はてなキーワード: 不要論とは
高校教育や大学入試における古文漢文の要不要論が盛り上がってる。
・生身の人間が古文漢文を自力で読み書きする必要のある職業人口などごく限られている。私の本音を言えば、そんな能力であれば大学か専門学校が専門教育として施せば十分だろうということである。
・高校教育の古文漢文は授業にせよ大学入試科目にせよ選択科目として設置すればいい。古文漢文が既習でないと教育が成り立たないと大学側が思うなら、受験生に古文漢文を課せば良いのだ。
・我が国の言語には古文や漢文というものがありますよ、という触り程度の授業なら中学で国語の授業の一環として少々やれば充分。
・古文や漢文で書かれた文章の中身を深く学ぶのが有意義なのだとしたら、それは現代語訳を使って学ぶことにして、その授業時間は、現代文の授業、あるいは歴史、政経、倫理の授業など、内容に応じて他科目に振り分ければいい。
・国民が自国語の古語を読み書きできなくなるのは良くないみたいな漠然とした主張をする人もいるが、古文漢文などあと10年もすればAIがきれいに現代文に翻訳するようになるだろう。古文も漢文も現代文と地続きの言語である。そういうのを解析して翻訳するのはAIの得意分野だろう。技術的な難易度だけで考えたら、漢文⇔古文や、古文⇔現代文の完全な自動翻訳は、日⇔英の完全な自動翻訳が実現するより早く実現する可能性すらあると思う。
まず、古文漢文が暗記ゲームと言っている時点で元増田の学力は大したものではない。古文漢文は語学だ。英語学習を暗記ゲームだという人間がいるか?もちろん語学に語彙の習得は必要不可欠だが、それ以上に実際の文章を繰り返し読みこむことが重要だ。
元増田はレベルの低い受験生なのだから、自分のレベルに見合った古文を受験に必要としない大学に入ればいいのだし、職業訓練が受けたいのなら大学にこだわらず専門学校に入ればいい。
そもそも、なぜ古文漢文だけを目の敵にするのかがよくわからない。よく槍玉に挙げられる現代文の読解問題はいいのか?漢字の書き取りは?三角関数は?歴代徳川将軍の名前は?各地の気候の名称は?歴代ローマ皇帝の名前は?各種金属の炎色反応の色は?気体の状態方程式は?三単現のsなんて気にしなくても会話は通じるのではないか?
ごまんとある大部分の人間には必要ないであろう学習内容の中から古文漢文を選ぶそのセンスが嘆かわしい。古文漢文は語学だ。語学である以上、これは知識を得るための手段、言文一致以前のすべての文章を読み解くための手段なのだ。雑学の集積を知性と呼びたがる最近のクイズ番組に影響されたのか知らないが、雑多な知識を頭に詰め込む時間を作るために古文漢文を廃止せよというのはナンセンスだ。知識という魚を獲るための釣り竿を魚と交換するのは愚か者のすることだ。
しかし、頭の悪い受験生が古文漢文の存在に不平を言いたがるのは理解できなくもない。足りない頭で分不相応な大学に受かるため何段にも積み重ねたゲタを履き続けるのは苦痛だろう。最悪なのはそれに同調する中年はてなユーザーたちだ。大学で何も学ばず三角関数も古文も英語も必要ない仕事をしている、もしくは仕事すらしていない者が大半だろうから無理もないが、どうか古文漢文を減らしてエクセルの使い方や株の買い方を学ぶ時間にあてるべきだなどという低レベルな妄言を垂れ流すのはやめてほしい。あなたが高校や大学で学んだことをきれいさっぱり忘れて知性を必要としない日常を送っているのはあなたが自分の教育に失敗したからだ。お願いだから頭の悪い人間が考えた高等教育のあるべき姿なんてものには何の価値もないことに気づいてくれ。
今年ももうすぐセンター試験だ。何の罪もない高校生たちが、「古文・漢文」という暗記ゲームを強制され、不当にも人生を左右されている。
おれは実学至上主義者ではない。学問が、社会に対して有益である必要はこれっぽっちもない。そもそも「古文・漢文」という"学問"が、根本的に無意味だと立証するだけの道具はない。大学で専門的に研究している人たちにとって、古文・漢文はどこまでも「面白くて」「魅力がある」のも理解できる。「役に立つ立たない」じゃなくて「好き」で学べるのは素敵なことだと思うし、好きな人のためにそういった場を用意するのは社会の義務だと思う。多少なりとも共感能力と良心があるんだったら、文学部不要論とか言ってないで税金投入しろよ、って思う。
ようするに言いたいのは、ここでの古文・漢文不要論と、大学での文学部不要論は全くことなる議論だってこと。
「大学受験には選択科目があるのだから、嫌ならやるな」っていう反論があるだろうか。話にならない。嫌でもやらなきゃいけない構造について問題にしているんだ。
たとえば、法律に興味があって、東大を出て弁護士になりたい高校生がいたとする。彼らは必死こいて下二段活用やらレ点を覚えて、受験に挑む。受かったら数週間で綺麗さっぱり忘れて生涯思い出すこともないだろう。まぁ、百歩譲ってそれはいいよ。でも、落ちたらどうする? 他の科目は合格点に達していたのに、ただ古文・漢文ができなかったせいで、落ちたらどうする? 本当に法律が好きで、法律について学びたくて、東大に行こうとしたのに、全く関係ない「古文・漢文」のせいで行けない。一流の弁護士になって、社会に貢献したかもしれない。彼の可能性を、人生をダメにしてまで、「古文・漢文」は受験科目として”必要”だと言うのか。英語や数学で落ちたんなら、まだ分かるよ。しょうがない、浪人して一年頑張ろう、って気持ちになれるだろうよ。でもさ、「古文・漢文」なんて死んだ言語で18歳の人生を左右すんなよ。元カレが忘れられなくて新しい恋に進めない女子かよ。国家レベルで失恋引きずるな。
こういうことを言うとすぐに保守的な人たちが湧いてきて「日本文化ガー」「伝統としての教養ガー」と言い出すが、まぁ、たしかに分からなくもない。「色んな学問に触れる機会を与える」のは大切なことだ。色んな文化に触れるのは、良いことさ。おれは別に面白いとは思わなかったが、漢文に出会い興味を持った学生が古典研究者の道に進むことだってあるだろう。そういう"機会を与える場"としての中学・高校を否定するつもりはない。
そ れ を 受 験 科 目 に す る な 。
「古文・漢文」を教えるな、とは言わない。ただ、それなら道徳とか家庭科の授業と同じ括りにしろ。「古文・漢文」に学生の人生を左右させるな。
あるいは、受験の時点で就職活動が始まっているのかもしれない。どう考えても意味のないタスク、心からやりたくないようなタスクをそつなくこなせる人材を、大学側が要求しているのだ。はっきり言うが、愚直にも「古文・漢文」をせっせと暗記してきた連中は、生涯奴隷だ。
それでも、それでも、それでも、
やっぱり「古文・漢文」は必要ですか? 納得のいく理由があるなら、是非聞かせてほしい。
[追記]
「古文・漢文」という学問が根本的に無意味だって言ってるわけじゃない。受験で必須にする必要はないだろ、って話ですよ。
はっきりと書いたつもりなんだけど、伝わらないかな。もうちょっと現代文教育に力を入れたほうがいい。
→例えが悪かったかもしれないが、法律を学ぶのに必要なら大学入ってから教えればいい。大学受験という選抜の場で、有能無能を仕分ける基準にするなって話。
「反論を聞く気がなさそう」
→聞きます。
→これに関してはある程度の偏見を認めるが、少なくともおれは使っている。それはともかく、ここでは「古文・漢文」が受験科目として必要かどうかの話しかしていない。「いらないって言い出したらきりがない」だから「古文・漢文」は「いる」ってことか? 論点をすり替えるな。
→身につけたほうがいい教養なんていくらでもあるっての。ただ、全国の中学生高校生全員にやらせて、受験で競わせるほどの”必然性"があるのか、って話。何度も繰り返すが、興味ある人にやらせるぐらいでいい。教養だとしても、大学で教えればいい。おまえら、「教養はいいもの、いいものはいる!」程度としか思ってないだろ。そういう考え方が構造的、社会的に押し付けられてて、内在化していることを自覚しろ。
元増田です。
"PTAにできることもあればできないこともある、それだけのこと。"
それはそうなんだけれども、その「できないこと」が重大過ぎるんだ。
園で何か事件や事故が起こってその責任を追及しようにも、PTAは園や教委の言いなりになるしかない。保護者の皆が団結して園と対立しようにもその時リーダーとしていて欲しい人達が何もしてくれないなんてどうかしてるっていうのが一般の保護者の自然な気持ちだ。
通常のPTA活動の際に、いざって時に何もしてくれないリーダーに従おうという人なんかいるだろうか?
PTAに皆が不信感を抱き協力を惜しむようになったら結局その弊害は子供達に返って来てしまう。現状園の運営はPTAにかなり依存しているのだから。PTAの仕事をアウトソースするのは金がかかりすぎて公立園ユーザーには無理だし(過去に一度大掃除を外注して懲りたらしい)。
新しく保護者会を立ち上げたとしても、それが何でも問題を解決出来る訳ではないとは私も思うのだけど、保護者にとっては行事の運営以上にいざという時には自分達の側について共に戦ってくれるリーダー(あるいは勝手に一人で戦ってくれるリーダーかもしれないが)こそ必要なので、それが絶対に出来ない既存のPTAは無くすしかないのではないかと思う。
ただしPTAの様に面倒な保護者同士の人間関係の調整を全部園に押し付ける様な事は、保護者会では決して出来ないので、一年目は勢いで活動出来ても後が続かないのは目に見えているので悩ましい。
理想としては保護者達で主体性と主権を取り戻すべきなんだが、多くの保護者達は主体性なんか要らない、でも何か起こったら誰か戦ってっていうスタンスなので、どうしたらいいんだもう……。
一応コネを辿って議員さんに泣きついてみるという手も考えたんだけど、丁度今、諸事情からそれはかなり難しい。
しかも行事が多いシーズンに突入したばかりの時に教委から唐突にめちゃめちゃ上意下達されてPTA本部の信用が失墜してしまって、一体これは何の嫌がらせなんだと思わずにはいられない。
(公立園不要論も議会でしばしば上がっている様なので、園内を引っ掻き回して子供達の保護者を園から離反させた入園希望者を減らすのが目的なのかもしれないと邪推したくなる。)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170708-00022490-president-bus_all
こんな記事見つけた
将来生きていくのは10代、20代の人間なのにそれすら国は投資を考えてこなかったんだから当然こうなる
そもそも根本的に自らが何をやりたいかを曖昧にしたままでも高校と大学を卒業できるんだからね
若者支援とかニートの就職支援みたく職業学校に行くという選択肢も考えないといけないのかもね
専門学校だと高校から上がって来た人が多くなるし、訓練校であれば成人になってからでも行くことは可能
結局小学校⇒中学校⇒高校というところは一貫して変わらないが、そこから大学又は専門学校という道しかないからなんとなくそう考えると敷かれたレールにしかなってない
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・私個人の主観的な意見による記事ですので(当然、偏りがあります)、内容の解釈に関しては各人の判断でお願いいたします。
・メッセージ等による質問はすべてスルーしています(お返事しません)。
申請の際に、メッセージのない方は承認いたしませんのでご了承ください。
簡単な自己紹介と、どういう理由で申請されたかなどを教えていただけるとありがたいです。
お手数ですがよろしくお願いいたします。
Dr.SHUTO
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いつもの砂糖と牛乳不要論者。茶碗の隣に角砂糖置いちゃうメンタルクリニックと同じ宗派みたい。
むしろ「反省したから許せ!」という言い分を与えるだけである。
大切なのは再発防止策の立案と、隠蔽への対策であり、当事者の人間的成長のようなドラマティカルな事ではない。
また、反省させることこそが大切とする文化には社会的制裁(リンチ)を誘発する危険性がある。
究極的には、問題を解決し再発を防ぐ、それ以外のことは考える必要はない。
そもそもあらゆる問題の所在を人間性などに求める事が間違いだ。
問題なのは行った行為、過程、結果であり、それを誰がどういう目的で行ったのかは二の次である(よきソマリア人の法を適用すべき状況等は除く)。
そもそも同じ人間どうしで他人の人間性を否定し、自分の考える正義へと歪めようというのがおこがましいのだ。
そもそも何度でも犯罪を犯すのなら、そのたびに牢屋に入れればいい。
半端な事は考えず、犯罪者だから牢屋にぶち込むという判断こそが、究極の再発防止プランではなかろうか。
何故なら完全な再発防止など夢のまた夢だからだ。
http://izumojiro.hatenablog.com/entry/2017/02/27/194152
なるほど。たしかに今の時代、テレビから取得する情報よりもインターネットで得る情報のほうが価値があるかもしれない。
インターネットは情報の選択可能性を有している。インターネットにおいて、関心のない情報は見なくて済むし、気分を害するような記事やコンテンツも意図的に取り除くことができる。
Twitterを始めとしたSNSも、その強みの本質は情報の効率化だ。
気が合わない人のアカウントはブロックすればいい。馬が合う人とだけ相互フォローの関係を結んだ上で情報を共有する。無駄のない社会、素晴らしい。
では、ここでひとつ。知的好奇心を満たすという前提で、テレビは本当に必要ないのだろうか?
リンク先の記事の担い手は、テレビ無しで生活をした上で実感を語っているだけである。記事の書き手に罪はないので、それを言及するつもりはない。
ただ、教養や知識を蓄えようとするならテレビは必要不可欠なアイテムだと私は思う。
理由としては、テレビの情報にも価値はあるからである。むしろ、近頃はインターネットに掲載された中身の浅い記事やwikiよりも、NHKのドキュメンタリーや放送大学の講義のほうが体系化された智慧として有用性が高いように感じられる。
なぜなら、傾向としてインターネットの知識は皆一様に同じものを選択することになり、情報が共有できてしまう以上、その情報に価値がないからだ。
知人に大学講師が数人いるが、試しに話を聞いてみると、インターネットのニュース記事も読んでいれば、テレビ番組もしきりにチェックしている。もちろん熱心に本も読む。
あくまで私の周りの傾向なので、いやいやそれは違うだろと云う人もいるとは思う。
何はともあれ、私はテレビ不要論にはわりと辟易としている。これは個人の意見なので、どっちが正しいか悪いかという線引をすることがこの記事の目的ではない。
それでも、インターネットのほうが便利だという意見はげんなりするほど耳にする。一昔前よりもテレビの優先度が減ったことだけは確かだが、そこまで必要のないものだとも思えない。