はてなキーワード: 違憲とは
概ねそれでいいと思うけど
「司法に訴えて違憲かどうかを判断してもらう」の判断結果が出てないのに、「手続きに則った」結果を狂気と謳うなら、手続きによる正気の保障の根幹そのものが既に揺らいでない?
まったく信用されてないじゃん手続き君かわいそ
審議を尽くせてないのは明白だけどね.
内容に関わらず,数が多いほうは慎重になるべきでしょ.
元だけど投票には行ってるよ。野党に入れる。本当はその野党のことも好きじゃないんだが、抑止力になりえるものが他にないからね。
だからこそ野党の先生方のアホさ加減に改めて絶望していたところだよ。
強行採決が違憲かどうかについて私は特に言及していないけれど、どうしたのかな。
そしてなぜ、他人事のようだと断罪されねばならんのかね。君、手頃な対象を見繕ってはケンカふっかけるのが好きな年頃の高校生か何か?
君と私はたぶん目指す方向自体は同じなのだと思うが、そういう無駄な軋轢を生むような言動はやめたほうがいいね。生産的じゃないから。せっかく同じことを考えている人間同士がそんなふうにケンカしてどうすんの。
で、現状についてだけど、近々戦争で日本人が死ぬ。これはもう避けられない。
君の言うとおり、与党に投票したり棄権したりした人間のせいでもあるし、また、そうならないようにできることをしてきたつもりだったが結局力及ばなかった私達ひとりひとりの責任でもある。
日本は本質的に先進国になりきれなかった。根底にある精神は発展途上国のまま、戦争に負けた、当時のままなんだ。
今私達がいるのは、そういう国なんだ。
選挙に無関心な人々の意識を変えることは、少なくとも私にはできない。
目の前のひとりを変えることならできる。
しかし、5人、10人は無理だ。
これは君の憂慮にまったく共感する。
君や私のように一票の価値を知っている人間がみんな、まず目の前のひとりを変えることに努めていれば。
このままではいけない、と思いながらも、周囲と話そうとする人間がどれだけいるかというと意外に多くない。
デモや座り込みをする人々は、基本的に相手方と「対話」をする気はない。
彼らの中にごく少数ではあるが手段が目的になってしまっている人が存在し、そしてデモを主導するのは往々にしてそのような人々であることが少なくないからだ。
家庭で、学校で、職場で、世間話としてではなく我が身に迫る重大事として、たとえば反抗期の親子関係、住宅ローンや介護について、上司との折り合い、リストラの噂、そういったこととまったく同列に真剣に顔突き合わせて与党の政策について意見を交換し、熟考する場がどれだけあるか。
うちの父は新聞記者であったが、そういう家庭環境でも政治の話は世間話レベルから発展することはなかった。そもそも父も実際あんまりよくわかっていなかったようだったし、母は夕食時に政治の話をするのを嫌った。
これを変えることは至難の技だと思う。
実際に自分や家族が命の危険に晒されて初めて事態の深刻さを理解するのだろう。
これから起こりうることを想定しながら、できるだけの備えをしておく。
できることはそのぐらいだ。
をしてみようと思う。
色んな考えの人がごっちゃになって対立しているこの今の状況を個人的に整理したくなった。
まず賛成でも反対でも、そこへ至るまでのプロセスを無視して良いと考えているならばちょっと危ないと思う。あるいは最初からプロセスというものが頭の中に存在しない人もいるように見受けられる。それは大袈裟でもなんでもなく世界中で行われた軍事革命の土台固めや内戦の原因になりかねない考え方で、社会の安定という意味では間違いなくマイナス要因、いや要員であろう。
次にプロセスを経ているかいないか、についてだが、法学者は相当部分この点で反対している。安保法制の内容自体には賛成であり、必要だと考えていたとしても、明らかに違憲と判断される法案を通そうというのはやはり彼らの持つ論理性へのプライドが許さないだろう。念の為に、ここでは「民主的か否か」が問題なのではない。
私は見たことがないが、あえてプロセスを無視してでも必要なのだと主張する人もいるかもしれない。残念ながらそれは日本で許されるべきことではない。
最後のはまぁ、うん。
なるほどね。
ひょっとしたらそういう考えなんじゃないのかな?と想像はしてた。
ところで、そういうあなたを見込んで問いたい。
9条以外に、こんなにも議論が技巧的と言うか、くだらないモードになる条文があるんだろうか?
法の下の平等。自民党も民主党も定数格差はおかしい。異論はない。ただし方に温度差はあるかも知れないが。
尊属殺違憲。
どれもまあ、国民の間にも政党の間にも一定のコンセンサスがある。
難癖をつけようと思えばつけられるが、最高裁の検証機能も働いているようにみえる。
制定されてきた法律も、憲法がどうしたこうしたなどということになるのはまれ。つまり、立法府・行政府は原則として憲法を尊重しており、「はてなーは財産没収」みたいな法律やそれに類するのはそもそも提出されていない。
とも見ることができる。
じゃ、けっこううまくいってるんじゃないの?9条以外は。
9条に関係した議論だけがおかしくなり、それによって君のように法制度に対する不信を募らせる人がでてくるんだったら、9条だけ変えちゃえば?現実に合わせて。
とかって思うわけよ。俺なんかは。
死体にとりすがって泣く取り乱した人々。もう四十年たってるんだからあきらめようよ。見苦しい。ほんとどうだっていい。
反対のための理屈だってほとんどはこっちの憲法学者の方が数が多いのにーとか印象操作とかレッテル張りとかじゃん。数で決まるんだったら議員の数で決めろよ。憲法学のセンセーは選挙によって選ばれてるわけじゃないんだから。
そんなんで「明らかになった」って、そらそう思ってる人たちもいるってだけだろ。
当然、この法案は可決されるだろう。
その後、違憲を主張していた憲法学者たちはどうする?ちゃんと集団訴訟するの?
その結果、合憲判決が出たらどうするの?全員ちゃんと反省すんの?
どうなっても面白そう。
躊躇わないことさ
(実際そうなんだけど)
なんか今、安保関連法案が強行採決が云々で非常に霞ヶ関()が盛り上がってるみたいですね。市民デモとやってることかわらないけどあの人たち大丈夫かな
そんなわけで、強制採決になりそうなんですけど。そもそも強行採決ってなんだよって話でございまして
まぁ「民主主義において数が多いほうが一方的に決めてはいけませんよー」なんてお花畑な論理は存在しません、モチのロンですね。
数が多いほうが決めるのが民主主義の根本なので。間接だろうが古代ギリシャの直接制だろうが同じだと思うんですよ。
もちろん。「少数派の保護」とか「少数意見の尊重」とかそういうのがあるのは大いに理解してはいるんですよ。
ただ、言っても分からない相手に説明をしろというのは最高に苦行だと思います。
のでそもそも強行採決という言葉自体がイメージ先行のマスコミ言葉、否定派においての数少ない必ず使えるネガティブ戦略というか。
こういうこと言いたくはないですが、こういう政治形態である以上「悔しかったら与党になってみな」としか言えないんですよ。
少数意見の尊重ってさっき言いましたけど少数意見は少数意見ですし。
まぁもちろん、今しゃべったのは「与党が民意の大部分をしっかり把握できてるのであれば」という前提ありきにはなりますが。
民意()を無視する政治というのをやってしまったら、これはただのアレですね。独裁って言おうとしたけど独裁とはまた違う気がする
独裁といえば思いつくのは某逆卍の人だけど、よう考えるとあの人あんまり独裁じゃないな?
民意()として敗戦国のままじゃヤッテランネェヨとか経済的状況とかいろいろあるなかで選択したカードが「戦争」だっただけで。
洗脳としか言えない演説のうまさとか、そういう要素はあるにしても。
結局煽られちゃっただけなんじゃないかなぁというのはただの持論だけど。
まぁ今のドイツさん方が黒歴史扱いするのはそんな感じだからじゃないのかなぁと思う。独裁っていうのはジャコバン派とか某北の国とかのことを言うのだとモニョモニョ。
閑話休題。
そもそもこの法案が意見だなんだと文句をいっとるけど、まぁこれは違憲だと思います。
政権的には違憲かどうかで争いたくはなかったんじゃないかと思いますけどね、まぁ突っ込まれたら仕方ない
だって「戦力の保持」とかなんとか言っといて自衛隊持ってるし。さすがにアレを実力と言い切るのは清清しすぎる。
というわけでそもそもが自衛隊が違憲だから、なもんで憲法を変えようって話が…アレどこにいってしまったんだろうな
憲法変えられないから先に実をとろうという考えが理解できないわけでもないですが。
あまりそういうことやってると詐欺師まがいというか、何も知らない人からするとネガティブイメージが摘みあがっちゃうんじゃないかなと思うのですが…
「違憲」「強行採決」「独裁」「右翼」ほら、なんかすごい悪いことしてる人々みたいになってきた。
法案の中身をみて「一応」自分の頭で考えてる身としてはそんなにひどいことしてる気はしないけどね。やり方はよろしくないと思うけど
ただまぁ、そんなにのんびりしてられないんだろうなぁってなんとなく察してます。意味も無く急いでるんだったらそれはまぁなんとも言えないけど。
強行採決に始まって話がびみょうにそれたりもしたけど自分的には今回の法案は賛成。
自衛隊を応援する身としては、彼らの活動をできることなら制限されることのない状態で行って欲しいと思います。
戦争に賛成はしない。でも、相手が自分やその友達を殴ってこようとしているのに、いざ殴られるまで何も出来ない(友達に至っては殴られても何も出来ない)のはおかしい。
戦争というのが一方的に放棄することによって相手も放棄してくれるのであれば何にもいらないのだけど。優 し い 世 界
まぁ、相手が殴ってくるのに何もしないことは、まぁ「いじめ」ですよね。喧嘩にすらならない。
それを戦争の放棄と言うのであれば、多分相当頭がお花畑。若しくはごみ
そう考える人が多いので言わせてください。
世の中には様々な理由で主婦している→資産を夫名義にしている人
たくさんいると思います。
子供が学童で居場所がなくて帰宅してくるから パート程度しかできない。
双方の親の介護 不登校 習い事の送迎 病気がち 産後うつ 強烈な悪阻
他にもさまざまな事情があるでしょう。
妻の相続分は守られているという人もいるけど、
自分の子供のために心身ともにボロボロになっても耐えてきたんです。
家庭を維持してきたんです。
その労働や労災を金銭にかえて 夫に支払わせたら破産してしまうでしょう。
なんで努力して努力して積み上げた財産を他の家庭の子供に持っていかれなければならないのですか?
夫にのみ責任があるのですから摘出子の二分の一が妥当でしょう?
今般の安保法制そのものが、合憲かどうかといった議論はひとまず脇におく。
すくなくとも今までの憲法解釈はなんだったんだ、という気持ちにさせるのは確かだ。
が、落ち着いて考えればそれに対する批判の程度の低さがあまりに目に余る。
これでは、本気で法制化を阻もうとなど誰もしてないのでは、野党は論理的な反対などできないと割り切って政権攻撃のプロレスをやってるだけなのではと勘ぐりたくもなる。
以下、いくつか例をあげる。
数に訴える論証。もっとも基本的な詭弁のテクニック。「これこれこういう理由で違憲だ」という論理に説得力があれば大多数かどうかなんて関係ない。
しかし新聞紙面やその他報道で焦点があたるのはもっぱら数だ。読者もそれにしか注目していない。
こんなものを根拠にしたら国会議事堂の議員たちの数に訴える論証に反対できないことになる。
恐怖に訴える論証。もっとも安全保障というものは恐怖から逃れるためにあるのだから、安保法制自体が恐怖に訴えることによってなりたっているのではないか、という反論はありえる。
だが、まあホルムズ海峡が機雷封鎖されたら困るしそういうときに自衛艦が能力としては掃海できるのに法的にできないのは困るよねとかってのはわかるけど、安保法制を通したら徴兵制になるってのは論理のつながりが俺にはわからない。
ということになるのだが、一体どんな成り行きでそんなことになるか想像がつかない。
まずは、かつてソ連の着上陸侵攻が差し迫った危機として語られていたころにも徴兵制などまじめに議論されていなかったことを思い出すべきだ。
こんな軍事情勢の根本的変化がわが国の国内法制ごときが原因で起こせると本気で思っているのか?本気で信じている人がいるとしたら、日本ってそんなにえらいんだっけ?それこそ日本が中心に世界が回っていると思い込む誇大妄想というものだろうといいたいところだ。
むしろ、そんな種類の軍事的情勢の変化は日本人を守ろうとした米軍を自衛隊が見殺しにして、米国国民が日本など知るかとなったときにこそ起きるんじゃないかと思われてしかたないところだ。
こうしたことを踏まえると、より不合理でより悪質な詭弁は「安保法制→徴兵制→怖いヨー」論だと少なくとも個人的には思う。
(( 時代錯誤というか懐古趣味のじいさんが「近頃の若いモンは軍隊にいかないからしつけができとらん」とか言っていたのが今では懐かしいが、そんなものはまじめな議論とは呼べない。そう思うんだったら自分の孫を自衛隊に入れればいいだけの話だ ))
感情に訴える論証。大体、どういう状態だったら日本は米国の植民地でない、属国でないと言えるのだろう?
国際政治というものは相互の関係や力の大小があってあるときは言い分がとおり、あるときは通らないこともあるのは当然ではないか。より大きな力があればより多くの言い分を通せるだろう。わけても特別におおきな力を持っているのが覇権国家や超大国と呼ばれる国なわけだ。そうした超大国さえ、政権がふらついていたりすると時としてわが方の要求を飲まされたりする。
我が方の言い分が通らない場合や相手の言い分を受け入れる場合、相手に協力する場合のことだけをことさらに取り上げてやれ属国だ植民地だだのと言い張っていては、国際関係など成り立たない。どうしてもそういう主張をしたいのなら、どういう点でどのように我が国の主権がそこなわれ不当に不利な条件を強いられているか論証すべきだろう。その論証に納得がいくならば俺も安倍総理を売国奴と罵ろうでは無いか。
確かに日本は覇権国家でないし、核武装もしていない。そりゃまあそういうことをしたら胸をはって独立独歩と言えるのかもしれない。
でも、そうなりたいの?やっていいの?
こういう主張は、日本よ21世紀の覇権国家たるべし、とか核武装なくして独立なしといった危険な主張と紙一重と知るべき。
どうせ「あそこの国はこうだ、こうしてる」といったことを言い出すのだろうが、日本は日本なのだから、どこそこの国を真似しなければならんということになるならその国の属国か植民地ということになるだろうに。
ソ連があった時代からの論法だけど、カビ臭すぎる。愚民をアジるにしてももっと洗練された技法を勉強するべきではないか。
以下、追記。
軍事力だけで中国の脅威を食い止めることができないということと、中国の脅威から日本国の権益を防衛するには軍事力が不可欠なことは矛盾しない。
要するに反論になっていない。
前提が変われば、結論も変わる場合があるのは当然というものだろう。
この論理はソクラテスが人間である場合に限り有効なのであり、ソクラテスが犬のぬいぐるみのことだったり、不死の神だったなら異なる結論が導かれえるのは当然では無いか。
要するにこれも反論になっていない。
たとえ話というのは、抽象的な議論を身近な物事との類推で理解を深めるために用いる技術である。
「軽い」のは当然であって、それを「軽すぎる」などと非難するのは、要するに理解が深まってはこまる。国民の理解が進んだら自分たちの言い分のばかばかしさが明らかになると思っているのだろうか。
あるたとえ話が不適切だと難ずるのならば「軍部隊を個人になぞらえると、こういう場合の類推がうまくない。誤解を導く虞がある。けしからん」とやればいいのであって「軽すぎる」などというのは首相のたとえが「わかりやすすぎる」と賞賛しているのに等しい。
なんといえばいいのだろうか。どれもこれもため息がでるとでも評する他ない。こんなレベルの反論しか本当にできないのだろうか?
憲法がなんのためにある?って問いに、「国家の権力が暴走しないように」っていう高校生の社会の授業みたいな答えで満足できるうちはそう思えるかもしれない。
その答え自体は間違っていないのだが、せっかく大人になったのだからもうちょっと視野を広く持って深く考えた方がおもしろいことが見えてくる。
たとえば、「じゃ、憲法が規制しようとする国家の権力(=power=暴力=軍事力+警察力)はなんのためにある?」っていう問いにはどう答えるのか?自存自衛できることは国家の要件そのものだ。
憲法にはそもそも国家に自ら破綻を強いるようなことを書けるんだっけ?国家の権力が存在することを前提としてそれが暴走しないようにするためのものなのに。
憲法の直接的表現よりも優先される法的束縛力というものは確実にあるのだよ。外交条約もその一つ。
また、たとえば憲法を改正して「黒人は殺せ」とか「ユダヤ人は殺せ」とか書いたとする。その新憲法は法的に正当なものになるのかな?
このあたりまで視野を広げると、憲法を現実生活の中でとらえる一般国民と、空理空論で安保法制違憲論を唱える憲法学者、どちらがより健全な憲法のとらえ方をしているかが逆転してきてしまうのだ。
仮に憲法学が学問の名に値し、科学的な態度を尊ぶならば、安保法制を違憲と唱える憲法学者は安倍首相に感謝するべきだろう。
実験や観測で得られた「観察された事実」を説明するのが「理論」。
現在、受け入れられている理論(定説・通説)で説明できない事象が観察されたとき、それは学問が発展する大きな機会だ。
惑星の動きを説明するために天動説が唱えられていて長い間人々はそれに疑問を持たなかった。
ガリレオの地動説によればより簡単な理論で惑星の運行は説明できたが、その精度は天動説の周転円による理論と同じだった。
だが、ティコ・ブラーエにより観測された火星の運行を天動説の周転円理論で説明するのは困難を極めた。
そしてケプラーは、惑星の運行は惑星が太陽のまわりの楕円をたどるとする新たな世代の地動説を唱えた。
さらにニュートンは万有引力の法則を導入し、これに数学的根拠を与えた。これが新たな世代の理論となった。
さらに時代を下ると、地球の自転する方向である東西方向と南北方向で光速度が同じになることが発見された。
これは物体の運動速度には加法(足し算)が成り立つとするニュートン力学の前提を揺るがす観察だった。
これを説明する新たな世代の理論はアインシュタインの特殊相対性理論だった。
さて、憲法学者たちが今日、持っている理論で安保法制の合憲性を証明できないとしよう。
しかし、安保法制自体は現実の政治のなかで必要であるし(そのことは民主党すらも類似の法案を対案として出さざるを得なかったことで分かる)、成立の暁に最高裁に100回持ち込まれても100回合憲判決が出るであろう。
今後、現実の政治制度のなかで安保法制は合憲・合法のものとして扱われることになるのだが、それを現在の憲法学の理論は説明できないことになる。
すばらしいことではないか。
君らは今次の安保法制の合憲性を説明する新理論構築という新たな大事業に取り組むことができる。
憲法学は現状を追認するだけのつまらん学問もどきだという烙印を世間から押されることになるかもしれない。
しかしそれは憲法とは何か、憲法がなんのためにあるかを考えるふりをして実は考えてこなかった報いだ。
甘んじて受けてほしい。