はてなキーワード: 人時とは
おそらく、新成人の数は、男性何万人、女性何万人、という報道がなされるだろう。
その際ぜひ注目して欲しいのだが、おそらく男性成人数の方が、女性成人数よりも5~6%は多いはずである。
あまり知られてないが、実は新生児の段階で、男児の出生数は、女児出生数より、5~6%は多い。(日本における数字)
そしてそのまま、成人時点、或は適齢期時点でも、男性数は女性数より5~6%は多い。
この男女の同世代における個体数比を、人口学的には「性比」という。
女性の方が長生きなので、年齢を重ねるにつれ、性比は男性過剰→女性過剰へシフトし、日本全年齢平均では、多少女性過剰である。
人口置換水準出生率が「2.07」とされ、「2.00」じゃない理由は、男性が過剰だから、2.00では男性過剰分が
性比の話だと、中国韓国インドベトナムの極端な男性過剰問題があって、それは相当深刻なテーマなんだが、今回はその話は割愛する。
自分は長らく「適齢期性比はどの社会でも男性過剰である」と信じていたが、先日1970年の国勢調査人口を見て、目を疑った。
その時点の20代後半の性比は、実は女性のほうが過剰だった。
その時点で20代後半というのは、1940~1945生まれ。
おそらく、乳幼児期に大戦等で栄養状態が悪く、或は感染病の影響などで、女児より男児の方が「自然淘汰」された
結果と思われる。
(徴兵される危険性がある男児を間引いた、という説も考えられなくもないが、おそらくそれはないだろう)
しかしよく考えたら、人類の長い歴史の中では、今のような「飽食」「感染症の心配がない」時代の方が、
極めて珍しいのである。
その過程で、多くの乳幼児が生殖適齢期になる前に死亡した。(特に男児が死亡)
となると、長い人類の歴史の中で、生殖適齢期性比が男性過剰な時代はごく一部でしかなく、男女同数、
ないし女性過剰の時代の方がメジャーだった、と言えるのではないか?
逆に言えば、人類という生物種は、乳幼児における男児死亡率の高さを前提として、
予め新生児時点で、5~6%は男児過剰で生まれてくるように「進化」してきたのではないか?
今の「男児新生児が女児より5~6%多く生まれてくる」のは、長い人類の生物種としての進化獲得の名残である。
先日「男児が女児より多数生まれるのは、ヒトの生物種としてのプログラムミス、バグである」という趣旨の本の
そりゃ、超最新鋭の誰も作ったことが無かったような新しいサービスを作る、って時の話限定な???
例えば凡人1000人集まった所でウォズの様な事は出来ないし、ジョブズだって同じ値段で
ウォズ1人と凡人1000人雇える、って言われてもウォズを選んだだろ。
だけどさー、君がやってるようなこと、そんな大したことかい?
もう、今の時代、所詮そこらのライブラリーから色々引っ張ってきて組み立てるお仕事、だけでしょうが。
無駄に新しい言語とかフレームワークを作ってみました、ってのもあるけども、そりゃさ、ほとんど自己満の世界で、
別にもう世界を変える様なもんなんて技術的に作ることなんて出来ないわけ。
世界を変えるような、ってんならもう、単に、アイデア、だけど、そのアイデアも、研究に研究を重ねた上でのアイデア、ってよりも、
単に大衆に受けるかどうかだけだから、むしろ馬鹿が適当に考えた方が当たる物考えられるわけ。
んで、「プログラマー」なんてのはそれに沿って組み立てるだけでしょ?
現に大金払って人雇ってる任天堂の倒し方知ってる会社だってそのプログラマーが何したよ?
現に金になってる部分なんてのは只管組み立て上げた物で、別に人時間さえあればいいものしか無いでしょうが。
ねえ、本気で言ってるの?
触られたくもない。植物学者だった伯父が可哀相です。
どいつもこいつも煙草臭かったです。当日だけ吸わなければバレないとでも思ってらしてなのでしょうか。
受付さんの女の口からも煙草の臭いがしました。会社名をさらしたほうがいいですかね?
伯父さん家族とは仲良く、色々なところに私たちも連れて行ってくれました。伯父さんがいなければ北海道や
南アルプスでテントを張ったりするような機会に預かれなかったでしょう。私はそんな伯父が大好きでした。
そんな自然をいっぱい愛していた伯父さんの最後が煙草臭い葬儀社のおかげで酷いものになりました。
有毒物質と化学物質にまみれた煙草をどうしてスタッフは吸うのでしょう?
周波の違いはあれ、自然に還る一環のお仕事に携わるのですから臭いのは厳禁でしょう。
今後死亡者年100万人時代がかなりの間継続されると聞きますが、どれだけの人が葬儀屋の煙草のおかげで
失望したり、怒りで手が震えたり、最後のお見送りの気持ちを邪魔されたりするかと想像すると暗澹たる気が
致します。
既に健康増進法によって公的な場所での一切の喫煙は厳禁ですので、葬儀社スタッフは全員禁煙すべきです。
犠牲を繰り返さないためのささやかなアドバイスとして、葬儀社に念書の提出を提案します。
過去10年間煙草を吸った人間は葬式に一切携わらない。違反して臭いがした場合は契約を無効とする。
こうすれば、故人の最後のお別れの場が変な臭いで台無しにされるようなことが日本からなくなるでしょう。
葬儀社にも、煙草を吸わないスタッフのみで固めることでプラスになります。
伯父とのお別れは残念でしたが、
コミュニケーションにおいてワイが悩み抜いた現時点の搾り粕。
練度向上の為にここに晒します。特に新年度から大学生になる君たちへ
思っています。
【人間関係の発展段階】
※ただし友人による紹介とかは想定してません。あくまで一人での関係構築が前提です
交流無し
↓
顔見知り(事前情報:第一印象。顔、体型、服装、声)
↓
交流無し。ただし双方的。
認識しているに違いない)
ノンバーバル、他人の壁
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
バーバル、知人の壁
↓
↓
知人関係(互いの表層的な情報や一時的利害を共有。ある程度のキャラの認識。)
【でも知人は割と容易に生活圏から消えてゆき、そのとき心の痛みがそんなにありません】
生活圏外
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
生活圏内
↓
友人関係(定期的な付き合いがある。生活圏に組み込まれている感覚。キャラの確定。)
↓
オリメン関係(恒常的な付き合いがある。キャラを超えた相互理解がある程度確立している。)
※オリジナルメンバーの略
↓
親友(相互に本質を理解し合い、人生において互いにかけがえのない関係が構築されている。
この段階に一度到達すれば必ずしも恒常的な付き合いを必要としない。)
↓
異性なら、互いに尊敬ある極めて睦まじい夫婦関係(参考されたし:旦那が何を言っているのかわからない件)
同性なら、、、わからない、、、そんな友人はワイにはおらへん・・
■メモ■
例:【知人】⇒⇒⇒【恋人】
でも、たとえ引かれたとしても、挨拶ってすべきだよなとは思います。
逆に、なんで引くの??って思うわぁ・・・でも居るよね引く人。
しかし上記を認識して新しい友人関係構築に望めば、より「自然」かなと考える次第です。
3.一言も会話していなくても、コミュニケーションは始まっている
互いに認識して、第一印象のみについて互いに感想が生じているわけです。
この時点で広義にはもう他人では無いと思います。バーバルな会話に入る前に
このように自分の第一印象を【時に意図的に】認識してもらうことは大事でしょう。
ただしオリメンはその枠組みが一旦外されると以外と脆く瓦解。
6.一生涯の友人は万人の知人に匹敵する。
性格の噛み合いや社会的位置、運により得られるはず、としか。。
【おまけ】
最近気づいたこと
全く知らない人がゼロ距離にいるっているのは
根源的な恐怖にさえなり得る。
(あたりまえと思われるかも知れないが、確認して欲しいです)
⇒系1:
親しい間柄になればなるほど距離は縮まる。
(例外:心の重ね合わせが伴わないセックス)
⇒系2:
行列に並んでいる隣の人や席が隣の人、混雑した会場で比較的気軽に話しかけられるのは、
”やむを得ない””当人の意図が伴わない”妥当な理由で、対人距離が物理的に近づくから。
ふと、仕事で朝から晩まで働いてサービス残業とサービス休日出勤まみれをしていて気が付いた。
「これじゃあ、いつか潰れるその日まで働き続けるか、転勤になってかわりの生贄が用意されるのを待つしかないのか」と。
去年、会社を辞めた。
去年の秋に異動があり、ほかのところに異動になって主任になった。
前任者から引き継ぎを受けて、業務を開始したのだが実は前任者が曲者だったのだ・・・。
山ほどその部署で公然とコンプライアンス違反と法令違反を行っていた。
そのことに気付いていて、上司の課長などは黙殺してきたらしい。
(いろいろ費用を投入したおかげもあり、成績は好調だったため)
ただ、その黙殺していたと思われることだけではなく、ほかにも山ほどルール違反などを繰り返しており、
完全に法律的にもアウトなことをしていて、部下にそれを強要していたのだ。
部下たちも主任が絶対者であったためにそれが当たり前化しており、
本来のあるべき姿に戻すべく、いろいろルールを教えるのだが
なぜ今までのルールがだめだったかわかっていない節がみられるものが多数いる。(コンプライアンスの意識がまったくといってない。)
前任者の恐怖政治も手伝って、意見を言ってはいけないという下地もできているようで
本来なら真っ先に相談すべきことがなにも相談してこないという有り様だった。
どうして言わなかったかを聞いてみると、
前任者の時はそんなこともできないのか・わからないのかと言われ、怒られていたのでついと。
前任者はこうだった、ああだったと前任者の在任期間が長かったせいもあり、
主任はサービス残業やサービス休日出勤が当たり前だと思っていたり、
休日で休んでいるのにお構いなしに自分たちで処理できるくだらない案件でばかみたいな回数の電話をかけてきたりと
素晴らしいまでの腐り具合でとても業界で一二を争う上場企業の姿だとは思えなかった。
その上、課長たちも私がこれらのことに疲れ果てていても数字とお上のご機嫌伺いばかりで、
根本的に人時が足りなくて出来ていないことなどで怒鳴ってきたりすることだけは一人前だった。
会社は前任者が3年半も法律・ルール・コンプライアンス違反を犯していたのに、
監視機構は働かず、数字しか見ていないのに気づいてしまったのだ。
ほかの会社でもあることなのだろうとは思うが、ただ自分がその災厄を受けてようやく分かった。
こんな組織を維持するために自分を犠牲にするのがバカらしくなった。
いったい何のために働いているのかと。
お金はもちろん欲しい、でも、こんなことするために働きたかったのかと。
自分はもうここに一秒もいたくないと思い、
自分たちが楽したい課長などの上司達に無理やり引き伸ばされたりもしたが、
辞職を申し出てから2か月、移動してきてから3か月後に無理やり辞めた。
部下の人たちには退職日の前日まで伏せていたのでかなり驚いていたが、
まったく気づいていないことにむしろ呆れた。
結局ふがいない上司たちは2か月の間に
哀れな生贄を用意できなかったようで課長たちが代役をしている。
会社を辞めて、次を決めていなかったのでいまはのんびりと貯蓄で暮らしている。(5年くらいの貯蓄はある)
>>せめて父君や亡きお祖父様のケースからは学ぶべき。
そうしたいところなのですが、亡父の場合、
で周囲があきらめてくれていたフシが大きいのです。
本人も、どうやっても出来ない事がたくさんあるから、仕事の領域で狂ったように働いてその分を返しているかんじでした。モーレツ社員ってやつです。世代的にもそれが許されていたのもありますが、リアル血反吐はきながら仕事してました。
一度オフィスに入ると家に帰ってこないし、そもそも過集中だから終電過ぎてるの気づかないし。これは私も一緒ですが、女の私がこれをやると周囲も帰れなくなるので回りは困ってしまうこともあります。それに血反吐は、今の世の中、企業側が困るのでやっちゃまずいだろうなぁと。
なのでふつ~にしたいんです。ふつ~に。
ふつ~が一番。(ただ、脳みその癖が、それを許してくれないことがあるという・・・)
私も親戚も父のあれこれでは大変な思いを山ほどしたし、多分ADHDであるはずの父の妹(私の叔母)も
「わたしと、お兄様については変わってるのはあきらめてね!」
で通しています。
それに私の父とこの叔母はものすごく美しいのです。彼らはこどもの頃からほかの兄弟や同級生たちと比べて、周囲の待遇や反応がまったく違っていたのだそうです。例えば私の父は、小学生の頃から芸者さんからちやほやされていたと伯父たちが困ったように話していました。
美人の叔母は他人と接するのがすきなのですが、対人時間を長くするとトラブルが発生しやすいようです。なんかやっちゃうんでしょうね。
だから、彼女と接してもトラブルが出にくい人としか長時間は会わないようにしているみたいです。仕事も「客からオーダーを取ったら、あとはアトリエにこもる」タイプの職業に就いていました。
私は外見が社交的な母親に似て、どちらかというとデブでブサイクなのです。中身と外見が、父と母逆に似たらスーパー・スペシャルだったのですが、そうはうまくいかないのですよね。ということで、表に出てお仕事する際には、それ相応の努力をしなくてはと思うのですw。
話しがずれちゃってすみません。
オウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯の広瀬健一氏が、平成20年に大学生へ向けて書いた手紙(忠告)をまとめました。
Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET
上記事は1995年に書かれたそうですが、非常に面白かったです。特に、この宗教界からオウム真理教へのAnswerの一つとして
が挙げられていましたね。同様に
若者の宗教的志向性は今後どのように展開するのか、それにたいして教義・教学はどう対応するのか。こうしたけっして容易でない問題への組織的取り組みこそが、いま教団内で強く求められているのではないでしょうか。
と前述のエントリで書かれていますが、一般人である私たちこそ(まさに自分も学ぶべきだと)理解すべき項目は全く逆で、特定の宗教を比較した“教義や教化法の差”ではなく、それを信じてしまう人間側の“信仰生成過程の不可思議さ”でしょう。何故なら人は何かを“信じる”ことなしに、決して生きられず、常にオウムのような組織や教化法と隣合わせに生活しているからです。一度信仰を持った人にとって、その世界観は絶対であり、いくら一般的な通念に反した教義だとしても、自分の方が正しい生き方を貫いていると固辞してしまいます。
では頑な信仰は、一体どのように形成されていくのでしょうか?そして今の時代を生きる若者の宗教的志向性は、時代によって変化しているのでしょうか?
この問いの核心に迫り、私が最近読んで非常に共感した文章があります。それがオウム元信者であり、地下鉄サリン事件実行犯、広瀬健一氏の獄中手記です。
ところで、この文章を執筆している私ですが、昭和~平成のちょうど狭間くらいに生まれました。“地下鉄サリン事件”は、平成7年(1995年)に起こり、当時から今でも語り継がれている重大な事件です。ただ、私が育って物心がちょうど付いた頃くらいから“オウム真理教”や“松本智津夫被告”という言葉がTVから流れており、事件の顛末は当事者としてあまり覚えておらず、どちらかと言うと阪神淡路大震災のTVニュースの方が記憶に残っています。しかし、私と宗教との関わりは、大学生活が始まってから急速に近づきました。端的に言えば、一般的に「カルト」と呼ばれる宗教団体と出会い(当初は、そんな様子を見せずに近づいてきた)、教えを受け、それを忠実に守る人生を送るところだったからです。途中で教えている内容に懐疑を持ち、ネットで検索して団体の性質を知り、自ら関わりを絶って忠実な信徒になることを避けられました。ただ、まさか自分がカルトにハマるとは思っておらず、今考えるとかなり勉強不足、世間知らずの人間でした。それから自分でも宗教や人間の信仰・思考に関する本を読み漁っており、つい半年程前に広瀬氏の文章に出会いました。
『オウム元信者広瀬健一氏の手記「学生の皆様へ」』(2008年公開)
※綺麗な字ですね。ちなみにvol.6の最後に、関係するリンク先を全て記載しています。
この文章は獄中に居る広瀬氏が平成20年に執筆した文章で、総量はA4で59枚、約3万文字もあります。この手記自体はフェリス女学院大学の学生に向けてカルト予防のための講義を行うに当たり、藤田庄市という方がその資料として広瀬氏に執筆をお願いし実現したそうです。昭和63年頃、まだオウムが無名の団体だった頃。自らが、“オウム真理教のナウい教化法”にハマり、染まり、ついには地下鉄サリン事件の実行犯になってしまった広瀬氏。オウムと係わる中で、どんな心理状況に陥ったのか。広瀬氏は本や研究論文も参考にしながら自身の宗教的経験に言及しています。(実際に読みたい方のために、各項目できる限りAmazonや記事のリンクも記載しました。)オウムと禅の比較や、カルト組織の特徴、スピリチュアルにも言及されており、非常に貴重で興味深い内容です。最近、オセロの中島氏と占い師との共依存関係が話題になり、洗脳やマインドコントロールの話も耳にするようになりましたね。この文章は長いので、時間がある際にじっくり読んでもらい、もう一度カルトの存在、洗脳や信仰に対する認知を深めてもらいたいです。
そしてできるなら、FacebookやTwitterでこの記事をシェアしてもらえないでしょうか?大学に入ったばかりの新入生は、カルトの存在にリアリティを感じられないはず。サークルの勧誘期間中は、カルト教団の一番活動し易い時期だからこそ、この警告を全国の大学生にも読んでもらいたいのです。本当に、私の二の舞になって欲しくありません。また、原文を忠実にテキスト化していますが、他人の文章のため間違っている箇所があればぜひ指摘して下さい。(何箇所か英文もテキスト化できていません。どなたかテキストにしてもらえませんか?追記致します。)
最後に、地下鉄サリン事件を通じて亡くなった方のご冥福をお祈りすると共に、オウム真理教、並びに全国のカルト教団を通じて被害を被った方々の苦痛が、一刻も早く和らぐよう祈っています。
学生の皆様へ
「生きる意味は何か」―皆様は、この問いが心に浮かんだことはありますか。
この質問から私が始めた理由は、それが皆様の年ごろの人たちが抱きがちな問題であり、また、若者が「カルト」に係わる契機ともなるからです。
オウム真理教による事件以降も、「カルト」に対する警戒の呼びかけにもかかわらず、その被害が跡を絶たないようです。そのために、「カルト」に関する講座が貴公に開設されたのでしょう。そして、講師の方から「カルトへの入会を防止するための手紙」を皆さま宛に書くようお話がありましたので、引き受けさせていただきました。それが私の責務と思われたからです。
私は地下鉄サリン事件の実行犯として、被害関係者の皆さまを筆舌に尽くし難い惨苦にあわせてしまいました。そのことは心から申し訳なく思い、謝罪の言葉も見つかりません。また、社会の皆さまにも多大なご迷惑をおかけ致しました。その贖罪は、私がいかなる刑に服そうとかなわないと存じております。せめて、このような悲惨な事件の再発を防止するための一助になることを願い、私の経験を述べさせていただきたく思います。
カルトに係わる契機
前述のように、「カルトへの入会を防止するための手紙」を依頼されたのですが、いわゆるカルトのメンバーとしては、私はオウム真理教の信徒の経験しかありませんので、主にオウム真理教(以下、オウムまた教団)の話になります。
カルトは多様なことがらを提示して入会の勧誘をするそうです。オウムもその唯一の目的である解脱、悟りだけでなく、ヨガによる健康法や能力開発の方向からも勧誘するよう私どもに指示していました。そのため、信徒の入信理由は様ざまでした。
しかし、信徒の入信理由の特徴は、たとえば「生きる意味」に対する問いのような、解決が極めて困難な問題に関係があったことではないでしょうか。ただし、この「生きる意味」は、仕事に対する生きがいなどの日常的なことではありません。たとえば、「生まれてきた目的」に係わるような、形而上的ともいえることです。それゆえ、この問題はこの世における解決が困難です。仕事に対して生きがいが感じられないならば、適当な仕事を探せばよいのですが、「生まれてきた目的」などはその存在自体問題になることでしょう。
ところが、オウムは「超越的世界観」を有し、この類の問題を解決する機能がありました。これは、日常を超えたオウムの世界観においては、「生きる意味」や「生まれてきた目的」の解答が与えられており、信徒がその世界観を受容すると問題が解決するということです。他方、この世界観は非現実的であるために、それを受容した信徒は一般的社会における生活に適応しにくくなり、家族や学校、会社から離れて出家していきました。さらに、教団で集団生活をしているうちに、規範意識まで非現実的な教義に沿うものになり、ついに違法行為をするまでに至りました。
このように、「生きる意味」に対する問いはカルトに係わる契機にもなるので、その心理状態への適切な対処を考える受容があると思います。そのためにまず、その具体例をお話します。
私自身は、高校三年生のとき、「生きる意味」の問題を明確に意識するようになりました。そのきっかけは、家電商店で値引処分された商品を見たことでした。商品価値がたちまち失われる光景を観て、むなしさを感じたのです。ところが、それ以来、私はこの「むなしさの風情」を通して世界を見るようになってしまったのです。事あるごとに、物事の価値が気にかかりました。結局は、宇宙論のいうように、すべては無に帰してしまうだけではないのか…との思いが浮かぶこともありました。そして私は「生きる意味」―絶対的な価値に関心を持つようになったのです。そのときは、それまでは大仰に思えた、「朝に道を聞けば夕べに死すとも可なり」と述べた孔子の気持ちがわかるような気がしました。
このような心情に関しては、文献を調べますと、古今東西、類似の経験をした人が多数存在するようです。
スピノザは著書『知性改善論』の冒頭で次のように述べています。
一般生活において通常見られるもののすべてが空虚で無価値であることを経験によって教えられ、また私にとって恐れの原因であり対象であったもののすべてが、それ自体では善でも悪でもなく、ただ心がそれによって動かされた限りにおいてのみ善あるいは悪を含むことを知った時、私はついに決心した。我々のあずかり得る真の善で、他のすべてを捨ててただそれによってのみ心が動かされるような或るものが存在しないかどうか、いやむしろ、一たびそれを発見し獲得した上は、不断最高の喜びを永遠に享受できるような或るものが存在しないかどうかを探求してみようと。
トルストイもその一人です。当時五十歳だった彼は、外面的には申し分なく幸福な状況でしたが、価値観の崩壊から「生きる意味」の模索を始めています。そのときの心情を、彼は著書『懺悔』に記しています。
何やらひどく、奇妙な状態が、時おり私の内部に起こるようになってきた。いかに生くべきか、何をなすべきか、まるで見当がつかないような懐疑の瞬間、生活の運行が停止してしまうような瞬間が、私の上にやってくるようになったのである。そこで私は度を失い、憂苦の底に沈むのであった。が、こうした状態はまもなくすぎさり、私はふたたび従前のような生活を続けていた。と、やがて、こういう懐疑の瞬間が、一層頻繁に、いつも同一の形をとって、反復されるようになって来た。生活の運行が停止してしまったようなこの状態においては、いつも「何のために?」「で、それから先は?」という同一の疑問が湧き起るのであった。
この時分に最も私の心をとらえていた農事に関する考察の間に、突然、つぎのような疑問が起こってくるのだった。
「よろしい、お前はサマーラ県に六千デシャチーナの土地と、三百頭の馬を持っている。が、それでどうしたというんだ?……」そして私はしどろもどろになってしまって、それからさき何を考えてよいのか、わからなくなるのだ。またある時は、子供を自分はどういう具合に教育しているかということを考えているうちに、「何のために?」こう自分に言うのであった。それからさらに、どんなにしたら民衆に幸福を獲得させることができるだろうということを考察しているうちに、「だが俺にそれが何のかかわりがある?」突然こう自問せざるを得なくなった。また、私の著作が私にもたらす名声について考える時には、こう自分に向って反問せざるを得なくなった。「よろしい、お前は、ゴーゴリや、プーシキンや、シェークスピアや、モリエールや、その他、世界中のあらゆる作家よりも素晴らしい名声を得るかもしれない。が、それがどうしたというんだ?……」これに対して私は何一つ答えることができなかった。この疑問は悠々と答えを待ってなどいない。すぐに解答しなければならぬ。答えがなければ、生きて行くことができないのだ。しかも答えはないのだった。
自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして立つべき何物もないような気持ちがした。今まで生きてきた生活の根底が、もはやなくなってしまったような気持ちがした。今や自分には、生きていくべき何物もないような気持ちがした。
以上の記述は、当時の私の心情に共通する点が多々あり、この種の心理状態の特徴をよく表現していると思います。特に「自分の立っている地盤がめちゃめちゃになったような気持ちがした。そして、立つべき何者もないような気持ちがした。」という表現には共感を覚えます。それゆえに、絶対的な価値を求める心理になるのではないでしょうか。
その後、私は哲学書や宗教書を渉猟したり、宗教の実践者の話を聞いたりしました。高校三年生ですと、大学受験の時期ですが、私は大学の付属高校に通っており、いわゆるエスカレーター式に学部に進学する予定でしたから、時間はふんだんに使えたのです。
哲学については、話は論理的に進行しているのですが、その根本の部分―数学でいえば公理―は哲学者個人の感性によって「真理」とみなしているように思えたので、私にはなじめませんでした。宗教についても、私に反射的に生じる反応は、「真偽をどのように確かめるのか」という抵抗でした。教義の核心が非現実的に思われ、根拠なしにはそれを受容できませんでした。
こうして、私の「生きる意味」の探求は行き詰まってしまったのです。そもそも、絶対的な価値を求めることが、ないものねだりであることは半ばわかっていました。しかし、宗教界をはじめとして、それを体得したという人が存在する限りは、自分で確かめざるを得ない心境だったのです。
結局私は、むなしさを感じなくして済む、実行可能な「生きる意味」を定めることによって、心のバランスをとるようにしました。私は理系の分野に関心があったので、将来の職業はその方面以外考えられませんでした。ですから私は、物理法則を応用して、基礎的な技術を開発する研究を目指すことにしました。理想的なのは、半導体素子の発明のような研究だと思いました。このような仕事ならすぐに価値がなくなることはなく、また、それなりに世の中の役にも立つとの考えでした。それより先のことについては、これを考えると何もできなくなるので、目をつむるしかありませんでした。
このように、何年かの間、私は「生きる意味」の問いを棚上げして過ごしていました。しかし、のちに、その問いの影響によって宗教的経験が起き、オウムに入信することになりました。その契機については後述致します。
次に、「生きる意味」の問いが起こる原因についてですが、以下のように、この種の問いは生理的不安定に起因することもあるようです。
思春期から十代後半(ときには二十代始めに入る)まで、成長しつつある人は重大な生理的不安定(すなわちストレス)を示す。ストレスホルモンは、後の成人時代の安定期に比較して有意に増加する。青年期に典型的な大きな気分の揺れは、この不安定さに結びついている。若者は取るに足らない欲求不満があると、多幸福のある熱狂から自暴自棄的に落ち込むかもしれない
人生のこの期間に問われる典型的な問いは次のものである。“それが一体何になるのか”“人生より何か重要なことがあるのではないか”このもどかしい衝動は自己認識の危機の問いで極まる。“私は一体何か”“何が現実か”
また、心理学者のウイリアム・ジェイムズも、人生のあらゆる価値に対する欲望が失われていく「憂うつ」状態から、心休まることのない問いに駆り立てられ、人が宗教や哲学に向かうことを指摘しています(ウイリアム・ジェイムズ『宗教的経験の諸相上』桝田啓三郎 訳 岩波文庫)
「生きる意味」に対する問いが純粋に知的なものならば、それは当人に健全な精神の成長をもたらすかもしれません。しかし、以上のような要因のものならば、無意味なことなので、自覚してそれに巻き込まれない必要があると思います。そのような心理に関する知識があるだけでも、ある程度の予防になるかもしれません。場合によっては、専門家に相談する必要もあるでしょう。特に、その問いにこだわりや煩わしさを感じるならば、注意すべきです。性急な解決を図りがちになり、それだけカルトに接近する危険があるからです。
それでも、「生きる意味」の問い―あるいは、ほかの問題―の解決を、宗教をはじめとするある思想に求めるならば、その選択には細心の注意を払うべきです。前述のように、その解決は「超絶的世界観」に訴えざるを得ないので、その現実生活への影響が懸念されるからです。
ある伝統宗教などはそうだと思いますが、その安全性、有益性が歴史によって検証されている場合は問題ないでしょう。しかし、以下の要素を含むものについては避けるべきと思います。
江戸時代からの伝統だけど、一番多い起業のパターンは組織のナンバー2、3の独立だと思う。
経営者の下に優秀な人材が2人いたとして、1人が後継者、1人は独立っていう感じで。
呉服屋の番頭が自分の店を持つとか、寿司屋の職人が暖簾わけして自分の店をもつとか、そういうのが典型的だけど、だいたいの業種そうじゃないかなぁ。
インテリな業種でいうところでいうと医者やら弁護士やら、あんまりインテリでない業種だって内装業やら水道屋やら整備工やら。
雇われているときの顧客を自分の顧客にできるわけだから、失敗する確率が少ない。(円満に独立したか喧嘩別れだったかにもよるが)
資格で守られてるとなおのこと。
ナンバー2、3の地位とかじゃなくても、たとえば顧客をたくさん持ってる営業マンとかだってさ。
「私はこういう顧客を持ってます」
はいちばんのアピールポイントだもん。
だって、イコール
「私は○○○万円の利益を上げるだけの力があります」
だもん。
雇われ人時代につくった人脈がでかいと思うな。
顧客に限らず。
独自ルートで安く仕入れたり、頼れる同業者と提携できたり、いろいろと。
非正規のほうが失うものが少ないから起業しやすいなんていう理屈はどうかと。
仕入れルートも顧客も全部自力で新規開拓、同業者に助けて貰うどころか、出る杭として打たれって状態だと、格段に成功率は落ちるんじゃないかなぁ。
一般論だけど、
「バイト」には名刺交換しないし、「バイト」には営業をかけないし、「バイト」には社外秘を教えない。
故に、人脈もできなければ、ノウハウの深いところも知りえない。
この国では非正規は職歴に入らない。
猛暑も和らぎ、取引先に四魔貴族がポツポツと増えてくるシーズンですが、
皆さんいかがお過ごしでしょうか。私です。
取引先の四魔貴族から
「血と汗となみだを流せ!」などと
無茶な要望を受けた経験をお持ちの方は多いと思います。
そんな死職の中で生きる為の
■パリィ
仕事を振られそうになった時に便利な技。
「バリィ」の掛け声と共に資料を破り捨てる。
社会人の基本。
■失礼剣
相手に背を向けて会話する高等テク。
上司や取引先への報告時に使うとなおよし。
普通に失礼。
■空圧波
書類の半分を窓から投げ捨て、なかったことにする。
上手くいけば、仕事が半分に。やったねベアちゃん!
■流し斬り
「ふー」などと呟きながら、
叱られそうになったら「流し斬りが完全に入ったのに・・・」と言えば問題ない。
■無形の位
机の上に何一つ置かず、不動のまま虚空を見つめる技。
こいつに仕事を振ったらまずいと思わせる技。
書類を頭上に高く舞い上げる大技。一瞬だけ凄く気持ちいい。
その様子を見たものは言葉を失うと言う。
実は一番乱れているのは書類ではなく頭。
■触手
バラララッ
■インプリズン
■一人時間差
シフト出社。
■振り逃げ
上司が好んで使ってくる技。
■でたらめ矢
上司が使ってくる技2。
ここで放たれた矢の事を白羽の矢と言う。
当たったほうはたまったものではない。
■皆しね矢
辛くなったときの愚痴。効果はない。
■触手
バララララララッ
仕事が忙しくてしょうがなくても、人に助けを求めず、
一人炎上とも言う。
■クイックタイム
定時になると上司が使ってくる術。
何故か労働時間に計上されなくなる恐ろしい技。
以上です。
皆様がこの死職を乗り越えられるよう
心よりお祈り申し上げます。
別紙:
明日から使える会議室陣形入門http://anond.hatelabo.jp/20100917221117
異動したら上司が七英雄だった。http://anond.hatelabo.jp/20100919122736
もご覧ください。
参考文献:
「私の彼はモール族」テレーズ著
中学生の頃、「技術」って科目があったよね。技術家庭科ってやつ。
自分で入れ物の設計をして、ノコギリでギコギコやったり、はんだ付けとかしてちょっとした照明器具作ったりさ。
あんまり上手くないのに、やけに凝ったことをしようとするから一人時間がかかって学校終わったあとも居残ってたりしてたけど、でもなんか、好きだったなあ。ああいうの。
高校に入ったら、なくなっちゃって、あれ以来ああいうことをしていないけど、
大学はいってから妙にあの時の事を思い出して、あぁ、なんか作りたい、なんかわからんけど、とにかく作りたい……はんだ付けとか無償にしたいぜ……って気分が高揚してる。
でもなにをどうしよう。第一歩がまずさっぱりわからん。
それって単純にOJTでは?
新人の人には失敗しても大丈夫、時間がかかっても大丈夫な誰でもフォローできる仕事を与えて、仕事をしながら技術を学ぶような「OJT」つまり「仕事によるトレーニング」をやらせます。当然それは仕事なのですが、学ぶところにも主眼が置かれているわけだったりします。
なのでそんなに気負わないほうが。
優秀な上司の人はよく、若干苦労をすればできるぐらい、ちょっと調べて取り組めばできるくらいの仕事を与えて、成長を促します。おそらくそれにあたっているのではないでしょうか。(企業の文化によるけどね)
HTMLとCSSがあって、若干プログラミングの考え方があれば、十分に土壌があるはず。あなたの文章だけ読んでこんなこと言うのもなんだけど、レベル的にはちょうどいい課題では?
改行コードの問題は言っちゃあれですけど非常にありふれた問題なので、とりあえず顔を上げて、天井でも見て深呼吸でもして、ぐぐってみれば割と簡単に答えは見つかるはず。
きっと相手は苛々してるでしょう。なんでこういう間違いが起こるのかと。
きっと相手はにやにやしていると思いますよ。自分の新人時代を思い出したりなんかして。ちょっとあの頃に帰りたいなーなんて、うらやましいと思ったりして。
新人相手に本気でイライラしている奴がいたら、それはそいつが小物であるだけなので、相手の役職や立場には当然敬意を表する必要がありますが、人間的には距離を置いても構わないでしょう。(つまり「俺は貴様の役職に頭を下げているんだ」というやつ)
まぁ気楽にやったら?
新人のうちは「一度聞いたことはできるだけ覚える」「同じことはできるだけ二度聞かない」「とりあえず素直に従ってみる」とか基本的なことを守ってさえいればいいと思います。
ちなみに私は入社早々社内で一人しか扱えない重要な機材の使い方を勉強させられたあげく、前任者がやめてしまってその機材を扱えるのは社内で自分ひとりになってしまい、あっという間にゴールデンウイークがなくなり、気がついたら夏休みもなくなり、定時で退社していく同期の背中を見ながら(比喩ではなく)泣きながら作業しました。(入社した月から給料より時間外手当のほうが高いっておかしいし)まぁ、下には下があるという話ですが。
その時思いっきり跡を濁してやめた糞男(恨みます呪います)の気持ちなどわからないし分かりたくもありませんが、主任と課長はイライラして辛く当ってくることもなく、深夜でも休日でも辛抱強く付き合ってくれました。当時はどこかへ旅立ちたいと常々思っていましたが、今だと主任と課長の気持ちが少しわかります。
http://anond.hatelabo.jp/20080420165323
ただ原因はもっと普遍的なものだよ。
つまり「女は強い男の方に寄っていくようにプログラミングされている」
この一点につきる。
じゃあ強さとは何かと言うと、子供時代(第1ラウンド)はスポーツ、外見、しゃべりのセンス(巧妙な威張り方)で、
ところがこの第2ラウンドはおまけみたいなものでたいして意味がない。
人間は全員子供として生まれるけど、大人にならない大人は多いから。
それで第1ラウンドが重要になってくるけど競争は常に相対的だから、強い:普通:弱いのバランスは2:6:2くらいになる。これが不公平の原因。
じゃあこれを防ぐためにはどうするか?
簡単、男と女を別々に育てればいい。女が幼少期に男の序列を見ることが強さのインプリンティングになっているのだから、
それを見せなければいい。その上で「男女交際に2回目はない」を徹底すれば、慎重に選ぶようになる。
こうすると婚姻率が減りそうだが、実際はそうではなく、別れる率が減ることによって婚姻率は向上する。
現実、男女交際全盛期の現代は別れる率の圧倒的な増加によって婚姻率は減少している。「次がいる」「もっと相性のいいのがいる」ということになってると、人間はいつまでたっても決められないのだ。
疲れてくると、「あれ?」みたいな行動とる人時々見かける。