はてなキーワード: ナガサキとは
はーいはーいはーい、俺も俺も俺も!
ざっくり言えば、良かった(ざっくりすぎ)。
もう一度見に行きたい。
近年、そういう映画にはとんと当たってなかったので。
ただ反面、疑問点や、ちょっとリアリティーに欠けたかなという点も。
この映画のすごいところは、そういった点すら減点要素にはなりえないところ。
以下に記す。
(※個人の感想です)
なんというか「トーキョー対ゴジラ」のような印象。
「ニッポン対」っていう割には、東京(と関東地方)以外の土地が不自然なくらい出てこない。
5秒くらいインサートされる「ヒロシマ」「ナガサキ」の写真くらいじゃない?
よその土地が出てくるの。
中盤、ゴジラくんったら東京のど真ん中であれだけ盛大に火吐いてるから、キー局の機能は失われてしまってるはずなのに
何事も無かったのかのように放送が続いている。
(例えば、「最終兵器彼女」なんかだと、テレビ放送の機能なんかは失われていく描写だよね)
だけど、そういう描写はない。
別に無いなら無いで、ストーリーテリングの上で絶対不可欠というもんでもないし、構わないんだけど
この映画が紐つけられる「3.11」以降という文脈でいうと、首都一極集中型のこの国で
首都が機能を失ってしまったときどーするの?っていうこの国の弱点がなんの議論もされずに残されているという問題がありまして、
そこに関する見解が何も提示されていないという腑に落ちなさは少々残りました。
(とはいえ「3.11」云々は作り手側が喧伝しているというより、受け手が勝手に関連付けてるだけとも言えるので、
・東京に原爆を落とすという国連(アメリカの傀儡)決議がされたときに、登場人物の誰もが怒りに震えてるんだけど、
個人的にはあまりその怒りを(日本人なのに)自分のものとしては感じられなかった。
「ヒロシマ」「ナガサキ」に続く、3発目の原爆をこの国に落とそうということに憤っていらっしゃるようですが
1発目、2発目とは状況も意味も違うので。
もちろん生死という概念すら凌駕している可能性のある最強生物に対して原爆というある種レガシーな兵器が通用するかという
疑問はあるんだが犠牲者を計画の段から見込まないといけない「ヤシオリ作戦」よりも、原爆投下の方がはるかにスマートなやり方のような気がした。
むしろ、Hatenarとして折に触れて見聞きする機会のある「東京対地方」論で、いつも散々にこきおろされる「地方」にいる身としては
「ざまあみさらせトーキョー民!おごりくさった天罰じゃ!!」くらいのことは感じました。スッキリ!
…というくらい、「東京」と「地方」が分断されてしまってる現状、
やっぱり「ニッポン対」っていうよりは、「トーキョー対」にしてくれた方がすっきりするな。
けど、街が壊されていく様子とか、人が逃げ惑う姿、この映画の核と言える描写のリアルさはシリーズ随一だと感じた
(とくに船が積み重なっていく様子とか、押しつぶされたマンションの中にいる住人が流されていくカットとか)。
当方は東日本大震災が発生した時に震度1すら観測されなかった西日本の街に住んでいて、「3.11」という言葉にあまり
リアリティーを感じてなかったんだけど、
そんな人間でもこの作品を見て、あの日の記憶からは逃げられないんだと感じた。
それほどあの地震が残した爪痕は大きいということを思い知った。
お台場が燃えている→東北が被害激しいらしい→津波が来るぞ!逃げて→(絶句…)→原発が危ないらしい!→ハーイ/
ここまで24時間未満。パソコンの前に噛り付いて動けなかった。
実際、関東大震災の記録も集めてみると範囲も広いし、被害も東日本大震災に匹敵するほど大きい。
にも関わらず、この3.11が日本人にとって特別大きく感じるその理由は、
①ビデオ技術(ここでは単に映像なのではない、フィルムではなし得ないほどの情報量をもつメディア)が開発されて
②リアルタイムでその映像をやり取りできるほどの高速ネットワーク回線というものがそろった後の時代において、
この国が迎える、初めての破局的な災害だったからだという側面もある。
そういえば911が起こるまで、200mを超えた高層建築が実際、どんな風に崩れるかなんて人類の誰一人として想像できなかっただろう。
そういう意味では初代ゴジラ以降、60年余の間に人類がアーカイブしてきた全ての映像が、庵野秀明という最終アンカーの目を通して
戦争に巻き込まれるときは集団的自衛権を行使しようがしまいがいつでも絡まれるでしょう
とはいえ今までフリーランチで平和を享受できていたのに、なぜ今になってそれを手放すのか理解に苦しむのはわかる。
「いやアメリカさんのいうことも分かるんですけどうちの国には平和を愛する地球市民がいっぱいいて改革は無理でした。ヒロシマ!ナガサキ!」とでも言っておけば
それほど国際非難を受けず、自国民の血を流さずに現状を維持できたのに
それとも何、今になって武力の当てが出てきて千島樺太を取り返す算段でもできたの?
軍隊使えるようになることのメリットは自分から攻める時くらいしか考えつかない。
まあクリミアで手一杯になってる時に攻めればすんなり行くと思うけど、それは今まで安穏とできていた地位を手放すことにつながるしなあ。
職場の新人同僚に、韓国人がいる。新人と言っても40前で、私よりはひとまわり弱、年上だ。
先日別の同僚のアメリカ人を含めて3人で、日韓中+北朝鮮の関係性と歴史について話していたときのこと。
私は、「日本には韓国人が意外とたくさん住んでるよ、既に日本国籍を取得した元韓国人も含めて」と言った。
そしたらその韓国人同僚が、「日本の天皇も先祖は韓国人だと(天皇本人が)言ってるしね」と言った。
直後に彼は「これは事実だよ」と加えた。
私は衝撃を受けた。
それが事実かどうなのかは、私は知らない。でもそうゆう話があるということを知ってはいる。
デマだと思ってる人もたくさんいるだろうし、そもそもそんな噂知らない人だってたくさんいるだろう。
それを「事実だよ」という強調とともにアメリカ人の前でさらっと言い放った彼の言動に驚いた。
これを聞いた目の前の日本人がどう思うか、彼には考えが及ばないのか?
日本と韓国は、歴史を共有している、近くて似た国だからこそ、その関係には一筋縄では行かない難しさがある思っている。
私にはかつて韓国人の上司がいた。非常に賢くて、優しく、今でも尊敬できる人だ。
それから学生時代の研究室には韓国人留学生がいた。良い友達だった。
今の職場の別の部署にも韓国人がいる。皆とても謙虚で親切だ。面白い奴もいる。
私は、彼らが日本のことを悪く言ったり、日本人が気を悪くするようなことを言ったりするのを聞いたことは一度も無い。
同様に、日本人の友達が韓国の悪口を言っているのを聞いたことも無い。
寧ろ韓国人アイドルにはまって韓国まで一人コンサートに出掛けた強者の友人がいるくらいだ。
そうゆう境遇だったもので、この新人同僚韓国人の言動に驚いたのだ。
そう言えば、北朝鮮がミサイルを発射したと報道された頃、韓国を心配して「どうなの?」と聞いた。
彼は「いつものことだから気にしてないよ。それより日本の原発による放射能汚染を(韓国では)皆心配している」と。
また別の日、アメリカ人同僚の「日本語と韓国語、勉強するならどっちの方が難しいと思う?」という質問に対して、
「韓国語は非常に複雑で難しい言語だと思うよ。日本語の方がはるかに簡単だよ。」と言っていた。
最初は私が考え過ぎなのかと思っていたが、彼の様々な発言に私はいつもしっくり来なくて、
結局彼はあまり日本が好きではないのだろうと推測するに至った。
彼と出会ったことで、韓国人の「韓国>日本!」という観念を初めて目の当たりにした。
今私にとって問題なのは、彼とうまくやっていくにはどうしたらいいのか、ということだ。
というかそもそも「これを言ったら相手は気分を害するかも」という配慮に欠けることが問題なのだが。
(ついでに彼は、中国にとっては北朝鮮はお互いベストフレンドだと言った。
これを隣の部署の中国人が聞いてたらどう思うのだろう、と内心そわそわした。)
前述の通り私の周りには尊敬すべき韓国人もたくさんいるので韓国人そのものに失望することは無いが、
彼のような韓国人が他にもいることはおそらく間違いない訳で、少し怖くなった。
天皇が韓国人、そんなこと、信じる分には構わないが、それを日本人に言ったところでどうなる?
言ったところでどうなる?で思い出したついでに、もう一つ書きたいことがある。
数年前(十数年前?)のそれで、存命のエノラゲイ元パイロットにインタビューするというドキュメンタリーをやっていた。
もう大往生寸前かという老いた元パイロットに日本人リポーター(被爆二世だかの人だった気がする)が聞く。
「原爆を投下したことに、罪を感じないか?被爆者に、謝罪をしたいとは思わないのか?」
その当時、元パイロットはきっとお国のために使命を全うしたのであろう。…神風特攻隊のように。
私は原爆の苦しみを知らない。
軽はずみなことや誤解を招くようなことは書きたくないし、元パイロットを擁護するつもりなんて全くない。
しかし彼が謝罪をしたら、被爆者(かそのリポーター)は楽になるのか?報われるのか?(注:反語ではなく、問いである)
小学生のとき、社会の授業で「戦争(や原爆)の痛みを忘れてはならない」と習った気がする。
それは、加害国(原爆に関してはアメリカ)に対して「私たちは被害者だから!」ということを忘れさせないためではなく、
我々日本人が他の国に対して同じようなことをしないために、
他の国がまた別の国に対して似たような過ちを繰り返さないために、「痛みを忘れてはならない」のではないだろうか。
別の部署にいるアメリカ人に、「日本人には優しくしなきゃダメだ!」と冗談まじりに言ったことがある。
アメリカ人の彼は「なに!?お前らパールハーバーを忘れたか!!」と言って来たので、
「なんだと、ならヒロシマ・ナガサキはどうだ!」と言ってやった。
二人して、あほらし、と笑い合った。
戦争や植民地支配、虐殺、慰安婦問題は、その後も賠償問題という形でいつまでもたっても過去が過去にならないのが現実だ。
(賠償に限らず、原爆だって被爆三世という言葉があるぐらいだ)
けれどもアメリカ人と日本人が、不謹慎かもしれないが、シュールなジョークで笑い合ったのは事実である。
日本と韓国、日本と中国も、いつかそんな間柄になれたらいいのにと、心から思う。
今更言っても無駄だと、それがJ-CAST連中のやり方だと言ってしまえばそれまでかもしれない。Jカス絡みでこんなのはよくある事だ。けどやっぱり今回の仕業にはあまりにも目が余る。
これについてだ。
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
この記事は、朝日新聞社のサイトで連載されている小原篤の連載コラム「アニマゲ丼」を発端として書かれてるものだ
こちらがそれ
そもそもは11月12日に東京芸術大学で開催された、「第2回 映像メディア学サミット LOOP-02 マンガ・アニメの映像メディア学的再考」というセッションに押井守が参加し、トークした内容が大本になっている。
その模様はユーストでアーカイブとして見れたが、20日までの限定配信で現在は見れない。
まず「アニマゲ丼」の記事は、見出しが示しているように「若者は夢は持つな」という旨の発言を軸にしている内容である事がわかる
以下引用
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
「やさしい、というのは、励ますとか慰めるのとは違う。『親身になれた』という意味で、それまでは若者のことはどうでもよかったのが目を向けるようになったということ。で、若い人のことを考えれば、本当のこと、残酷なことを言わざるを得ないと思い、ちょうどそのころ中学生や高校生と話す機会がたくさんあったので、こういう話をした。あなたたちは限りなく凡庸で無名で何の個性もないんだ、『一人一人がかけがえのない存在だ』なんて大人のウソを信じるのはやめて、早く幻想を捨てろ、夢を持つな、あなた方の未来にいいことなんて何一つないんだ――というところから始めたらどうでしょうか、と」
なんて身も蓋(ふた)もない、と思いましたが08年8月11日の本欄で私は「スカイ・クロラ」について「あまりに救いのない、というか身も蓋もない結末ではありませんか」と書いていたのを思い出しました。
ここが「アニマゲ丼」で一番取り上げたい部分なのだろう。
この押井守の主張に関する是非は置いておくとしても、この記事自体はバイアスがかかっている気がする。
実際の講演は第2部「アニメーションと日本の戦後社会―ロボット、サイボーグ、アンドロイド、そして人間」というタイトルが付けられている通り
パトレイバーや攻殻機動隊を監督した者として押井がロボットやアンドロイドのあり方を問い、技術論を語り、さらに原発の話題にも振れていくところが主体の講演だった筈だ
ここのスカイクロラの部分はほとんど寄り道であって、「アニマゲ丼」の記事を書いた小原篤の主観として誇張気味に書いている節がある。
いわば押井の講演内容からコピーしてトリミングして、そこに小原自身の主観を交えながら書かれている記事だ。
J-CASTはそこから更に、何故か突然「萌えアニメ」「ハーレムアニメ」などと言った単語を挿入し、押井守が今の萌え・ハーレムだらけのアニメ業界に苦言しているようにも取れる記事を書いている
まずアニマゲ丼から、押井が今のアニメに苦言しているという部分を引用する
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。
これはどちらかというと、アニメ監督をすることで「誇大妄想の極限を味うことができる」部分に目が行くと思うのだが
前後をぶっちぎって、今のアニメのほとんどはコピーのコ(略)の部分に脊椎反射している人間が多いようだ。
しかしこの記事のこの部分は全貌するとこうなっている
asahi.com(朝日新聞社):「若者は夢を持つな」と監督が言った - 小原篤のアニマゲ丼 - 映画・音楽・芸能
押井監督は、日本人が科学技術の表面的な受容と円滑な運用のみにかまけ、その技術の核たる思想、技術をゼロから立ち上げる思想を持たなかったことが今回の原発事故を生んだと指摘。様々な当事者の認識を改めるために今回の事態をヒロシマ・ナガサキに続く「第3の原爆」と呼ぶべきだと訴えました。「技術の思想」の欠如は、ロボットに「かっこよさ」のみを求めるアニメ製作者の思考にもあてはまる、と自作「機動警察パトレイバー」をもとに批判を展開し、そして訴えかける核を持たない日本アニメは、その表層を細緻(さいち)に描き込み磨きあげることで「極東の島国の珍なる文化」として世界に地位を獲得したと分析。工芸品的に細部を作り込みたがるその日本人的な意識が、細緻(さいち)な映像表現に好適なロボット・アンドロイド・サイボーグなどへと向けられた結果、肉体や自意識をめぐるテーマへと結びつき、つまりはアニメという表現形式が発展過程でテーマをはらんでしまったのだと説き明かしました。そして現実の劣化コピーに過ぎない実写と違い、「現実に根拠を持たない」アニメは珠玉の工芸品となり得、アニメはその根本から細部までコントロール可能であるがゆえにその力を使ってアニメ監督は、全世界・全歴史に向けて自分の言いたいことを完全な形で言えてしまうという誇大妄想の極限を味わうことができる。これは悪のにおい、危険なにおいがする。ゆえに若い人をひきつける。しかし僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで「表現」の体をなしていない。あと、ユニコーンガンダムのツノはアイデアとして面白いけど、だからどうなの?
ってな話を約2時間、相変わらず、とうとうとまくしたてたのでありますが(上のまとめは少々わかりやすくかみ砕いてます)メモをとるのが疲れました。私はそれより、新作の話はないの?って聞きたかったんですけど。
ここで「アニマゲ丼」の記事は終わる。
訓練された押井信者(笑)ならば、ここは「ああ、最後はいつもの押井で終わりだな」と、顔をほっこり緩めるところだろう。
「アニマゲ丼」としてはこれをオチの部分にしたかったに違いない。
アニメはコ(略)などはほんの極一部分にしか過ぎないし、これだけでは押井が真剣に憂いているのかどうかもわからない。
さて、J-CASTの方を見てみよう
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (1/2) : J-CASTニュース
朝日新聞は2011年11月21日付けの電子版コラム「アニマゲ丼」で、押井さんの東京芸術大学大学院映像研究科での講演(11月12日開催)を紹介した。講演で押井さんは
「僕の見る限り現在のアニメのほとんどはオタクの消費財と化し、コピーのコピーのコピーで『表現』の体をなしていない」
と語ったという。つまり、制作者には新たな創造性や、作品を通じて訴える思想的なものが欠如し、過去にヒットした作品の焼き直しばかり。例えば「萌え」が流行すればそうした作品ばかりになっている。また、今のアニメはオタクと呼ばれるファン層に媚びたものが多く、こうしたことから「表現」が制作者から無くなった、という批判だ。
確かに11年9月から始まった20本近い新作テレビアニメを見ると、さえない男性主人公の周りに美少女が群がる「ハーレムアニメ」が驚くほど多く、過去にヒットした「ハーレムアニメ」作品と共通する内容がかなり多い。
突然どこからか「萌え」「ハーレムアニメ」という単語が出てきた
押井が言いたいのは「アニメという現実に縛られない媒体を使うことで、監督の自己主張を完全な形で広められる。こりゃたまんねえ(快感)。でもそこまでやる奴ぁもうほとんどいないよね」という事を言いたかったのでは?これも俺の主観ですけど。
どちらにせよ「オタクの消費財」や「コピーのコ(略)」が萌えアニメやハーレムアニメだけを指しているというのは暴論だろ
その発言の直後に出てくるのはガンダムUCだし
J-CASTはあくまで「ネットでそう反応されてる」と言い訳のように使ってる
「今のアニメはコピーのコピーのコピー」「表現といえない」 押井守監督発言にネットで納得と逆ギレ (2/2) : J-CASTニュース
「アニメ業界が飽和しすぎで、コピー品を粗製乱造しなきゃ回らなくなってる」
「売らなきゃ食っていけないからな。安定して売れるのがオタク向けの萌えやエロ」
などと納得する人もいるのだが、現在主流となっているアニメのファン達は、自分達の趣味趣向、好きなアニメを批判するのは許せない、と激しく反発。しかし理論で立ち向かえないからなのか
などといった作品批判や、人格批判へと発展し、大混乱となっている。
これでJ-CASTの記事は終わる
J-CASTとしては、「ネットでは押井守が萌えアニメを非難していると言ってる」として、そこを拡大解釈しまくってこんな記事を書いたのだろうか
そもそもそのネットってのはどこのネットを指してんの?2ch?
ちなみにニュー速+では
【話題】「今のアニメはオタクの消費財と化し表現の体をなしていない」押井守さんの発言でネット上は騒動に
というスレッドが立ったが、それはJ-CASTの記事を受けてのものだったし、★4まで伸びたがそれ以上の次スレは立っていない。(追記、★6辺りまで伸びたっぽい?)
一体どこで"大混乱"になってるのか全然思い辺りが無いんですけど。
押井守の東京芸大での講演が、「アニマゲ丼」がダイジェスト記事にしている時点ですでにコピーだし
それを読んで、どこかのネットでは「押井守が萌えアニメを馬鹿にしている!」と憤慨しているならさらに劣化コピーで伝わるべきものが全然伝わってない
何故放射性物質ばかり気にするかって、そりゃ、長年の教育の成果でしょう。
(a)「放射能は恐い」「ナガサキ・ヒロシマの悪夢を忘れるな」
一方で
3.11に(b)が引っくり返ったわけで、そりゃ一般人の考えとしては(a)に転ぶでしょう。やっと俺達の時代が来た! とか言ってる尻Pみたいな人間は例外中の例外。
そもそも「数値で判断する」あるいは「科学リテラシ」という能力が一般人に備えられているかっていうと、甚だ疑問。それを育てるべき社会の公器()マスメディアからして、永久機関を何度も記事にしては無能を晒しているわけで。細かく見ていくと、自分で取ったアンケートのデータもまともに読めない記事 (例えば母集団の偏りを無視して「東大に入る子供の母親の○○割は専業主婦!」とか言っちゃう) は山ほどあるよ。
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110614/1308053555
への反論
>1)チェルノブイリ事故後の旧ソ連の平均余命データ、死亡原因データなどからは、
> 低線量放射線被曝の影響よりも、社会的ストレスの影響が圧倒的に大きいことがわかる。
> また、低線量被曝(100mSv)の発ガン率ガン死亡率上昇は都道府県別の発ガン率ガン死亡率の違いにも遠く及ばない。
> 放射線被曝の健康被害そのものより、事故処理にかかわる社会的・精神的ストレスが健康に悪影響を及ぼしたという、
> チェルノブイリで見られた事象が、今この日本で起こっているのではないか?
仮に「低線量被曝による発ガン死亡率上昇より、社会的ストレスによる死亡率上昇の方が大きい」のが事実だとしても、
それは福島に居続ける方が死亡率を低下させる、という立証にならない。
「低線量被曝による発ガン死亡率上昇」=A
「福島に居続けることによる社会的ストレスでの死亡率上昇」=B
「福島から疎開することによる社会的ストレスでの死亡率上昇」=C
とすると、
A+B<Cでないと、福島に居続けた方がいい、という結論は導き出せない。
tikani_nemuru_M氏の文書を何回見ても、A+B<Cを証明した箇所はない。
tikani_nemuru_M氏は「旧ソビエトでA+B<Cだったから、日本でもA+B<Cのはずだ」と言いたいのかも知れないが、
一地域の一時代でたまたまA+B<Cだったからと言って、その「法則」が他地域の他時代でも成立する、というロジックは
どう見ても成り立たない。
※私見では、B<Cですら疑わしいと思うのだが。
「常に健康不安を心配しながら、怯えながら暮らす」という心配は、並大抵のことではない。
>2)ストレスに対処(コーピング)するためには、社会的サポートが必須であり、行政の支援ももちろんだが、
> コミュニティの果たす役割は大きい。フクシマの地域コミュニティを崩壊させてはならない。
集団移住という方法もある。
阪神大震災で被災者がバラバラになりコミュニティが崩壊した反省から、
今回では加須市への一斉避難のような取り組みが行われている。
古くは奈良県十津川村が災害で北海道へ集団移住した例があり、その名も「新十津川村」となった。
>3)ヒロシマ・ナガサキの存命被爆者(つまり低線量被曝者。被爆当時は子供だったひとももちろん多数)は、
> つまり、低線量被曝の健康への悪影響は、事後的な医療ケアで取り返すことができる。
必要充分条件のすり替え。
仮に「ヒロシマナガサキの存命被爆者がかえって長命」であったことが事実だとして、
それは「低線量被曝の健康への悪影響は、『いつの時代でも、いつの地域でも』事後的な医療ケアで取り返す」
ことを保証するものではない。
まさに1)の「旧ソビエトでA+B<Cだったから、日本でもA+B<Cのはずだ」のロジックそのままに
「ヒロシマナガサキがそうだから、フクシマもそうだ」のロジック。
>4)行政や企業に長期的な補償をさせるためには、居住して社会的・政治的存在感を示し続けるのが有効。
> 移住の補償は一時的である可能性がおおきく、結局【なかったこと】にされるのでは?
仮に「なかったことにされる」危険性があるとして、「残留した方がいい」と言い切るには、
「低線量被曝による発ガン死亡率上昇」=A
「福島に居続けることによる社会的ストレスでの死亡率上昇」=B
「福島から疎開することによる社会的ストレスでの死亡率上昇」=C
に加えて
「なかったことにされることによる死亡率上昇」=D
を用意して、
その努力を放棄した議論を前提に、乳幼児に対し「居住が望ましい」というのは、政治の放棄では?
あと、集団移住という手法を先述したが、集団移住すれば、
ということで、「フクシマ被災者が移住を避けるべき4つの理由」は全て論破されてしまった。
勿論、残留を留まる高齢者の意向は重視すべきだし、家庭の都合・職の都合等で
フクシマから引っ越せないヤングファミリーの立場も尊重すべきである。
一方で、例えば西日本が実家のママがいて、未就学乳幼児を抱えていて、旦那の親とフクシマで同居しているケース。
ママがホンネでは「子供のためにフクシマから離れて実家に疎開したい」と考えていても、
姑や舅の手前言い出せない、なんてケースはどうだろう。
このようなエントリがあると、「ほらやっぱり疎開の必要はないのよ」と姑や舅が引き止める
その意味では、「疎開のハードルが低い家族に対しても、ハードルを上げてしまっている」このエントリは、
極めて罪深いといわざるを得ない。
ヒーホー! 平成時代の皆さん、初めまして!
ラノベでしか知らないけれど、ずっと平成時代に憧れていました。
今日は、僕から皆さんにお願いがあります。
皆さんがいる平成時代は一番自殺者の多かった時代でもあります。
でも待って! あと50年生きてください!
50年後になれば、素晴らしい発明がされるんです!
それは、いらない命を使って大切な命を蘇らせることができる機械です!
僕のおじいちゃんも幼い時にその機械のおかげで生き返ることができました。
だから僕が生まれてこれたのはその機械のおかげです。
この間も、うっかり死んでしまった従兄弟のユウセイくんが、いらない命を使って生き返りました。
実は今、僕たちの時代ではいらない命が足りません。
お願いです。助けてください!
この時代の皆さんが自殺をしてしまうのはとても無駄なことなんです。
でもあと50年経てば、皆さんの命は無駄じゃなくなります。
誰かの大切な人の命に換えることができます。
もしかしたら、僕のおじいちゃんの命は、皆さんのうちの誰かのいらない命で救われたのかもしれません。
だから、あと50年頑張って生きてください。
どうかお願いします!
日本での「祝賀」報道とは裏腹に、9日に発表された「ノーベル平和賞」受賞のニュースは、アメリカ社会にとって、そしてオバマ大統領にとっても驚きと困惑以外の何物でもありませんでした。慎重に言葉を選んだ9日午前の会見、そして12月の授賞式にノルウェーには行くが、賞金は全額寄付するという「苦渋の落としどころ」その全てがオバマの「窮地」を物語っています。
問題は2つあります。まず医療保険改革でアメリカの保守派と全面対決状態のオバマにとっては、「国際派エリートのきれいごと」を嫌う保守派をこれ以上刺激したくないということがあります。また、アフガンの戦況が思わしくない中、平和賞をもらっておきながら増派というのも国外から非難されますし、逆に平和賞をもらった勢いで宥和策などということでは、やはり国内保守派からは強硬な反対が起きるのです。
オバマの周囲は「先週の五輪が当たりで、今回の平和賞がハズレだったら良かったのに」という声が聞かれます。「北欧から2週続けて変な決定が来た」というわけです。ちなみに、世論は全く分れており、受賞賛成論、賛成だが時期尚早、反対のそれぞれが3分の1ずつという感触です。ただ、関心は高く、10日の早朝にニューヨークの空港ロビーでCNNを見ていた乗客は、このニュースになると真剣にTVに見入っていました。勿論、ニューヨークのとりあえず飛行機を待っている層では、全員が反対ではないわけだと思いますが、要は政治的なプラスマイナスについて非常に微妙な問題として関心が高いのです。
更に私がビックリ仰天したのは、11日の「広島・長崎市長」による五輪招致構想です。平和賞の衝撃どころではありません。これは本当に大変な問題です。提案した側は、オバマ大統領の核軍縮宣言に勇気づけられ、それがノーベル平和賞で世界から承認された流れを受けて、招致に自信あり、などという感覚で言っておられるのでしょう。そこに悪意は何もないと思います。ですが、これは完全に逆効果であり、オバマ大統領の足を引っ張るだけだと思います。11月の訪日へ向けても暗雲が漂ってきました。
恐らく、オバマ夫妻の個人の胸の内としては「ヒロシマ・ナガサキ」へ赴いて、自分がアメリカを代表して謝罪するようなことも、心の準備ができていると思います。そうした大統領がアメリカで在任しているというのは大変なことであり、千載一遇のチャンスとして周到に流れを組み立てなくてはなりません。ですが、まず、このオバマ大統領のヒロシマ・ナガサキ献花ということと五輪というのは、全くの別問題です。五輪というアイディアは逆効果の方が大きいと思うのです。
まず、アメリカには「日本への原爆投下は必要な作戦だった」とする世論がまだ50%弱は残っています。その一部は「本土決戦による米兵の流血、日本人非戦闘員の大量殺戮、日本の本土インフラの完璧な破壊、天皇制の崩壊、共産化」といった最悪の事態を回避したテクニカルに正当な作戦という認識です。また、そんな難しい話に興味はなく、ただ「アメリカが極悪人にされることには何でも反対」という世界中どこにでもいるナショナリズムの感覚で言っている人も多いと思います。下手をすると、「ヒロシマ・ナガサキ五輪」にはアメリカは参加できないかもしれません。そのぐらい、原爆投下の倫理的評価というのは、残念ながら国論を二分する問題なのです。
いずれにしてもアメリカの保守派は、オバマ大統領の核軍縮戦略そのものも敗北主義であり、アメリカを核攻撃の脅威にさらすモノとして反対しているのです。こうした反対論に上手く対応しながら、「献花によって日米同盟がより深化する」「日米の世論が最終的な和解に至る」という演出をしながら、夫妻にヒロシマ・ナガサキ訪問を成功させるというのは、非常に難しい問題なのです。恐らく、日本の知米派、アメリカの知日派の心ある専門家の方々は、コツコツ難問を解くようにしてこの問題に取り組んでいると思います。
1つのカギは、明仁天皇、美智子皇后両陛下にハワイのオアフ島にある真珠湾の「戦艦アリゾナ記念館」で献花をしていただくことです。そこで日米の和解を長い困難の果てに完結させる輪の半分が出来、そしてアメリカ側から「オバマのヒロシマ・ナガサキ献花」という行為が輪の残り半分を完結させる、そうしたストーリーです。これでアメリカの保守派が100%納得するとは思いませんし、日本の保守派は抵抗するでしょう。憲法に禁じられている天皇陛下の政治利用になる、その論議も避けては通れません。
ですが、これなくしてコロコロ変わる日本の総理大臣がどんな言動を行っても、2つの国家が歴史の上に「和解の輪を完結させる」ことにはならないのです。それは憲法にうたう「国民統合の象徴」による行為ではない、単なる行政府の長の「事務仕事」では耐えられない重みがある問題、国外からはそう思われているからです。
残念ながら今年のカナダ・ハワイ公式ご訪問に際しては「アリゾナ」献花は実現せず、両陛下は丘の上の「太平洋平和記念碑」に献花をされただけでした。これは外務官僚、宮内庁官僚の失態ではありません。麻生政権という「弱体政権」では、こうした込み入った問題に関する世論との対話能力がなかったからでした。このままですと、この構想は時代の流れの中で実現せずに終わる恐れもあるように思います。ギブアンドテイクというのは道徳的ではない印象を与えるかもしれませんが、この「相互主義」というのは外交の基本原則です。これなくして、この種の厳粛な問題は進みません。
もう1つの問題は、五輪がヒロシマ・ナガサキで行われた場合は、アメリカは「犯罪者」として参加する位置づけになります。オバマ大統領の核軍縮が進み、国内の反対論が弱まっても尚、自分の国が「唯一何らかの謝罪をする側」に立たされる中での五輪参加ということは、アメリカとしてはまず無理でしょう。仮にアメリカが参加できたとしても、例えばの話ですが、開会式でコッソリ「エノラ・ゲイ」の旗でも振る選手でも出ようものなら、何もかもが台無しになってしまいます。
それに、アメリカ以外の国はその「非核五輪」に参加しながら自分も核廃絶をしようと真剣に思うでしょうか? 例えば中国は「これだけ反核の機運が高いのだから自分も廃絶へ努力」しようなどとは思わないでしょう。むしろ、日米の世論にヒビが入ることのメリットを感じるのではないでしょうか?
私としては、残念ですが、現実論として「ヒロシマ・ナガサキ」五輪は不可能だと思います。不可能なことを進める場合に、それでも運動を進めることに意義があるケースもあると思います。ですが、今回の一件には反対です。それはこうしたアイディアを進めること自体が、オバマ大統領の足を引っ張ることになるからです。それよりも何よりも、膨大な死の記憶を継承している慰霊の地で「運動会」ですか? 私にはどう考えても非現実的だと思うのです。