はてなキーワード: でっち上げとは
出てくる人物どいつもこいつもみんな物理屋。そしてみんな頭がおかしい。
主人公が物理屋ということで画面のそこかしこに数式が登場するのだけれどもこれがずいぶん凝っています。
以下6話まで視た感想です。
QCD(量子色力学)の漸近的自由性の証明です。2004年ノーベル物理学賞。
(6話より)
ホワイトボードに書いてある数式は QCD のベータ関数の計算です。
彼女が数式を修正した後は β<0 になっています。これはQCDが漸近的自由性を持つ理論であることを意味しています。ちなみに部屋の左隅にある小さなホワイトボードにはQCDの真空偏極による反遮蔽効果のイメージ図が描かれています。こちらも漸近的自由性に関する図です。
どうやらこの世界ではまだQCDの漸近的自由性が証明されていないようです。それではいったいいつ頃なのでしょうか?
何話か忘れましたが カビボ小林益川行列 がホワイトボードに描かれている回がありました。時系列順に並べてみましょう:
どうやらシェルドンたちがいるのは1973年の世界のようです。
史実によるともうすぐウィルチェック達が論文を出してしまうはずなのですが・・・?
ひも理論は一般の方向けの翻訳で、本来の訳は弦理論(げんりろん)です。 String Theory = 弦理論
さて、本題に入りましょう。シェルドンは弦理論屋なのでしょうか?
実は6話まで弦理論らしきものが出てきません。ずっと場の量子論を計算しているのです。
しかもこの時代は1973年です。この時代にいた弦理論屋とは何者なのでしょうか?
というのも、弦理論はもともとハドロンを記述する模型として研究されていたものだからです。現在のように弦理論が究極理論候補と考えられるようになったのは1984年の第一次ストリング革命以降の話です。時代背景を考えるとシェルドンは南部後藤の弦でハドロンを研究していると考えるとしっくりきます。彼がQCDを研究する理由も、ボスがハドロン8重項をホワイトボードに書いているのもこれで理解できます。彼の研究対象はハドロンなのです。
もっと直接的な証拠があります。第1話でこのような会話をしています: (https://www.youtube.com/watch?v=AF58gWwHOwY)
26次元と言っています。これは面白いですね。もし現代の弦理論屋さんに「この世界は何次元ですか?」と聞くと10次元、もしくは11次元と帰ってくるのではないでしょうか。
現在の弦理論屋さんが研究しているのは超弦理論(10次元)やM理論(11次元)、そしてシェルドンが研究しているのは南部後藤の弦(26次元)なのです。
この時代において世界は26次元だと言い切るのはなかなかヤバい人ではないでしょうか。
先ほど書いたように弦理論が脚光をあびるようになったのは1984年以降です。
1973年は弦理論の暗黒期だったはずです。当時は弦理論は欠陥があると考えられていました。
米谷さんやシュワルツの重力子の論文が1974年であることを考えてもシェルドンはぶっ飛んでいるように思います。
先ほど紹介したシーンでは「世界は26次元だ」と主張するシェルドンは頭がおかしいと思われているようです。一方で現代の視聴者は、別に彼はおかしなことは言っていないことを知っているのです(26かはともかく)。この辺りの捻れが面白さを生んでいるように思います。
頑張れシェルドン!早く論文出さないとウィルチェック達に先越されちゃうぞ!
なんとも味わい深いコメディです。
思うところあって中屋敷均『ウイルスは生きている』を再読。走り読みなので細部までは目が行き届いていないが、これを読んだ時に受け取った熱を思い出した。2016年3月の初版発行からそう経たぬうちに読んだと思うが、今は随分ここから遠くに来た気がする。本書が今の自分とは縁遠いものという意味ではなく、寧ろ逆にずっと俺の心を捉えて離さなかった。自分の世界認識に深く影響を与えた(与えている)ので、もっとずっと昔から自分の中にあったように感じていたが、たった4年前のことなのか。
思うところが何かを明確に言語化するのは難しいが、
古今伝授を真に理解するためには、それが中世社会の特質と深く関わっていることを考えなければならない(古今伝授を和歌という縦糸だけで説明しようとするからダメなんだ。中世という横糸を忘れている)。中世は壮大なコジツケの体系が構築された時代神仏習合・本地垂迹説・卜部神道・中世日本紀等々…の奇妙奇天烈な世界観!古今伝授もその一環として見るべきではないか。コジツケと言われればそうだけど、それはその時代の人々にとってとても必要なコジツケだったのだ、という。もし積極的な意義を見出すのならその方向から説明しなければならないのだ。(古今伝授を受けた天皇を中心に優れた歌人が輩出された、だから歌学教育として意味があったとかバカか。優れた和歌とは何かという定義、評価軸じたいが古今伝授の支配圏内で形成されるのだから、優れてるかどうかを論じること自体がナンセンス。)
古今伝授が古今伝授になっていく過程、つまり古今集という単なる書物が、あるいは勅撰集編纂という律令制国家の一事業が、その枠を超えた何か大きな・尊い・民族文化の精髄のように認識されていくその過程において、付与された様々な言説――三木三鳥だの八雲神詠だの人麻呂がなんちゃらかんちゃら、後世から荒唐無稽とさんざ罵倒されることになるこれらの言説は、あたかも胎盤形成におけるシンシチン(syncytin)のような役割を果たしていた、と考えることはできないのか。異物を異物と感じさせない、捏造を捏造と感じさせない仕掛け。それは、倫理的な断罪とか文化的価値の優劣の俎上に乗せるのはふさわしくなく、その仕掛けを通じて何が実現されたか、その何かはその仕掛けを用いずには実現され得なかったのか、をこそ見るべきではないのか。
本来ウイルスのもつ能力を自己の一部として、機能として取り込む。生物は自己の維持に必要な機能の一部を外部環境に依存する。ポータブル外部環境としての細胞。生命と非生命の境界は我々が思っているほど明確に線引きできるようなものではない。我々の生命の定義は、あまりにも我々が日常的に馴れ親しんだものの見方に、「個人」という概念にひきずられてやしないか・・・というのが本書の示唆するものの最も深い所だ。
契沖や子規の批判は分かる。俺も一個人としては古今伝授(に代表されるもったいぶったコジツケ家)はバカジャネーノと思う。が同時に、それは文化・知・個人といったものについてこっちの定義/概念を押し付けてるだけじゃないの?とも思う。
根拠がない、合理的でない、和歌の質的向上につながっていない、という。では何故根拠がなければならないのか?合理的でなければならないのか?なぜ質を向上させなければならないのか?
これらの批判は、文化とは何か、個人とは何かについての定義をすでに前提にしていて、その立場から加えられている(反論する側(古今伝授を擁護する側)にもその立場から反論するやつがいるからどうしようもない)。まず始めに個人がある、歌は個人の気持ちを詠むものだ、しかるにコレコレの御方に入門しなければ和歌は詠めないのだとはけしからん、しかもその御方の教えたるやひたすらややこしい制約ばかり、かつ透明性のかけらもない、おまけにそう教える根拠はどこにあるかと探してみれば無い、要はこいつがでっち上げた妄説じゃねえか、それで偉ぶったり金巻き上げたりするなんて悪どい奴らだ・・・、こういう自他の区別、新旧の区別、真偽の判別をつけずにはいられない、ある意味病的な正義感。いかにも科学的合理性に偏っている。
しかし、それとは全く異なる評価軸があって、古今伝授は(中世の壮大なコジツケ志向は)その軸からみればもっとずっと整合的に理解できるはずだ。
本書の示唆する構造は、外来文化を自家薬籠中の物にする日本文化の性質(漢字・仏教等々)、中世の遺制としての近世的身分制(身分的周縁論)、象徴天皇制(近代国民国家の中の「伝統」)などに比較してみると実に都合がいい。
本来異質な要素を自己の維持に不可欠な一部として取り込み、その「元異質たち」も含めた全体として再生産されていく。あるいは新しい政権が成立する際に、それ以前からあったが途絶えかかっていた慣習を改めて制度化し流用する。取り込まれた方は同一性が失われ単なる機能に解消されてしまうことなく、細胞に異変があれば細胞内生物が独立した生物としての振る舞いを取り戻すこともあり得る(少なくともあり得ると見なされる。226事件を想起せよ)。天皇機関説ならぬ天皇ミトコンドリア説。
文化じたいが多かれ少なかれこういう性質を持っているのだが、特に日本はその傾向が顕著というか、世界中に普遍的にみられる文化現象の一例というだけでは説明のつかない点が多い。(なぜ先端技術の粋を凝らした構造物を建てる前に、土地の霊を鎮めるための宗教儀礼をやるのか?なぜ参加者は誰もその宗教の信者でないのか?わけが分からない。)こういう部分を説明するうえで本書の示唆する構造は役に立つ。その応用系として、古今伝授についても似たようなことが云えるのではないか。
いくら空前の売り手市場でも、今年の就活生全体における自分の市場価値の相対評価は変わらない。
理系院卒(予定)・高学歴(大学受験は頑張った)・TOEIC800点以上(大学受験の副産物)
と揃えた手札も、選考における通行手形なだけで、保証書ではないことに最近ようやく気付いた。
そして先週、就活の説明会やインターンで休んでいた研究室に久しぶりに行き、
指導教員に「就活どう?もう面接までいった?』と言われた途端、何かが弾けてしまった。
就活で、海外留学行ったり、もう内定もらって就活終えていたり、
グループワークで初対面の人達相手にリーダーシップ・コミュ力発揮してたりするすごい人をたくさん見た。
みんな自信を持って堂々としている。自分は一見優良そうに見えるだけで、中身は何もないからっぽだと思い知った。
1月に入ってから、研究室の同期や就職予定のドクターがいろいろ面接受けているのと、
今年は就活の進行が早いと知っているから、指導教員もああ言ったのはわかっている。
圧倒的な自分のスタートダッシュの遅さが招いている事態なので、ただの自業自得。
高校受験もこれで失敗しているので、三つ子の魂は百までとはよく言ったものである。
しかし、「まだ面接してない」「SPI受けたことがない」「本選考ESも出したことない」と
出遅れていることに焦っている自分には、指導教員の一言が突き刺さってしまったらしい。
自分の感情を「らしい」と他人事のように考察するくらいにもうギリギリのところにいる。
就活が終わるまで耐えられる自信がない。まだ2月、もう2月。ああ。
どこの御社も口を揃えて「主体性のある人材を求めてます!」と言う。
自他共に認める受け身人間を採る優良御社なんてあるのだろうか。
就活本には「ガクチカ(学生時代力を入れたこと)は、何をしたか、ではなく、結果を数字で言え」と書いてある。
真面目系クズな23年間を送っていたおかげで、数字で出した結果なんてセンター試験ぐらいしかない。
どうもこの手の質問の回答には、「〇〇してアルバイト先の売上を**%上げた」が定番らしい。
話をでっち上げる人もいるらしく、設定を作って演じるのも一種の才能なんだなと感心してしまう。
今年はオリンピックがあるから、夏は飛行機の予約が取りづらくなる。
企業の方も、会場の確保だなんだで、それまでには選考を終わらせたがっているらしい。
こちらも蒸し暑い東京のオフィス街でスーツを着て歩くなんて御免なので、6月末には就活から離脱したいところだが、
指導教員に就活の進捗を聞かれた翌日から、研究室サボっているので、そろそろ行かないとやばい。
いえーーーい!!みんなで焼き肉行くよーーー!
って何のことかと言うと私こと売れてないタレントちゃん、某若手タレントさんと交際匂わせをSNSででっち上げられたので事務所の社長が弁護士さんに相談したら示談と裁判になったのは勝訴で慰謝料と弁護料の一部いただきましたー!というお話。
本当顔見知りの知り合い程度の人と交際されてる事にされてしまう特定班さんのこじつけ能力にはめちゃくちゃびびったよね。
弁護士さん最近めちゃSNS関係のお仕事増えてホクホクの恵比須顔だったよー。わたしちゃんの場合本当に寝耳に水なでっち上げの匂わせだったけど、本当にガチで交際してて匂わせしてる人の誹謗中傷でも訴えられたら一発アウトらしいので、愚痴垢とかのひとたちほどほどになーーーー!
あと写真隅々みて匂わせだ!!!!みたいな事やってて裁判にまでなった方は精神的に病を得てしまっている感じでいらっしゃったので、そういうこと滅茶苦茶気になって、見えないものまで見ようとしてレストランでグラスにうっすら映り込んだ給仕さんまで匂わせ!!!●●くん酷い!!!!とか言い出したらそれ病気を疑った方がいいから気をつけろ!
すでにブコメでも指摘されてるが最初は春風ちゃんのアンチは、その子供という立場を利用して雑な意見を持ち上げようとする風潮への嫌悪感が主力だった。
てふさんが小学生のふりをして選挙サイトをでっち上げたら叩かれたように、はるかぜちゃんというプロジェクト自体がそういうものとしてみなされがちだった。
ところが、最近はるかぜちゃんを叩いていたのは主にネトフェミの皆さんであった。女性たちのはるかぜちゃんたたきは初期のはるかぜちゃんたたきとはまた違う趣で、まるでよく話のネタとして出される京都人のような陰湿さであった。
何より面白いのが、彼女らは自分たちが春風ちゃんに嫌がらせをしていることに強く自覚的であったことである。
はてなではるかぜちゃんアンチとして有名な方を見に行ったら、早速Kさんは鍵垢にしてるし、I氏は該当のツイートを消しておられました。
やっぱりコイツラ自分がやってることに自覚あったんじゃねえか。でも自分たちは許されると思ってただけ。
なんて卑怯な人たちなのでしょうか。普段あれダケ偉そうに男たちを詰っておきながら。自分たちの発言には責任取らないんですね。
情けないのは本人たちもですが、その支持者も無責任ですね。そんな人を考えなしに支持しておいて、Kさんは私のヒーローだったのだがはてブでツイートを見てショックを受けたみたいな切り離しを平気でやってる人もいるし。
あなた方は自分に都合の悪いことを見ないふりするのが上手すぎますね。
そこまで自分がきれいな人間でいたいのですか。K氏をヒーロー扱いしておきながら、K氏が精神を病んでて日々オタク憎悪に狂ってオタクヘイトをばらまいてるのを知らなかったなどと、どうしてそんな恥知らずなことを堂々と書けるんでしょうか。
あなた方が今でも自分たちが応援してるネトフェミは、ただ世の中の問題を指摘するだけ、気に入らない人間を叩いてるだけで何一つ世の中を良くする方向に貢献してないことを認めない。
その図太さはどこから来るんですか。
今回のカルロス・ゴーン事件の論調でよくわからないことがあるので教えて下さい。
日本の司法制度が世界に恥ずべき人質司法だというのはよくわかりました。もしも自分が誤認やでっち上げで逮捕されたらと考えると恐ろしいですよね。
ですが、ゴーン氏の海外逃亡という行為を称賛するコメントにスターがたくさん付いているのがいまいち理解できません。
人権に配慮した取り調べが行われている国であっても、保釈中の海外逃亡はダメなのではないでしょうか?
日本の制度が遅れていると強調したいのはわかりますが、そのためにどの国でもご法度な行為まで称賛するから、みんなから小馬鹿にした感じで「はてサ」って言われてしまうのではないでしょうか。
もう長いこと関係は続いていて、12.3年くらいは付き合ってる。
俺はそいつの創作用Twitter垢をひそかに知っていたのだが、ある日その垢を覗くとそいつが同人誌の盗用で炎上していた。
あいつはよく嘘をつく。
俺にも散々嘘をついてきた。
僕を心配させるような嘘や同情を誘うような嘘。
僕を言いなりにしてコントロールしようとする嘘。
そういうやつだと諦めたのは、学部の時に4年もつるんだあとだった。
言葉を丁寧にして謝罪と弁明を今もやっている。でもやっぱり内容が嘘っぽい。詳しく詳しく証拠を出しているけど、多分でっち上げなんだろう。あいつは頭がすこぶる回るんだ、そういうことには。
この炎上案件はそんなに大きくなってない。それに不満をもっている俺がいる。
自分の内なる感情とはこうも恐ろしいものだったのかと落ち込むところもある。
けど、もっと燃えろという気持ちもむくむくこみ上げてくる。止まらない。
自分の汚い部分だ。
そうなんだけど、人間はある程度そういう風にできているようにも思えるんだよな。
今も関係は続いているけどあいつは変わらない。ずっと平気で俺に嘘をついてくる。
一週間後の休みに忘年会も兼ねた学生時代の友人の集まりがある。あいつとはそこで会うことになっている。