はてなキーワード: 幕末とは
日本が舞台の、時代ものっぽいオリジナルの長編漫画を描きたくてずっとずっと構想を練っているんだけど、史実とフィクションとの折り合いに悩みまくって描けなくて困ってる。
架空の藩で、架空の人物だけが出てくる権力争いものにしたいんだけど、時代ものという縛りがあるので、一応は時代劇っぽいものにしないといけない。でも時代ものは言葉遣いやら髪型や服装、身分、役職とかの縛りがでるし、それだけの知識も正直俺にはない。
現代ものなら、日本のどっかの学校って多少ぼやかせるところが、時代ものだとどっかの国のどっかの時代っていうのが誤魔化せない。
鎌倉、室町、江戸、幕末…時代でファッションも文化も全然違う。
日本昔ばなしも一見テキトーな和風ファンタジーに見えるが、あれ各地の伝承が元ネタだから地名とか寺とか人物とかちゃんと実在するんよ…墓もあるしな…。
江戸時代以降は徳川さんが仕切ってるからいちいち徳川気にしないといけなくて超やりづらい…あとどんなイケメンもハゲにしないといかんのがツラい…どこまで嘘をついていいのかの加減に悩む。半端に歴史を知ってるが故にうまい嘘がつけない。
故に巷には、史実をベースにした実在の人物とキャラクターを絡ませる漫画が多いんだなぁと実感した。1からは全部はキツイ。
まあフツー、史実ベースじゃない和風ファンタジーをやる場合は、バトルものにするか、妖怪との交流ものにするかの大体二択。ファンタジーだから政治とか史実とか描かなくて済むからね。どっかで嘘つかんと。
で、俺が描きたいものはどちらでもないから参考にできる作品がなくて本当に困っている…単に知識不足で知らないだけかもしれんが。ギャグ時空なら何でもアリでいけるけども、残念ながらシリアスな感じになるからそれも難しいんだ…せ、世知辛ぇ…
あと、みんなドラクエみたいな西洋ファンタジーものには一切突っ込まないのに、和風ものになると途端に「この時代にこれはおかしい」みたいなガチな歴オタのツッコミいれてくるのなんでなん…?やめてくれ…俺にその言葉は強すぎる
時代ものは知識がないと描けないし、背景にも気を遣うから作画のカロリーが高いと聞いたことあるけど、本当にそれ
本来ならさっさと諦めたいところだが、描きたい話が設定上、どうしても時代ものじゃないと描けない話なので、知識がなくとも足掻かなければいけない。形にしたいから頑張りたい。
怒涛の幕末に命を燃やし自らの信じる道を貫くそれに、共感しそのように在りたいと願い
彼についての文献を読み漁った。
恋愛の感覚もまた歪んでいた。基本的に、他人の所有する物が好きだった。
味見しては、振り、虚無を知り愛を知らず
年相応の流れのまま籍を入れた。
職を転々とし飄々と風のままに生き
誰かの忠告には耳を貸さなかった。何となく、その予感があった。
虚構の中の登場人物に感情移入するが如く生きてる実感を失ったまま
物語性のない現実の中で、自らの失望と欠如感を埋めるだけの日々が始まった。
物で足りる筈もないのに金を費やし何かを諦めた分、別の何かを得た。
それは時に柔らかい毛並を帯びたものだったり、心を癒やす音楽であったりした。世間一般には均衡を保つにはそれが必要だと言われていた。
物語性のない現実の中には、藻掻いている人が沢山いた。一番になれないコンプレックスを抱えて苦心している人、綺羅びやかに見えても水面下で必死に水をかいている鳥のような若者、
機運に恵まれず就職難に陥った良く似た人物、子を産んだが障がい者としての生き方に困っている人達。
それらを助けるために福祉があり自治体があるのに決して満足には機能せず
表面だけ取り繕った平和の下で、苦しみに歪む市井の人々を思った。
結局、何万人相手では誰も救えなかった。事実は事実として認識していても手出し出来ない状況があり、ほとんどは藪蛇に思われた。果敢にも手を伸ばそうとする彼女を嘲笑いはしなかったが共に寄り添いもしなかった。
今まで傷付け見殺しにしてきたもの全てから報いを受けろと苛まれているようだ。
次産まれる時は、きっと貧しく愚かな「人間」なのだろう。流転し、翻弄される。そしてまた遅々として進まぬ医学に唾棄しながら孤独に陥り、病室で臍を噛む。
何かを喪い落ち込んだ経験が?
3話までの話は
第1話 ビデオテープ規格:VHS vs ベータ(おまけで コンパクトカセット vs エルカセット)
と二大巨頭の激突において、猫が敗者側に賭ける(そしてしくじる)という路線だった。
しくじり猫がバーテンダーになり、カクテルに関するデタラメなエピソードを披露し、
更には客にとって必要なこととは真逆の花言葉の嘘を話すしくじりをしましたという構成になって、ちょっと困惑。
煽り文も「少し趣向を変えまして」と書いてあったので、箸休め回かと一旦は納得したのだが・・・
第5話は幕末~開国の時代において、とある料理屋が魚料理だけを続けていくか、新たに肉料理をだすかの選択で猫がしくじるという話。
一見、魚 vs 肉 という二項対立の形にはなっているのだが、作中にも述べられているようにそもそも日本では長い間肉食禁止令が出されていたので、魚が負けるというよりは欧米の肉食文化を取り入れるか否かという変化の問題で、最初の3話とは毛色が大分違う。この話の中で魚は負けたが魚食文化の敗退ではなく、現に我々は肉も魚も食べる文化を今でも持ってる。
このように、4話5話で元ネタであるシュレディンガーの猫の「生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさっている状態から、観測によってどちらかの状態に収縮する(そして本作の猫は必ずしくじる)」というコンセプトから外れてしまっている。
目を大きく描くことや美的感覚が生理的なものだというのは一つの解釈で
幕末くらいだと西洋の肖像画みたいな目の描き方は「大きすぎ」と捉えられたとか聞いたことがある
コンプレックスどうこうはどうでもいいので最近思いついた自説をメモっておく(車輪の再発明かも知れない)
目に対する生理的な反応としては視線の意識はよく知られているし実感しやすいと思う
好き嫌いは別として視線に対して、目を合わすなり視線を外すなりは動物でもよく行うコミュニケーション。
これを鑑みれば、目を大きく描くというのは眼力・目のベクトルを大きくするということ、
つまり単純に読者などの受け手により強く意識してもらうための表現だと言い切ってもいいのでは。
モブの目・瞳を小さく描き、主要な登場人物の瞳や目は大きく描くこと、
より視線を感じる方をよく見る、より大きい方をよく見る、
幼名は「たりた」で、これは両親が子沢山だったため「子供はもう足りた」という意味で名付けられたという。
ちなみに彼女の下にはさらに妹がおり、「誤って産んだ」ので「あや」という名前だったとか。
16歳で見学した撃剣興行の、佐竹茂雄夫人の薙刀に魅せられ、家を飛び出して直心影流薙刀術に入門する。
師匠である佐竹鑑柳斎・茂雄夫婦の撃剣会に帯同し、各地の興行に参加して、20代にして「美人剣士」の勇名を轟かせる。
入門三年目にして直心影流薙刀術の印可と「秀雄」の名を授与され、「日下秀雄」と名乗るようになる。
同年に直猶心流剣術の十一代目・園部正利と結婚して「園部秀雄」となる。
1899年の第4回武徳祭大演武会において、唯一の女性剣士として出場、
幕末の人斬り・渡辺昇と戦い、渡辺は竹刀を投げ出して降参したという。
当時の渡辺は61歳ではあったが、秀雄の戦歴のなかではこの試合が特に有名である。
その後、渡辺の高弟である堀田捨次郎に一敗を喫したとも、生涯不敗だったとも言われる。
後年には女子学習院を始めとして多くの女学校で薙刀師範を務め、
また道場「修徳館」を設立して薙刀教員を育成するなど、女子教育としての薙刀術普及に大きく貢献した。
1963年、93歳で亡くなった。