「抽象」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 抽象とは

2023-12-18

「こうなご」とか知らないの?とかそういう意味じゃないの?

抽象名詞うんぬんなんかの言い分も通用しないっていう 横からだけどhttps://anond.hatelabo.jp/20231218104753#TB

2023-12-17

anond:20231217110301

こういう抽象的な話って理論自体は後付けで

大体は増田自身論破されて悔しい体験談が前提の

話なんだよね。具体的に何の話で何を

否定されたのか教えて欲しいね

理論のものの正誤なんて何の意味もないんだから

anond:20231217060126

ただのネットミーム、中身の特定されていない抽象概念じゃなくて、

人権理解民主主義理解度が近代レベルから現代レベルになりつつある、という個別具体的な話をしてます

2023-12-16

[] 開業医は何故シンボルマークを作るのか?

何故なのか?

梅田内科が梅を象ったマーク、はまだまあわかる。

何をイメージしたのか分からん抽象的なマーク識別の役に立つでもなさそうで。

コンサルかに「改行するならシンボルマーク必要ですよ」とか勧められたりすんの?

2023-12-15

オシャレは真似から

まずユニクロなんかで本当の意味でのオシャレになんかなれるわけがない。

ユニクロデザインストリート流行ったものが後から流れてくる。

自分はスケーターでありバンドマンでもあるので、同級生より早く洋服に目覚め、古着屋に行くようになった。

スケーターやバンドマンはオシャレが多く、一児の父になった今でもスケーターや好きなバンドマンの格好を参考にする。

そうやって25年も洋服を選んでくれば多少なりとも選ぶ選ぶ力(これがセンス)がすこーしだけ人よりはあると思う。

当たり前の話。ずっと人を参考にしてある程度流行を追ってるからで、これを真剣に取り組んでいれば誰でも選ぶ力は身に付く。

洋服以外もそうだ。

様はどれだけ物事に対して真剣さがあるかって話で、「オーバーオール コーデ」、「タックイン コーデ」とかこの冬オススメのコーデとかそんなものをググって見てる位の情熱じゃオシャレになんかなれないし、そんな無理してオシャレしなくてもいい。

一番大事なのは周りの目を気にしないで好きな洋服を着ること。

オシャレは抽象的に思われがちだけど、ちゃんとそれぞれルーツカルチャースタイルがあって成り立つもの

から増田の、

俺は貧乏性なのだ

・色がついてる方がお得!

・柄がたくさんある方がお得!

デザインが凝ってる方がお得!

と思ってしまうんだが、それは間違いだったのだ。

これは立派なポリシーだし、参考にしたい憧れの誰かがいないのであればこれを貫きとおせば良いと思う。

貫き通した先にあるオシャレというのもある。

ユニクロでオシャレできないと言ったくせに矛盾しているが、志のこと。

ポリシーがあればオシャレ。

斯様に思います

上田の様にオシャレだからねぇで進むべき。

https://anond.hatelabo.jp/20231212220116

2023-12-11

ある書籍出版するべきではないという主張にも表現の自由はある

https://querie.me/answer/ST8s9I6rozezVXc5z41p?timestamp=1702007027

https://b.hatena.ne.jp/entry?url=https%3A%2F%2Fquerie.me%2Fanswer%2FST8s9I6rozezVXc5z41p%3Ftimestamp%3D1702007027&_www_via=login

既に回答欄で必要なことは書かれているが、「有害な本を出さな道徳的義務があるに決まってますよ。」等の表現にひっかかってしまう人はいるようだ。誰がその正しさを担保するのかというような噛み合わない指摘がブコメには散見される。そもそも質問自体が少し混乱した内容になっているように思われるので、前段の「事実誤認や著しい誤りがある本は出版するべきではない」という主張について、少し内容を変えて「(ある書籍を)出版するべきではない」という表現表現の自由が認められるだろうかという観点から考えてみたい。

まず、おそよどのような主張であれ、その内容に一切かかわらず、言う(表現する)ことが正しく、言わない(表現しない)ことが間違っているという価値観を持っている人は、恐らくいないだろうというところから始める。「どのような」という中身は、回答者のいう「デマ」や「他人に害を与える」内容のものかもしれないし、名誉棄損(他人に害を与えるに入るだろうが)やステマ広告かもしれないし、ある表現をするべきではないという内容の表現かもしれない。その範囲に関しての価値観はそれぞれに違いがあっても構わないし、むしろ違うはずだが、およそ常に表現がされることが正しく、されないことが正しくないという主張は、誰にも支持されないだろうとういことは前提にできると思う。

その中で、具体的にどの表現がされるべきでないものなのかということについては、社会構成員間で価値観の違いがある以上、社会的に決定せざるを得ない。その決定は、各々の異なる意見表現によって交換すること、すなわち、議論によって形成されていくべきだ。そうやって、名誉棄損や著作権法違反への表現規制は認められてきたわけで、その議論担保するからこそ表現の自由は民主主義社会において重要性があると言える。つまり表現規制についてもその限界議論によって定められるべきだということも前提にしていいだろう。

ここで、「出版表現)するべきではない」という主張に表現の自由が認められないとすれば、表現に関する規制について、常に片側の議論の主張を欠く状態になってしまう。無論、あらゆる表現において表現されることに価値があるとか、表現すべきではないことについては議論余地なく決めることができるという前提があれば、そのような表現規制も許されるだろうが、これは今まで書いてきた前提とは反する。つまり出版するべきではないという表現にも表現の自由は認められ、一定尊重がされるべきであるに決まっている、ということになる。

その上で、質問者に戻るのだが、出版するべきかどうかという判断に「事実誤認や著しい誤りがある」かどうかという観点を入れた場合、いわゆる思想の自由主義市場問題、すなわち、誤っているかどうかという判断自体表現を戦わせることによってしか得られれないものではないかという問題が出てくるという側面がある。その点から、およそと事実誤認等を理由にした表現の事前の抑制は行うべきではないという主張はあり得るだろう。ただし、医薬品に関する虚偽の効能広告規制のように、実際には事実に反することを理由法規制される出版行為がある場合もあることからかるとおり、少なくとも現行法解釈上は思想の自由主義市場的な価値はほかの価値との相対的な衡量の中で認められるものにすぎない(出版という一行為態様が禁じられるということが直ちに表現のものを封じられるわけではないということも考慮すべきだろう。)。抽象的な議論を離れ、個別の事例の判断になれば、消費者保護等の観点から規制をおよそ認めないという人は少ないのではないかと思われ、そうだとすれば、その限界判断批判を含めた議論の中で決められるべきという上述の議論に戻ることになる。

インターネット上では、いわゆる反キャンセルカルチャー的な文脈から批判表現自体ですぐに表現の自由を持ち出し反批判を行う意見散見されるが、批判表現表現の自由で認められるべき重要表現である。少なくとも、近時話題になっている角川の事例においては、表現の自由な交換による意思形成を超えた、事実上の表現規制的な圧力がかかったとは私には到底考え難い(まあ、そう考えたい向きがいることも仕方がないことだなとは思う。)。他方で、個人ツイッター(X)上の大したことのない発信に鬼の首でもとったかのような大量のリプライが付くような場合など、この時代において考えるべき問題存在しないわけでもない。批判表現という表現の自由にとって重要表現一般論で封じ込めて「論理的にすっきり」しようとするのではなく、一つ一つの事例にきちんと頭を悩ませることが重要なのではないかとふわっとさせて終わりたい。

2023-12-10

anond:20231210114802

これ案件かな

■「低学歴バカ書物ではなく人を見る」は事実だと思う

社会経験の名のもとに多くの低学歴がつどう場所で働いてきた。

学ぶものはたくさんあった。

それは「バカは学ぶつもりがない」という厳然たる事実である

それゆえに「他人を見る」ということに人生エネルギーを費やす傾向があるということである

ミもフタもない言い方をしてしまえば、

バカは学ぶのが面倒くさいか他人を見ていたほうが楽しい

という結論である

学ぶというのは、抽象的な考えをしなければならない。

バカはそれが面倒だから、目の前にある何かに逐一反応していたほうがラク楽しい

その格好の対象が「他人」というわけである

本を読むよりTVをぼーっと見ていたほうがいいのと同じである

から芸能人ゴシップを楽しむ人の統計をとれば、おそらく低学歴だらけだろうということである

ネットの男女対立の謎

増田だけじゃなくてツイッター(X)とかもだけど。

なんか、抽象的過ぎて意味わかんない話ばかりしてるよな。

もっとストレートに、男のムカつくところ、女のムカつくところ言えるだろと思う。

なんか男というもの女というものに触れたことがないのかみたいな、あまりにも空想的な叩き方ばかりしているのが意味からない。

いや、正確にいうと、そういう普通の怒りはバズらなくて、意味の分からいくらいねじ曲げた話の方が『高尚』とでも思われて伸びてるだけって気がする。

不毛だよなあ。

道端のヤンキーに「女のムカつくところ」アンケートとった方がまだ共感できる話が聞ける気がする。

2023-12-09

エクソシストの新作観た。

取り憑かれての異常行動も割と控え目だったし、ホラーって感じはあんまりしなかった。前のもそうだけど、悪魔に蝕まれていく辛さみたいなのが大きい。

タイトル通り、悪魔の誘惑に耐えて信じ続ける話だなと思った。

キリスト教に限らず、人生に対する希望と言い換えても良いような「信仰」がテーマになってた。

悪魔祓いは色んな文化圏であると繰り返し言われてたり、非キリスト教聖職者が参加してたり、主人公無神論者だったりと。悪魔の囁きも抽象的な信仰というよりは具体的な人生の後悔を掻き立てるものばかりだった。

前作主人公が出てくる所でアツいやつじゃんと思ったらあっさりやられたし、神父も満を持して参加したかと思えばあっさり殺された。その辺でもやっぱりキリスト教抽象的な話というよりは普遍的ヒューマニズムに寄せてる気がした。

最後は信じ続けた主人公勝利な気もしたし、悪魔の勝ちと言えたような気もした。

サブリミナル?というかモンタージュ?は初代のアレより自然な感じがした。

2023-12-07

anond:20231207071219

ものによるやろ

快楽殺人と、過酷な状況から脱出するために取った行動で事故的に殺人になったもの

抽象度をあげれば同じ「殺人」だから情状酌量があるのは認められない

とかなるか?

おまえがポケットから財布取り出すついでに糸くずがおちたら

抽象度をあげれば同じ「不法投棄」だから

懲役刑か100万円ほど罰金くらっても当然だと思うのか?

視力が0.01で風景画描こうとしてるようなもんだぞ

文字として記録された紙であれば何でも尊ぶべき とかそんな信条かしらんが

それなら紙に印刷された非合法の図画も尊ぶべきなんじゃないの?

2023-12-05

anond:20231205072330

あの動画相手が非常にうまかったなと思うけど、昔の動画とか見てたらなんかいい感じに相手を言いくるめてるやん

普通に上手いと思うし、聴衆にもっと馴染みのない抽象的な議論だったら、いちゃもんで戦ってても大半の人には判断つかないと思うぞ

2023-12-04

anond:20231204012920

果たして文脈抽象度が細かいほど賢いのか?という疑問はあるな。ウイットに富んだ会話って賢さの象徴だし

2023-12-02

anond:20231202124903

これ案件かな

■「低学歴バカ書物ではなく人を見る」は事実だと思う

社会経験の名のもとに多くの低学歴がつどう場所で働いてきた。

学ぶものはたくさんあった。

それは「バカは学ぶつもりがない」という厳然たる事実である

それゆえに「他人を見る」ということに人生エネルギーを費やす傾向があるということである

ミもフタもない言い方をしてしまえば、

バカは学ぶのが面倒くさいか他人を見ていたほうが楽しい

という結論である

学ぶというのは、抽象的な考えをしなければならない。

バカはそれが面倒だから、目の前にある何かに逐一反応していたほうがラク楽しい

その格好の対象が「他人」というわけである

本を読むよりTVをぼーっと見ていたほうがいいのと同じである

から芸能人ゴシップを楽しむ人の統計をとれば、おそらく低学歴だらけだろうということである

2023-12-01

首を吊ってみたが中々苦しい。意識が落ちるという噂を信じて何度も試したけれど、あれは嘘なのではないかと思う。こんな時に限って頑丈な身体が憎い。

唾を飲み込むたびに喉仏が上がって縄がずれてしまう。

我慢すれば死ねるのかもしれないけど、そんな根性があればそもそも死のうとなどしていない。

自殺成功した人間はよほど気合いが入っていたか抽象的な苦しみなどではなく非常に切迫した思いに駆られていたのかもしれない。

考えてもみれば、そんな簡単死ねればもっとバタバタ自殺する人間がいるのかもしれない。

自殺を試みて、死ぬのは案外簡単だ。逃げ道を見つけたら少し気楽になった。もう少し頑張ってみよう。なんて事を思う人がいるらしい。他人自殺されては面倒な人間適当な励ましだったのかもしれない。

自分はただ生きるしかないのか……という絶望感だけが残った。そこで「やっていくしかないな」と思う人間最初から死のうとなど思わない気がする。

割とどっかで死ねばいいかな〜という思いをアテに生きてきたフシがあるので、ツケも払えずどうしたものか。「後になって後悔するぞ」なんて散々言われてきたけれど、人生で初めてその実感を覚えたかもしれない。

飛び降り覚悟を持つか、苦しみに耐え抜く気合いを手に入れるか、それらを生きる方に向けるか。そういうのが全部面倒だから死にたいんだけど。

2023-11-30

anond:20231130172645

抽象的な条件を書いてしまって自分ごと消される恐れがあるので結局使わないやつ

2023-11-28

子供の頃から死ぬのは苦しそうだという恐怖がパラノイアのようにまとわりついていた。ある時気絶を経験してみて、死なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。睡眠は死のイトコとはよく言ったものだ。身体的な苦痛に対する恐怖は薄れていった。恐怖は抽象的なものスライドしていった。

「無」になることが怖くなった。

意識の断絶。経験したことのない状態体験した者は一人残らず口が聞けなくなっている。これはどういう思考過程で恐怖が薄れたのか忘れてしまった。どう足掻いた所で避けようもない。火の鳥吸血鬼はきっと存在しない。ならば不安になったって仕方がない。考えるのをやめることでいつしか怖くなくなっていたのかもしれない。

存在を忘れられることが怖くなった。

無になっても、他人を介して自分存在を繋ぐことが出来るのではないかと考えるようになった。それが成し遂げられないことへの不安だった。

大抵の人がそうであるように、自分という存在もまた忘れられれば初めから無かったかのようになってしまう。結婚して子供を残せば自分存在を残せるかもしれない。でも4代5代も先になれば、誰も読みやしない墓石に刻まれ文字だけの存在になるだけだ。遺伝子を残した所で、それが自分アイデンティティを為すものだとはどうしても思えなかった。それはただのモノだ。いつか朽ち果てる墓の中の骨と変わらない。そこに自分の考えや言葉性格は何もない。そもそも血が途中で絶えない保証なんてどこにもない。

思春期自己実現への焦燥感や全能感と合流して、偉大な存在になれば望みは果たされるだろうと思うようになった。教科書に乗るような存在になれば永遠になれる。誰も自分を忘れない。

しか自分が大それた存在ではない事を薄々受け入れていく内に、この望みも薄れていった。ビートルズだって数百年先も人々の記憶に残っている保証はない。バッハだってカエサルだって仏陀だって、いつかは忘れられるかもしれない。

生きている間だけ存在し続けるのも、死後せいぜい数十年、数百年、数千年の間人々の記憶に留まるのも、永遠に比べたら誤差のようなものだ。それに身も蓋もない話をすれば地球だってどうせいつかは爆発するらしい。他人を介した方法でも、永遠存在になろうとすることは諦めた。今思えば、地球がなくなっても宇宙へ住処を広げない可能性がないとも言い切れないけれど。

これらはすべて理屈問題というよりは納得、受容の問題だった。

後悔を抱いて死ぬことが怖くなった。今に至るまでこれだけが怖い。

死は避けようもないが、しかしたった一度きりの生があるのもまた事実だ。

生きる意味などどこまで考えても見つからなかった。理詰めで問うていけばどれもこれも絶対的地盤などなく、あやふやものの上に成り立っていた。宗教というものの意義が肌感覚理解できた。しか自分なりに意義を見出す事は出来るはずだ。ならば心からの納得が欲しい。

死ぬ間際に人生こんなんで良かったのかという思いが頭を過る事に対して、強迫的な焦燥感を抱くようになった。

しかし肝心の焦燥感をぶつける先が見つからない。

映画を見漁っても、友達付き合いをしていても、方々を歩き回ってみても、楽器を弾いてみても、曲を書いてみても、心からの納得は得られない。

それを振り切れるほどの情熱もないままに、存在不条理なんていう目を向けてはいけないもの凝視し続けて頭がおかしくなってしまった。

意味などない生活を積み重ねる事が苦しくなった。気が滅入る。

情熱を持って生きるか、それが出来ないならせめて日々の気晴らしにかまけて人間存在不条理など忘れ去ってしまった方がいい。

くだらない考えもほどほどに目の前の生活淡々と送る。それが地に足のついた人生であり、そういうバランス感を模索していく事が人生の中で生き甲斐を見逃さないための誠実な生き方というものなのかもしれない。

そう頭で思っていても、情熱の燃料にもならない湿った焦燥感がどうしても捨てられず、後生大事に抱えている。これを捨てたら比喩ではなく石ころと同じ存在になってしまうように思えてならない。石ころと同じ存在になってしまうのはとても恐ろしい。仏教はそれを肯定しているらしいが、何をやっても納得してくれない心がそれだけは強く否定している。

思えば初めからそうだったのかもしれない。子供の頃から普通に楽しく生きていれば、生きている実感を見逃さなければ死になんて目も向かなかったかもしれない。鬱病の素質があっただけかもしれない。

世の中の人間は意識的にでも無意識にでもこんな事は踏まえた上で、バランスよく自分なりの賢い生き方をしているのだろうか。まあ他人のことはどうだっていい。

といったような考えに10代の大半と20代の少しを費やしたが、同じような内容が大学哲学系の講義でサラッと語られていた。

読書をしていればこんな考えに時間を浪費する事もなかった。車輪の再発明だ。無学の悲劇だ、と笑われそうだが、自分はそう思わない。そこには単に理屈だけではない実感が乗っている。価値観DIYのようなものだ。拙くとも自分で辿り着いた事に意義がある。今更のポジショントークなのかもしれないし、それのせいでバカみたいに勝手に苦しんでるんですけど。

本日昼間の教訓

ワイン話題はにわかとガチヲタが湧いて盛り上がる



んで、自然派ってなんなん?ほかに何があるん?

科学派?抽象派?ゴシック派?

2023-11-25

中途の採用活動若い人を求める理由としてよく言われるうちの

「他の会社の色に染まっていない」

とか

若い人は従順から

とか

「年上の部下は使いにくい」

とか

「長く働いて欲しい」

とかって正直、本当か?って思うんだよね

だって他社の色に染まってない人がいいんだったら未経験の中高年でもいい筈なのにそっちは絶対忌避するし

氷河期世代は虐げられて育ってきた分目上の人には従順で、少子化故に大切に育てられてきた今の若者の方こそ権利意識が強く上に従わない

若い方が偉いってのがこの国の根底にある価値観から、年上の部下こそ使いやすい筈なのに。

長く働いて欲しいと本当に思うならば簡単には首にしない筈なのに実際にはすぐ首を切る

本当は、価値を置いているのは抽象的な「若さ」そのものであって

せっかく採用した若者だって中高年になったら用済みで、長く働いて欲しいだなんてこれっぽっちも思っていないとしか思えない

2023-11-24

低学歴バカ書物ではなく人を見る」は事実だと思う

社会経験の名のもとに多くの低学歴がつどう場所で働いてきた。

学ぶものはたくさんあった。

それは「バカは学ぶつもりがない」という厳然たる事実である

それゆえに「他人を見る」ということに人生エネルギーを費やす傾向があるということである

ミもフタもない言い方をしてしまえば、

バカは学ぶのが面倒くさいか他人を見ていたほうが楽しい

という結論である

学ぶというのは、抽象的な考えをしなければならない。

バカはそれが面倒だから、目の前にある何かに逐一反応していたほうがラク楽しい

その格好の対象が「他人」というわけである

本を読むよりTVをぼーっと見ていたほうがいいのと同じである

から芸能人ゴシップを楽しむ人の統計をとれば、おそらく低学歴だらけだろうということである

 

P.S. 自分は中卒である

2023-11-21

Youtuber事情

観測範囲は狭いのでご了承ください

住宅建築Youtuber

戸建てを検討している人向けのYoutuber

基本的地元工務店高卒社長がやっている

大卒エリート大手ハウスメーカーや建材メーカー就職して開発した住宅

高卒知識算数だけで批判するのが目的

貫流率だとかUA値だとかC値だとかいろんな数字を出してそれっぽく説明するんだが

実態満足度なんかを考慮できずにハウスメーカーからは鼻で笑われている

基本的企業案件は無いのでただひたすらハウスメーカー批判して地元仕事を増やすことが目的

たまにハウスメーカーを褒めちぎるYoutuberもいるが、大卒の元ハウスメーカー営業マン

顧客集めて紹介料貰うことが目的

自動車Youtuber

自動車の購入・乗り換えを検討している人向けのYoutuber

基本的自動車関係仕事をしている高卒がやっている

大卒エリートトヨタ日産就職して開発した自動車

とにかく褒めちぎるのが目的

「快適性」「剛性感」「しなやかさ」

などといった抽象的な言葉でとにかく褒めちぎる

褒めていると企業案件が来て、一般人にはとても乗れないような車に乗れるのでそれを目的にやっている

マイクラYoutuber

MinecraftをただひたすらプレイするYoutuber

基本的子供向けにやっているため奇声を発したり下品なことで笑いを取りに行く

子供向けに装置の作り方などを解説するのだが

小学生だと仕組みはさっぱり理解できないのでとにかく作り方だけを教えるYoutuberが人気

仕組みなんてどうでもよくてただただ無限に素材が集められれば良いのでWin-Win関係になっている

定期的(3ヶ月〜半年)にアップデートがかかるので

アップデート内容をいち早く紹介するしんどい仕事

10人ぐらいでガチでやってる人達もいてビックリするぐらい時間を浪費しているが

時給いくらぐらいなのか見ていて心配になる

呪いYoutuber

「〇月〇日に大不幸が訪れます」みたいなことをずっと言ってるYoutuber

目的はさっぱりわからないが信じる人はいるんだと思う

ただ、投稿動画履歴に2〜3週間隔で「大災害が来ます」みたいなのが並んでいて隠す気もないので

一体どういう感覚をしてたら信用するのかさっぱり分からないが

まぁ宗教ってそういうものだったか

2023-11-19

スタンド・バイ・ミーイージーライダー青春映画だと言われて今は納得出来る。中学高校の頃にそう言われてもピンとはこなかったと思う。へえ。青春とは死体を探して線路の上を歩くことなんですか。しょーもな。って。

それは理屈理解するという類のものではないと思う。

例えば土曜の部活をサボって多摩川チャリで下った思い出がある。

車のディーラーファミレスセーブポイントのように点在するばかりの幹線道路。歩いていてここは自分の居場所じゃないと思ってしまうような他所住宅街。近くをウロウロしていても楽しくはない。Googleマップ面白そうな場所を探しても、近しい範囲に目ぼしいスポットはない。晩飯時間もあるしそう遠くは行けない。

フラフラチャリを漕いでいたらデカい川に辿り着く。見飽きた退屈な通りに比べたらなんだか妙に魅力的に見える。今日半ドン時間もあるし海でも目指してやろうって思う。

最初楽しいけれど、すぐに川の流れも見飽きてくる。陸側の景色も「無」のような国道を挟みつつ、マンション物流倉庫か謎の事務所かの繰り返し。全部やたらと横にデカい。大きめの駅があるらしい、高い建物の密集する地帯が時々近付いては遠ざかっていく。

途中休んで水切りでもしてやろうかと思うけど、良さげなスポット釣り人や浮浪者や遊び回るガキがいて近寄り難い。陰気な高校生が一人で水遊びするのもなんだか気恥ずかしい。

段々海を見ようと息巻いた気持ちも静まってくる。楽しさもなくなってただチャリを漕いでいると、段々漠然とした焦燥感のようなものが湧き上がってくる。「こんな事してる場合か?」って気持ちになる。先駆的覚悟だとか自己実現だとか、そんなような根源的な焦りや不安大人になったら人から借りたそういう陳腐言葉で片付けてしまうようなもの。常日頃感じつつ蓋をして押さえつけていたものが暴れだす。

焦燥感に駆られてペダルを漕ぐまま、結局晩飯時間を考えて世田谷辺りで折り返した。海というゴールを迎えてればまた少し違う思い出になってたかもしれない。

後日友達チャリ多摩川を20km下ったんだよと言って、バカでえと笑われた。その時はその程度の出来事だった。

後になってスタンド・バイ・ミーという映画を観て、それが青春作品に分類される事を知った。死体拳銃も劇的な出来事も無かったけれど、華やかなものではなかったけれど、あれは紛れもない青春だったのではないかと思った。

川沿いを走るでもなく死体を探すんでなくても、別な形で同じ様な青春を過ごした人は沢山いるのかもしれない。抽象的な焦りではなく、進路考えないとだとかもっと具体的だったり切迫した悩みだったかもしれない。あの時の思い出はおれだけの宝物だと思っているけれど、誰でも似たようなことを経験するからこそ青春という言葉があって、スタンド・バイ・ミー青春作品として支持されているのかもしれない。

先週大学をサボって多摩川をほっつき歩いてみた。あの頃感じた焦燥感が薄かった。

今は門限もなければ外食代くらい訳ないし、電車に乗れば海へ行くのも造作ない。自己実現が僅かにでも進んでいるから焦りが減ったのかもしれない。諦めたか妥協を受け入れてしまたか、忘れ去ってどうでもよくなってしまったのかもしれない。

ナイーブな悩みにあまりしがみつきすぎない方が良いと思える程度のバランス感覚は手にしたような気がするし、それをすっかり捨てたら人間として終わってしまうような気もしている。

茜色の夕日を見て、短い夏が終わったのに子供の頃の寂しさがないことを少し思い出した志村正彦も似たような気持ちだったんだろうか。

青春と銘打って鮮やかに彩色してしまいがちだけれど、当時抱いた決して明くはないあの気持ちは忘れずにとっておきたい。それを忘れてしまったら、あの頃忌み嫌っていた、お前は子供エアプなのかよと思うような大人になってしまいそうな気がする。

明るい結末に終わらないアメリカンニューシネマも後味が悪い所はあるけど、その居心地の悪さは当時体験した青春への誠実さだと思うのでおれは好き。

anond:20231119102936

違憲訴訟」っていうけど日本裁判所には抽象違憲審査権は無く具体的な総称があるか、または特に法定された民衆訴訟しかできないんだけど、どういう法律構成でいけば裁判できるの?

2023-11-18

anond:20231118225649

こういうドラゴボとかBLEACHみたいな魔力バトルって子供の頃は普通に楽しんでたけど大人になると一体何にドキドキしてたのかわからんよね

BLEACHとか今になって読むと凄い抽象的よね

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん