はてなキーワード: 人種差別とは
功利主義の「最大多数の最大幸福」のメンバーにヒト以外の動物も含めた幸福を考えましょうね、という考え方
「なぜヒト以外の動物を含めるのか?」と聞いたら「性差別、人種差別と同じように種差別もよくないことだ」という回答が返ってくる
「いや、人間と動物は違うでしょ」と返すと「それって人間中心主義じゃない?それこそ差別だよ」と返される
「動物は嫌だとか言わないでしょ」と聞くと「その理屈だと赤ちゃんは何も言わないけど何してもいいってこと?」と返ってくる
「赤ちゃんは言葉には出来ないけど嫌と思ってるよ」と聞いたら「動物だって言葉に出来ないけど嫌と思ってるよ、赤ちゃんと動物とでどうして区別するの?」と返される
「赤ちゃんは成長すれば嫌と言える大人になるけど動物はその可能性がゼロだよ」と聞けば「それなら将来喋る可能性がゼロの寝たきりのヒトは最大多数の最大幸福の対象外ってことにならない?」と返される
「この正しさを採用するのなら、あちらの正しさも採用しないとダブルスタンダードになる」といった連鎖がずっと続く
なぜバグるかっていうと倫理ってのは「共感感情」が基盤になっている
「自分がされて嬉しいことを他人にもしましょう」「自分がされて嫌なことは他人にしないようにしましょう」
「自分がされて嬉しい/悲しいから、これをされたら他人もきっと嬉しい/悲しいはずだ」という共感能力が倫理を作っている
この共感感情ってのがまた厄介で、「西洋のキリスト教的人間中心主義のカウンターで動物の権利が取沙汰されるようになったわけじゃん?」と言っても「いや、倫理を形作る共感感情はキリスト教に限らず人類共通のはずだよ」と返されてしまう原因になっている
ヒトはヒト以外の動物に対しても共感するかぎり種差別は論理的には正しい
だが正しいからといって人々は正しき行いをしなければいけないわけではない
信号無視をしたからと言って、信号無視は善き行いだと思っているわけではない
信号無視をしたことがあるヒトであろうとも、きっと子どもには「信号無視をしてはいけません」と教育するだろう
だから肉を食べるし革靴を履くけどね、悪いなあと思いながら
米占領軍兵士とドイツ人の母親の間に生まれた元サッカー プロのジミー ハートウィグは、ドキュメンタリー「シュヴァルツェ アドラー」(Amazon で 4 月 15 日から)で発言権を持つ国民的選手の 1 人です。66歳のハートウィグは、ドイツサッカー協会の統合アンバサダーを6年以上務め、2019年からはフェアプレーのためのDFBアンバサダーを務めている. 家庭の感覚、人種差別、社会統合の助けとなるサッカーについてのインタビュー。
SZ: 「Schwarze Adler」は、あなたがブンデスリーガの選手として成功を収めた後、多くのネガティブな経験をした後、何年も経って公開されました。その後、何か大きな変化はありましたか?
ジミー・ハートウィグ:逆です。今はさらに悪化しています。グローバル化が進んだ今でも、この国には、見た目が違うからといって、他人に嫌悪感を抱く人がいます。そして、この狭量性がある限り、『ブラック イーグル』のような映画をもっと上映しなければなりません。人種差別はなくなったわけではなく、よりサブリミナルになっています。
https://www.sueddeutsche.de/kultur/fussball-rassismus-jimmy-hartwig-interview-1.5263472
https://www.instagram.com/p/ClWfK6mobub/?igshid=YmMyMTA2M2Y=
何かを開放することと何かを規制することだ。
例えば人種差別。
米国のベースボールの世界でも昔は黒人がプレーヤーになることが出来なかったと聞く。
しかし、そういった差別(暗黙の規制)を開放することで社会はよりよい形へと変革させることが出来る。
改革開放というやり方がある。
中国なんかは比較的貧しい国だったが鄧小平が改革開放路線で経済特区のなかで規制を開放して経済活動を出来る仕組みを作った。
こんなふうに世の中を変革するのに開放というやり方は有効である。
一方で世の中を変えるためには規制を導入することが肝要であると考える人達がいる。
ルールというのは行き過ぎた開放による弊害が出たときの最小限の規制であるべきだと思うからだ。
基本的に人は自由だ。人による表現の自由が保証されることと同程度に自由である。
とはいえ人間社会というのは人の自由をそれほど保証してこなかった。
人類がその社会を運営していく中で様々なルールや因習というものを積み重ねていった結果として人は様々なものに縛られる結果となった。
そういったものを「開放」することを目指した結果としてあらゆる人種やあらゆる性別が社会に進出して活躍する世の中を実現しているのが現代社会である。
しかし、何かを「規制」するというのはその方向性と真逆であることの危機を察知できない人たちがいる。
それは文化というものが変化するということで、その変化がこそがまさに人類の発展である。
しかし、ある特定の価値観を強く主張して物事に対して規制をかけようとする考えを持つ人達は、ある価値観による社会の固定化を望む人たちだ。
そういった社会は結局のところ、新しい差別や新しい因習を育むための土壌にしかならない。
別に駅のど真ん中にポルノを置くのが望ましいとは僕だって思ってはいない。
でも、それでも駅のど真ん中にポルノを置ける世の中のほうが僕は望ましいと思っている。
そもそも駅のど真ん中にポルノを置けない社会だったのだ日本は。
なんと破廉恥な!と昭和初期の社会であれば否定されていただろう。
そういった「正しくない」考えを持つ人々のことを「オタク」という蔑称で差別したのである。
そういった歴史があるのだ。
もしオタク文化を気に入らない人たちが、どんどんと「規制」をかけていったのなら今の日本の文化は随分と違ったものとなっているだろう。
女子供が真夜中に一人で外出しても、ほぼ安全が保証されてしまうくらい治安の良さ、
美味しいかどうかはさておき、どこでも水道の水が飲めてしまう衛生さ、
入管に捕まったり、技能実習生にでもならない限り、ほぼ人権が保証され、人種差別もない政府。
単に生活費が安くて済む以上の魅力があるから、日本に来るのであって、
そこはまだ誇ってもいいんじゃない?
それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘で、かつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。
それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。
それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。
それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。
TVつけたらNHKでサッカーやってて、「へーワールドカップ始まるんだ、アジア予選のどこらへんなのかな?今回は突破できそうなのかな?」とか思っていたら、
どうやら本戦が始まってるらしい。相手はドイツらしい、と分かってびっくりした。
ネットのニュース記事で中東の開催国のどこだかが人種差別で欧米から非難を浴びているとかなんとかは、ちらっと見かけていた
数年後に備えたスタジアム建設中のトラブルかなのかと思っていた。
情報を取捨選択できるようになったことはうれしいことではあるけどね。
職場でも似た話をしたけど、世の中が分断されていくのを感じるよ。
なんだよこれまでそんな審査なかっただろ!めんどくさいな!
ウラジミールと同じ夢をまだ諦めてない独裁カルト政党 これはひどい 自民党
“人種差別教育や多様性教育、ジェンダー教育”を抑圧したい日本のポモとオタクとミソジニーにとってはえらく都合のいい本だなこれ。山形はさすがにそれに気づいてて釘を刺したか。
公正と中立の区別がつかずに沖縄二紙を叩く人たち、端的に民主主義政治の有権者としては努力不足勉強不足なので、反省してくださいね。
サヨクなら親や家族を侮辱されても高笑いするウヨくんたちが「国を守ることイコール家族を守ること」とか勇ましいこと言っても、もう今後説得力ゼロだよね
世論調査の専門家や有識者はもう何週間も前から、「赤い波」が押し寄せると警告していた。連邦議会でも全米各地の州知事をはじめとする公職ポストでも、赤をイメージカラーにしている共和党が圧勝し、ジョー・バイデン大統領を民主党に強烈な「ノー」をくらわせるはずだと。
しかしアメリカで8日の選挙から一夜明けてみれば、共和党が期待したその「津波」は実現しなかったことが、はっきりした。
インフレと景気。有権者にとって大事な二大テーマだが、民主党が恐れていたほど、投票への影響は深刻ではなかった。
確かにアメリカ経済の伸びは鈍化しているものの、景気はそれなりに元気だ。これが影響しているのではないかと、アナリストは見ている。確かに生活費は上昇していえるものの、経済成長も続いているし、失業率は低いままだ。
「今の経済が最高だという人はあまりいないが、職を失ってはいない。その分だけ、中絶や移民や、右派が主張する『大きなうそ』などの問題が、選挙終盤にあれだけ大きく注目されたのだと思う」と、調査会社イプソスのクリス・ジャクソン上級副社長は言う。
経済について何をどう心配するか。このことも、世論の分断を反映する。
民主党支持者は今年になって経済について前より厳しい見方をするようになったが、それでも共和党支持者や無党派層に比べれば前向きだ。優先課題の順番でいうと、民主党支持者にとっては気候変動や人種差別、人工中絶などの問題が、景気対策より優先した。
29歳童貞非モテ弱者男性だけど、今年からマッチングアプリを始めた
結果は童貞だから当然なんだけど、いっぱい振られて、いっぱい傷ついた
粘って粘って10人目くらいで生まれて初めての彼女ができた 同い年で調理師の子
結構太ってて、顔なんて全然よくないけど、俺のことを大好きだって何度も言ってくれて、一生懸命な子
ただその子には飽きられたのか生活がだらしなさすぎるとか適当な理由で1ヶ月くらいで振られた
次は2歳下のアパレル店員の子と付き合った。真剣に婚活やってるらしく、
一応俺は年収はまあまああるから若くて遊び盛りみたいな女の子よりもこういう真剣な感じの子の方がウケがいいんだなと思った
趣味の話はあんまり合わなくて、気が弱そうでドジな感じ。でも俺には一生懸命尽くしてくれた 恋愛には良い思い出がないらしく彼女はずっと男に捨てられるのをどこか恐れてる感じがした
一緒に遊園地に行って、水族館に行って、家に招いて手料理を作ってもらって、いっぱい大好きとか愛してるとか言い合った
2ヶ月目くらいで今度は俺から振った 自信がついて、もっと可愛い子と付き合えると思ったから
あと、彼女は男に生まれてたら多分結婚とか無理なタイプな人だったから、結婚してもし男の子が生まれたら俺の人生以上の苦しみを味合わせることになると思ったから
別れを告げたとき彼女は凄く泣いていた、こんな理由で振った側が言うのも変に思うかもしれないけど、彼女の泣いてる声を聞くのは心が引き裂かれるように痛かった。
次は大学卒業したての看護師のアニメ好きの子。結構年齢は離れてるけど自分もアニメ好きだから話があった。
彼女とは初デートから恋愛の話をいっぱいして、今までよりぐいぐい行って、感触悪くなさそうだったから2回目のデートで手をつないだ。
彼女は恋愛に本当慣れてないみたいで、手をつないだだけで顔を真っ赤にしながら彼女の方からその場で2軒目に誘ってきた。
そこではもうちょっといろいろボディタッチして、「次のデートは告白するつもりだから覚悟してね」みたいなことを言った上で3回目のデート取り付けられたから、実質2回のデートでほとんど付き合えたみたいな感じ。
3回目のデートで家に連れ込んでアニメを見ながらいっぱいエッチなことをした。初めての子を相手にするのは俺も初めてだった。
「俺なんかでも口説くみたいなことできるんだ」とそのとき初めて知った。
2ヶ月目くらいで今度は俺から振った。理由も、俺自身が凄く傷ついたのも、一緒だった
今は、なんやかんやで公務員やってる2個下の子と付き合ってる。
今までの子は、ことあるごとに愛してるとか大好きとか口に出す関係が多かったけど、今の子は割とドライな感じ。
いろんな子に結婚してほしいとか、あなたの人生の支えになりたいとか面と向かって言われた
いっぱいえっちなことして、いっぱいデートに行って、いっぱい手料理を食べて、いっぱいいろんな子と愛し合った
自信はついたかもしれない
ただ、恋愛してること自体に、どうしても自分は罪悪感みたいなものを覚えてしまう。
要するに、俺は自分に対して真剣に向き合ってくれてる心優しい人間に対して、
目が一重だとか、団子鼻だとか、胸が小さいとか、持病があるとかそういう理由だけで切り捨てておいて、
同じ口で「人種差別は良くない」とか「ルッキズムは良くないよね」とか言ってさも自分が『正しい側』に立っているように立ち振る舞うわけだ
俺には、これがとんでもなく厚顔無恥でおこがましい行為に思えるんだ
差別が罪であるなら、俺がやったことは間違いなく罪だし、これを差別と呼ばない理屈は単に自分らだけ該当しないように都合よく差別の定義を作り変えてるだけじゃないかと思う
勿論それは恋愛してる他人だって一緒だし、こんなダブルスタンダードをかますくらいなら差別や苦しみをなくすために人類は滅びるべきであるという反出生主義の方がよっぽど理にかなってると思った
「俺は差別主義者じゃないから」とアピールしつつ実際はバリバリ差別してる男多すぎないか…?
どんな感じかと言うとhttps://youtu.be/G9DhghaAxlo
↑この法務省の作成した人権啓発ビデオのドラマ2の同僚みたいな感じだ。「俺は気にしないけど〜」「差別じゃなくて〜」と自分は差別主義者ではないとアピールしつつ実際はバリバリ差別発言している。不思議と女性ではあまり見ず、男ばかりなのだ。
LGBTに対して「そっち系」「あっち系」「そっちの気がある」などと差別丸出しな呼び方をしてるくせに「俺はそういうのに理解あるから」とか。
海外では“I have black friends論法”(黒人の友人を持つ私は、人種差別主義者ではない)と名前を付けられるほど呆れられている行為らしいが、日本ではまだまだ男がやってるよなぁと思ったのであった。