功利主義の「最大多数の最大幸福」のメンバーにヒト以外の動物も含めた幸福を考えましょうね、という考え方
「なぜヒト以外の動物を含めるのか?」と聞いたら「性差別、人種差別と同じように種差別もよくないことだ」という回答が返ってくる
「いや、人間と動物は違うでしょ」と返すと「それって人間中心主義じゃない?それこそ差別だよ」と返される
「動物は嫌だとか言わないでしょ」と聞くと「その理屈だと赤ちゃんは何も言わないけど何してもいいってこと?」と返ってくる
「赤ちゃんは言葉には出来ないけど嫌と思ってるよ」と聞いたら「動物だって言葉に出来ないけど嫌と思ってるよ、赤ちゃんと動物とでどうして区別するの?」と返される
「赤ちゃんは成長すれば嫌と言える大人になるけど動物はその可能性がゼロだよ」と聞けば「それなら将来喋る可能性がゼロの寝たきりのヒトは最大多数の最大幸福の対象外ってことにならない?」と返される
「この正しさを採用するのなら、あちらの正しさも採用しないとダブルスタンダードになる」といった連鎖がずっと続く
なぜバグるかっていうと倫理ってのは「共感感情」が基盤になっている
「自分がされて嬉しいことを他人にもしましょう」「自分がされて嫌なことは他人にしないようにしましょう」
「自分がされて嬉しい/悲しいから、これをされたら他人もきっと嬉しい/悲しいはずだ」という共感能力が倫理を作っている
この共感感情ってのがまた厄介で、「西洋のキリスト教的人間中心主義のカウンターで動物の権利が取沙汰されるようになったわけじゃん?」と言っても「いや、倫理を形作る共感感情はキリスト教に限らず人類共通のはずだよ」と返されてしまう原因になっている
ヒトはヒト以外の動物に対しても共感するかぎり種差別は論理的には正しい
だが正しいからといって人々は正しき行いをしなければいけないわけではない
信号無視をしたからと言って、信号無視は善き行いだと思っているわけではない
信号無視をしたことがあるヒトであろうとも、きっと子どもには「信号無視をしてはいけません」と教育するだろう
だから肉を食べるし革靴を履くけどね、悪いなあと思いながら