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はてなキーワード: ルフィとは

2023-05-27

anond:20230527115157

女作者は普通に書くと思うけどな。

我慢できる性欲だけど。

しろ男作者のが性欲書いてなくないか

ハンコックに石化させられなかった鉄壁の性欲のなさアピールされたルフィとか、美人に言い寄られても無反応な千空その他多数のジャンプヒーローとか、悟空子供時代純真アピール続きで、子供作ってからも性欲匂わせてこないし。

男性漫画家は性欲がない男は格好いいし、性欲でメロメロな男は滑稽って思ってる雰囲気を感じる。

2023-05-24

ルフィについて3大知ってること

・手下にウンコ食わせる

避妊しない(ゴムから!)

窃盗団組織する

あと一つは?

2023-05-23

anond:20230416175200

でたらめにもほどがある。

まず基本的な考え方がおかしい。

創作物である以上、本当に「必要な戦い」は認めるしかない。この点が憲法9条非武装主義を掲げる日本リベラルとは相性が悪い

闘争否定しないとネトウヨならば(ルフィのやってることは戦争ではない)、「三里塚闘争」「辺野古基地闘争」をしている人たちはネトウヨなのだろうか。

暴力反戦と反闘争混同するあたりでまったく見当違い。

それにワンピースガンダムも「国家」や「権力」を全く信用のできないものとして描いているんだが、なぜそこに触れないのか。

ガンダムニュータイプ表現なんて当時の欧米インテリリベラル層に流行したスピリチュアル思想の改変だろ。

あとワンピースは反権力反政府なのに反感を抱く左派がいるが、彼らはインテリの嫌う「任侠的な空気」に反発しているのであって、

リベラル」がインテリ好みの世界観でない=右翼的と決めつける癖がある(そうして庶民を振り落とす)証拠しかない。

エヴァ流行った90年代にもオタク層は反権力リベラルの方にややシンパシーを感じる者が多かった。

宮崎事件オタク叩きが激しかたから、一般社会怨念を持つものが多くいた。権力による表現規制も含めて。

このあたりの流れが00年代以降に反政府ではなく反マスコミに回収されたことのほうが反「リベラル」の風潮には直接的に影響しているのでは。

宮崎駿が「戦前日本は酷いけど日本の文化は素晴らしいよ」「侵略は悪だけど必要な戦いもあるよね」的な作品を作った。

そもそもラピュタ」「トトロ」「魔女の宅急便」のどこに日本ホルホルにつながるものがあるのか。

ガチ左翼網野史学を取り入れ、リベラル読書層が持ち上げた「もののけ姫」以前には日本称揚につながるような話はほぼない。

トトロ農村コミュニティへの懐古(それもインテリが「腰掛ける」対象としての)くらいではないか

これだって火垂るの墓」と併映で、セットでのキャッチコピーも「忘れ物を届けに来ました」で現代日本批判だったことを忘れてはいけないし。

加えて、90年代には「日本軍が米軍をかっこよくやっつける」話も流行したが、アニメオタク層とはズレたところでブームになってる。

沈黙の艦隊」も「紺碧艦隊」もオタク層の外側での流行日本ホルホルの流れは宮崎よりは荒巻の方がずっと直接的で影響が強い。

荒巻が受け入れられたのも、今からは考えられないくら日本経済的に強くて全能感に社会全体があふれていて

なのに湾岸戦争で1兆ドル分捕られたとかで「反米感情が高まっていたことが背景。中国韓国問題にもならない雑魚だったから。

90年代世界的な反米ブームが忘れられているんだな。アメリカメディア自分たちの嫌われっぷりにショックを受けて特集を何度も組むレベルだったのに。

現状の「反中反韓」をベースにした流れは教科書問題日韓ワールドカップとどちらもアニメ無関係

そうした流れが一般メディア黙殺に反発する形でネットコミュニティ、とりわけ2ちゃんねるに流れ込んで、

同じくネットコミュニティ拠点としたアニオタ層と一部クロスオーバーするようになったって流れではないのか。

それがアニメオタクに受け入れられた(とするなら)その理由はまた別に考える必要はあるし。

やり直し。

2023-05-22

ルフィって

基本的ゴム人間から打撃とか骨を折るみたいな攻撃には強いけど、

勃起した時にチンコへし折ったら流石に痛いんじゃないかな。

2023-05-21

ワンピースブラジル人気すごそう

ブラジル人の同僚がワンピースタトゥーを入れてる。

彼の左前腕にはがっつりルフィタトゥーが彫られている。

 

また別のブラジル人同僚は、ワンピースのローのシンボルが入ったジャケットを着ている。こっちはワンピース感が薄い、知らない人からするとただオシャレなデザインだ。

 

しかもしかしてブラジルでのワンピース人気すごいのか?

もう一人50代のブラジル人役員がいるけど、こっちは世代じゃないからか興味ないようだ。

2023-05-20

漫画まともに読んでない人が多すぎる

『男にとっては性欲が制御できず性犯罪走る男と性欲はあるが制御してる男は明確に別の存在なんだけど、女にとっては性欲があるという時点で同じ存在に見えるのだと思う

からこそ女作家の描く「良い男」は少年漫画であっても性欲が無いかのような描かれ方をする(炭治郎とか)』

https://twitter.com/MwhbiQJqWX5sE44/status/1659207480877142016?t=OVoZthh-Oe_Uv1q00HZ5zQ&s=19

というツイートがバズっていた。

しかもかなりの賛同を得ていた。

落ち着いてジャンプの人気漫画主人公を思い浮かべてほしい、孫悟空ルフィ、デク、千空、虎杖、これらの男性漫画家の主人公たちは炭治郎以上に目立つような性欲は書かれていたか

炭治郎は一応女の子にヒソヒソ話しされて鼻血を出す程度の性欲は描写されている。

性欲を書いても良さそうな大人キャラ両さんですら数々の巨乳美女に惚れられながら性欲描写は薄い。

多分性欲を描写すると、強力なストッパーが居ないとセックスなだれ込むから全年齢漫画では不都合なのだろう。

特に今はエッチ主人公セックスを止める暴力ヒロインのような昭和ラブコメは不人気になってきている。

デンジは生育の悲惨から心の動きを丁寧に描写され、性欲をキャラの根幹に据えた、あえて新しい主役作りをしている少年漫画主人公として特異なキャラだ。

脇にはサンジのような女好きのいい男キャラもいるが、それなら鬼滅にも善逸などがいる。

そしてラブコメ活躍していた女性漫画家の高橋留美子河下水希などの男キャラは性欲が書かれていなかったか

あと、女性作家が多い少女漫画恋愛要素が強いから、恋愛なんだそれ主人公が多めな少年漫画より性欲のある男キャラは多い。

どれだけ漫画を知らないんだよ。

2023-05-18

anond:20230518165857

いまそのルフィ言葉に割と図星突かれてるからマズイ

何も好きじゃないよ

究極で完璧アイドルって誰のことなの?

アイドルアニメとかゲームって、最早現実アイドル乖離してないかという話。

推しの子でも、アイドルマスターでも、ラブライブでも。

アイドルもの流行りに流行っているし、ドルオタコードである推し」なる言葉一般層にまで普及したことからもそれはわかる。

俺が気になっているのは、トップアイドルって何?という話だ。

例えばルフィ海賊王を目指している。

ロールモデルゴールドロジャーロジャーがやったことをやれば海賊王だと言える。

今の二次元コンテンツアイドルが目指してるトップアイドルって、どういう存在ことなの?

収入が一番多いアイドル大河ドラマに出るとか?

AKB48くらいのころなら、センター

歌と踊りでみんなを魅了する「国民アイドル」って、最早どこにも存在してなくない?

なんとなく山口百恵(書いてる人間20代です念の為)みたいな虚像が未だに受け継がれているような気がする。

偶像アイドルアイコンが、現実にない。

俺たちはトップを目指すアイドル共感しているが、

トップなどというものは、どこにもないのではないだろうか?

ポケモンマスターがなんなのかわからないようなものだ。

そして、トップアイドルが何かもわからないのに、みんなアイドル推している。

目標がないのに目標に向かい努力しているアイドルのものを「推し」ている。

彼女たち、彼らはどこに向かっているんだろう。

2023-05-12

オタク二次元の男を見て「こんな男性現実にもいればなぁ」と思う。

オタクは思わない。

しろいないからこそ憧れる。

 

なんでそんなことになるのか正直よくわからん

ただ、傾向として男性向けフィクションのほうがよりファンタジー的であり、

現実的ではないことが多いような気はする。

 

歴代漫画の売り上げランキングを見ても

少年漫画

1位 ワンピース

2位 ドラゴンボール

3位 NARUTO

 

少女漫画

1位 花より団子

2位 ガラスの仮面

3位 NANA

 

少女漫画のほうが明らかに現実に近いフィクションになっている。

 

どう考えてもルフィ悟空ナルト現実には存在しえないが少年には憧れの的だ。

だが牧野つくしマヤやナナは現実存在する可能性がある、

しかしたらなれるかもしれない女性であり、そのお相手も同様だ。

 

女性のほうが二次元作品現実距離が近く、男性はやや遠い。

男性からするとフィクション内の女性キャラクター現実女性が演じることに正直違和感がある。

なんというか、そういう前提のもとにフィクション作品を読んでいないからだ。

まり二次元フィクション二次元フィクションであるからよい」という思想男性にはある。

 

から女性のほうが比較スムース2.5次元を受け入れられ、男性はそうでもない。

2023-05-09

TV面白がって闇バイトだのルフィだので大はしゃぎしたせいで続々と模倣犯が出てるんだけど

TVはどう責任とるわけ?

2023-05-06

ONE PIECEの、ここが苦手!

ルフィ達「麦わらの一味」が新しい島訪れるたびに

バラバラになって(幾つかのチームに分かれて)行動するところ。


毎回バラけるのに慣れなくて、読んでて落ち着かなくなる。ハラハラする。

早く合流してくれ!って思う。

一味全員で同じものを見たり聞いたり、共有してほしいんだよな…

anond:20230506125916

特殊詐欺ボスが「ルフィ」を勝手に名乗ってそれをニュースで「漫画主人公」などと言い換えをせずにそのまま流したんだから本来であればその理由もそのまま流すべきだよな。

現実はそうはならないけど。

2023-05-01

映画BLUE GIANT感想

映画は終わったはずなのに、心の中にまだ音楽が鳴り響いていた。帰り道の高揚感はまるでライブ会場から帰るときのようで、音楽に包まれ世界で息をするような感覚からずっと抜け出せない。映画BLUE GIANT』は、感情を奏でる演奏で観客の心を掴む、最高の音楽ライブだった。

公式サイトhttps://bluegiant-movie.jp/

予告編YouTube): https://www.youtube.com/watch?v=h1I116oS_Lk

今年の二月から上映している本作は、同名の漫画原作としたアニメーション映画だ。音楽人間物語を楽しみながら、ジャズ界の独自価値観や挑戦についても理解を深めることのできるものになっている。

主人公宮本大は「世界一のジャズプレイヤーになる」という大きな目標を抱え、故郷仙台を飛び出し、単身上京する。東京出会った凄腕のピアニスト・沢辺雪祈や、高校同級生素人ドラマー玉田俊二とジャズバンド「JASS(ジャス)」を結成し、それぞれが音楽に向き合いながら、壁にぶつかりつつ、夢の実現に向けてひたむきに取り組む一年半が描かれる。

原作の「東京編」を中心にエピソードを厳選し、上映時間の四分の一をライブシーンに充てるという大胆な構成採用されていたが、まずこれが見事な成果をもたらしていた。上原ひろみピアノ)、石若駿(ドラム)、馬場智章(サックス)の演奏はとにかく圧倒的で、音楽アニメーションコラボレーション最高峰と言える。また、その魅力を余すことなく味わうことができたのは映画館という環境存在が大きく、Netflix支配力が高まる現代において、専用施設役割可能性を示すことにもなっていた。

今回は、そんな傑作の魅力を紹介すると共に、宮本大の「ジャズを信じる」信念の問題点や、JASSの「So Blueに立つ」という目標物語性質に与えた影響について考えていきたい。

(以下、ネタバレを含みます。)

アニメーション技術を活かした音楽の魅力表現

映画BLUE GIANT』のテーマは「演奏者と音楽関係性」だ。宮本大、沢辺雪祈、玉田俊二は、それぞれ「演奏すること」について異なる意味見出している。その違いゆえに彼らの人生は巧妙に交わり、そして必然的に別れを迎える。

演奏である彼らが「音楽に向き合う」ということは「自分自身と向き合う」ことを意味しており、この作品において演奏技術を高めることは、自分自身真摯に向き合うことと同一に描かれる。自分自身対話を重ねて演奏力を磨き、ライブを繰り返しながら音楽との関係性を深めていく若者たちの姿が、本作の大きな見どころだ。

ライブシーンはどれも素晴らしかったが、中でも僕が心を奪われたのは「汗」に関する表現だった。演奏者たちの身体から吹き出る大量の汗や、そこからこぼれた大粒の一滴が、アニメーションならではの表現で美しく描かれる。それは、音楽空気振動させて生じる運動の結果であることや演奏者の存在再確認させるばかりでなく、自己探求の試みを象徴しているようにも思えた。落ちてきて弾け飛ぶ汗を見たとき、その背景にある身体的な研鑽精神的な苦悩に思いを馳せてしまうのは、物語音楽映像が見事に組み合わさって感情を揺さぶからだろう。

ライブシーンでもう一つ印象深かったのは「凄まじい演奏に目が釘付けになる」という描写だ。特に終盤の人々の目が幾重にも重なって演奏に引き込まれていく表現が印象的だったが、これらは音楽演奏聴覚だけでなく視覚も惹きつけるものであることを効果的に示している。実際に音楽ライブに行くと、音楽は「耳で聴くもの」というよりも「目で見るもの」「肌で感じるものであることを実感するが、この映画ではアニメーション技術アイデアによって同じ体験をもたらしていると言える。

また、脚本として素晴らしかったのは、この映画が「沢辺雪祈の物語」として完璧に仕上がっていたことだ。漫画版では交通事故によって最後ライブに参加できなかった雪祈だったが、映画版ではアンコールで大や玉田と共にSo Blue舞台に立つというシナリオ改変が施されている(最高だ!)。怪我を負った雪祈は片手で演奏することを余儀なくされるが、その姿が大が初めて雪祈のプレイを見たときに片手で演奏をしていたシーンと重なり、呼応することになる。手を抜いて片手で演奏していたプレイと、片手でしか演奏できない状況で全力を尽くすプレイの対比があることによって、映画版はより一層雪祈の精神的成長が強調されるものになっていた。

ジャズを信じる」大の信念の問題

本作はジャズライブ世界を美しく表現しているだけでなく、コミュニケーション人間関係のあり方についても、ジャズプレイヤーたちの世界文化を伝えるものになっている。素晴らしい取り組みである一方、その描き方にはついては大きな問題がある。それは、彼らの世界をただ単に肯定的に、あるいは美学さえ伴って、無批判に描いてしまっているという点だ。

ジャズバンドには「独立した個人たちが自分自身活躍や成長を目指して組まれる」という文化的な特徴がある。作中のセリフにあるように「ジャズロックバンドみたいに永遠に組むもんじゃない。互いに踏み台にして名を揚げていく」ということだ。そのため、良くも悪くもバラバラ状態肯定され、自助基調としたコミュニティ文化が成立している。

例えば、玉田俊二や沢辺雪祈はそれぞれ大きな課題に直面するが、大はその苦境に共感したり、手助けをしたりはしない。それどころか、雪祈が玉田を、玉田が雪祈を心配しても「自分自身問題から、おれたちに出来ることは何もない」と、その配慮無用ものとして切り捨てる態度を取っている。

しかし、自分自身問題であることと、周囲がその解決サポートすることは決して矛盾しないはずだ(でなければ、カウンセリングという仕事は成立しなくなってしまう)。むしろ人間が抱えるあらゆる問題は究極的には自分自身問題しかない。それでも人は、他者の悩みや状況を想像し、共に心を痛めることができる(=エンパシー)。そこに人間の素晴らしさがあり、そのような想像力に支えられることで、僕たちは日々の問題に対して継続的に立ち向かうことができているはずだ。

ところが、ジャズプレイヤーとしてあまりに完成されすぎている大のメンタリティは、そのような想像力を必要としない。自助を当然とする大の態度に、玉田は大きく動揺し、雪祈でさえ戸惑いを見せ、二人は困難に直面しても「助けてほしい」と言うことができない状態に追い込まれしまう。大は「ジャズを信じている」と口にするが、これはジャズという音楽の良さが理解されることだけでなく、「ジャズバンド的な人間関係コミュニケーション方法が通じる」と信じていることを意味しているのではないか。つまりジャズを信じる」大の信念が、JASSの「助けてほしい」とさえ言えない人間関係を強固にしているのだ。

「信じるだけ」の大は、いわば「仲間のために戦わないルフィ」だ。彼の言動からは、人の弱さを認めず、自分が出来ることはみんなも出来ると思い込んでいるマッチョワンマン社長のようなパワハラ気質が伺える。もしかするとそれは「お互いを追い込みながら、最高のソロを引き出し合う」というジャズ性質を、人間関係アプローチ転用したものなのかもしれない。だとしたらそれは、今日ではあまり受け容れられないスポ根的なスタイルが、文化系の皮を被ることで見過ごされているだけなのではないだろうか。

この映画では、周囲の人々に助けを求めず、自分自身を追い込んで課題を克服しようとする姿を肯定的に描いている。しかし僕は、それらをもう少し批判的に捉える視点があるべきだったと思う。あれほどまでに深く自己と向き合うことができるのであれば、そこで培った想像力を活かして他者の心に深く寄り添う可能性も求められるはずだ。自助圧力高まる世の中だからこそ、自分自身に向き合い、自分自身問題に取り組みながら、他者に対しても理解し、助けることができる人間関係を築く、そんなジャズプレイヤーたちの関わり方を提案して欲しかった。

権威に認められようとする挑戦」の物足りなさ

この作品にはもう一つ、物語性質に関わる問題がある。それは彼らの立てた目標、あるいは権威との関わり方の問題だ。

大、雪祈、玉田の三人は「JASSの目標」として、十代のうちに日本一ジャズクラブ・So Blueステージに立つという目標を掲げる。もちろん大きな目標であり、大胆かつ困難を伴うチャレンジではあるのだが、僕はこの目標によって彼らの物語が「質的に」小さいものへと制限されてしまったと思う。

ジャズマンにとってのSo Blueは、野球甲子園ラグビー花園に相当する憧れの舞台だ。ただ、その性質は大きく異なっている。甲子園花園は「勝ち上がる」ことで立てる舞台であるが、So Blueは「認められて」立つことができる場だ。つまり、そこに辿り着くためには権威を求めなければならない。このことから権威に認められなければ成功しない」という価値観が生まれるのだが、それが(若者たちの挑戦を描くにしては)物語を物足りない方向へ導いてしまっている。

JASSはSo Blue支配人・平にライブを観に来てもらうというチャンスを掴むが、雪祈のプレイ否定され、夢への道が閉ざされてしまう。このとき「縁がなかったということで」と断った平だったが、後に彼が自戒したことで雪祈へのオファーが生まれ、それがJASSのSo Blue出演へとつながっていく。雪祈のソロ克服という要因はあったものの、もしこの権力者凡庸人格の持ち主であったら、JASSはSo Blueに立つことはできなかっただろう。若者たちの挑戦に重きを置くには、権威的な存在が過剰である

また、中学生の頃からSo Blueに立つという目標を持っていた雪祈には、権威主義的な性格が定着してしまっている。自分評価していないギタリストと共演しても、相手一定プレゼンスを持っているとお世辞を言ったり、自分ソロについて大から指摘を受けたときは反発しつつ、平から叱責を受けると素直に聞き入れたりする。葛飾ジャズフェスティバルへの出演が決まった際には「フェスとなればジャズ業界人間もたくさん集まる。駄目バンド烙印を押されたら、もう一生どこにも呼ばれない」とまで言い切っており、妄想の中で権威肥大化し、視野が狭くなっている様子が伺える。これらは、挑戦する若者というキャラクターの魅力を損ねる要素だ。

若者たちの挑戦を描くのであれば「権威に認められようとする挑戦」よりも「権威を打倒しようとする挑戦」のように、もっと質的に大きなものを期待したいが、ジャズプレイヤーの挑戦である限り、権威に対する依存は避けられないのかもしれない。

それでも、映画演奏世界を美しく表現している―――問題をかき消す「音楽の力」

映画を通じてジャズという音楽の魅力は十分に伝わってきたが、僕は大がジャズを信じる姿に共感する気持ちにはなれなかった。映画BLUE GIANT』は、ジャズ美学を称えるはずの作品でありながら、同時にジャズ的なもの自助を前提とした人間関係コミュニケーション権威に認められることで成功するという価値観)が抱える課題も浮き彫りにしてしまっている。

それでもこの映画は、音楽の力とそれを支える視覚的な表現力で観る者を魅了してしまう。そこに問題があったとしても、圧倒的な恍惚によってどうでもよくなってしまう。それこそが、この映画の正体なのだろう。最高のクリエイターたちがもたらす感動が、自助強要する主人公や助けを求められない人間関係、挑戦の質による物足りなささえもかき消すことで、「音楽の力」を証明することに成功したのだ。物語パートで引っかかることがあったにも関わらず、あまりに強すぎるライブシーンが全てを帳消しにした結果、鑑賞後の僕の心にはただ音楽けが存在していた。大、雪祈、玉田たちにとって演奏することがそうであったように、まさに、最高の演奏によって数々の問題を乗り切った物語だったと思う。

2023-04-28

anond:20221205133022

犯罪者の名乗りが、ルフィーとか酒の悪魔とか、ジャンプが元で教養のなさが知れるって記事最近見たけど、孔明とかでも別に教養は感じられないな。

anond:20230428105553

ヒトヒトの実 幻獣モデル ニカなのでゴムゴムの実ではないんです。

自由のままに戦うらしいのでルフィ想像している通りの能力が発揮されているんだと思います

ルフィのニカフォームって本当にゴムゴムの実の能力なの?

ビッグマムのナポレオンみたいに麦わら帽子がニカの実の能力を持ってるんじゃない?

2023-04-25

フィリピン刑務所は買収でき、日本国際協力機構JICA)薬物依存症プロジェクトから予算が入る

日本語会話の内容が分からない

ルフィをそこに置いたの誰だろう 

福島原発使用済み燃料棒を置いたの誰だろう)

2023-04-21

スマホタッチ決済の店側になるってことは

電車の中で鞄越しにスキミングするルフィが現れる、ってコト!?

2023-04-16

日本アニメオタクネトウヨ化しやす理由

日本アニメ日本人が作っている以上、否が応でも日本文化の影響を受ける。例えばサムライ忍者日本刀、神社神道などである。これらの要素は作者の思想とは関係なく、愛国心を掻き立てられやすい。更にこれらの文化自体に罪がある訳ではないのでクリエイターも気軽に描く。リベラルクリエイターですら神社日本神話、日本刀なんか創作で使うことは多い。そしてもう一つ、創作物というのは基本的反体制、反権力だが徹底的な非戦論は描きにくい。

例えば

ワンピースルフィが「暴力はいけない!非武装抵抗によってカイドウを倒そう!」とか

ガンダムアムロが「戦争反対!例え家族や友人が殺されてもガンダムには乗らないぞ!」とか言い出したら物語が進行しない

創作である以上、本当に「必要な戦い」は認めるしかない。この点が憲法9条非武装主義を掲げる日本リベラルとは相性が悪い

ちなみに最近ではアニオタだけでなくクリエイター側にも右派が増えてるがその原因は宮崎駿にあったりする。戦後すぐの頃のアニメ漫画戦前反動最初に挙げたような極端な非戦や日本文化歴史卑下するものも多かった

ただそんな中で宮崎駿が「戦前日本は酷いけど日本文化は素晴らしいよ」「侵略は悪だけど必要な戦いもあるよね」的な作品を作った。

それに影響を受けてクリエイター側にも中道左派的な人間が増えていった。そしてそれ影響を受けた人間が気軽に日本神話や神社日本刀などを描き、徐々にアニオタネトウヨが増えていった

宮崎駿自身は穏健左派(戦争反対平和主義自衛隊合憲)なんだが実は界隈が右にズレるキッカケを作った人でもある

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