はてなキーワード: 心電図とは
7.:30集合
航空おちて海だったらどうするのみたいな書類を書く
2次または3次って書いてあったから2次オチで海にまわることもある?
4問くらいやってない
おなじく常識問題 (コロンブスは何人 オランダ ドイツ スペイン アメリカ)…みたいな 20問4分
8割方とけたと思う
全部合ってるけど10個くらいやってない
図形に0から9の数字が当てはめられていて、図形を数字に置き換えるやつ 60問くらい4分
40問ちょっとは書いたと思う。これだけは解答数-誤答数だったかも
図形を半分にして正方形をつくりなさい 9問くらい 5分
無理!
どこが違うのかは良く解らん
身体検査
午前中
パンツ一枚編
耳抜きできるか
眼球運動
肺活量
握力
…たしかこれだけ。
医官の人が返事が小さくてキレてた
だった。返事はしっかりしましょうね
服着たあと
尿検
何故か再検wwwww
胸部レントゲン
くらいだったかな…
午後
視力 超手作業 なんとか環に1から8の数字が振ってあってその向きの数字を言う
視野 目を動かさずに端っこから指し棒が現れるからみえたらストップをかける(これは目の大きさによると思うけどね)
近距離視力
中距離視力
豆本サイズよりちょっと大きな文字を 近距離より遠くのところで読まされる(0.2しかはからない)
失敗すると問診室に行って3D絵本の検査を受けて、深視力を再受験できるか決まって再受験。再受験のときは試験官が気持ちやさしい
あと目にモノをどんどん近づけて目がどこまで寄るか見る奴
機械に顔をくっつけて光の点を見て縦と横の赤い線をリモコンでいじって位置が光に合うように調節する
聴力
頭小さいとぶかぶか。右からいきますとかなんにも言ってくれない
音めちゃくちゃ小さい。呼吸するとわからない。
血圧・脈拍
座った状態・寝た状態・たった状態で測る。じみーに時間がかかって眠くなる。
顔面レントゲン
問診
うまく出来なかったと思ったら再検査があるんじゃないカナ。
開放時間7時30分くらいだし。
長年悩まされてきた不整脈が、ほぼ完治してきたので、自分なりの方法を書きます。
もし、不整脈に悩まされている方がいましたら、参考になれば幸いです。
■発症
のように、食い気味の拍や、本来は休符の場所に拍を入れる感じ。
今まで、ひどい風邪をひくとたまに不整脈が出ることがあったので今回もそれかな?と思ってたら、一週間続いたのでこれはよくないと思い病院へ。
■最初の通院
医者曰く、「よくある病気である。基本的には対症療法しかない。カテーテルアブレーションというのもあるが、そこまでの症状ではなく、普通に運動もできる。なんなら私も不整脈なんだよ」ということを言われた。
最後の言葉は、ちょっと医者としてどうなんだ?と思ったけど、結局これといった解決策もなく病院をあとにする。
■運動をしてみる
対策として、あえて運動をしてみた。
走ってて、最初は胸に違和感があったけど、ある程度激しく運動をすると胸のつかえが取れる感覚を覚えた。
その後しばらくは、不整脈が出なくなった。
なんだ、ただの運動不足か、と安心しきってたら数日後あっけなく再発。
また走ればいいやとしばらく放置したのち、再度ジムに行って激しく走ってみたものの、何と不整脈持続。
軽く焦り始める。
■二回目の通院
つまるところ、この手の不整脈は往々にして精神の問題から来るもの、とネットには書いてあった。
確かに、当時の自分は悩める子羊で、仕事の事や将来の事、家族の事など、今となれば「やりゃいいだろ」というような細かいことまで悩んでおり、
それが原因だという自覚があった。
なので次の一手としては心療内科に行ってカウンセリングを受けることにした。
これが解決すれば不整脈も治るかなと足繁く通った。
結果、悩みの一つである将来の事に関しては、転職をしてみようという決意に至り、活動をすることにした。
■サンリズムという薬
直接療法ではないが、症状を軽減してくれる。
仕事に集中できるためしばらくの間服用を続けた。
こんな状態の最中、転職活動を行った俺すごい、と一応自画自賛もしとこう。
加えて、こんな状態でも日々の通院や転職活動を容認してくださった前職の関係者の方に、ホントに御礼申し上げます。
■三回目の通院
転職を果たし、新たな地に移り住む。
さすがに三回目となると、こっちとしても説明も慣れたもの。
自分で「期外収縮」だと言うと、医者もあまり関心がないのか、たまたまその先生が専門外なのか、あまり親身になって聞いてくれなかった。
「あまり気にしないことですよ。運動もほどよくしたほうがいいです。悩みすぎないように」
という、俺でも言えそうな言葉をもらい、何となく釈然としないが薬をもらうためにしばらく通院。
■薬への耐性
薬も服用を続けると、体に耐性ができてしまって、なかなか効かなくなってきてしまった。
成分の密度が濃いワンランク上の薬をもらうこともできたけど、いたちごっこのようにまた効かなくなるだけなので、もう服用をやめた。
その頃には、多少の諦めもあった。
■不整脈が出る周期
説明がものすごく難しいけど、胸のあたりにドーンという深い重みが襲ってくるような感覚、一瞬の焦り、息が詰まる、のような体験をすると、翌日には不整脈の激しさが増す。
かといって、打つ手はなかった。もうカンセリングも受けたし、また受けても同じかなと。
ただ、解決策は徐々にわかり始めてた。
一般的に不整脈の原因の一つとして「自律神経失調症」があり、副交感神経の働きが弱いと不整脈が出やすくなるらしい。
そこで鍼をうってもらい、無理矢理にでもリラックス状態になってみたら何か改善されるんじゃないかと思い、試しに鍼灸院に行くことに。
結果、かなりリラックスはできた。
その他、温泉に行ったりマッサージを受けたりと副交感神経が優位になるようなことを行った。
しかし、完治はしなかった。
■光明
とはいえ、今までなかった「不整脈が出ない日」というのが、ちょっとずつ増えてきた。
何か、もう少しな気がしてきた。
家に居る時は不要な悩み事をしない、腕組みなどの交感神経が優位になるようなことをしない、
などを行った。
そういうクセってなかなか治らないけど、
「もうこれ以上不整脈が続くと、いくら心臓に問題の無い期外収縮とはいえ負担はかかってしまう」
と考えたら、ある種の防衛反応で悩みすぎる事もなくなってきた。
「だって死にたくないもん」と考える事で、細かい悩みは持たなくなってきたように思う。
■とどめの対策
それでも症状は出る。
あとちょっとなのになぁ、と歯がゆい気持ちになり、それが悪循環になり症状が悪化したり。
でも、自律神経の乱れが原因と決めつけて、いろいろ調べた結果、以下のことを試す。
マグネシウムの摂取は、体の神経系の異常を正常に戻す、という記事を発見し市販のサプリを購入し服用を始めた。
すると、服用後1ヶ月でほとんどと言っていいほど症状が出なくなった。
今も再発の不安は残るけど、このまま無くなる気がしている。
一袋300円弱。すごくリーズナブル。今まで高い薬を買ってたのがアホらしく思える。
■まとめ
という結論に至るにはちょっと自信ないです。
結果としてそうなったけど、精神的なものの兼ね合いだと思っています。
発症後すぐに投与しても変わらなかったのかもしれませんし。
このたびの東日本大震災で、東北から関東の一部まで大被害を受けましたが、我が社も陸前高田の坂井宏所長御夫妻とそのご子息および、各店の所長の御家族五人、YCスタッフ一〇人がお亡くなりになりました。深く哀悼の意をささげます。また、YC店舗は全壊六戸、半壊・一部損壊一七戸という被害を受けました。
今回の震災の被害対策については、政府の対応は誠に非能率で憤慨するところ大でありますが、グループ本社及び傘下各本社は、宮本副社長販売担当のもと、労力的にも、資金的にも迅速に対応し、その報告を聞いていささか心を癒されました。今後とも被災地YCの復興に全力をあげるつもりであります。また政府の被災地全体にわたる救済、復興の不手際については、紙面で厳しく批判し、督促してまいります。
さて、震災後の五月二十六日に、読売新聞が週刊新潮の無責任なデマについて提訴した名誉毀損訴訟に対して賠償金の支払いを命ずる判決が出て、全面勝訴しました。
この新潮報道では、二〇〇九年六月十一日号で、「新聞業界最大のタブー"押し紙を斬る"」というタイトルで、「読売18%、朝日34%、毎日57%が配られずに捨てられていた」と断定しております。判決では「読売新聞においては"押し紙"が存在すると推察することもできない」として、新潮報道が全面否定されました。
新聞が二割、三割、五割以上もの紙を配らずに捨てるというような不合理な無駄をしていれば、用紙代、印刷代、輸送費及び人件費の消耗で直ちに倒産しているでしょう。
過去十年間の読売新聞の決算報告をもとに数字を申し上げれば、この十年不況で日本経済が停滞し、また新聞外のメディア、特に電子メディアの普及等もあり、販売部数が減少したことは事実であります。
しかし、二〇〇二年三月期と、二〇一一年三月期の十年間の読売新聞の収支を申し上げると、販売収入は二六四九億円から96.61%の二五六〇億円に減少、その落ち込み幅は3.39%に過ぎません。その間のABC部数は一〇一五・二万部から98.74%の一〇〇二・四万部に減少、落ち込み幅は十年不況の中で僅か1.26%であります。
それに対し、景気を最も敏感に反映する広告収入は、一五〇六・九億円から53.16%の八〇一・二億円に減少、落ち込み幅は46.84%にも達します。
それにもかかわらず、黒字経営を続けているのは資材、人件費の節減や、製造工程の近代化、合理化による節減と保有株の配当収入、不動産賃貸収入の安定もありますが、最大の原因は販売収入の減少が極めて僅かだったからであります。
週刊新潮の言うように、印刷した新聞の18%も捨てていれば、このような安定した販売収入はあり得ません。
大きく言って、読売新聞の収入構造は、販売6、広告2、不動産賃貸収入、配当収入、巨人軍等の事業収入2の割合です。そのうち二割を占める広告収入が十年不況で半減したのに、堂々たる黒字経営を続けていられるのは、ここにおられるYC所長の皆さまの日常の努力による販売収入の安定でありまして、皆さまの献身的な愛社精神と堅実な経営努力に心から感謝申し上げます。
ちなみに、最近倒産の多発している米国の新聞の広告収入依存度は、七割から八割であり、これは宅配制度の不備によるものです。
さて、原発問題と今後の日本と世界経済の問題について若干言及致します。
現在稼働中の原発もいずれ点検による稼働中止になり、このままでは来年には、日本の全原発が稼働停止になります。もし、日本の電力の29%をまかなってきた原発が動かなくなれば、日本の産業生産は縮小し、かなりの企業が倒産し、失業者が増大し、税収は減り、国家財政は破綻する恐れがあります。
菅首相は、現在9%の再生可能エネルギーを20%とか25%に増大するという夢を語っていますが、彼の言う再生可能エネルギーのうち8%は水力発電です。これを増強しようとすれば、民主党政権の言ってきた「コンクリートから人へ」を逆転させ、ダムを建設しなければなりませんが、それには五年、十年かかるし、また日本にはその適地もなく、コストは巨大になります。
菅首相の言う太陽光、風力発電は、現在全発電量の0.5%くらいで、日本の地理上、適地が少なく、風力発電は海上に巨大な浮体を作って乗せるほかなく、それも巨額な出費をもたらします。
太陽光発電は、理想としては良いのですが、実際に広大なパネルを作ろうとすれば、それも巨費を要し、一朝一夕にできるものではありません。
そうなれば、今問題になっている玄海原発のように、政府が安全を保証する点検済みの原発を再稼働させていく以外には、日本の経済、財政、産業、国民所得を維持する道はありません。
私が枝野官房長官をはじめ、関係政府要人や専門学者達に聞いたところによると、福島第一原発の事故は、地震によるものではなく、大津波によるものだということです。
つまり、地震による揺れで原子炉が破壊されたのではなく、大津波によって原子炉の冷却装置を稼働させる電源と冷却装置をつなぐ配電管が破壊され、冷却装置が止まってしまったこと、また海水を汲み上げるパイプ、そのための発動機の損傷もありました。
海面上一〇メートルの所に作られた第一原発は壊れましたが、一五メートルの高台に作られた女川原発は、津波による被害がなかったので、今すぐにでも稼働できるのです。日本海側、瀬戸内海側の原発は、二〇メートルの津波をかぶる心配はありません。静岡県の浜岡原発も、完全な防潮施設を作れば安全になるでしょう。福島第一では電源を地下に設置してありましたが、浜岡では建屋の屋上に設置してあります。
福島第一の事故で、たくさんの人災的原因が明らかになりました。この経験と知識と高度な日本の技術をもってすれば、耐震性は証明されている日本の原発に対し、さらにどんな津波が来ても、外部電源とつながる炉の冷却装置を損傷しないような防御装置を構築することは可能でしょう。震災後四カ月たっても、こういう措置を稼働中止中の原発に対して取ってこなかった政府は、一体何を考えていたのでしょうか。
ドイツが原発を中止したといっても、ドイツはフランスの原発から電力を輸入しているからできることです。
過剰な原発アレルギーで、日本の電力の三割を止め、節電とか自粛とかを連呼しているのみでは、日本はいずれ産業国家として世界三等国に転落し、貧困や失業に悩まされるのではないでしょうか。
読売新聞社は、この不況の中で、大手町の一等地に三三階の新社屋を建設します。首都直下型地震が来ても安全な耐震性、非常の時の自家発電や、交通途絶対策としての非常食の備蓄等、完壁なビルを無借金で建てます。
私が社長に就任した二年後、借入金はピークで一六四一億円余ありました。社長就任以降今まで五六五四億円設備投資しましたが、現在すでに返済し、数百億円の預金があります。つまり、二十年前に千数百億円借金をしなければ、新規設備投資ができなかったのです。しかし今、大手町に最新の建設技術の全てを取り入れた高層ビルを建てるのに、新たな借金は必要ありません。
現在の我が社の基本的な経営体力は、皆さんの努力による安定した販売力、YCの店力、全従業員の愛社精神が基軸であります。
さらに、読売新聞の主張する税制改革案を含む財政、経済、社会保障、産業政策等が、ポスト菅の内閣によって実現されれば、不況も解消し、広告収入の低落にストップがかかり、増収になり、その成果を皆さんとともに享受できるようになるでしょう。
次に今回の読売グループの人事異動について説明します。すでに新聞等に細かく報道されているので、重点について述べます。
内山前社長は昨年春、令夫人が大きな手術をして以来、術後が思わしくなく、そのショックで本人もいささか精神不安定になり、特に3・11の地震後の社務にはほとんどたずさわらないという状態になり、私宛に、夫人の看護に専念したいとの辞表が提出されました。
内山君は私の永年の忠誠な部下であり、私には万感こもごも至る思いもありましたが、新聞社として緊急非常の事態の中、その辞表を認めました。
老川東京本社社長は定年に達していたので、グループ本社の最高顧問としてグループ全体について指導してもらうこととしました。
私は依然、事実上の最高経営責任者として残りますが、八十五歳という高齢を考え、実務は白石興二郎君に、グループ・東京本社の代表取締役社長を任せることにしました。白石君は、編集局長、論説委員長、メディア戦略局長、社長室長等を歴任、社務の全般に通じており、最適任と思います。また、政策理論家として社外でも評価されている早川準一君にグループ本社の副社長兼副主筆として私を補佐してもらいます。
販売担当の宮本友丘君は東京本社副社長に昇格、私の直轄下で、東西の販売政策を指揮してもらいます。
内山君の病気のこともあるので、八十五歳という最高齢で、事実上の最高経営責任者である私の健康状態について報告しておきます。
今月、慈恵医大病院で、世界的な血管外科の大家として知られる大木隆生先生に、全身の内臓検査をしてもらいました。その検査結果の一部を読みます。
これは大木教授より読売診療所の近藤所長にあてられた報告書です。
「渡辺さんは、息切れなどの症状もなく、極めて健脚です。血液検査については、γ-GTが少々上っている以外、異常はありません。肝機能は極めて正常です。
次に、心電図と脈波検査を行いました。血圧は正常、閉塞性動脈硬化症がなく、脚の血流が良好です。
CT検査の結果、まず脳に関し驚くべきことに脳の萎縮が全く進行しておらず、頭がさえていることが見てとれます。脳動脈瘤、甲状腺、嚢胞や腫瘍もありません。心臓も肥大や大動脈弁石灰化もなく、極めて若々しい状態にあり、六十歳代くらいの若々しさと言えます。肺にはがん、腫瘍も認められません。極めて健康的な肺です。膵臓が唯一の所見のある部位で、萎縮があり、前糖尿病と言えます。腹腔動脈、上腸間膜動脈、および左右の腎動脈に狭窄はありません。
腰椎に高度の変形を認めます。腹部大動脈、腸骨動脈に動脈瘤や狭窄病変などはありません。膀胱に異常はありません。現時点で治療を行う必要はないと思われます。
内臓脂肪が多く、膵臓が萎縮していますので、一層のカロリー制限と定期的な運動を続けられることは膵臓のみならず、高血圧、痛みのある膝関節にとっても良いことです。
最も素晴らしいことは、八十五歳と高齢であるにも関わらず、脳に萎縮が全く見られないことです。人間にとって肝心な脳、心臓、腎臓、肝臓が全て六十歳代と思えるほどの若々しさです。
東京慈恵医科大学外科学教授血管外科 大木隆生 読売診療所 近藤和興先生御侍史」
以上が目下の私の健康状態なので、新社屋の完成する年、つまり米寿までは持ちこたえるでしょう。この世には小生が早く往生することを願っている人も少なくないようですが、その人達は失望されても仕方のないことです。
最後に、ポスト菅の首相が誰になるかを予想することは、巨人の勝敗の予測よりも困難であることを告白してごあいさつと致します。
Yahoo知恵袋には、本吉病院長に対する地域の冷たい仕打ちがあったような記事が出てくる。
webには、そのようなものはなかなか出回らない。 とりあえず、ちょっとメモまで。
どうなのかな? 投稿者:一患者 投稿日:2007/02/20(Tue) 19:57 No.106
この頃、本吉病院に行くことに、ちょっと抵抗を感じるようになりました。誤診なのか知識不足なのか、適切な処置をされないで手遅れになるところだった人の話を聞きました。医者も生身の人間ですから、診誤ることもあるかもしれないけれども、私たち一般の人は医者を頼りに病院に行くわけですから、しっかり診察をしてほしいものです。
森町長がこの掲示板を見るかどうか分かりませんが、できたら、もっと医師に研修なり、勉強の機会を与えて、町民の命を預かるというのは、重責かもしれないけれども、でも、本吉町で唯一の病院ですので、高い機械を入れるばかりでなく、それを使いこなす人材や医師を育ててほしいと思います。赤字で大変でしょうが、一考お願いします。
直接、病院事務長や院長に話をすればいいのでしょうが……
あとは、勉強用に。
本吉町国民健康保険病院改革プラン(平成20年12月:本吉町国民健康保険病院)
本吉町国民健康保険病院は、昭和22年8月に旧津谷町国民健康保険組合の直営で一般病床24床の病院として開設された。
翌23年には、法改正により旧津谷町に移管され直営病院となった。
昭和30年3月の町村合併により本吉町国民健康保険病院となり、この年に新病棟が建設され、一般病床52床、伝染病病床12床を有する病院となった。
昭和34年当時の診療科目は、内科、外科、小児科、産婦人科を標榜しており、地域の中核的病院として住民の健康と福祉の増進に大きく貢献してきた。
しかし、その後人口減少などの理由により、病院は多額の累積赤字を抱えるようになったため、昭和47年に病院運営委員会を設置し累積赤字の解消に努めてきた。
その後も逐次規模の縮小が図られ、昭和61年には一般病床38床で、内科、小児科を標榜する現在の病院の規模となった。
昭和47年から取組んできた累積赤字の解消は、一般会計からの繰入金の増額等により平成6年に全て解消することが出来た。
その後は単年度の損失はあるものの繰越利益剰余金により累積赤字は発生していない。
本吉町内には、かつては数軒の医科医院が開業されていたが、医師の高齢化等により廃業し、平成15年以降は診療が行われておらず、本吉病院が町内唯一の一般病院として現在に至っている。
国の医療費抑制策による近年の診療報酬改定は、小規模な病院に与える影響が大きく本吉病院においても診療収入が減少している。
特に平成16年度の診療報酬改定により薬の長期投与が可能となり、患者の通院数が月2 回から月1 回になったため外来患者数が減少したことも診療収入減少の要因の一つとなっている。
現在本吉病院では、常勤医師2名により平日の診療に当たり、土日及び祝日等は東北大学病院より臨時医師を派遣いただき診療に当たっているが、患者数による必要医師数は常勤医師3名となっており、早急に常勤医師3名体制の確立を図る必要がある。・・・
本吉町国民健康保険病院は、一般病床が38床で、診療科目は内科、小児科を標榜しているが、現在は内科医師2名により、実質的には内科単科のみの医療提供を行っている。
外来患者数は、1日平均70~80名で年間約21,000人となっているが年々減少傾向にある。入院患者は1日平均35人で病床利用率は93%となっておりここ数年は横ばいとなっている。
外来、入院診療のほかに、件数は少ないが訪問診療や訪問看護・訪問リハビリ等も行っている。
本吉病院は、町内唯一の一般病院であることから、毎週日曜日は当番医として診療を行っているとともに、救急告示医療機関にはなっていないが、内科に係る初期救急については24時間受け入れを行っている。
また、町の健康福祉課が計画している乳幼児等の各種健診や予防接種のほか、町立の幼稚園・保育所、小学校、中学校の校医も受託している。
さらに、町内企業の産業医を受託しているとともに気仙沼地域産業センター主催の健康相談への協力も行っている。
以上のように、本吉病院が地域において果たしている役割は極めて大きく、本吉町の保健医療の推進を図る上で欠くことのできない重要な医療施設となっている。
本吉病院の正職員数は、医師2名、薬剤師1名、診療放射線技師1名、臨床検査技師1名、理学療法士2名、管理栄養士1名、看護師18名、事務職員5名の計31名、ほかに臨時職員が看護補助員9名を含めて21名で、合計52名となっている。
医師については、本吉病院の患者数による常勤医師必要数は3名で、1名不足となっていることから、当直等を含めた勤務時間が過剰になるなど医師の負担が重くなっており、早急に医師の確保を図る必要がある。
宮城県気仙沼市本吉町の市立本吉病院(38床)が苦境に立たされている。津波で1階が高さ1.7メートルまで浸水した被害に加え、2人の常勤医が辞職するなどして現場を離れたからだ。被災と「常勤医ゼロ」の異常事態が重なる医療現場で、看護師や派遣医師が「住民の身近な病院を守りたい」と奮闘を続けている。
押し寄せた津波に入院患者20人や職員は避難したが、1階の診療室やエックス線室、コンピューター断層撮影(CT)などの医療機器は水に漬かり、損壊した。
3月20日には院長(59)が辞表届けを提出。もう1人の常勤医の40代男性も体調を崩し、ともに現場を離れた。病院関係者は「停電、断水、薬不足の中、外来患者は普段の2~3倍に上り、昼夜働きづめだった。誰も責められない」と語る。
現在の医療活動は、徳洲会病院グループでつくる災害医療協力隊「TMAT」が担う。入院患者は岩手県立千厩病院(一関市)に移送し、24時間態勢で外来診療に当たる。
千葉県から5泊6日の日程でやってきた医師黒岩宙司さん(54)は「避難生活の長期化で風邪や不眠を訴える人が増えている。今こそ協力隊の力を発揮しなければならない」と力を込める。
病院職員は津波によって12人が自宅損壊、2人が家族を失った。自宅が津波で流された薬剤師長の遠藤博文さん(54)は「JR気仙沼線の復旧の見通しが立たず、遠距離通院はできない。ここを守るしかない」と、泊まり込みを続ける。
TMATの支援期間は1カ月程度の見通し。市は復興作業と医師確保という難題を背負った。
看護師長の佐々木美知子さん(44)は「人口1万1000の本吉地区住民にとって、病院はここしかない」と話す。
職務に追われ、2人の子どもと会えたのは震災1週間後だった。「住民の健康を守るため、病院存続のため、みんなで力を合わせたい」。言葉に強い覚悟がにじんだ。(高橋鉄男)
◎常勤医去り職員が結束/宮城県気仙沼市立本吉病院看護師長・佐々木美知子さん(44)
入院患者19人全員を岩手県の病院に移し、人心地ついた朝だった。
3月20日。気仙沼市立本吉病院。
男性院長(59)の姿が消えた。
震災から9日間、泊まり込みで診療を続けていた。部屋に辞職願があった。同じ日にもう1人の常勤医も体調を崩し、現場を離れた。
旧本吉町で唯一の病院は常勤医がいなくなった。
看護師ら31人の職員が残された。被災で派遣された外部の医療団の応援を受けている。4月上旬。
「おばあちゃん、眠れていますか」
2階の一室で外来の患者に話し掛ける。そばで派遣医師が心音を聴いている。
院長は地元が兵庫県で阪神大震災にも遭ったという。耐えられなくなったのだろう。
「責められないよね。私も逃げ出したいぐらいだもの」
津波で1階が水没した。医療機器が壊れ、カルテが流され、ガスと電気と水が止まった。
メモ用紙に「カルテ」と書き込み、急場しのぎの診療記録を作ることから始めた。
入院患者の足元で雑魚寝し、患者のタオルを借りて寒さをしのいだ。医薬品が足りない。患者によっては点滴を半分に減らさざるを得なかった。
病院は存続するのだろうか。常勤医の不在は職員を不安にさせた。
外来患者は1日200人前後。震災前の3倍に増えた。不眠や風邪を訴える。
「病院が地域の人に求められている。病院消滅の不安は消え、存続への使命感に変わった」
4月9、10の両日、地元の住民約100人がモップと雑巾を手にやって来た。自治会長(52)が常勤医不在を知り、「地域の力で病院を守ろう」と清掃を呼び掛けた。
1階の泥をぬぐい取る。職員も一緒に精を出す。
看護師長になって12年になる。2人いる管理職の1人として職員を束ねる。
「みんなと一緒に目の前の患者に向き合うことしかできない」
職員のうち、12人が家を流された。それでもほぼ休みなく働いてくれる。家族を失った看護師も現場復帰した。
家に帰ると、長男(8)と長女(5)に抱き付かれる。「うちはどうして休みがないの」と聞かれる。ほとんど一緒にいられない。夫(42)も市の水道職員で忙しい。
医療団はいずれ去る。
「それまでに常勤の医師を確保し、以前の運営に戻れるかどうか分からない。でも、職員と地域の人は命の拠点を残したいと頑張っている」
心の中でわが子に言い聞かす。
もう少し待って。いい未来を残すから。(高橋鉄男)
東日本大震災の津波で1階が水没した宮城県気仙沼市の市立本吉病院(38床)は、大半の医療機器が流されたうえ、院長ら2人いた常勤医が病院を去るなど苦難に直面した。だが、残った看護師や職員は県外から派遣された医師とともに「被災して苦しんでいる人をわれわれが見捨てるわけにはいかない」と奮闘を続けている。【村松洋、堀江拓哉】
3月11日、2階建ての病院は大きな揺れで停電した。非常用発電機でひと息ついたのもつかの間、約35分後には津波が襲った。1階が水没したが、入院患者19人と看護師長の佐々木美知子さん(44)ら看護師、職員約20人は2階に避難して無事だった。医薬品や布団、非常用食料は2階の一室に運び込んだ。
夜には自治会から発電機を借りて、心電図などの機器をモニターした。それでも院内は真っ暗で、懐中電灯で看護を続け、患者にはレトルト食品など非常食を食べてもらった。
来院者は増えた。不眠やストレスで息苦しさを訴える被災者が多く、通常の約4倍の270人が来院する日もあった。佐々木さんは10日間、自宅にも帰らずに看護を続けた。
17日には県外から3人の医師が応援に入り、19日には入院患者の転院を終えた。だが翌日、院長(59)の姿はなかった。机上に「一身上の都合」を理由にした辞職願があった。
院長は阪神大震災で被災し、東日本大震災では津波にのまれ、病院の燃料タンクにつかまって助かった。管理課長の鈴木幸志さん(59)は「2度も被災され、院長の家族も心配していた。去ったことをとがめるわけにはいかない」と話す。体調を崩したもう一人の常勤医も病院を去った。
残った看護師や職員たちも被災者で、計29人中12人が津波で家を流された。夫や親族を亡くした看護師もいるが、全員がほとんど休まずに勤務を続ける。
4月9、10日には地区の住民ら約100人が1階の汚泥の掃き出しなど掃除をしてくれた。地震から1カ月の11日、1階での診療を再開した。
応援の医師はいずれ県外に戻る。病院は今、市や医師会を通じ、新たな常勤医を求めている。佐々木さんは、常勤医不在で病院の将来を心配しながらもこう話す。「家を流され、私たちより困っている人が大勢いる。そんな人たちを診てあげられるのは私たちしかいない。今できることを毎日続けるだけです」
宮城県気仙沼市本吉地区で唯一の医療機関、市立本吉病院では、震災後に男性医師と院長が相次いで休職・辞職し、残された看護師たちが応援の医師と休まず働き続けている。
「大丈夫? 痛くないかな」。白衣の代わりに白いエプロンをまとう看護師長の佐々木美知子さん(44)が高齢の女性から採血し、優しく語りかけた。
1階天井近くまで達した津波は白衣も医療機器も流した。人口1万1千人の本吉地区から市中央部への道は断絶。佐々木さんらは、薬を求めたり体調不良を訴える市民の応対に追われた。院長(59)は1日に最大で270人の患者を診察した。
応援の医療チームが到着した14日から、50代の男性医師が休職。20日には院長が姿を消した。院長室の荷物にまぎれて辞表が見つかった。「院長がああいう辞め方をしたことを責められない」と佐々木さん。「看護師だけになってもやるしかないと覚悟した」
応援チームは小児科や外科の医師もいて、24時間体制で患者を診られる。皮肉にも、内科だけだった震災前より多くの市民を診察できるようになった。5月までは医師2人のチームが交代で来てくれる。ただ、地元の主治医と呼べる医者がいずれ必要となる。
「ここが地域の中心になって、福祉や介護、生活すべてを守りたい」。佐々木さんは同僚の看護師と肩を寄せ、笑いあう。「早く新しい先生に来てもらえるよう、私たちが頑張らなくちゃ」 (柚木まり)
二か月前に引越し、新しい耳鼻科を受けたのですが、何故か喘息の認定を受けました。
3年前にも引越し、耳鼻科を変えましたが、そこでも喘息との判定を受けたことがありませんし
1年前に外科で受けた精密検査(心電図、聴診、触診、X腺、血液検、尿検など)でも喘息は告げられず、健康診断を受けても喘息と判断されたことはありませんでした
いづれの検査でも、アレルギー性鼻炎と扁桃腺肥大と言われるだけでした
更には「今まで喘息の治療を受けたことがない!?間違いなく貴方は幼少期からの喘息だというのに、よくも貴方生きて来れましたね。普通死んでますよ。」とまで言われました
因みに、喘息の理由は「ヒューヒュー、ゼーゼーといった喘鳴」ではなく、息をしていないという理解不能な理由でした
息してないなら死んでるじゃん!って突っ込んだのですが、「辛うじて呼吸をしているんだよ」などと言われました
「そりゃあ口内炎だらけで、扁桃腺もはれてて、まともな呼吸ができるはずないじゃないですか、息したら痛いんですよ」
等という私の主張もすべて無視してくださいまして、是が非でも私を喘息にしたかったようです
(素人判断は駄目、医師の判断が優先というのはわかるのですが、論理がサッパリ通っていなかったのです)
(季節の変わり目に喘息の発作は起きる、などと書かれていたのですが、季節の変わり目に体調が悪くなるのは喘息じゃなくても同じでは…?)
それと、私は友人に喘息を持った人がいるので、喘息の発作がどのようなものであるかは知っているのですが、そんなの起きたこともありません
日常生活で自転車で疾走したり、一人暮らしなので部屋で激しく踊ることがあるのですが、全く発作などおきません
煩いと言われるほどに声も大きく、肺活量も普通だと思います
薬に関しても、依然受けていた薬は一つたりとも貰えず、全く別の薬を頂きました(以前の薬は教えてあります)
因みに、今回この医院に通ったのは、扁桃炎と鼻炎を抑えるための薬をもらいに行こうとしただけです
まさかこの様な事態になるとは思いもしませんでした
そして、もらった薬が碌にきかないので、炎症を抑え熱を下げるのに一番重要そうな「ソランタール」という薬剤を調べてみたんですが、喘息患者向けの鎮痛剤で、喘息発作が起きづらく、作用が弱いという情報がありました
そりゃー効かんわってことです
どうも喘息患者にロキソニンなどほかの鎮痛剤を与えると、発作が悪化しやすいそうですが、私はロキソニンを扁桃炎にかかった際、ほぼ必ず服用しますが、全く発作が起きたことはありません
むしろ以前通っていた耳鼻科では、なくなったら貰いに行くレベルでした
どうもロキソニン以外は効きが悪いんですよね
っていうか、ソランタールが頓服扱いなんだけどどういうことなの…
(ロキソニンは一日3錠だった)
別に気にせず飲むけどさ…
お陰でひえぴたはって熱を和らげる始末…
抗生物質はアレグラを頂いたのですが、これも効きがイマイチなんですよね
オラセフが欲しかったのですけど…
まぁ、もうあの耳鼻科には行きません
来週来てくれと言われましたが、あそこ行くくらいなら400円払って前の耳鼻科行った方がマシです
ついでに、前の耳鼻科に行く機会があれば、喘息かどうかは聞いてみようとは思う
絶対喘息じゃないと思うんだけどねー
仕事で。
ナースでぇーす☆命救ってまぁーす☆
って昨日の合コンで言って、「実演!」なんつって脈を測るふりして手を握ったりして、
すごい楽しかったその翌日に、真顔でここにいて、本気で脈を測っている。
その脈はとても規則正しく、きれいに打っているけど、
目の前の人は、目も開けない。いや、たまに半目。なんの意識もない。
何も喋んない。何も食べない。自分で息すらできてない。
人工呼吸器の一定の吸気排気のリズムと、心電図モニターの音と、たくさんの点滴がぐるぐると彼を囲んでいる。
その人は、私の彼氏でもなければ、親御でもない。ただの一期一会。私はこの人を知らない。
ある日、玄関で倒れた。脳出血だったみたい。
1人暮らしで、家族はいなかった。地方から1人出てきて、兄弟からも絶縁されていた。
色々な機関をあたって、やっと連絡先を見つけて連絡を取った家族は
「いやぁ~あの~」を100回くらい要所に挟みながらも、
つまりは「死んだら、連絡ください」
ということを言った。
可哀そうとは、思わなくなってしまった。もう。
人生のその瞬間だけを見て、ドラマのように「ひどい、可哀そう」とは思わなくなってしまった。
本当に色々な人生が人にはあって。
長い長い色んな積み重ねの中で今、その言葉があるってことを、いっぱい見てきた。
仕方ない。
脈は正常。
呼吸は一定。
でも植物状態。
生きてても、死んでても、なんでもいい人。
主治医の興味はどんどん薄れて、そっと、その人は、そこにいるだけの人になった。
愛されて愛されて、抱きしめられて、見舞いも何人もくる患者さんの横で、
静かに、ピッ・・・ピッ・・・と彼の心電図モニターの音が響いていた。
この人は、生きているのだろうか。
この人は、死んでいるんじゃないか?
もうほとんど死んでいるんじゃないか?
脳死とかドナーとか命のリレーとか、そういうの見聞きするたびに、
私は見失う。
命ってのは何で、臓器ってのは何で、この人は何で。
血圧が少し、安定しない夜があった。
私は医師に報告した。
血圧を上げる薬も、下げる薬も、たくさんあった。
でも医師は、「んー」を何度も繰り返し、私を静かに諭すように、
「自然に看取ってあげよう」と言った。
死っていうのはさぁ~
医療の敗亡じゃないんだよぉ~
むしろね、むやみに色々やることのほうが~
人間らしさを奪う行為にぃ~
「美しい」と思う。そういうのって。
美しいし、わかりやすいし、とても満ちているって思う。言葉で聞くと。文で読んでも。
人間らしくないよね。機械につながれて、点滴チューブに囲まれて、ただ延命されてる。
しかも誰一人、「この人を助けて」って人もいないわけで。
うん。
うん。
うん。
先輩にそう伝えると、「うん・・・」
後輩にそう伝えると、「はい・・・」
私たちは、そうして、彼のカルテを閉じた。
その日、たまたま飲みに行って、うまいうまい言って煮物を頬張りながら、
全然違う話をしてたのに後輩が、
「でも、なんか今日、いつもより顔色良かったですよね」
と、言った。
「あの人さー、髭はえる速度、超はやくないー?
私、朝そったのに、夜もうボーボーだったんだけどー」
と先輩がクスクス笑った。
手を、彼の手を、握ったことがない看護師はいない。
毎日、毎勤務、私たちは欠かさず、彼の手を取り脈を測る。
彼の名前を耳元で呼び掛ける。
体を吹く。
腕を取り、足を抱えて、抱きしめるかのように、体位をかえる。
毎日毎日熱を測って、熱のある日には氷枕を、熱が下がればそれを枕に。
汗をかけば、タオルでふいて、髭をそる。爪を切る。
そんな中で、「あれ?今日、顔色いいな」って日がある。
「あれ、今日苦しそうだな」って日もある。
毎日、毎時間、違う。
脈も血圧もタンの量も、すこしずつ違う今日がある。
どんだけ機械に囲まれようとも、管に絡まれようとも、
この人を、人間らしくないなんて思えたこと一度もない。
わかっていても、目の当たりにすると脳死は人の死だなんて思えない。
生きているとしか思えない。
意識がないことなんてちっぽけなことなくらい、
今ここにある命が圧倒的すぎて、
命すげぇーって思って、
死んでく人もたくさんみるからこそ、
もう生きてると死んでるじゃ、全然違って、
「人として生きてるとは言えない」って言葉が薄っぺらに感じるくらい、
ただもう、ただもう、命があるってことがすごい。問答無用に。命がすごい。
学生の頃は「病院で死ぬということ」を読んで感銘を受けて、
人間らしく生きるとは~!なんて必死だったけど、
法律とか、もう色々あるんでしょうけど、
その時代時代の雰囲気で変わるものの上に乗せてしまっていいのかと思うくらい、
今、現場で、毎日見つめる命というものは、すごい。すごすぎる。
脳死という問題があり。延命という問題がある。臓器という問題もそこをウロウロしている。
命のリレーと言われたり、死待ちの医療と言われたり、枯れ木に水と言われたり。
でも、今、その命の目の前に立ったとき、何も正解を言えない自分がいる。
そのとき、電車は行き違い列車の遅れで4分ほど遅れていた。これがリアル伏線。
私はそのとき一番後ろの車両に乗っていた。そして、とある田舎の駅に着いたときに、前の車両から乗客が飛び込んできて車掌を呼んだ。どうも急病人とのことらしい。なんでも、隣の車両でおばあさんが突然倒れたらしい。私はおばあさんを見ていない。野次馬に行っても邪魔になるだけだし、介護者のプレッシャーを高めてもしょうがない。
車掌さんは無線で指令と連絡を取り、救急車を要請したようだ。乗客の人が、電車を動かすべきだと文句を言っていた。次の駅はわりと大きな町だが、現在止まっている場所はとても田舎だ。山道を町から来る救急車より電車のほうが速い。そう、もし、この電車が時間通り走っていれば、おばあさんが倒れたときにはすでに電車が走り出しており、次の駅で救急車を待たせるという対応になった可能性が高い。そして、多分それが最速だった。
しかし、止まっている電車でおばあさんが倒れてしまい、電車を動かして症状が悪化する可能性がある以上、電車を動かすという対応は難しかったのだろう。実際に救急車が来るまでは、それほど長く感じなかったが、10分近くたっていたと思う。救急車が到着するまでの間、一度車掌さんが医師と看護師を探しにきた。私は、そのどちらでもないが、救急講習を受けていればと思った。
救急車がついて、救急隊の人がおばあさんをホームに担ぎ出し、AEDを使用したようだ。しかし、AEDからは自動音声で、除細動の必要はないという声が流れた。もう一度繰り返しても同じだった。そのあと、救急隊の人が心臓マッサージを始めたようなので、おばあさんの脈はなかったのだと思う。こういうときは無理やり除細動を試みたりはできないものなのだろうか。
おばあさんの荷物が下ろされ、心臓マッサージをカウントする声が続く中で、電車は発車した。おばあさんの荷物には、おそらく誰かに渡すはずの土産袋があった。自分もいつか、何かをやり残したまま死ぬことになるのだろうか。次の駅では、遅れは20分になっていた。
そのあと、同じ日に乗った飛行機で、隣の席のお姉さんが、山ほど心電図とか生々しい心臓の写真が載った専門書を読みふけっていた。
あたし・・・実は・・・ナースなんだ。
ずっと、黙ってて、ごめん。・・・隠してて、ごめん。
でも、どうしても言えなかったの。
あたしがナースだって知ったら、きっとみんな離れていっちゃうって思って。こわくて。
わかってる。わかってるよ。
ナースは国家試験を通った人だけがなることができる、人の命に関わる重要な任務だって。
でもね・・。
でもね、全然ちがうんだよ。
あたし、みんなが思ってるようなキレイなものじゃないんだよ。
あたしは汚れている。
あたしの手は、汚れているんだよ。
ナースになったとき、すごく嬉しかった。天使になったような気でいたの。
あたし馬鹿だから、人の命を救うんだ!なんて、本気で思ってた。
でもね、全然違ったんだよ。
国から言い渡されたナースの任務は全く別のものだった。
人の命を、まるでナイチンゲールのように平等に助けるようなものじゃなかった。
あたしたちナースに課せられた任務、・・・・それは、ふるいわけ だった。
生きるべき命と、それ以外の命のふるいわけ。
そして、それを見守ること。
ねぇ知ってた?
この世界には、あるんだよ。こんな日本のど真ん中にね、平然と、あるの。
どうなっても大丈夫な命っていうのが。
ナースはね、それを見守るの。
そこにあるだけで、まるで医療が行われているかのような錯覚を起こさせる。
あたしの仕事は、そうやって、平等に医療が行われているかのように見せる暗幕みたいなものだったの。
人なんて、全然、救えなかったよ。
救う義務も権利も、この任務にはなかったの。
例え、その人がどうすれば助かるか、明確に解っていたとしても、
あたしたちは医師の命令が無いかぎり、何一つの医療行為もできない。
あたしたちには薬も酸素も与えることはできないの。
ただ、ただ、走って先生を呼びに行くだけ。そして伝えるだけ。
夜なんかになれば、一つの病院に一人か二人とかしかいないの。
「先生、吐いている人がいます!」
「先生、胸が苦しい人がいます!」
「先生、脈が弱い人がいます!」
「先生、腹痛でもがいてる人がいます!」
懸命にナースたちが叫んでた。
でも医師は一人。
私も声を荒げて「苦しい人がいます!」って叫んだの。
でも、ここでもふるいわけが始まる。
経済状況、年齢、地位。そんなものが病状と一緒くた になって命令が言い渡される。
「とりあえず酸素を」
その日、10秒ごとにナースコールが鳴った。
「苦しい、苦しい、まだ苦しい」
「もう少しだけ待ってください、今先生、来ますから・・」
何度も先生のもとに走ったけど・・・。
あたしは先生に背中側から叫んだ。
「酸素をしても、まだ苦しいみたいなんです!」
「酸素を上げてみて!」
その患者だけじゃない。
「トイレに連れて行ってください」
「シーツが汚れたから替えてください」
「薬を飲ませてください」
「テレビがつかないんのですが」
「眠れません」
廊下を走る。
忙しさに言葉が荒くなる。
認知症の患者さんがエレベーターに乗って外に出て行こうとする。
遠くの病室で、人工呼吸器の異常アラームが聞こえる。
必死にあたしもふるい分けた。
今、一番いのちの危険がある人から、一番苦痛を感じている人から、手を差し伸べなきゃ。
「いつになったら来るんだ!」と言われても。
「遅い」と言われても。
私は頭を下げたり、ちょっと言い争ったりもしながら、
「苦しい、苦しい、苦しい」と言う人のとこに走ったよ。
唇から色が消えていた。冷や汗をかいていた。
あたしは心臓だ!と思った。
あたしは医師の指示を待たずに心電図の検査をした。狭心症の波形だった。
急いで先生に連絡した。
「狭心症の波形です。ニトロ内服させていいですか?!」
「いや、波形を見ないとわからない、ただこっちの処置があるから、10分後に行く」
患者は胸を掻きむしるようにしていた。
「待てません!飲ませます!」
あたしは医師の指示無くニトロを内服させた。患者の苦しさはスッと納まった。
それは駄目なことだったけど、一人の患者を救ったことに、あたしは浮かれてたの。
貧相な正義感をぶら下げて、意気揚々とナースステーションに戻ってきたの。
ナースステーションの・・・・
ナースステーションのモニターの一台の波形が、フラットになってた。
あたしは急いで病室に飛んだよ。
でも、亡くなってた。
喋れない患者さんだった。
ナースコールも押せない人だった。
あたしは、その日、目の前の苦しい人に夢中で、モニターなんか見てなかった。
それでもね、・・・あたし、まだ、ナースなんだよ・・。
先生は患者の家族に「いつ何があってもおかしくないご年齢でしたから・・」と告げた。
患者の家族は「ありがとうございました」と涙を浮かべて頭を下げた。
そして、あたしにも「看護婦さん、ありがとね」と言ったの。
大好きな、患者さんだった。
この人が歩ける頃から知っていて、喋れる頃から知っていて。
「自分は寂しがり屋だから、最期は家族に手を握ってもらいながら逝きたい」と言っていた。
あたしが新人の頃から知っていて、注射が下手だったのも知っていて、
「おまえは俺が育てたようなもんだ」が口癖だった。
「まぁ、・・・歳だったし、家にも帰れないって言ってたからなー」
と先生があたしの背中ごしに言った。
あたしはモニターの記録を見てたの。
その記録には、波形が狭心症から心筋梗塞となり心停止するさまがしっかりと記録されていた。
歳だから死んだんじゃない、そこには心筋梗塞で死んでく命があった。
でも、そんなこと全部まるめこんで、死んじゃって仕方ないっていう命が、そこにはあったんだ。
似たようなことはざらにあった。
何人もの人が、私の手のひらから零れていったよ。
でも、あたし・・・ナースなんだ。
誰も、辞めろって言わないの。
ナース同士は実情がわかってるから、言わない。
国はきっと、全部知ってて、それ込みで「それが仕事だ」と言うかもしれないけど。
いや、言わないか。国は、何も言わない。きっと。
救えたかもしれない命を、ナースは一番わかってる。見えてしまう。
医師の指示が適してないのも、判断が遅いのも、治療がのってないのも、全部わかってる。
それでも「あの時!」と、自分の行動と判断を何度も振りかえる。
その向こうにはいつも「あのとき、こうしておけば」が、くっきりと見える。
でも、救えなかった責任も、見過ごした責任もナースには問われない。
ナースって・・ほんと、なんなんだろうね・・・。
くすり一粒すら出せないのに、
検査一つ指示できないのに、
命に関わることなんて、一つも独立してできないのに、
どんなに辛くてもナースしか呼べないなんて。
そしてあたしたちは色んなものを抱えて、あなたの前に立つ。
先生が来ること、来れないこと、
できる治療があること、ないこと、
色んなことを知りながら、なにも変える力もないままに、
さも救いの天使が舞い降りたかのような顔で。
医療が崩壊していく。
全然止められない速度で。
その砂上の城で、あたしは見てるんだ。
沈んでいく人の命を。