はてなキーワード: 絶滅とは
周りになぜかうなぎ食べたがる人間がいて、何度かあいまいに濁して流しているんだけれど、とうとう年貢の納め時が来たんです。
仕事上の付き合いがあるので、ここで意固地に「わたしはうなぎ食べない主義なんです!!!」って声高に主張して、あとでヒソヒソされるのも面倒なので…。
自分自身うなぎは特別好きじゃあないけれど、絶滅しそうだなんて言ってるじゃないですか。
しかし、それはウソだという人もいる。スーパーには時期が来ると死ぬほど並んでいる。並んでいるうなぎさんはもちろん死んでる。
信頼できる情報がどれなのか見極める能力がないし、好きでもないんなら食べないのが一番じゃないですか?
その旨そっと、信頼できる後輩にだけ伝えたら、「でももうお店に並んでいるやつは、誰かが食べなきゃならないし…一緒ですよ」と言われてから、もう何も言うまいと思いました。
でも食べたくないんだよ。わたしが食べなかった分は、兵十のおっかあにでもあげてください。
結局自分自身の信念を貫いたところで得られるものは少なく、大きな流れに身を任せるしかないんです。
うなぎさんごめんな。
人間より弱いのが良くなかったんだよ。
CD買うのいつぶりだろう。記憶が曖昧なんだけど、ポルノグラフィティの『瞳の奥をのぞかせて』以来なんじゃないかなぁたぶん。
もともと特別音楽を聴きまくりな青春を送った方ではないので、大層なことは言えない。ただどういうところが好きというのを表明するのみである。
アニメ『どろろ』のEDテーマの『さよならごっこ』がめっちゃ好きである。どういうとこが好きかというと、まず歌詞がいい。
メロディーというかリズムというかがラップ的な何かっぽいような、今時って感じの曲なのに、なんかしっとりと心地よく韻を踏んでて、昔の歌謡曲のようなわびさびなのである。日本語の美しさを大いに引き出しているというか、とにかくグッド。泣ける。
”望みなんてあったでしょうか、この行き先には”
なんて問いかけて来るところが昭和の歌謡曲みたいでムーディー。
これは、大木凡人とかが七五調で長々としゃべくった後に「それではお聴き下さい、amazarashiで『さよならごっこ
』……」と情感たっぷりに紹介してしまうやつだ。この感情は郷愁ってやつだろうか。
私自身は昭和の終わりくらいの生まれなので、そんなに昭和の歌謡曲とか知ってはいないんだけど、なんか!なんかあんな感じの雰囲気あるよな!と、『さよならごっこ』を聴いて三度目くらいの時に私は急に思って、ガタッと立ち上がったのである。
でも古臭いという感じはしなくて、とにかく歌詞がささくれたメンタルに優しく染み入るのである。
歌詞の内容はというと、どろろから見た百鬼丸を歌ったものらしいのだが、本当にアニメ『どろろ』のどろろだって感じがして、二次創作の最強の奴だと、震え上がってしまう。神だ!ここに神がいた!この歌詞書いた人天才を軽く超えている!!
そして、どろろ目線という極めて狭い範囲を表現した詞でありながら、現在を生きる人々のというか私達のというか私の気分にぴったりと寄り添ってくれるところが、すごい。
そうなんだよ。私達に希望なんかないし、未来なんか夢見ない方がいいんだよ。でも!夢見てしまうんだよね!そういう時もあるんだよね!でも私達既にオワコンなんだけどね!
という、気分。悲しい本当に悲しい。それを傷を舐め合うでもなく優しく歌ってくれるのだ。偽りなしに。
でもってまた曲もいいのである。前述のようになんかラップ的な何か?よくわからないけど、新しげなリズムでありながら、なんかこれ知ってる、胸がきゅんとなるというかシュンとなるというか、思わず黄昏泣きしたくなるやつ。
その答えはうちの子供達が出してくれた。子供らは『さよならごっこ』を歌いながら、手を繋ぎあって、繋ぎ合った手をリズムに合わせて振りながら、同時に両足の重心を爪先から踵へ傾ける、という動作をしていた。幼稚園の発表会で歌を歌う時によくやる動作だ。
「さよならごっこはなれたもんさ、でも手を振ったら泣いちゃった」
と歌いながら、子供達の足はみし、みし、と一定のテンポで畳を軋ませる。そのテンポはあれにすごく似てる!あれだ、親や祖父母などが幼い子供を寝かしつける時にやりがちな、布団の上からポンポン。まさしくあのリズム感ではないか。
そんなん泣くに決まってるわ。
私子供の頃に戻って、ばあちゃんに子守唄に『さよならごっこ』を歌ってもらいながら布団ポンポンされたいわ。そして、「ばあちゃんもいつか死んじゃうんでしょ?そんなのいやだー」とかメソメソしながらいつの間にか眠りにつきたいわ。
とかそんな事を思ったので、CDを買う。Amazonで予約した。
私ゃてっきり、今の世では普通皆歌はLISMO的な何かでダウンロードして聴いているものとばかり思っていたので、CDというものがまだ絶滅していないと知って、驚いてしまった。
最初はやっぱりLISMO的ななにかでダウンロードしてスマホで一人で聴きまくって楽しもうと思っていたが、すごくいい歌だし子供達も気に入っているので、子供達が好きな時に勝手に出して聴けるようにCDを買うことにした。
CDラジカセも、買わないといけないんだけれども。CDラジカセがまだ絶滅していないのは、この間近所のホムセンで見たので知っている。
ちょっとした出費だけど、子供達は『さよならごっこ』の他にも、私が隠し持ってた坂本真綾のCDの数々を聴きたがっているので、丁度いい。
まず最初に。パートさんは敵になる可能性がゼロじゃないので、相談はしないほうが良い。
こちらが反撃できるのだとオッサンに思い知らすことができれば問題は解決に向かうので、相手に毅然と意思表示をするのが大事。
とはいえ、これが出来る気の強さがあれば、そもそもセクハラされてないだろう…。
なので具体的な方法を書く。
怒ったり怯えたりするとオッサンがつけあがるので、笑顔&強そうのセットで行く。
例文および用例、特に表情と態度の具体的な作り方。
「えっ?なに?え?びっくりしたー、近くないです?びっくりしたんですけどーwwwww 私に何か用事ありました?もっと遠くでも大丈夫ですけどwww」
「ギャハハハハ!近いですってwwwww 近いですってばwwwwww、えwww何wwwww」
ギャルを憑依させる。でかい声で笑っていい。隣のブース(部屋?)まで聞こえるぐらいでむしろ良い。
警報発令してると思えば恥ずかしがらずにできると思う。繰り返すがデカい笑い声なほど効果は高い。
「やめてください!(悲痛)」ではなく、「やめてくださいよっつーのwwwww」ぐらい。発話で芝を生やす勢いで。
ただしオッサンの人格攻撃につながる直接的な言葉「やだーきもーい」「しつこいー」とかを使用してはダメ。態度がなってないとか言い出すから。
<心配風味を装われて触られてる時、飲み会で嫌なのに酒を勧められた時など>
「あ、大丈夫です」
この後の会話は続かなくてよい。相手が続けてようとしてきても「あーーー、大丈夫です」連呼。
「あー」の長さでバリエーション付けるとおもしろいよ!そして無表情またはニマァッとキモく笑うのがいい。
これも脳内に強いギャルを思い浮かべてもらうとやりやすいのでは。
例えば、体温高いんだよねーと手を持たれたら「あ大丈夫です」といって割と強く振り払ってOK。
もしその後に強いリアクションが来たら、「ギャハハハハwww 何触ろうとしてんですかギャハハハハハ」と警報を発する。
危なくなったら逃げられるようにもしておこう。
隣に座ってきて嫌な場合は、とにかくトイレに行くこと。戻ってきて「おかえりー」とか誘導されそうになっても、
オッサンのそばには戻らないように別の席にもぐりこめ。満員電車に押し乗る勢いでぐりぐりと入り込む。
強く攻撃的な笑い声(ギャル系のやつ)は、多くのセクハラメンタリティを持ってるキモいオッサンの一番苦手なものだ。
おどおど、へらへら、勘弁してください…エヘヘ……という調子はオッサンの嗜虐心をくすぐって逆効果。
そんな強くギャルっぽく笑えません、へらへらおどおど笑いになっちゃいますというのなら、いっそ笑わずに無言無表情で「近いです」と言うのもあり。
どちらにせよ、こちらの感情にダメージを与えていることを悟らせない。もちろんダメージが与えられているが、それを相手に悟られないようにする。
並行して、会社がまともなコンプライアンス機能を有している場合には、しかるべきところに相談して配置転換などを試みる。
オッサンが悪い!と言うと、その話を聞いている人がかばうような気持ちになりかねないので、
自分がおじさんを受け止められるスキルがなく、本業の仕事に影響してしまっているので、改めて別の部署でスキルを高め直したいぐらいの感じ。
もちろん方便。
まともなコンプライアンス機能が作動しない会社なら、セクハラをのらりくらりと躱しながら転職活動に入りましょう。
もちろん、本当にもう無理!ということなら、戦わないで逃げるのも全然アリ。
でもスパッと辞めるのも手ですが、こういうキモイおっさんと戦うことで自分の戦闘力を高められるチャンスでもあるとも思う。
そこそこ終わりなき混沌です。
鋼の教えと闇を司る魔が支配する前、とある超自由戯画高等儀式に行った。
よくある世界を救いし少年少女たちの伝説を顕現せし改変兵器(アーティファクト)であったが、そこそこ戦闘兵器としての完成度が高くて面白かったからだ。
高等儀式の内容は、名時の狭間で蒼穹の彼方に追い求めたり、衝動の解放に関する叡智の試練など、まぁ表向きは帝国式な感じではあったが、大陸全土に広がる程に混沌より蠢き吹き出ていたとは思う。
暗黒と同調せし吾輩も、こういった高等儀式は久しぶりであり、而るに純粋に面白かった。
これも帝国式の文言だとは思うが、口々に「真実(トゥルシズム)にみんな旧知の仲で~」とほざいていて、預言書の記述どおり言霊使い同士の間合いは近かったように思う。
黒ミサコーナーで、意思なき者たちに魂を吹き込む異世界の神々が若干スベったり、どうしていいかわからない殺意にフォームチェンジした刹那、老獪なる業師の流し斬りが完全に入ったりしているのを見て、≪詩片≫にできない程この身を焦がす気持ちにトランスしたものだ。
そして、終焉の刻。修羅のエレジーと魔物のレクイエムを詩人がソウルボイスし、滅びの運命を逃れるべく人類絶滅への終曲を断ち斬ったところで、最後にキャスターの詠唱となった。
「終焉なき途の果てに、繰り返す過ちのように運命の歯車が動き始めれば、次は例えこの命尽きようとも悦しい……そう言ってアイツは戻ってこなかった……!」
楽しげに平行世界の過ぎ去りし思い出を蒼穹の彼方に追い求め、不適な笑みを浮かべつつ、最後の言ノ葉は大体暗黒が支配する感じであったが、それなる時の鏡の向こうの見知らぬ姿には、闇の世界があったと想う。
何故だろう───そしてその疑惑は、確信へと変わる───嗚呼、と一人で合点した。
どう足掻こうが次はあり得ない事を自我の管外から悟っている――預言書にはそうあるからだ、と。
スフィア盤は1500枚も売れず、元老院の議題にもなっていない。
原典グリモアやエミグレ文書は粛々と異世界の穢れし魔物を召喚するだろうが、それ以外の魔道媒体展開は預言書の記述によれば望めない。
『器』は1000人程度の小さいオーファンズ・クレイドルだが、莫大な量に見積もっても700人程度よりほかにいなかったと我が魂(プシュケー)が申しておる。
真の姿を見せて現実と情念の狭間の叙事詩を語るのが謙遜なる神々や預言書『偽典』だが、空想に対する実在は非情だ。人々を惑わす邪悪なる影を生み出さなければ抹消。天地万物は灰燼と化して封印を施す。
未だ見ぬ明日はない。時は残酷な運命を告げる。導かれし者たちが一堂に会して世界を光で満たす事は二度とない。
預言書にもそう書かれていながら、それでもあいつは友達だった! 「また次の冒険があったら」と剣を交わす。
嗚呼、と想った。この“力”が人界に留まることを許される僅かな間だ、と。
呪われしタンイに縛られし者達が言う「運命の星の交わる刻、飲もうぜ……」
悠遠の彼方に在る世界に輪廻転生する、かつて闘った強敵(とも)の魂に囁く「絶対___きっとまた、会える。終わりは始まりなのだから今夜、夢で会おうね。定められし月の傾く刻、手紙物語を紡ぐからね」
オメガとカオスと同等の能力を持つ存在だ。天啓に従いて怜悧なる場を収めるための世界を形なすものだ。
真実(アレテイア)にそう思って語り継がれる人もいる……だが、その裏ではそれを欲さんとする各国の策謀戦が行われていた。如何なる場合においても因果律の一篇、その信仰やオーラは俺が目を離した一瞬の隙に闇に陥ってしまう。春の訪れを告げる聖霊のように、エオルゼアの世界へと消えていってしまうものではないか。
これほどまでに楽しい革命であったのに、不可視世界はあんなにも強大せしめたのに。
もう二度と、冷厳なる時間は襲来しない。もう二度と、英雄の魂達がライブクリスタルの幻想の果てで活躍する心新たな貌を見ることはできない。
そう到達し……誰もが勝利を確信したその時、なんとも言えない切なさと悲しさに、アトモスフィアが詰まりそうになった。
慟哭(な)き魂葬に志を遂げた。
螺旋の内を廻り、大地駆ける鋼鉄の巨大竜に揺られている時、オメガとカオスの事実に如何ともしがたい寂しさが込み上げた。
過ぎ去っていく血塗られた過去や、花は咲き乱れ、果実は甘く、そして乙女たちは美しかった永久の時にいくらすがっても、時は進む。罪なき人々を殺め続けた日々は永久に。
全ての世界を救うため、きっと獣たちの戦いが世に終わりをもたらす時「___また、会える。終わりは始まりなのだから、こうして運命の交わる一瞬があれば」などという≪詩片≫は消し去られて封印を施すかもしれない。
俺のこの心の叫びもきっと一週間もすれば――いや、三日……いや、何千年、何万年も経た弗る〈ざる〉深淵に忘れてしまうかもしれぬ。
繰り返される悲劇――いつの世の日か神の声に導かれるままに、超自由戯画を見返して革命の事を思い返し、「浮世の静かなる支配者は終わりを迎えるのが心苦しかったな」と思い出せる――だが、我らには関係のない事であろう。
神に見放されたこの世界の無情さも、人間界の非情さも、帝王統治学の残酷さも関係なく、純粋な一万年の夢の終わりとして澄んだ魂の記憶として俺の胸で生き続けてくれる。
その程度は何者にも奪えないものだ。
その程度は、この鬼哭の都の民が住む場所で、空想に対する実在で、混沌渦巻くものの奥底で、なんとかもがいて生き続けている俺たちへの、人生、つまり『記憶の再生の眠り』からの神が与えし大罪なのかもしれない。
言語の変化を「合理的・客観的」に制御できると考えているとすれば、ちゃんちゃらおかしいとしか言えないな。歴史的に見れば、言語の変化は、生物の進化のようにとらえどころが無いものだよ。
言語は人間によって使われる…運用(パロール)の中で変化していくものであり、規律(ラング)によって生まれたりはしない。いかに「合理的・客観的」に整えられた言語であっても、それを使う人がいなければ消えていき、人々によって「使われる」言葉だけが生き残っていく。そして人々がそれを使う基準は、残念ながら「合理性や客観性」ではなく、もっと泥臭かったり、あるいは、単純に面白かったり心地よかったり、自分にぴったりと感じられるか否か、だ。ラテン語と欧州各国の言語を比べてみれば分かるだろう。
昨今、ケータイ小説から始まって、ネット文体、ラノベ文体やなろう系がかなり日本語をシンプルにアップデートするべく頑張っている
ここは全然わからないな。むしろその逆でネット文体やラノベなろう文体こそ文末表現等の多彩さや新語造語が見られるし、どんどん新しくなってどんどん陳腐になって入れ替わっている。その場そのときでしか通用しない独特の詩的な表現というのも当然無限に作られる。
だから、まさにその「無限に」生成され多様に複雑に生まれ消えていく言語使用の実態の中から、次なる時代の言語が誕生していくだろう、ということが言いたかったんだよ。誰もが気軽に表現し交流できるテクノロジーに支えられて、生物の進化における「爆発」のような状況がいま日本語に訪れている。もちろん、それらの言葉の大半は、馬鹿げていて、複雑すぎたり、一時の流行の中で消え去るものに過ぎない。だが、そのような大量の絶滅動物の中から、ほんの一握りの次代の覇者が生まれてくるんだよ。遺伝子の突然変異ほど無作為ではなく、しかも、他のDNAを取り入れることも素早くできる「言葉」の進化においては、100万年に相当する進化が100年もあれば可能だろうな。そして、それを支えるのは断じて「理」などではない。もっと感性的な何かであり、大量の試行錯誤こそがそれを成立させる鍵だ。
「頑張っている」と書いたのは、何も書き手個々の努力を指して言ったわけではないんだ。それはそれで貴いものだとは思うが、それよりも書き手/読み手が相互に関係し合い大量の人々によって大量の試行錯誤が生み出されている状況を鳥瞰して言ったものだ。あなたの見解は、その点で誤解が生じたものなのかもしれないな。