はてなキーワード: 男女平等とは
https://news.goo.ne.jp/article/afpbb/world/afpbb-3331529.html
【AFP=時事】国連教育科学文化機関(ユネスコ)は、世界的に科学の分野で女性が依然として深刻な性差別に直面していることを示す報告書を発表した。男女平等に関しては、一部の欧米の富裕国は貧困国に大きく後れを取っている。
また、主に富裕国が占める経済協力開発機構の加盟国は、工学系の学位取得者に占める女性の割合が世界平均を下回っており、フランス26.1%、オーストラリア23.2%、米国20.4%、韓国20.1%、スイス16.1%、日本14%となっている。
ユネスコは明確な地域パターンを特定していないが、女性の工学系の学位取得者の割合が高いのはアラブ諸国で、アルジェリア48.5%、チュニジア44.2%、シリア43.9%、オマーン43.2%、モロッコ42.2%だった。
豊かな国ほど男女差別がなくなるのかと思ったけど、学問についてはそうではないのか。
仮に国が豊かになるほど女性が科学分野から排除され、社会学などの文系に追いやられてしまうのだとしたら、つらすぎる。
ある程度豊かさを抑えてでも平等を目指した方がいいのかな。
どこにもかけないのでここにかく。
なんで新疆ウイグル自治区に関する問題に触れられないのかって、それは実際の不利益があるからだ。
左派界の同調圧力に引っかかるし、なにより本が出版されなくなるし、中国の問題に口出しすること自体がリスクだ。
自分はナチを許せないと思っているし、過去の日本は糞だと思っている。
つまり、ネトウヨサイドの人間ではない。左に属する人間である。だから、新疆ウイグル自治区の同化政策は、非難せねばならないと思っている。
中国に睨まれるということ自体がもうすでにリスクになっているのだ。
一言でも表の名義で中国を批判すると、キャリアを棒に振る覚悟が必要になってしまった。
いまのリベラル市場において、中国に対する批判はリスキーすぎるのだ。アレだけリベラル学者が中国への批判を恐れているのは、実害があるからだ。
学者も怖いのだ。学者、漫画家、映像作家に限らず、中国市場にわずかでも関わりがある場合、批判をわずかでもしたらキャリアそのものが潰される。
だから、女性がどれほど強制収容所で強姦されようが口を閉ざすしかない。見ざる聞かざる言わざるになるしかない。
日本の批判は放送局もコメンテーターも学者も気兼ねなくできる。どれだけ馬鹿にしても痛くも痒くもない。
他国の学者、ジャーナリスト、作家であってもお構いなしに全力で圧力をかける。
キャリアや作品そのものが排除されてしまう。BBCのように、放送そのものがシャットアウトされる。映画のような市場になれば、中国の言いなりとなっているし、睨まれたらキャリアをすべて失う。
BLMのような運動は実は真の勇気ではない。業界において、キャリアを失うことはないと誰もが思っている。
BLMに賛同してもキャリアを失った俳優はいない。口ではそう言うが、怖くはないのだ。
しかし、中国について批判をするとそれだけでキャリアを失う覚悟が必要だ。
リチャード・ギアのような名優ですら、大作からは締め出されてしまった。
学生の頃は「ナチが再び出てきたら、勇気を出して戦う」と思っていた。
しかし、いまはそういうことができない。政府批判は安全牌なので、率先してやる。だが、いまは中国が怖くて批判ができない。
レイプや不妊手術強制が行われているということを知っているのにだ。
安倍を叩き、菅を叩き、野党を叩くことは怖くない。与党も野党も是々非々で批判できる。しかし、中国に口を閉ざす。
ネトウヨに「ウイグルについてどうなんだ?」と言われても、お前らみたいに失うものがない人間じゃねえんだよって。中国に今後関わりがあるかもしれないってだけで、口を閉ざさないとキャリアがなくなるんだよって、ふてくされるしかできない。
ナチの蛮行や、日本軍の蛮行を批判するときはノーリスクだ。しかし、中国はそうではない。
男女平等とか差別反対とか、そういう当たり前のことを、自分のキャリアがかかったときには当たり前に言う勇気がないのだ。リチャード・ギアのように真の勇気を持っていなかった。
だって俺ら特に何も言われなかったら、男のやる野球やサッカーは見ても、女の同じスポーツなんか見ねえわけじゃん
それは機会の不平等とか男女差別とかいう以前に、そもそもコンテンツとしての魅力に根本的な違いがあるから
トランスジェンダーが入ってきただけでバランスが崩壊する、そういうレベルで力の差がある事実だけは、もうどうやっても動かしようがない
どうにか成り立っているのは人以外の要素が大きい競馬やモータースポーツ、それと美しさやら何やらで客を引っ張れるフィギュアスケートやビーチバレー、あとはそもそも男にも需要がないドマイナースポーツぐらいのものだろう
今後は男女平等だからそんなのは甘え!月経がきついなんてありえない!
って言われるのかな
そんな気がしてならない
女性が家の中のことに特化したいと願う人が多い。
平等だと
男性に家の中のことを、女性にマッチョをということになり、それがいい人は、それでいいだろうが、そうじゃないといいう人も多いから
屋内は女性が多めになる
そりゃ80過ぎた爺さんがちょっとばかり女性差別的な考えを持ってるなんて普通じゃないのかと思う
新しい世代の人は、女性差別許さん、女性差別のない世界を作っていく。でも全然良いんだけど、
女性差別的な世界観と、男女平等的な世界観が少しばかりこの世の中でオーバーラップしてる時期があっても良いじゃないかと思うんだけど、
・組織委員会ではうまく行っている。今後も女性登用を推進していきたい
というものであり、この内容自体は非難されるに当たらないと思った。
参考URL https://www.sponichi.co.jp/sports/news/2021/02/04/kiji/20210204s00048000348000c.html
女性理事を4割入れるよう、文科省がうるさく言っている。4割という数字を達成するために精査せずに女性を登用すると、理事会に時間がかかるなど弊害が起きる。ラグビー協会では女性を登用するようになってから理事会に倍の時間がかかるようになった。
理事職に応募するような女性達は、優れた面でもあるが、競争意識が強いところがある。誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うのだろう、会議の主目的に沿わない内容でもとりあえず発言する。私の意見ではないが、女性理事を増やしていく場合には発言の時間をある程度規制しておかないとなかなか終わらずに困る、と言っていた人もいた。
(森氏が会長を務める)組織委員会には女性が7人くらいいるが、この種の弊害は起きていない。競争意識で応募したのではなく、委員会の役割をわきまえた人だからだ。みんな競技団体からの出身で国際的に大きな舞台も経験している人達ばかりだ。だから会議においても、競争意識からの議論のための議論ではなく、意味のある議論をしてくれていて非常に大きな役割となっている。委員会に欠員があったら次もすぐに女性を選ぼうと思っている。
管理職になりたがらない女性が多いことは事実であり、理事や組織委員会に女性を登用するにあたり、見識を持った人材を確保するのが大変なのはその通りだと思う。そこで4割という目標をクリアするためにとりあえず女性を、と選んでしまうと、オリンピックの成功よりも自身の箔付けのために理事になりたいような人が採用されてしまうというのもありうることだと思う。
そのような人に理事会を自己アピールの場として利用されてしまうのは、オリンピックの成功を第一義として考えている人(JOC理事の組織目標をわきまえている人)からしたら苦々しく思うところだろう。国会でクイズ大会を見せられた時の呆れた感情を思い起こした。
今回の件は男女平等に向けて古い慣習から脱皮する中で生じた摩擦なのだと思う。古い価値観の男性(やいわゆる名誉男性)だけで理事会・組織委員会を構成していたら「女性は話が長い」という文句も出なかったはずで、新しい価値観へ向けて前進しているという証左としてポジティブに捉えてもいいのかなと思った。
データに基づいていない印象による決めつけの発言が多く(「ラグビー協会は今までの倍時間がかる」「誰か1人が手を挙げると、自分も言わなきゃいけないと思うんでしょうね」)、そこは非難されるところかなと思った。しかし例えば、実際データを集めた結果「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」という発言をした場合は許されるのか?結局怒られる気がするので、印象だけで決めつけたからアウトというわけでもないのかな。
記者の側の問題でもあるが、なぜ組織委員会では問題が起きていない(=わきまえた女性ばかり登用できている)のか、そこの話を聞きたかった。金銭的、時間的にコストを掛けて人材登用した?組織委員会の方がJOC理事より心理的ハードルが低い?人数の問題でそれほど大人数を選ばなくてよかっただけ?なにかしらノウハウがある?
ところで、自分でも整理できていないが、わきまえていない女性が理事会・組織委員会に入ることはダメなことだろうか。
貴重な素人目線の指摘を貰える可能性がある(理事や委員の重責に置かなくとも別途意見を収集すれば良いだけな気もする)
玉石混交の人材をまとめ上げてチームとして運用していくのが会長の役割ではないか
というような考え方もできるので、一概に望ましくないと言い切ってしまうのも何かためらうところがある。
余談ながら、私は『わきまえない女』でありたい。と言った人がいたが、森氏の言うところのわきまえない女とは職責よりも自己アピールに重きをおくような女性のことであろう。果たして本当にそんな女性になりたいのだろうか。
五輪の森会長の発言もあり、ガラスの天井という言葉が一般に広く知れ渡るようになってきたと思う。
能力があるのに、女性であるというだけの理由で一定以上の地位に昇進できない現象を指す言葉だ。
絶対違う。
男性にも、見えない生きづらさの壁があるはずだ。
私はこの壁のことを、仮に「ガラスの床」と名付けてみた。
男性の生きづらさは、女性の抱えるそれとは対照的である場合が多い。
女性は男性から加害されることが多い。しかし、それだから被害を訴えたらちゃんと信用してもらえる。
男性は女性から加害されることが少ない。しかし、それだから被害が発生したところで、声を上げても軽くあしらわれてしまう。
女性に対して加害した男性は、社会から盛大に非難を浴びて罰せられることが多い。
男性に対して加害した女性は、犯罪者として裁かれることこそあれ、社会全体の怒りを買うことは少ない。
今挙げたようなことが、良いことだとか悪いことだとか論じるつもりはない。
被害を信じてもらう以前に被害に遭わないことが一番だし、法の裁きを受けたはずの犯罪者はそれ以上人格攻撃の的になってはいけないのだから。
ただ「(時に本人の望む形とは異なるにしろ)女性は大切にされるべき」という認識が一般に広く浸透しているのは事実だろう。
女性の専業主婦は広く認められる傾向にあるが、男性が専業主夫をしていても無職とみなされかねない。
学歴が低く収入の少ない女性であっても結婚している人は多いが、同じようなスペックの男性は男性にも女性にもバカにされる。
つまり、女性が「素直で従順で大人しくある」ことを求められるのと同様に、男性は「強く正しく優しくある」ことを殊更に求められているのだ。
「大人しくあるべき」女性が一定以上の社会進出を阻まれている裏では、「強くあるべき」男性が社会撤退を阻まれている。
社会撤退なんて言葉は存在しないのだろうが、ここで私が意図しているのは「男性が従来社会における女性的役割を担う」ことだ。
そういえば「男女平等なら、女性も肉体労働をしてくれるんだね?」としたり顔で言う人がたまにいる。
微妙に違うと、私は思う。
もちろん適切な筋力さえあれば女性が肉体労働をしてもいいだろう。
でもそれと同時に、男女平等とは、男性が望むなら家で仕事をしてもいい社会であるべきだ。
「こういう社会を作ったのは男性だから、男性が自分で何とかしろ」?
そんなことはない。
男女平等への歩みはすでに始まっている。
過去の男性が作った因習は、今を生きる人々みんなで壊していかなければ。
そうでないと、また前と同じ社会に逆戻りするか、今度は女尊男卑の社会が発生するだけだ。
私にできることは少ないが、変わりゆく価値観に希望を見出している。
でもそのとき、男性を阻むガラスの床も、同じように壊されていけば良いと願っている。
男女平等って
「男とか女とか関係ないよ。その前に俺もお前も一人の人間だもんな!(キラ✨」
なのか
「『男』と『女』は違うけど、人間としては平等だ。どちらも納得できる社会にしよう」
なのか
前者なら会議は長くならないけど、
この増田は東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長である、森喜朗氏の問題発言についての所感である。
多くの人がこの問題に対して擁護や批判を述べているが、その中で、最も興味深い話は下記の記事にある経団連会長である中西宏明氏の話だ。
https://mainichi.jp/articles/20210208/k00/00m/020/164000c
この発言の興味深い所は「本音の部分での考え」と「本音に対する評価」が混じっている所にある。こういった本音であるという事自体がけしからんと思う人がいる一方で、事実としてこういった本音があることを認識しているのは、現状分析としては正しく、その部分においてのみ一定の評価をしている人もいるだろう。
(尚、私は中西氏の発言についてはこの記事しか読んでいない事はお断りしておく。)
私はこの発言を通じて、性差に関して言えば、本音に対しての評価が正しくとも、決してそれを吐露してはいけないという事を改めて感じた。本音がどうあれ、先ずは本音を隠して、形式的な振る舞いをする事が大事なのである。そして、形式的な振る舞いをするにあたっては、様々な困難もあるわけだが、その困難は絶対に限りなく近い相当程度、受忍されるべきである。
「三つ子の魂百まで」という諺もあるように、私は、人の持っている潜在的な感覚や価値観というのは、一度ある程度構築されてしまったらそれを変えるのは容易ではないと思っている。
先程の本音に対する批判にも様々なものがあるが、その批判が本音の是正を求めるという意味であった場合には、本音では女性軽視の気持ちがある人に心からのジェンダーフリーを求めるのは不可能なので、全く無意味な批判となる。
批判の対象は本音を出してしまった事に対して向けられるべきで、私なりに批判してみると、
といったところだろうか。
私はタイムマシンに乗ったことが無いので想像であるが、もしも明治、大正時代にタイムスリップして当時の人に「100年後には女性に参政権がある」という話をしたら、さぞびっくりされるのではないだろうか。
今では女性に参政権があるというのは当然だと思う人が、ほぼ全てと言って良いレベルで殆どだろうし、もっと言えばあまりにも当然すぎて、当然を当然と思うことすら無いだろう。
我々の行うべき事は現在を変えるというよりも、未来を変えること、それに尽きるのだと思う。先人が努力した様に、我々も努力をし、未来の礎となり、未来の人にとって男女平等を当然とさえ思わせないようにする事である。
そのためにはどうするか。
先程の女性参政権を例に挙げれば、我々がこれを当然と思っているのは生まれてきたときから女性に参政権のある国に生まれ育ち、女性参政権に対して反対する声を聞くことの無い環境にあるからではないだろうか。(世の中色々な人がいるので、女性参政権に反対する人も中にはいるだろうが、少なくとも私は聞いたことが無い。多くの人も同様ではなかろうか。)
少し話が逸れるが、女性参政権を例に出したのは、若干不適切だと思う。実際に権利を手にしたわけであって、純粋に「形」だけでは無いのがその理由だ。ただ、私が伝えたいことがより伝わると考えて、あえて例に持ち出した事をご承知いただきたい。
話を戻す。
この事から考えると、我々が出来ることは「形から入る。そして、その形が自然になるまで根気強く待つ。」これに尽きるのでは無いだろうか。
根気強く待つ期間が世代を超えるかもしれないので、その間に傷つく人も相当数いるであろう。
もちろん、今の犠牲を甘んじて受ける事は無い。むしろ、今大いに抗うことがより良い未来に繋がる。
もう一度言う。
女性蔑視発言をした者が会長職にいるのは、形として相応しく無い。この一言に尽きる。
余人を持って代えがたい等々、様々な擁護と会長を続けるための理由が出ているが、これこそが前述した、形式的な振る舞い、ここでは森氏が会長を退く事にあたっての困難であり、「調整力」「これまでの実績」程度の事ではお話にならない。残った者で何とかならなくても何とかしなければならないのである。
スピード違反をしたドライバーが普段どんな運転をしているのか、どれくらいのドライビングテクニックがあるのか、その様な事は関係なく、ある一定のスピードを超えたら違反は違反である。
所感は以上。
蛇足になるが、別な側面から考えると、森喜朗氏を擁護する面々も、あえて氏を批判する必要は無い事を付記しておく。
失言の是非や氏の思想に対して批判したく無ければしなくても良い。形から入るという考え方に立てば、失言をしてしまったので会長職を退くという形が重要なので、氏のこれまでの実績や、(擁護する人から見た)人柄を否定しなくても良い。
先程、スピード違反の例を出したが、ドライバーがどの様な人間かは関係ないので、そのドライバーに対して「素晴らしいドライビングテクニックだ!」「普段は安全運転をする人だ」などの感想があっても良い。
私は本音の発露は良くないとしているが、感情が湧き出ること自体を否定しているわけではない。
「女なんてオ⚪︎コするだけの道具やんケ、何ムキになっとんねん」みたいなハナから差別感情バリバリのクソみたいな増田の思想が丸出しの恋愛話は凄まじい勢いでよくバズるじゃん
でもそう言う奴がモテるし女もそういう奴に近寄るのは当然なんだよな
道具扱い=機能が提供できる内は守ってもらえるし金もらえるわけで
道具以上の物は何一つとして求めない、熱帯魚や金魚は水槽で手間も少なく泳いでりゃいいだけで、デジモンみたいに進化したり刺身としても美味しいみたいなことは求めない
現実問題、いちいちこいつは良識ある女かどうかなんて見極めてたら気がつけばオッサンになるわけだし、クソ女に譲歩や謙譲を持ってすれば際限なく付け上がることを知っている
だから最初から女なんてクソって意識で当たるから一才の躊躇も迷いもない
大体のクソ男は、女がネット炎上させるだけの発信力を持たないか、発信できないようにする
そもそも自由恋愛なので法律には何ら違反してないのでネット炎上さえ注意すれば合法でなんのリスクもない
男女平等が完成しているのであればこう言うやつはモテないわけなんだが現実は違う
フェミが叩くべき敵はそう言う男なのに、ネットでピーチクパーチクバズらせて手口やノウハウを宣伝してる結果にしかならず、現実そんな男と出会えばフェミがそれを擁護する地獄よ
何度かこの内容のトラバをしてみた上で改めて考えてみたが、やはり結論は変わらなかった
もちろん森の発言は論外だと俺も思うし、辞めるべきだとも思う
しかしそこで今更「五輪精神」なんぞ持ち出されたところで、ただただ空しいばかりである
さらに言うなら2022年には再びそれが確かめられる予定だからである
はっきり言おう
北京で夏冬2回もやっておいて、今更五輪精神もクソもあるかボケが!
ソチに至ってはウクライナの件で、平和の祭典という建前すらも大概疑わしい代物となってしまった
しかし商業主義にどっぷり浸かった身の悲しさ、現実のあれやこれやには全く無力どころか、もはやまともな抵抗すら見られないという惨状である
言っておくが、もちろん日本も同罪だ
チベット問題は2008年当時からもう言われてて抗議の声もそれなりにあったし
アンサイクロペディアでは「エクストリーム聖火リレー」という、今から思えばしょうもないネタが盛り上がったりもした
しかし日本政府も含めて、結局は皆沈黙のうちに荷担したのである
そしてもちろん国民も、いざ大会が始まってみればいつものようにメダルの数で盛り上がるばかりで、何の関心も持たなかった
彼らの大多数は、香港やチベットやウイグルの一体何がヤバいのか、そもそもまともに理解すらしていないのかもしれない
そしてコロナで先行きは不透明だが、2022年には全く同じことが繰り返される見込みというわけだ
他人の人権のために自分の利権や娯楽を差し出せる者など、おそらくごく少数しかいないだろう
どこかで誰かが死ぬ思いしようが、イベントがなくなることの方がよほど我が身にとっては深刻というわけだ
ジェノサイド認定などしてみたところで、商業主義と「政治の犠牲になるかわいそうなアスリート」というわかりやすい図式の前には、ボイコットすら盛り上がりそうにない
だいたい今言われてる男女平等にしたって、それこそ中東やインドで五輪をやるとなったら、どうせしれっと見なかったことにされるのではないだろうか?
リベラルの皆様は、日頃人権に関心のない輩がチベットやウイグルの問題を持ち出してくることが、大変に我慢ならないそうだ
しかしオリンピズムこそそれと同じで、「日頃どうでもいい扱いをしていたものを都合よく引っ張り出してきた」ようにしか思えないのである