です。
「春画がどの程度当時の社会全般を反映していたかを検討する必要があります」という主張に対して、確かに検討が必要である点は同意します。しかし、現時点で春画が黒人奴隷制度の存在を証明する十分な証拠となるかどうかについては、慎重に判断する必要があります。この点で、単に春画に描かれていないことをもって「関係ない」とするのは不適切であるとの指摘は理解します。
私が「関係ない」と述べたのは、春画だけを根拠に黒人奴隷制度の存在を否定することが不十分であるという意味です。つまり、他の歴史的文献や証拠も併せて検討しなければならないという立場です。これは、単一の資料だけでは不十分であるという論点を強調するものであり、春画自体を否定しているわけではありません。
4:議論の焦点を明確にする:
議論の焦点は、春画が当時の社会全般をどの程度反映していたか、そしてそれが黒人奴隷制度の有無を証明するに足るかどうかです。これを明確にするためには、多角的な証拠を基にした議論が必要です。したがって、春画だけに頼るのではなく、他の歴史的証拠も含めて議論することが重要です。
さっき見かけた行方不明者を面白消費とかだいぶ前の生理ちゃんとか…生理をオープンに?とかってやつ
線引きが一般の頭のわたしには難しい、何がよくて何がダメかが個人によって違うから
別にその話に興味があるわけじゃないし
『信長公記』の写本は複数あって、そのうちの尊経閣文庫にしか描写がないって話で
前提知識として
①ポルトガルは15世紀から黒人奴隷貿易で巨額の利を得てたし、16世紀とか奴隷争奪戦始まってたレベル
②イエズス会自体は表向き奴隷所有を認めていないので、弥助自体は身分上は奴隷ではなかったはず(献上されちゃう時点で実質はアレだが)
③日本でも表向き奴隷は認められていなかったが人身売買は盛んだったし実質は()
「イエズス会が連れてきた黒人は奴隷ではなかったが、日本では奴隷として売られただろう」が「黒人奴隷日本起源説」として海外で受け取られてしまう!はさすがに無理があると思うんだけどね。
ネットで暴れてる人は①も③も知らないか無視してて、海外からも①知らないで変なカンチガイしてる人がサンプルとして提示されてくるので、まあ止まらないよね。
既存の関連書籍書いてる学者に飛び火したり、議論の端っこに突っ込んだ人が「ロックリーのお仲間か!」と火達磨にされたり、そういうあれやこれやを見て、さてはまたネトウヨの人文歴史系へ嫌がらせか!と思い込んだ左派系学者やアカが続々参戦してる模様。
彼らはロックリーの捏造自体を擁護してるわけでないしただ抗議者の攻撃性にカチンと来てるだけだと思うけど、捏造問題に触れず抗議者の方のデマの方だけ非難するから「かけつけ擁護」にしか見られてない。
右派側は先日から既にオールスターズなので、ロックリーの歴史捏造自体の検証とかはもうどうでも良くなってるね。
パッと見てもオープンレターとかColaboとか草津とかと変わらないメンツが戦ってるんだけど。
いやマジどうしてこうなったかね。
無限城編が長すぎる
ただでさえ下弦はパワハラ会議で下弦一掃され刀鍛冶編で上弦二匹セットで倒すとかやってて、12匹は出しすぎた……と思ってそうだが、それでもまだ上弦を外で何匹か倒してから突入しないと無限城の中の戦いが冗長なんだよ
あちこちで戦いが起きて散漫だし、無惨戦自体も無惨がナメプしすぎて負けた感じがありすぎだし。(そりゃ鬼殺隊は頑張ったが、無惨の判断が早ければ余裕で逃げられてた)
例に上げた2つって「頭痛」という症状に対して病名が付けられてるわけじゃん、腰痛とかもそうだけど身体的に困ること辛い症状があって、それにあとから病名を付けるのよ、症状自体は病名じゃないの。
疼痛とかもそうだよね、痛みという症状が辛くて困るってのが先にあってそれにそれぞれ病名がつけられてるのよ。
すまん。元増田のどこが、お前のようなテンプレ反論だけのトラバほど中身がないのか、全く理解できないのだが(少なくともテンプレ反論よりは明らかに創作性が認められるだろう)
また、それ以降の中身のないテンプレ反論に対して、反論すべき中身自体がないのだから、中身のない返しをするのが限界なのは当然で、非難されるいわれはないだろう。
自分は物音に鈍感で、騒音など気にせず寝られるタイプだという自負があった
しかし最近は隣の部屋で寝ている妻の寝言が気になることが多く、
もしかして自分は人の言葉などの「意味のある騒音」は苦手なのだろうか、と思い始めた
例えば、子供の声は夜中に聞こえてきても全く気にならない(元々子供に対して好意的なイメージがあるのも理由だが)
泣き声や金切り声のようなうるさいものでも特に気にならない たとえ走り回る音が同時に聞こえてきたとしても
しかし、お隣のお爺さんの「ロン!ロン!ここで××して…」という麻雀に関するよくわからない独り言が聞こえてきたときはかなり不快だった
また何か言ってるな…と少し苛々した
それから、向かいの建物が工事していたときに何やら掛け声みたいなのが聞こえてきたことがあったが、それも苦手だった
ああ、何か引き上げるのかな?これは怒っている声だな、とかいちいち詮索してしまうからだろうか
妻の寝言に関してもそうだ
いびきやむにゃむにゃ言っているのは全く気にならないが、意味有りげなことを言っているときはとても気になる
ただの寝言なので意味などどうでもいいのだが、なんとなく気になってしまう
そこに余計な神経が使われるような気がして、寝るのに集中できなくなる、気がする
全く眠れないというほどではないが
この話を先程妻にしたら、「それはあなたのASD傾向と何か関わりがあるのかもしれないね」と言われた
それと妻からすると、意味のない物音が一切気にならないことの方が不思議らしい
妻が上の階の子供の騒音で眠れないと言っていたときも、イマイチピンとこなかった
人の声に関しても、外であれば全く気にならないし、寧ろガヤガヤしている所の方が安心する(フードコートとか)
似たような人はいるんだろうか
「タクシーのやつ怒られてしまったので消しておきますね、配信してたときに話してたんですがあれは友人にあった話でそれをキャラに置き換えて考えちゃうよね、という話でした。馬鹿にするような意図はありませんでしたが不快な思いをされた方がいたら申し訳ありませんでした。」
って
絵に描いたようなご不快構文だし…
馬鹿にする意図がないのに「うぇいうぇい!うぇいうぇい、うぇいうぇい?うぇいうぇ~~~~い!」なんて書くか普通?
平成30年9月4日の利用後に、31年1月27日かに、ジュリの次にいきなりビンビン伝説という名前がついているデリヘルで、はづき(40)となったと思うが、
渋谷のデリヘルは無法地帯で楽しいけど出て来るのがババアとか豚ばかりなので、で、何らかの手段でそれを言ってはいけないというのがこの社会の闇であるように思う。
誰でも思っていることを言っても通らないからな、あいつらには。法は技術的に構成し、技術的に解釈を示し、示した規範を使って事実を持ってくるが、なんでそれを言ったらいけないのかだろうか
と思う。当時は、言ったら傷つくだのなんだのということが盛んに言われていたが、令和5,6年になるとそれも言われなくなって現在に至る。
どうしてもと言えば、いきなりビンビン伝説の横の店の店長が、もううちの店自体がダメですので・・・ということで仄めかしていたが、その後にまた復活しているし、あの界隈の鉄則はなんだと。
「推し活」が幸福度を高める?!「応援」から「感謝」まで、多様な推しとの関係性を生み出す“オシノミクス"
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/prtimes.jp/main/html/rd/p/000000821.000008062.html
前にも書いたが、話題になっていたので改めて。
推し活というのは百万歩ゆずって個人の幸福度を高めるかもしれないとしても、社会にとっては悪の要素が大きすぎる。絶対に人に薦めてはいけないものである。その理由は以下の5つ。
第1に、推しの全人格を全肯定する、というのはそもそも健全ではない。人間である限り欠点がないわけがなく、推し活がらみで逆恨みやストーカーといった問題が多いのは、そもそも推し活自体がそうした行動を誘発しやすいからである。
第2に、どうみても駄作のドラマや歌であっても、推しが出演している限り絶賛・全肯定しまう。駄作の映画でも「推し活」効果で安定した観客動員と収益が見込めるようになってしまうと、結果としてエンターテイメント全体の質が下がる。実際、日本のドラマは5分と見続けられるレベルではない(個人の感想)。
第3に、第2の問題との関連で、推しが所属している芸能事務所の力が過剰に強くなる。推し活をしている視聴者や観客にとってドラマや映画の作品は、あくまで推しを鑑賞するための舞台背景でしかない。結果として推しを抱えている事務所の意向に制作の現場も逆らえなくなり、推しの俳優やアイドルが画面で映えるような脚本づくりや演出を心がけるようになる。当然ながら、作品の完成度などは後まわしになり、「原作クラッシュ」のような問題も起こりやすくなる。
第4に、最終的な作品やパフォーマンスよりも、推しが「成長してスターになる」過程を消費の対象とするため、その過程のブラックなエピソードが全て美談になってしまう。パワハラ指導を「愛の鞭」という美談として消費し続けてきた宝塚ファンが典型である。
第5に、推しに犯罪や不祥事があっても、それを事実として受け止められない。結果として犯罪や不祥事まで肯定し、ひどいと被害者をバッシングするようになる。いつまでも性加害を認めず、告発者をバッシングするジャニオタがまさに典型である。
第6に、お金をつかうことへのストッパーが外れやすい。かつての、投票権のために何百枚もCDを購入するAKBオタクはまだ笑い話だったが、現在ホストクラブで問題となっている、推しに1日で何百万と貢いでしまう(ために風俗で働くこともある)女性客の問題については、もはや笑い事ではない。日本人の財布のひもがきつくなって20年以上は経っていると思うが、推し活の周辺だけこうした度を超えた(かつ他人には全く理解不能な)散財が行われていることは、とても健全とは言えない。
この作品は主人公とヒロインの関係性を楽しみながら、舞台の上だけに限らない、個性豊かなキャラクターたちのやり取りを楽しむものなのでしょう。現実の歌舞伎とは全然違って、例えば歌舞伎に興味がないのに歌舞伎役者の養子になるとか、古典歌舞伎の公演に演出家がいるとか、分かりやすく現実と違います。だから実際の歌舞伎とは違うものとして読むべきものだと思っています。
「どこかで見たことのある、誰かが演じたもののパッチワーク」という言葉、なかなか歌舞伎の本質を突いた言葉だと思います。2世猿翁の言葉にあるように、歌舞伎の本質は「学ぶはまねる」にあると思います。先人に教わって、その人のやり方をまねるところから始まる。それがあるからか、歌舞伎は故人を含め、誰かに似ていること自体が悪いことではない、珍しい分野だと思います。ほかの演劇分野だと誰かに似ていることってあまりよくないこととされていますが、例えば「吉右衛門に似ている」という言葉は、悪い意味にならない。そういうところが歌舞伎の面白いところだと思うので、「誰かが演じたもののパッチワーク」という言葉はなかなかうまいことを言っていると思いした。
「歌舞伎はなんでもあり」これは本当にその通りだと思います。先日も秀吉の物語を見ていたはずなのに、突然舞台が天界に移って孫悟空の踊りが始まり、本当になんでもありだと改めて思わされました(これがとても良かった)。18世勘三郎の言葉にある通り、「型があるから型破りが出来る」「型が無ければ単なる形無し」という側面もあるので、このあたりも描いてくれたらいいのになあと思っています。
ネット上での連載では三人吉三の上演準備が始まっています。演技へたくそと言われている人がお嬢で、華も人気もある役者がおとせになったら、ファンが公演を盛り上げるどころかなぜお嬢ではないのかと暴動を起こしそうですが、そのあたりがどうまとまるか気になります。お嬢の演技も真冬の作品なのに弁天小僧のように片肌を脱いだ演技になっているので、どんな理由がつくのか楽しみです。個人的な好みを言うとお嬢の特徴的な衣装が絵的に確認できればいいのですが、こういうところは単行本での加筆になるんでしょうか?
現実の高校生くらいの歌舞伎役者さんってまだまだ子供の範疇で、そんなに厳しく演技が下手だとか非難されていない気がします。例外的に小学生の頃から人気が高い人もいますが、ほとんどは名前すらろくに覚えてもらえないまま20代前半を過ごしているのではないでしょうか。高校生なのに演技が下手だの人気がないの、あれこれ言われて、物語だから仕方ないとはいえ、この作品の世界はなかなか厳しいですね。