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2024-04-18

anond:20240418114405

メモ:targetを明白に絞るために、

産休クッキーを叩いている人の多くは「不妊配慮できていないのが悪い!」といった論法を使い、周りからボコボコに叩かれている。

の具体的な対象を挙げる。

流石に全員がこうではないだろ。

引退競走馬福祉っていうけどさ

引退競走馬のその後についてはあちこちで語られている。

肥育業者(食べる前に太らせる業者)の率直なインタビューもある。

https://www.loveuma.jp/post/lm_009

中にはこんな言葉もある。

年間7,000頭も生まれてくる馬を、全頭救えるはずはないです。そこをとやかく議論すること自体ナンセンスですし、素人なんです。

引退支援をする人は良い人で、馬を肉にする人は悪い人という考えはそもそもナンセンスです。競馬乗馬繁殖等で需要がなくなった馬を生かしたいと想う人は、活動一生懸命やればいいことです。でも、それにも限界があるということに気づいてほしいです

これが問題本質で、生まれた数と、生かしておける数に差がありすぎるので、全頭生かすことが不可能という現実がある。

これに向き合わない限り全ては偽善薄っぺらくなってしまう。

実際の数字でいうと、年間7000頭生まれ、その中で繁殖需要があるのは種牡馬30頭、牝馬1000頭くらい。

もちろん1、2年で需要を失う馬も含めて、だけど。

乗馬になれる馬だって多くはなくて、それも仮に1000頭としても、まだ5000頭余る。

どうやったって年間5000頭は余るんだよ。

引退後に需要があった馬だって数年で需要を失えば同じ末路になる。

ざっと計算しても、現役馬1万2千、未デビューの当歳1歳馬合わせて1万4千、繁殖牝馬1万、種牡馬300の、計4万頭が意味を持って存在している馬。

国内飼育頭数が4万から5万頭くらいなので、肥育中の馬、乗馬の馬を考えればだいたい合う。

結局、馬を救うにはその総飼育頭数無駄に増やす必要があるということになる。

年間生まれる7000頭のうち、年間100頭ずつ救うなら、10年飼うとして計1000頭養えなければならない。

年間1000頭救うなら、10年飼うなら計1万頭養えなきゃならない。

じゃあその経費、予算どうするの?ってなるわけだ。


一番現実的な策は、馬を販売する時に、ある程度の年齢まで面倒を見れるだけの資金を前金で貰うことでしょう。

餌代と牧場代だけなら月10万でいいだろうから、年120万みればいい。

3歳引退から10歳までとして7年間、840万を前金でもらっておけばいい。

千万円の馬を買って走らせる人たちだから、そのくらい気にならないだろう、いや、気になる人は買っちゃいけないってことだ。

普通は生き物飼うなら最後まで面倒見るのが筋ってもの

でも、馬主にとって嬉しくない提案は決して通らないだろう。

と思うと、実際にそうなることはない。

仮にそうなったとしても、食肉用の馬の需要がなくなるわけではないから、別途生産されることにもなるのだろうと思う。

食う用の馬は別に作り、競馬用の馬は無意味負債化して長生きさせる。

なんか変な社会だなって感じはする。

そもそも論なんだけど。

そうまでして馬を生かす意味ある?

走らず賞金を稼がず、知名度もないから飼養しててもお客を呼べるわけでもグッズ販売できるわけでもない馬を、無意味長生きさせる意味はある?

だってだって食べるために殺しているのだし、馬だって殺せばちゃんと食べられるわけだから、命を無駄にしているわけではない。

福祉と言って無駄10年過ごさせて、結局食えなくなるのって、意味はあるんだろうか。

犬猫みたいなペットなら、飼い主が愛情かけて、毎日一緒に過ごすから、それはなんか長生きさせる意味ってあるよねって思うよ。

でも馬って、家で飼えないじゃん?

結局、長生きさせるって言っても、飼い主はお金出すだけで、たまにしか会いに来ないし、飼い主にとっては負債しかなっていない。

牧場で実際に飼う人はお仕事から、それなりに愛情はかけていると思うけど、やっぱり仕事対象で、多く扱う内の1頭でしかない。

愛されず、利用もされず、ただ生かされるって、どうなんだろう。

経済サイクルに早めに放り込むほうが自然なのでは?という気もしないではない。

でもずっと走りたくないのに走らされただけの馬生は可哀そうだから、ご褒美の時間を数年与えてあげるのは、必要なことかもしれない。

そのくらいはしてあげたい気持ちもある。

10年生かすか、3年生かすか、すぐ食べるかは本当は人間エゴしかないのはわかっているわけだけど。

「すべての馬を生かしておくことが幸せなのか」

ほんとう、そう思うわ。

結局のところ引退支援って、「競馬ファンが惜しいと思うほどの馬を、数年生き長らえさせる」が限界で、つまり競馬ファンの博物館がわりのサービスしかないんだよな。

anond:20240418124701

向こうはお前を殺す以外になくなる

勘違いして欲しくないんだけど、あくまで罰を下すのは個人じゃなくて社会

復讐対象なんてもの最初から存在しない。

古典的な美の概念

美術史家のハインリヒ・ヴェルフリンは、イタリアルネサンス絵画建築に具体化された古典的な美の概念について考察している。

イタリア ルネッサンスの中心的な考え方は、完璧バランスです。この時代は、建物と同様に人間の姿においても、それ自体の中に静止している完璧イメージを達成しようと努めました。あらゆる形態自己存在する存在へと発展し、全体が自由に調整され、独立して生きている部分にすぎません…。古典的作曲システムでは、個々の部分は、たとえ全体にしっかりと根付いていても、一定独立性を維持します。それは原始芸術無政府状態ではありません。部分は全体によって条件づけられていますが、それでもそれ自身の命を持つことをやめません。観客にとって、それは分節、つまり部分から部分への進行を前提としており、それは全体としての知覚とは非常に異なる操作です。

古典的概念では、美しさは、比例、調和対称性、および同様の概念に従って、統合された部分を配置して一貫した全体を形成することで構成される。

これは西洋原始的な美の概念であり、古典および新古典建築彫刻文学音楽のどこにでも体現されている。

アリストテレスは『詩学』の中で、「生き物、そして部分から構成されるすべての全体が美しくあるためには、部分の配置に一定の秩序がなければなりません」(アリストテレス、第 2 巻)と述べている。

そして形而上学では、「美の主な形式は秩序、対称性、明確性であり、数学科学は特別な程度でそれを実証しています。」(アリストテレス、第 2 巻)

アリストテレス示唆しているように、この見方黄金分割などの数式に要約されることもあるが、それほど厳密に考える必要はない。

この概念は、とりわけユークリッド原論などの文書パルテノン神殿などの建築作品に例示されており、また彫刻家ポリクレイトス (紀元前 5 世紀後半から 4 世紀初頭) の正典によって例示されている。

カノンは、完璧プロポーションを示すように設計された彫像であるだけでなく、今では失われた美に関する論文でもあった。

医師ガレノスは、この文章の特徴として、たとえば、「指と指、すべての指と中手骨、手首、そしてこれらすべてと前腕、および前腕と腕」の比率指定していると説明している。

その論文身体のすべての対称性私たちに教えてくれたポリュクレイトスは、その論文に従って人間の像を作り、論文と同様にその像自体正典と呼んだ作品でその論文裏付けた。

古典的テキストにおける「対称性」の概念は、双方向鏡像関係を示すために現在使用されているものとは異なり、より豊かであることに注意することが重要

それはまた、古典的意味で美しい、物体の特徴である部分間の調和の取れた測定可能比率一種にも正確に言及しており、道徳的な重みも担っている。

たとえば、『ソフィスト』 では、プラトン高潔な魂を対称的である説明している。

古代ローマ建築ウィトルウィウスは、その複雑さと、適切であるがその根底にある統一性の両方において、中心的かつ非常に影響力のある定式化における古典的概念体現している。

建築は、ギリシャ語タクシーと呼ばれる秩序と、ギリシャ人ディアシスと呼ぶ配置、そしてギリシャ人エコノミアと呼ぶ比例と対称、装飾と配分から構成されます

秩序とは、作品の細部を個別バランスよく調整し、全体としては対称的な結果を目指して比率を配置することです。

プロポーションは、優雅な外観、つまり文脈の中で詳細が適切に表示されることを意味します。これは、作品の細部がその幅に適した高さ、その長さに適した幅である場合に達成されます一言で言えば、すべてが対称的な対応関係を持っているときです。

シンメトリーは、作品自体の細部から生じる適切な調和でもあります。つまり、与えられた各細部が全体としてのデザインの形に対応することです。人間身体と同様に、キュービット、足、手のひら、インチ、その他の小さな部分から、リトミーの対称的な性質が生まれます

アクィナスは、典型的アリストテレス多元主義的な定式化で次のように述べている。「第一に、誠実さ、あるいは完璧さです。何かが損なわれていると、それは醜いからです。次に、適切な比例または調和があります。そして明晰さもあります。明るい色のものが美しいと呼ばれるのは、このためです。」(『神学教典I』)

18 世紀のフランシスハッチソンは、この見解を最も明確に表現していると思われることを次のように述べている。

「したがって、体の均一性が等しい場合、美しさは多様性と同じです。そして多様性が等しい場合、美しさは均一性と同じです。」 (Hutcheson)。

実際、この見解の支持者はしばしば「数学スタイルで」話す。

ハッチソンは続けて、最も美しい対象として数式、特にユークリッド命題を挙げる一方で、次のような普遍的物理法則によってその根底にある巨大な複雑性を持つ自然熱狂的に賞賛している。

「美しさはある、と彼は言いますアイザック・ニュートン卿の計画における重力がそれである」(Hutcheson)

美とは部分間の特定比率問題であり、したがって古典的概念に対する一連の非常に説得力のある反論と反例が、エドマンド・バークの著書「私たちアイデア起源についての哲学的調査」で与えられている。

植物界に目を向けると、そこには花ほど美しいものはありません。しかし、花にはあらゆる種類の形とあらゆる種類の性質があります。それらは無限に多様な形に加工されます。 …バラは大きな花ですが、小さな低木の上に生えていますリンゴの花はとても小さいですが、大きな木の上に生えていますしかし、バラリンゴの花もどちらも美しいです。 … 白鳥は、自白すると美しい鳥で、首は体の他の部分よりも長く、尾は非常に短いです。これは美しいプロポーションですか?私たちはそれが事実であることを認めなければなりません。しかし、首が比較的短く、尾が首と体の残りの部分よりも長いクジャクについてはどう言うでしょうか。 …人間身体には、相互一定比率を保っていることが観察される部分がいくつかありますしかし、美しさの効果的な原因がこれらにあることを証明する前に、これらが正確に見出されればどこでも、それらが属する人は美しいということを示さなければなりません。 …私としては、これらの比率の多くを非常に注意深く検討したことが何度かあり、多くの主題においてそれらが非常に近い、あるいはまったく同じに保たれていることがわかりました。それらは互いに大きく異なるだけでなく、一方が非常に美しい場合には、 、そしてもう1つは美しさから非常に遠いです。 …人体のあらゆる部分に好きな比率を割り当てることができます。そして私は、画家がそれらすべてを観察し、それにもかかわらず、もし望むなら、非常に醜い人物を描くことを約束します。

2024-04-17

anond:20240417210611

はーっはっは

私はイルミナティ幹部ガブリエルという者だがね

君という対象は実に興味深い

特に我々は君のおしりお気に入り

君も集団ストーカーになってみないか

連絡を待ってるよ

anond:20240417124024

それなりにうまく行ってる成功例の政治演説聞いたり政治活動を見聞きしてたら、危機感しかないと思うんだけど

世界でも稀なほどのド失敗例の日本だけを見て比較対象のない奴が危機感とか言っても、何と比較して?となるな

anond:20240417103738

やったじゃん

筋トレ始めると見る対象ガチ勢になるから自分はしょぼく見えるしな

2024-04-16

anond:20240416225232

かに万国博覧会なんだから何かの博覧が目的だよね

博覧対象リストもなしに行く行かないを決められないわな

すごい展示品があるなら関東人も勝手に盛り上がるわけでね

anond:20240416174001

じゃあ弱者男性じゃなくて障害者と書けばいいじゃん?

なぜ障害者とは書かないのか?

そりゃ障害者じゃないからだよ


障害者と書いたら女が含まれるので福祉対象障害者女まで支援することになってしまうから

アホなんか?

anond:20240416170310

私は弱者女性だけど、ここで書かれた「弱者男性」を「障害者」に置き換えたとき、なかなか酷い内容が書かれていると思ったのでこの元増田の主張に同意できない。

性欲を抑える薬の使用は、性依存症小児性愛障害など、明らかに病気と診断された人のみを対象にするべきだ。外科治療に至っては性依存症小児性愛障害対象とした治療でも推奨されていない方法なので、元増田個人攻撃性が表れてるようにしか思えない。

また、女性に協力することで幸福を感じられるよう促すとあるが、人との関わりや繋がり合いや社会参加を促すといったやり方ではなく、特定性別のみを対象にする理由いまいちからない。男性女性奴隷ではないだろう。逆もまたしかり。

弱者安易に死へと誘導するのも反対。

元増田安楽死を導入したいと個人的に考えているようにしか思えない。

大人になって「中二病」という言葉を使う奴は逆に痛いという話

俺は40過ぎのおっさんだが、趣味言語学勉強している。

先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。

そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉恣意的もので、必然性はない」と発言した。

すると知人は「中二病?w」と揶揄するように言う。

いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから

そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。

そこで気づいたんだ。

ああ、そうか。「中二病」って言葉免罪符なのだ

自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象であるとそれを「中二病」と称することで、自分知識不足咎めことなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分肯定するための免罪符なのだと。

自己欺瞞だ。

未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか

そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。

餌?

慶應義塾大学ワタミと組んだ『学生食事支援』が差別炎上食事支援に男女差を設けるのか意味がわからない」に支援側が回答「女子学生は少ない」

https://www.jprime.jp/articles/-/31628?display=b

慶應義塾大学では女子学生割合はおよそ36%とのことで、この中でも、さら関東地区以外出身女子学生は少ないため、進学先の1つとして考えてもらえるように支援検討をされておりました。特に都心での一人暮らしは、防犯や安全性観点から女子学生の方が、男子学生より住居費等がかかるということが考慮されていると伺っております

「また、今回の支援対象とした新入生は、慣れない学生生活に加え、初めての一人暮らし、かつ頼れる家族も近くにいない中、特に女性においては、心理的負担が大きく、ホルモンバランスの乱れにつながり、体や心のバランスが崩れてしまうことがありますさらに、体のメンテナンスは、女性にとって大きな経済的負担にもなり得ます。このような背景を受け、慶應義塾大学では以前から女性から支援Breeze プロジェクト〜』を立ち上げ、生理用品の無償配布などの取り組みを行われていました」

この回答、かなり女性蔑視に見えるけど当の慶應生の女性は怒らないの?

自分利益になるなら別にバカにされていてもいいってのはある意味賢い考えなのかもしれないけど。

anond:20240416095040

テスト対象は大小さまざま。OS保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。

OS保守なら無いのはおかしいだろう

GでもCでもUIはまた別

結論としては書かないほうがいいと思った。

そういうこともある

テストを書くためのコストが小さいなんて妄想もいいところだ。クソデカである

全然小さいというか書くためと変更のコストがクソデカなら何か間違ってる

結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。

Jenkins?jUnit等ではなくて?

100人以上かかわる巨大プロジェクトでも「テストコードを書かなかったので破綻した」、とかはなかった。

まあそれはないだろう

テストコードを書くと実装の見落としが見つかってありがたいことはあった。

テスト設計図から

デバッグするよりテスト書いたほうが早いことがあった。

それはデバッグの一環のような

git pushするたびに毎回走っても全くの無意味だった。

無意味ものを流してはいけない

テスト対象が変わるとテストを書き直さないといけないのがサイアクだった。非効率化の極みだ。人生無駄

一番よくあるやつ

そこのバランス考えないと

バックエンドビジネスロジック担当するがっちり仕様が決まっていて勝手に変更されてはいけないものなんかをやる

UI場所が変わって破綻するようなのは大概はしない方がいい

その次にサイアクだったのは、テストコードの実行が失敗したときテストコードバグであることが大半であったことだ。

コードのパーツがでかいのでは?

GUIソフトテストコードは相性が悪いが、そもそも世の中のソフトウェア開発の大半はGUI開発である

いね

テストコードを書くと、テストやすクラス実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。

例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると

メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。

DIはSOLIDに入ってるくらいで基本だし今時のフレームワークなら普通に使うよね

上にも書いたけどパーツがでかいのでは?って「直感的でない長くて複雑なプログラムになっている」とのことなのでやっぱりでかいんだろう

その辺はOOのやり方の問題じゃないか

ふつ~に古典的デバッグをすればいいと思う。

デバッグというか手動テストの話かな?

テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルコードで早く完成する。

要件が固まらない、毎週変わるようなのとか、システムが絡むテストコストが凄く高いものUIマイナーな変更なんかは書かない方がいいけど

バックエンドビジネスロジックなど書いた方が絶対にいいものもある

テストコードをやめた方がシンプルというのはわからないな

ものすごくシンプルな小さな機能にしてそれに対するシンプルテストを書くものだと思うけど

テストコードを書いて意味があるのか懐疑的であった。

ネット上ではテストコードを書かないのは低レベル開発者という風潮だ。

10年以上、テストコードを書く開発と書かない開発の両方を経験してきた。

■前提

テスト対象は大小さまざま。OS保守だったり、アプリだったり。レガシーだったり、モダンだったり。個人だったりチームだったり。GUIだったりCUIだったり。

結論としては書かないほうがいいと思った。

テストを書くためのコストが小さいなんて妄想もいいところだ。クソデカである

 結局、テスト対象も変わってしまうし、プロジェクト設定も変わるし、Jenkinsも変わるし、人間の頭の中も変えないといけない。

100人以上かかわる巨大プロジェクトでも「テストコードを書かなかったので破綻した」、とかはなかった。

テストコードを書くと実装の見落としが見つかってありがたいことはあった。

デバッグするよりテスト書いたほうが早いことがあった。

git pushするたびに毎回走っても全くの無意味だった。

テスト対象が変わるとテストを書き直さないといけないのがサイアクだった。非効率化の極みだ。人生無駄

・その次にサイアクだったのは、テストコードの実行が失敗したときテストコードバグであることが大半であったことだ。

GUIソフトテストコードは相性が悪いが、そもそも世の中のソフトウェア開発の大半はGUI開発である

テストコードを書くと、テストやすクラス実装をするようになる。それは美徳とされているが、実際には直感的でない長くて複雑なプログラムになっている。

 例えばテストコードを書くためにDependency Injectionとか言って外から内部を変更できるようにすると

 メンバ関数でやるべき処理が実際にはクラスの外にある、となる。最初面白く感じたり達成感があるかもしれないが、しばらくして見返すと酷い状態だ。

・ふつ~に古典的デバッグをすればいいと思う。

 テストコードを書いたほうが早い時もあったけど、トータルで考えれば、テストコードを完全にやめたほうがシンプルコードで早く完成する。

anond:20240416092616

拉致監禁調教もので、ステータス一定以上になると調教外でも勝手淫乱度があがっていくの、対象が壊れていく感じがあって大変興奮したな…。

anond:20240310171736

すごい

ここまで長々と書いて「12年前のゴールデンウィークでの深夜一放送無料放送対象に入れてほしかった」以外にAチャンネルの話をしていない

anond:20240415202057

おれも家にあっためっちゃ雰囲気のあるフランス人形にずっと謝り続けてた

〇〇してごめんなさい、許してくださいって

頭の中でだけど

小学校2年生くらいまで


今思えばADHDっぽかったけど、特に問題なく大学も出て働いてるから

の子も形質的には大丈夫やろう。

ただその対象がお母さんなのが、虐待してるんだろうなあ、という別の心配はあるか。

anond:20240416042747

中学生くらいならともかく小学生に求めすぎだろ

お前も常識足りてないから躾けられる対象だって自覚しろ

anond:20240415235535

それな

現実ではホモセクシャルで男が好きなのに

次元の性対象女性、って人なんてほとんど見掛けない

実際は

現実女好きフィクションでも女が好き

現実で男好き、フィクションでも男が好き

ばっかりでしょうに。フィクション現実が別なら2次元と3次元で性対象も違わないとおかし

2024-04-15

自虐とは他虐であり、自分自身への差別偏見だという話。

先日こんなものを見た。

https://twitter.com/kanare_t/status/1775778556557316153

瞬間的に腹と頭の中に濁ったものが湧いた。

見なければ良かったと思ったが見てしまったものはもう仕方ない。

出来るだけ早く忘れるか、と思ったが、しかしこれを見たことで“私はなにがどうして嫌いか”が明確なものとなったので、これもひとつ経験か……と思い、書き記すことにした。

私は自虐が嫌いだ。

今までも漠然と思ってきたことだが、それに明確な理由が見えた。

自虐とは他虐だということ。

本当に“自分だけを貶めている”自虐なんて滅多に無い。

「私はこういうところが変なんですおかしいんです」と自分を貶めているようでいて、発言者と同じ性質を持つ他者までも貶めることになっている。だから嫌いだ。

この発言者は「みんな」と呼び掛けている。「私と同じような性質を持つ者はおかしい」と不特定多数に周知している。これは他虐だと思った。

勿論これを見て気にならない人もいるだろう。この発言についた返信もいくつか見たが、概ね発言者同意するものや、同じように自虐的なものが見られた。私にはそれもまた他虐の上塗りに見えた。返信していないだけで、静かに傷ついている人はいるかもしれない。

そしてもうひとつ自虐自分自分に(そして自分と同様の性質を持つ人に)差別偏見の目を向けることでもある。だから嫌いだ。

この発言者は、自分趣味嗜好を掲げてそれを異端視する言葉で表し、自らその趣味嗜好への異端視を促すような文を発信した。そのことに大きな不快感を感じた。

アカでの内輪ノリなら良いかもしれないが、開かれたアカウントでこれを発信し、広く拡散されて様々な人の目に届き、「気づいた」人が、読書を楽しく思えなくなる可能性がゼロだとは言えない。

しかもこの発言者小説家だ。読者がいるのだ。これはその読者たちも異端視し、「自分おかしいのだ」という差別偏見を持たせてしま可能性のある文だとも思え、不快感の一端になっている。

私自身は世間読書率がどうであろうと構わないが、自分職業にも関わる物事を取り上げて「こういうことが好きな人おかしい」とわざわざ呼び掛けることがが何かにプラスに働くとは思えない。私がこの発言者作品の読者だったらこの文に失望しただろう。

そもそも対象自分であろうと他人であろうと、何かしらの嗜好や特徴を取り上げて異常だ変人だなどと(褒め言葉として使っていたとしても)表すこと自体が嫌いだ。

それが犯罪や命に関わることでないなら、どんな性質だろうとなにを好んでいようと等しく普通人間だ。私はそう思いたい。

これらのことを改めて考え、言語化するきっかけになったということでは、あの発信に出くわしたのもそれなりの価値があったのかもしれない。

anond:20240415193052

好きなのを選んでいいよ

 

 

  • AでXXができていないと批判している者が、AでXX出来ていない(自己紹介)

 → アホの子

 → ツッコミ待ち

anond:20240415091941

台風がくるようです。強いです。

台風九州にいるようです。

和歌山土砂ダムがくずれそうです。危険ですね

名古屋で100万人が避難対象です。風と雨が強いです。

全国の皆さん!今東京が大変です!ほら!新宿駅でみんなが困ってます

東京がすごく大変です!全国の皆さ~ん!みんな駅で立ち往生してますよ!

大変だと思いますか?ですよね!東京人が今大変です!

池袋も大変ですよ~!!ついでに横浜も大変です!風が強いです!首都東京が大変です!!

水没してます社員のみなさんは会社に泊まるそうです!

あ~大変だ!日本首都東京がすごく大変です!

見て!タクシーが木の下敷きになりました!これはすごく大変な状況です!

これは大変だ!どうしようもないです!大都市首都東京暴風域です!

みなさん気をつけてください!!

ああ~日本首都東京台風で大変だ!みなさん!東京台風で大変ですよ!ほら!!

今は東北が大変です。がんばって

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