はてなキーワード: 最大公約数的なとは
■本文。
うう……今回こそちゃんとゲームレビューをやろうと思っているんだけども、とりあえず、前回の思考の続きから入ります。いや、書かないとイライラして、安心して本題に入れないんですよ……。
まず、美少女ゲームの主流が、オブジェクト嗜好による「萌え」至上主義に至った理由を考えると、前にも書いたけども、次のステップとなるべき目標が不明瞭になっているからだろう。社会的な成功といったものに価値を見いだせない世界であるために、細分化された個人主義……拡散という現象になるのだろう。もっとも、求心力のある価値観を求める動きが無かった訳ではないのだけど、それは、エヴァンゲリオンで暴発した結果、衰退し、その後は保守反動的な状況がずっと続いている。
これは、過去においてもそうで、アニメを取り巻く言論は、『うる星やつら~ビューティフルドリーマー』など、問題作が次々と出現した、1984年を頂点に、アニメ情報誌として特化されたニュータイプが台頭してくる80年代後半にかけて、急激な反動化が起こっている。以後、閉塞に伴う縮小再生産を繰り返しながら、消費スピードは加速していく。また、ゲームという媒体が台頭し、それが大量消費に適した媒体だったことも、更に状況を加速した。
結局、そんな閉塞が行き着いた状況で現れた、エヴァンゲリオンという暴発の反動で、何も考えたくないという心境に陥った人々は、萌えという言葉で思考を止めて、大量消費を自己肯定する事で精神の安定を求めているのだと思う。現在は「閉塞による安定の状態」と考えてもいいだろう。だけども、極端な状態には変わりはない。
おそらく、創作にしろ、批評にしろ、これからは商品という手段をもって、極端な両者の格差を埋める作業が必要になってくるだろう。また、そうでなければ肝心な人々には届かないと思う。そのためには、バランスの取れた商品が必要になってくる……やべ、今回こそきちんとゲームレビューをやらなくては……。
さて、いきなりあからさまな発言なのだが、『フロレアール~好き好き大好き』というゲームを買う動機は、メルンに萌えるか、前作『好き好き大好き』の続編(?)だから、のどちらかだと思う。メイドで、妹(的キャラ)で、ロリという、現在の美少女ゲームにおいての最大公約数的な設定のキャラクターであるメルンに、ヒロインを一本化したことは、『好き好き~』に比べて、牙を突き立てる対象……もとい、購買層の狙いを絞ったことを伺わせる。だが、『好き好き大好き』をプレイした人にとっては、『フロレアール』には別の期待があったはずだ。
実は、筆者も後者に属していたのだが……結論から先に書いてしまうと、どちらの期待も最終的には超越してしまった感があるのだ。
『好き好き~』が、自己の内面とひたすら対峙する内容……ヒロインの存在はあっても、ヒロイン像は自己の内面にのみ存在しており、その内面が現実との摩擦で生じるギャップに物語としての強度を求めた……いわば、変化球的なアプローチだったのに対し、『フロレアール』の場合は、メルンとのコミュニケーションから生じるギャップから、自己の内面を浮き彫りにする手法を採っている。言ってみれば、正統派でストレートな演出を行っている訳だ。そして、その演出を反復することで、物語の強度を上げているし、あくまでメルンという中心軸を崩さないあたりは、非常に慎重でもある。
まあ、筆者も某誌のレビューでは『好き好き~』を「プレイする人を選ぶゲーム」と書いたのだけど、今回はむしろ、「こんなに分かりやすくしていいのか?」という感想を持った。確かに、平気で会話の中に「ハイデガー」とか「象徴交換と死」なんていう固有名詞が出てくるので、敷居が高い印象を受けがちなのだが、そういう単語に頼っている訳ではなく……シナリオの中で、普遍化する作業がきちんと行われているので、意識しなくても意味そのものは把握できるだろうし、作り手の思考が一貫しているため、むしろ分かりやすい作品になっている。
そして、この認識を間違えると食わず嫌いでもったいないことになる……というか、『フロレアール』は、結果として、両者の中間を行ってしまったのだ。これは、どちらの期待をしていた人にとっても、予想外の事態だったと思うし、ニーズを意識した上での意外性には、商品としての誠実さも感じられた。
だけども、物語としての強度が、商品としての強度とは必ずしもイコールにならないという状況がある。完結する物語や、密度の高い物語にユーザーが興味を示さないというか、ユーザーはバランスの取れた作品より、歪んだ構造の作品に惹かれるのが、現在の状況である。
確かに、物語を楽しむということは、「自分の人生と違う人生を体験する」ことだけども、それは、「何も考えたくない」「楽しいことだけ考えたい」という意志を肯定するものではない。そういう態度は、あまりにも想像力に欠けた姿勢だと思う。基本的に創作や批評という行為は、想像力の限界を拡げるような意外性と強度を持つ必要があると筆者は考えている。それは、「萌え」とか「泣き」という、偏向した一つの感情ではなく、喜・怒・哀・楽、全ての感情を刺激して、初めて成立するものだと思う。何故なら、想像力の欠けた世界は、縮小再生産へ向かうだけだからだ。……まあ、青臭い理想ではあるのだが。
偏向したニーズに合わせて、偏向した物語が生み出され、大量消費されていくという、最初から意外性を排除した状況からは、当然、意外なものは生まれないし、想像力の限界は決して拡がらないだろう。
だけども、巨大な意志の集合体としての「市場」を無視しては、届く訳もないし、商業的にも成立しない。作家性と商業性の相克という問題は、本来、作り手と呼ばれる人々が抱える基本的なテーマだったはずなのだが、オブジェクト嗜好による極端な記号化という、個人主義の究極的な所まで解体されてしまった世界では、作家性や意味といったものは、ノイズとしか扱われないので、意味の伝達そのものが困難で、作家性自体に意味が見いだせなくなってくる。従って、慎重なバランス取りを行った『フロレアール』の誠実さが、単なる徒労に終わる可能性は高いと言わざるを得ないのだが……。
そして、批評が追いつけないのは「個人」による創作ではなく、巨大な意志の集合体としての「市場」なのだ。深く閉塞し、肥大し拡散していく状況に追いつけないのだ。
結局、物語と記号はどちらも極端な……両極と言える位置に離れてしまった。しかし、その両者はコインの裏表でもある。そして、両者を繋ぐものの可能性はどこにあるのだろうか……と、ぼやけた頭で考えているのだけども。
確かに、新マシンを買ったこと自体は嬉しいんだけども、鬱の症状は悪化の一途で、あと何回この連載が続けられるか分からないし、自分がどうなるかも分からない。本文ではああいうことを書いても、自分に関しては、批評する意義とかは既に分からないし、実際、だんだん書けなくなってきているし……考えていると、際限なく落ちていきそうで……とにかく、このコラムは自分への認知療法なのだと割り切って書くしかないんだろうなあ……新マシンで貯金ゼロになってしまったし。いや、実は、うかつに貯金があったりすると、逃亡の旅に出てしまいそうだったんで……という訳で、来月は本当に未定です。どうしよう……。
よく話題になるっていうか非難される論調でよく耳にするよね。
「絵描きさんでしょ、さささって簡単でいいから、結婚式のイラスト描いてよタダで!」ってのがいいか悪いか、って感じで。
プロに無料で頼むことは勝手だろ、とか、受ける受けないも勝手だろ、とか、
プロに無料で頼む行為そのものがプロの待遇をさげるからだめだろとか。
基本的には、頼む人は厚かましい人、っていう論調で語られるケースが目立つかな。
俺も同意。
いくら知り合いでも、プロじゃなくてアマでも、仕事を頼めば謝礼は払うべきって思ってる。
俺が話したいのは教育の話だ。
プロに無料で仕事を頼むのは、基本的には推奨されていない空気を感じるが、こと教育に関してはそうでもない気がする。
教育者としては、目の前にいる子供のために、自分のすべき仕事がどれくらいあって、何をどれだけすべきかってのは自分でだいたいわかると思う。
仮にその量を100としよう。
そうするとやっぱり、できるだけ100しなきゃいけない、100しようと本人は思うわけだ。
しかし、実際、教員の仕事として給与を出すのは40だけです、といわれるわけだ。
そうすると腹立たしいわけだけど、じゃあ40しかしません!とはなかなか言えないし、同僚の先生にびっくりするような
批判をされるし、モンペから問題にされることもあるし、何より目の前の子供のためになるならば、と思って結局は100近く、
なかなか全部は無理でも90とかの仕事をするわけだ。
しかし、それだけやっても、教育に関しては保護者の要望って様々な価値観があるから、教員の考える最大公約数的な100が、
実は我が子にとっては20なんです、って言う親がでてくるわけだ。
100は無理でも70くらいはしてよ、って言ってくる。
そりゃまあ、教員がすべき仕事はちゃんとすべきだ、って思うよね。
しかし、そうやって全保護者の求めることを全部こなすと、じつは一人の教員は200くらい仕事しなきゃいけなくなる。
一人でできる限界量は90-100。
こりゃ問題だわ。
で、教員の多忙問題の話になると、そりゃ待遇改善すべきだ、教員を増やすべきだ、って話になるわけだけど、
プロにただで頼む問題に否定的な意見を表明する人が、実際その状況になると、当然の権利として、
プロにただで仕事を要求しているのが教育現場だ、って特殊な状況に気づいていないことだと思う
しかし教員も最大公約数的なベストな方法しか実際は無理なわけだ。
教員の待遇を改善しよう、って他人事な賛同はしてくれなくていいので、
教育のプロに対して、納めてる税金以上、教員の給料以上の要求をしていないか、ってことだけ、思い出してくれたらそれでいいと思う。
俺はとてもお喋りである。類は友を呼ぶという奴か、友達も似たのが多い。
だから友達と話していると、マシンガントークの応酬みたいになる。これは楽しい。
だがもう少し浅い、たとえば結婚式の二次会だとか職場の(上司込みの)飲み会だとか、そういう場面になると、そうはいかない。
アルカイックスマイルを浮かべつつチョボチョボと仕事の話などをするのが、そういう場での普通のやり取りらしい。
俺はその気になれば、そういう場でもガンガン喋れる。でも相手の人たちは友達の時ほど食いついては来ない。
距離感が違うので当たり前だ。だからそれはいい。そこそこ会話ができれば十分だ。
気になるのは、お喋りでない人にとって、こういう場でのお喋り野郎がどう感じられるのかだ。
ときどき居酒屋などで、一人だけ悦に入ってずーーーっと喋っており、他のメンバーはゲンナリ感を押し隠して相槌を打っている、というのを見る。
本当に彼らがゲンナリしているのか確かめる術は無いが、俺にはそう見える。
ああなっちゃいかんな、と思う。
しかし、飲み会の場がしーんとしているのも、それはそれで落ちつかない。
俺が喋ることでいくらかでも空気が緩和されるのなら、その役目を果たしたいと思う。
できるだけ色んな人に話題を振るよう、心がけもする。
独りで喋ってる野郎は軽蔑するが、静まりかえるよりはマシというなら、軽蔑の視線も受けよう。
他の人たちは良く知らぬ相手との表面的な歓談よりは、むしろ沈黙の方が心地良いのかもしれない。
まして自分で選んだわけでもない話題をいきなり振られたりしたら、不快に思う人もいるのでは?
あるいは、俺が喋らなくても待っていれば、自然に歓談が始まる可能性もあるのでは?
その場合は俺がペラペラ喋ることは、むしろ好ましい状態が生まれるのを妨げるだけかもしれない。
「てめーがいつまでも喋ってるせいで、俺の言いたいことが言えねーだろタコ」と腹を立てている人がいるのでは?
時間内のある程度は喋り、1回くらいずつ周りに話題を振り、あとは黙っていれば、間違いがないだろうか?
全然横だけど、詰まるところ「劇場版アニメ」を見ることを映画鑑賞と言えますか問題ですね。
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趣味は読書です、っていうのに突っ込んだらラノベが出てきたとき、ちょっとうろたえちゃうな。
いや、僕も読んでたよ。具体的には90年代後半。それはそれはどっぷりはまった。
しかし、もうだいぶん経った。
正直に言えば、ラノベからも遠ざかった。だから元増田の本当の質問はスルーだ。
その上で、読書とラノベを結ばれると、それも社会人にやられるとキツイかもしれない。
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映画が好きだという人も、好きな映画で「劇場版アニメ銀魂」とか返ってくるとなかなか……。
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悪くはないんだけど、言葉って形が無くてその場で意味が変わるものじゃん。
教師が読書を奨励して、本であるゴングとか週プロとか、週刊文春とか読まれても多分、教師は納得しないよ。この場合、教師の言葉足らずが悪いんやろうけど。
趣味が読書とか、映画鑑賞とかって言う人(他になんも知らん人)にそれを聞くときは会話の糸口を探しているので、もっと最大公約数的な回答は欲しいよね。
いまの日本社会の本質的な問題点は、社会の内部が分断されていることにあると思う。
立場の異なる者同士のあいだを埋めるものがなく、異質な者同士では共感が生まれない。以前にはカップラーメンの値段がわからないと揶揄された首相もいたし、いまの安倍晋三君もひもじい思いをして暮らしたことがあるのか、私は寡聞にして知らない。
例えば、御法川氏が朝にテレビで「庶民」の立場でキレていたし、夜には古舘氏が、というのも結局は、「庶民」が自覚している孤立感を代弁してウケを取ろうとしているのだと思う。実際には、「庶民」だとか「官僚」「天下り」「公務員」「東電社員」だとか、そういったカテゴライズでは語れないものだと私には思えるのだが。
47都道府県あれば47通り、さらに市町村はもっと多いし、人口は1億3000万くらいあって、それだけの相違があるのにもかかわらず、その相違を包摂して溝を埋めようとする努力がなされているのだろうか。例えば、ニュース報道は、47都道府県分の各地のニュースを流しているのだろうか。おそらく地方版はその地方にしか載っておらず、在京キー局や在京新聞社などは最大公約数的なニュースを流しているだろう。例えば、共同通信社や時事通信社というできるかぎり無色透明で最大公約数的ニュースを配信する通信社があって、そのニュースに多くの新聞社は依存している。
例えば東京にいても、福島県民や宮城県民や北海道民や沖縄県民や高知県民や(以下略)の「声」が日常的にはどれほど聞こえてきているのか。あまり聞こえてこないと、私は思う。全国に流すための最大公約数的マスコミだからだ。
明治時代以後、そして戦後以降もなお、マスコミや広告代理店も国家機構も最大公約数的な社会づくりをしてきたのではないか。例えば「流行語大賞」だとかいまだに言っているが、「流行語」というのも結局は、相違する人間同士が、溝を埋めていないのにもかかわらず、共感している「気」になっているだけなのではなかろうか。
むしろ実際には、少数であればあるほど、その人の「声」はかき消されて聞こえなくなる。例えば少数民族(例えばアイヌ)にしても、性別的少数(ISやGID)にしても、あるいは最下層の困窮者(例えば貧困や障害や傷病など)にしても。実際には1億3000万のマイノリティの集積がこの日本社会であり、そこから最大公約数だけ取り出せば「効率」はいいのかもしれないが、まちがいなく取り漏らす。
いま、安倍自民党にしても、いわゆる全体主義的な、あるいは国家主義的だともいうような、社会全体のステレオタイプ化された秩序の押し付けに力を入れているけれど、そうした方法では、社会内部の分断された溝は埋まらないと思う。それで真の秩序が保たれるのだろうか。例えば特定秘密保護法を強行採決したり、唐突に靖国参拝をしたりしたけれども、そういうやりかたは民主主義的でない、話しあいが欠けているわけで、つまり、溝を埋める努力をしていない。
消費税の優れた点は
軽減税率 | 所得によらない一律給付 | 給付付き税額控除 | |
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概略 | 所得の低い者ほど支出に占める比率が高い特定品目の税率を下げる | 所得による区別なく皆に同じ額のお金を給付 給付付き税額控除の特殊な場合ともみなせる | 所得の低い者ほど多くのお金を給付 |
逆進性改善度 | 極めて小 | 中 | 大 |
コスト | 極めて大 | 小 | 中~大 |
コストの中身 | ・レジの新調や事務負担増 ・仕入れと出荷の税率が異なり得るため、仕入税額控除の作業が煩雑化 ・特例処置など他の制度との整合性を取るのが困難 ・インボイス導入が現実的には不可避 ・軽減税率入りへの業界のロビー費 ・軽減税率品目の恣意性、政治的コスト ・ラムゼー税率から乖離することによる資源配分の非効率化 | ・本人確認および振込先銀行口座の登録 | ・本人確認および振込先銀行口座の登録 ・所得把握のためのマイナンバー制度導入 ・所得の捕捉漏れ ・どの程度を低所得とみなして給付を増やすかの線引の恣意性、政治的コスト |
特記 | ・古くから消費税を導入した国では多く採用 ・消費税内で完結するため逆進性対策が採られていることが分かりやすい ・ジャンクフードなど安い外食が多い低所得者は恩恵が少ない ・食品を持ち帰れば食料品扱いで軽減税率、店で食べれば飲食サービス 扱いで高い標準税率が適用などといった分かりにくさ ・生活必需品に限るにしても人によって生活必需品が異なる ・最大公約数的な生活必需品を絞り込んでの軽減では、適用範囲が狭く なり逆進性改善度がさらに低下 ・新しい商品の適用が遅れる ・先行導入国の事例検証から、近年では避けられることが多い | ・定額給付金で先例があり事務はスムーズ ・期初に給付を先払いすれば手元流動性に余裕ができる | ・フロー所得は少ないが貯蓄は多い、引退世代まで優遇してしまう ・期初に給付を先払いすれば手元流動性に余裕ができる |
ポイントは
さらに
所得階層別の軽減税率で浮くお金 http://anond.hatelabo.jp/20130121134436/
社会保障改革に関する集中検討会議(第九回)(資料3-7)参考資料 http://www.cas.go.jp/jp/seisaku/syakaihosyou/syutyukento/dai9/siryou3-7.pdf
消費税増税時の逆進性・低所得者対策のQ&A http://www.dir.co.jp/souken/research/report/law-research/tax/12061901tax.pdf
食料品等に対する軽減税率の導入問題 http://www.nta.go.jp/ntc/kenkyu/ronsou/46/takada/ronsou.pdf
【図解・行政】海外の消費税の軽減税率 http://www.jiji.com/jc/v?p=ve_pol_seisaku-syakaihosyo-zei-kaikaku20120507j-06-w310
消費税の逆進性とその緩和策 http://www.media.saigaku.ac.jp/bulletin/pdf/vol9/management/18_tashiro.pdf
消費税の逆進性とその緩和策 http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j41d03.pdf
消費税の逆進性対策を考える http://www.jbaudit.go.jp/effort/study/mag/pdf/j40d02.pdf
消費税は本当に逆進的か http://www2.osipp.osaka-u.ac.jp/~kohara/shohizei.pdf
消費増税議論(その2) http://diamond.jp/articles/-/15386
歳出だけでなく歳入(税制)にもある「ばらまき政策」 http://diamond.jp/articles/-/24255
消費税の軽減税率に反対すべき5つの理由 http://www.anlyznews.com/2013/01/blog-post_9526.html
軽減税率は世界の潮流でない http://agora-web.jp/archives/1512548.html
日本の所得再分配―国際比較でみたその特徴 http://www.esri.go.jp/jp/archive/e_dis/e_dis180/e_dis171.html
日本人はとりわけこの傾向が強いのだが成功術や幸福術に対して猜疑的と言えるほどに否定・反発する風潮が広くみられる。
また、より一般的な話になるが現代人に広く見られる傾向として、絶対的価値観に対する無条件の反発のようなものも広くみられる。
ひるがえって、近代科学が知識人たちにもたらした仮説思考とは、集めた情報、持ちうる情報から検証を重ねて一定以上の確率で正しいと推論される主張を「さしあたり」支持するというものである。
だから、何もその主張を絶対的に支持するわけではないが、「さしあたっては」絶対的に支持しているような「素振り」をとっている、と言えないこともない。
そういったものに対しても、「自分の考えを正しいと信じて疑わない」「自分以外はみんな間違ってると思ってるよアイツ」みたいな言い方を平気で出来てしまうのである彼らは。
いわば、絶対性アレルギーとでも言うか、「絶対なんて絶対ない」から感じる滑稽さに近しいものを感じざるを得ない。
むろん、彼らも絶対的に絶対性を否定しているわけではなく、あくまで「素振り」であると断じてしまうことは簡単である。
しかしながら、素振りであるにしても、幸福術に対するアレルギー反応を観察していると、これは人生簡単にいく方法なんてないから簡単な方法を否定しているといった人生の構造そのものの難しさにだけ帰着できる問題というより、
もはやこれはアレルギー反応を起こす人々に特有な精神性に問題があるのだなあと私は考えるのである。
バイト先の近くのローソンに過剰なサービスを提供するありがた迷惑な店員がいるのだが、最初それは店側の意向なのかと思っていた。
通常おかしな店員がいれば他の店員が注意したり客が苦情を申し立てたりするはずで、とっくに修正されているはずであるから、店側の方針と考えるのは自然なことである。
だが、その店に通い詰めるにつれて、明らかにその店員だけ特殊であることに気づき、これは誰も注意しないだけなんだと判明した。
すると不思議なのが何故注意しないのかである。その店員がおかしいと思っているのは俺だけなのか?いやそんなはずはない。では何故注意しない?
結局導き出された結論は、誰もがそんな些細なことはスルーしているのだ。彼は法をおかしているわけでもなく、あからさまに害を及ぼしているわけでもない。ただちょっとウザイだけである。
仕方ないのだ、そういうキャラなんだから。たまには迷惑そうにする客もいるだろう。実際、おかしな顔で彼をにらんでる女性客を見かけたことはある。「なんだこの馴れ馴れしいヤロウは」みたいなw
だが、否定派の俺が見ても彼はイケメンだから注意する女性も少ないのかもしれない。結局、ハルヒじゃないが最初は「なんだこいつ」と思う人が多いだろうが
「まいっか」の精神で最大公約数的な答えに落ち着いているのだろう。思えば世の中にはGCMを計算してくれる既成のプロパガンダやプロパガンダ機能を有するサービス・機関があふれかえっている。
「こまけーこたぁいいんだよ」とばかりに様々な無数の懸念事項を隅田川に勝手に不法投棄し、東京の街は成り立っている。
表向きは綺麗に見せかけているが水中では足をばたつかせている白鳥のように、クローゼット突っ込み整理術のように、強引に人々の心のゴミを片付け、夢を見させる。
言うなれば、その延長に絶対性への拒絶反応や幸せに生きる方法に対する無条件な否定や猜疑的反発や神経症的激怒があるのだろう。
心のどこかでは幸せに生きたいと願いつつも、その思いは叶わないから「ゴミ」であって削除されなければならないのだ。彼らの中では。
そこで手っ取り早くゴミを片付けて(結局それは先送りしてるだけで片付けには成功してないのだが)夢を見させてくれる既成プロパガンダにしがみつく。
そしてテキトーに組み合わせて自分のためのつぎはぎだらけの不格好な体系をこしらえる。それが彼らの声帯なのだ。
なぜこれが深刻な問題にならないかというと人々はそれなりに幸せだと思い込むことが出来ているからである。いろいろ不平不満を表面では言いつつも、実は大して彼らは困っていない。
しかし、こうも考えられないだろうか?中には本当に困っている人もいると。あるいはまた、困ってはないがもっと幸せになりたいと願っている人もいると。
だから日本に生きる人たちは気をつけないといけない。自分がその該当者だとしたら現実から目を背けてインスタントなツギハギプロパガンダの夢を見るのは得策ではない。
そういった人たちが既成の幸福術を実践したところで、ツギハギプロパガンダの悪影響を強く受けてしまうから失敗に終わることが多いのだ。
そして明日には二の轍を踏むかもしれない人間が平気でそういった人たちをつかまえて、だから無理って言っただろと非難する。そういう構造になっているわけである。
科学を篤く信奉する我々は、彼らの永遠なるごっこ遊びを真似してはいけない。毅然とした大人の態度で、GCM計算から一歩置く必要がある。
絶対なんて絶対ないと言いながらGCMのトリコになってる彼らとは違う。科学者の言う相対主義とは、仮説思考であり、方程式の適用限界の確認である。
ほにゃらかほにゃらかだと念仏のようにとなえるだけではだめで、直接話法を使いなさい。「「おっぽれだからほにゃらかだ」と思う」と言わないとダメ。カッコつけずに括弧をつけろと高校数学で習っただろ?