近年見るに耐えない退職エントリや退職報告が多いのですが、エンジニアって文字を書くことに関しては恐ろしく下手くそなのか、マニュアルや仕様がないと何も出来ないのかのどちらなんでしょうか。
前者だったらどうしようもないけど、後者だったら「これをやってはダメ」というのを教えてあげることで少しはマシになるかと思ってこのエントリを書きます。
著名なエンジニア以外、退職報告なんてしなくていいです。あなたの退職に興味を持っている人は、辞めたことを人づてで聞きます。わざわざブログやTwitterでの報告は不要です。あなたは著名じゃないですし、世の中のほとんどの人は、あなたが会社を辞めたことに興味を持っていません。あなたの退職を知らなくても、何の問題もありません。Facebookでステータスを変更して、そこにコメントをくれた人に返信するくらいで十分です。
退職というのはそこそこ一大事です。人生において結婚は大体1度前後ですが、退職も大体1度前後でしょう。何か書きたいと思う気持ちはわかります。そういう場合に、以下の点について気をつけて下さい。
これを守っていない人がたくさんいて軽いバカ発見器になっていますが、基本的に退職日以前に退職を発表する(退職エントリを書く)のはやめましょう。事前に会社に確認を取っているなら退職日以前に発表しても良いですが、1ヶ月前後したところで何も変わりません。退職エントリを急いで書く必要はまったくありません。最終出社日が終わった後であっても、法律上はまだ社員なので退職報告は控えましょう、きちんと書類上の退職日が過ぎ去った後で報告すべきです。はやる気持ちはわかりますが、ちゃんと退職を待ってから退職エントリを書きましょう。
理由についても一応説明しておきます。まず会社において人事関連の情報は大変重要な情報です。まともな会社なら、就業規則等で守秘義務で守られているのが一般的です。それが自分の進退であっても、当然その範疇に入ります。社会人として所属している組織の情報を無為に漏らすのは言語道断です。自分の情報だと皆さん気軽に共有しがちですが、ここはしっかり守りましょう。
また一般的に、会社を辞めるというのは「会社に不満があった、もしくはより良い待遇の会社を見つけた」ということがほとんどであり、前職に対して多かれ少なかれマイナスイメージをもたらすことが多いです。在職中に在籍している会社のイメージを下げるのは、コンプライアンスの観点からあまり優れた行動とは言いがたいでしょう。せめて会社の所属を離れてからにしましょう。
なお、特にスタートアップに転職した人の中で稀に見ることがあるのですが、まだ退職日が過ぎていないにも関わらず「すでに働いています!」みたいなことをブログやTwitterで報告しているアホがいます。絶句するほどにアホです。そこで働いた成果物は前職のもの、と主張されてもおかしくないですよ?スタートアップはリソースが足りないので即座に働く必要があるのかもしれませんし、それがバレなければとやかく言うつもりはないんですが、たとえば会議などにとどめてコードはコミットしない(後々買収されたりしてコードの履歴が明らかになる可能性がある)などの配慮をした方がいいでしょう。正式に辞める前に働いていることを公言するのはアホの極みです。
前の会社で嫌なことが積み重なって転職する場合、前職の悪口を書きたいと思う気持ちはよくわかります。そして世の中にそういう転職エントリはあふれており、読む分には面白いです。これに関しては本人の気持ちの表現方法の一つなので止めはしませんが、「できるだけやめたほうがいい」と助言をするにとどめておきます。
まず、あなたが著名なエンジニアだった場合、「悪口をネットで書くような人だ」と思われるのは大抵の場合大きなマイナスです。それが事実であろうとも、その人の将来の可能性を狭める行為であるのは間違いありません。まあ最も、著名なエンジニアは滅多にそんなエントリを書いたりしないので問題無いでしょう。
さて、あなたは「自分は著名なエンジニアでないから大丈夫」と思うかもしれません。確かにあなたの退職エントリは、あなたの関係者にしか読まれません。主に前の会社の人、次の会社の人、Twitterのフォロワー、です。そして一般的に業界は大変狭く、転職は同じ業界内で行われることがほとんどです。あなたの悪口エントリがうまくバズれば、前の会社に効率的にダメージを与えられるかもしれませんが、結局それは一瞬のことで長くは続かないものです。一方、あなたの関係者は「あなたがそういうエントリを書く人間だ」と認識され、その印象はずっと付きまとうことになります。結果として、あなたの評判はあなたの知らない所で傷ついていくのです。
直情的に行動してしまうエンジニアに何を言っても無駄ですが、「悪口を書かない」というのは理性的な人にも大事なことです。やはり前の会社に含む所があれば、ちょっと婉曲的に悪口を書いてしまったりするものですが、そういうのは一発で伝わります。特に前の会社の同僚などは一発でわかり、嫌な気分になるでしょう。人を嫌な気分にさせる文章は、書くのは自由ですが、公開しないほうがよいと思います。
はれて転職を果たし、新しい会社での生活がバラ色に見えているのはよくわかります。でもそれを書くのはやめましょう。痛々しいです。
今まで色々な転職者を見てきましたが、潜在的に自分の転職に不安を持っている人の方が、より積極的に「転職してよかった」「仕事にやりがいがある」「今の環境最高」みたいなことを書いています。書かないと不安なのか、それとも思い込もうとしているのでしょうか、そういう人たちは結果的にあまり幸せな転職をしていないことがほとんどで笑えます。皆さんもウォッチしてみるといいでしょう。
まあこれは、痛々しいだけなので、別に書いてもいいです。付き合い始めのカップルがTwitterとかで永遠の愛とかを語っているみたいなもんで、こちらとしては半笑いしながら眺めているだけなので。
まあ書かないのが一番だと思うんですが、はてブ数を稼ぐ千載一遇のチャンスであるとか、どうしてもウィッシュリスト乞食をしたいとか、理由は色々あれど「書きたい」という人は多いでしょう。退職日以降に書く、前職の悪いところは完全に忘れて書く、今の会社の良い所は書かない、というのを守った上で、何を書けばいいでしょうか。
やはり一番重要なのは、前の会社でお世話になった人への感謝などでしょう。もっとも部外者がこれを読んでもちっとも面白く無いのが難点ですが…。
また、新しい組織の中で挑戦したい夢を語るのもいいかもしれません。転職という手段をなぜ選んだのか、これから今までと違う形でどう社会に貢献するのか、みたいな話ですね。ま、大抵の人は「今の自分に足りない技術を求めて…」みたいな自分語りになるので、これも面白く無いのが難点なんですよね。
というわけで、真っ当な退職エントリを書いても面白くないので、書かないのが一番だと思うんです。だれもあなたの退職なんかに興味を持っていないのですから。
初めから基盤を与えられた所からスタートした人間は、一つ一つの基盤を一から築いていくのがどれほど大変なことなのか本当には分かっていない。そこに大きな誤算がある。
城を作ってくれと頼めば、1ヶ月で作ってくれる部下がいる。何でもできる。何でも可能だと感じられる。その感覚は、大きく判断を狂わせる。
なぜなら、階段を1段上るプロセスは無数にある複雑な判断の積み重ねであり、100個の壁をクリアしてようやく1段上れるものだから。だから、地図を盗んだところで直ぐに壁にぶつかり一歩も前に進めなくなる。
ランチェスター戦略は、所詮、戦争のための戦略である。しかも相手を潰すための。それを国内の人財であるべき相手に使えばどうなるか?壊れるに決まっている。
お兄さんはどうかわかりませんが、少なくともあなたには、
親御さんに対して、ゆがんだ感情がありそうですね。
そこに、あなたの心の闇がありそうです。
しかし、それが何かは具体的にはわかりません。
個という感覚が殺されていくような、自分が無くなっていくような感覚を抱かせてくれる。自分というちっぽけな殻が壊れていき、自分がどうでもよくなっていく。他者と私の境界がなくなるのだ。
人間の自我というのは、自分だけしか知らない自分だけの秘密を沢山持つことによって形成された感覚なのかもしれない。
現代っ子の多くは、1人1部屋を与えられる。それが自我をますます大きくさせてしまうのかもしれない。私しか知らない私の秘密を沢山持つこと、それが、私という個を認識する術だったのだ。
元カレと別れてしばらくは未練たっぷりにネチョネチョしてたけど、あいつオレ様チンポ主義のモラハラクズ野郎やんけ、顔を見るたび胸糞になって、最近は未練もなくなってきたそんなところ。
しいていうなら今でも顔は好き。
あとセックスがとても良かった。
なーんて思ってたら二人で話す機会がやってきた。
「お前は情緒不安定てクソ重女」「あんたはモラハラクソチンポ」ってお互いに罵って「分かる分かる」とゲラゲラ付き合ってた時のことをひたすら笑った。
「あとセックス最高だったよね」
「分かる分かる」
「我々めちゃくちゃ分かり合えるけど、思いやれないからセフレにしかなれんのだな」
「分かる分かる」
「今度セックスしたくなったら飲みに誘うわ」
「うっひょー楽しみー」
あーセックスしたい。
と思ってセフレ映画をみて勉強しようとしたらYES!セフレ!で困った困った。
どうしよう。セフレ沼が私を呼んでいる。
日付が変わる前のクリスマスイブ、とくに用事もなかった私はいつもながらの新着はてブを眺めていた。つい最近まで人気エントリーしか見てなかったけど、新着も眺めるとけっこう面白い記事が隠れていて面白い。あと、新着を眺めているといい記事をめざとく見つける「はてブソムリエ」とも呼ぶべき人もいるのにも気づく。その昼も夜も問わず魅力的な新着を発掘してくれる姿に、コイツ仕事してんのかな、いや違う、この人はいい目を持ってるなあと感嘆する。ありがとうソムリエ。
そんな感謝の念を抱きつつ次から次へと記事を渡り歩いていたのだが、運悪く一つの記事に出会ってしまった。
はてブ数は20あまり。記事の中身はオチのない日記。別にブクマされる記事でもないだろ、と思いつつブコメを眺めると、
ほぼ半数がそんなコメントであふれていて、それを目にした瞬間、お前らホンマにブログ読んでからブコメしてんのかよォオオッと怒りがわき上がり、関係ないけどメリクリって卑猥な響きがあるよねとも思いつつ、自分のブログのブクマ数が1か2ばかりなのを思い出してさめざめ泣いた。
それから晩ご飯を食べてお風呂に入ってニコ動を見てゲラゲラ笑った後、そういえばなんか怒っていたなと気づいて、イイイィッ許すまじと呪詛をこめてキーボードを叩き憎悪で満ちあふれたブログを書き上げ、ッターン!と先ほど公開して、それから考えていた。
腹だったままブログを書き上げたけれど、私がはてブのルールってわけでもないし、仲間同士で「メリクリ~」って言い合うのも楽しいなら文句を言うことでもないし、「クソみたいな馴れ合いはてブ書くヤツはいねええがあああ」と怒り散らすブクマ警察みたいになっても面白くもないし、馴れ合いか馴れ合いじゃないかなんて線引きも明確なもんではないし――と、ああでもないし、こうでもないし、と考えていたらよく分からなくなってしまったのだ。
「クソみたいなブコメであふれるとサービスの中身が悪化する」ってな意見もあるだろうし、「馴れ合いだろうがなんだろうが自由な方が息苦しくなくて良い」ってな意見もあるだろう。実際、私のブログにも一人の友人がときどきブコメを書きにくる。うん、私も馴れ合ってるね。
馴れ合いブクマがあったところで新着が増えるぐらいだし、ちょっと邪魔だなと思うていどで済む話だとも思う。ただ、中身スカスカの「PVいくつで収益いくらになりました」みたいな結果発表の数字だけが並ぶブログが、お仲間さんの「すごーい」「やったね」「参考にします」なんてブコメで人気エントリーに入ってるのを見ると、やっぱりどうかなとも思う。
程度問題なんだろうな。やり過ぎもダメだし、禁止しすぎもダメで、ほどほどに気楽にでも気を遣って楽しく過ごせればいいんだろう。
と気持ちを落ち着かせようと書いてみたけど、ムカつくわ、こんなもんいい子ちゃんぶっただけのゴミ文章だな。
やっぱムカついたのは事実だ。くっっっっっそ薄っぺらいブコメのあふれる記事と、やっぱり自分のブログの記事を比べてしまう。
それなら私の記事ってのはそんなに面白いのか?と問われると、そりゃまあ腹抱えて笑うレベルとしかいいようがない、うん、主観では。
もちろん主観での評価と他者からの評価はぜんぜん違うわけで、自分でもそれは重々認識していて、ブクマが全然されない現状を見るにたぶんクソみたいな記事しか書けてないんだろうが、それでもだ、やっぱりクソなりに思いをこめて書いている記事はある。笑ってくれと思いながら、いい情報ありますぜとニヤけながら、私の超絶文章を読めええっと叫びながら、さまざまな感情をこめて書いた記事がある。そう、ブクマ数1か2のそんな記事がいくつもある。
そうした中で「メリクリ~」でブクマ20あまりを見ると正直頭に来るのだ。もちろんその記事がどうだろうが、私の記事には無関係なのは分かっている。ただの嫉妬。
だから、別に気にすることはないわけで、また新しい記事を、いつか多くの人に届くと信じて書けばいいだけなのだ。
その次の記事を書く手はひどく重くなるけれど。
まあ、この現状はどうすることもできないし、いいはてブも悪いはてブもあるわけない。気楽にはてブしまくるのが一番。
ただできるかなと思うことは、面白い記事を見つけたときそれがもし、はてブ数3に届かず新着に載れないような状況だったら、トンと背中を押して送り出すような気持ちでブクマ数を増やしてあげると、めげそうなブロガーを助けられるかもしれないってことぐらい。そうやって表には出てきていないけれどあなたが面白いと思うブロガーを支援してあげれば、きっとその人はよりもっと面白い記事を書いてくれるはずなのだ。
それは確か小学6年生だった。
母親のジュエリーボックスという女児にとって魅惑的なとこに、サンタへの純情な私の手紙を入れていたのが母親の間違いである。
それがサンタを信じなくなった日だと思っていたが、思い出してみればそれを見たのは、確か小学校低学年ごろだった。
いつからサンタを信じてなかったんだろう…と考えれば、小学校に上がる前の時点で「やったー!来年から小学生だから筆箱もらったんだ!」と演技をしたときには確かにサンタを信じていなかった。
そう、演技をし続けたのだ。少なくとも6年。
保育所のサンタも、私は誰がサンタになるのか一生懸命覗き見ようとしていた覚えがある。もしくは7年。
7年の演技が、たった一言「サンタなんか居ない」で打ち砕かれた。
小学6年生のクリスマスの日、母親の文字でプレゼントと手紙が届いた。
「サンタを信じない子には、もうサンタは来ません」みたなことが書いてあった。一度しか読んでないが覚えている。
一度しか読んでいないのには理由があって、最初から最後まで見た瞬間、私は手紙を破りさりゴミ箱に捨てたからだ。
今思えば、誕生日とクリスマス以外に母親から何かを与えてもらえることは少なかった。
だから、必死で演技してたんだと思う。それをたった一言で、無情な手紙が終了を知らせたのが、悔しかったんだと思う。
ああ、なんだろう。書いてて今でも涙が出てくる。よっぽど悔しかったのだ。
その日の朝、私は母に言った。「見てお母さん!サンタからプレゼントが来たよ!」
また演技をした。手紙をスルーした私を、母はどう思ったんだろう。
ずっと気になっている。24日の4時までこんな文章を書いてしまった。
_φ(・_・ なるほど
ここにたどり着いた若い君へ
真面目で良い子なら知っておいて欲しい。
私が生きてきて、若いうちに知っておきたかったことを列挙する。
・アニメ、ドラマ、漫画、テレビ、ネットなどはなるべく控えた方がいい。知らないうちにそれらの価値観が君の価値観に変わっている。恋愛なら、それらの登場人物は美しい容姿を持っているため理想がありもしない容姿を基準にすることになるし、他の価値観においても容姿至上主義、完璧主義になったり、都合の良いものを求めがちになってしまう。それらはありもしないものだと理解しよう。
・友情は大切にした方がいいが、友人と時間を過ごしすぎると考えが偏ることは理解しておこう。関係が無くなることに怯えてただ維持するだけの関係は友情ではないし、引越しするなどの環境を変えることができる立場であればそんな関係は無くてもあまり変わらない。彼ら彼女らと交流することでどういうメリットがあってデメリットがあるのかは把握しておいた方がいい。
・損得勘定をするのは悪いことではない。狭いコミュニティだとそれは悪いことだと思われがちだが、それはそのコミュニティが自らの短所を認めたくないと思うが故であることもある。多くの個人やコミュニティはそれらの持つ欠点を認めたがらないし、改善のために欠点を指摘したとしても攻撃されたとしかみなさない場合がほとんどだ。「嫌なら出て行け」は状況によって正誤が分かれる。
・人と同じ、自分より下がいる、という状況は君に安心感をもたらすだろう。だけどそれは危険なことだ。君はそのままでいいと思わせるからだ。君は君が考えている以上に能力も魅力も無い。
・世の中を良くすることより、自分の安全や快楽を優先する人間がほとんどである。他人に期待しないほうがいい。
・人と差ができたときに見下したり誇示する行為は社会を不穏なものにする。そうなったら下のものを引き上げ、手助けをしよう。そうでないと、自慢に飽きたとき人生や社会にうんざりすることになる。
・儒教は年配の人でも広く尊厳を保つことができるが、行きすぎると改善ができない組織を生み出して結果全体が腐ってしまうことがある。
・若い頃はなんでもバカにしてしまうが、それは主に自分が優れていると思いたいからだ。大人になっても何かを貶して自分を大きく見せようとする人間はいる。しかしながらすべての事柄にはメリット、デメリットがある。バカにする材料は何にでも存在するので、デメリットのみを指摘するのは誰でもできることだと理解しよう。
・自分のことを頭がいいと思っている君は、何を根拠にそう思っているか考えた方がいい。「頭がいい」というのは抽象的な概念だ。君の人生を大きく動かす、または世の中で必要とされる頭の良さは勉強ができることではなくて、自分の頭で物事を考えることができる力だろう。勉強で得た概念や知識はそのための補助にはなるが、後者を重点的に養おう。
・平凡な人にとって学歴のメリットは、高学歴のコネを作れる、新卒キップが手に入る、学歴至上主義の人と話すときに説得力が増す、くらいだ。大学に入ればわかるが、学歴はミクロではその人の頭の良さを保証するものでは全くない。入試は本当に学問を理解していなくても解ける。中卒でも高卒でも頭いい人はいる。高校に入ってなくても大検を取って、大学にはいることは十分すぎるほど可能だ。受験生の大半は考えずにただ暗記をしているだけだ。
・人間は所詮動物の一種だ。理屈よりも本能に支配されがち。本や漫画にでてくるような人格者はほとんどいない。また、本能に支配されているがゆえに、友達が多い人、恋人がいる人、優秀な人に嫉妬をしてしまうことは自然なことだ。自分自身がその感情を抱いてしまっていることは隠さない方がいい。悔しいと思うのであれば、それを認め、何かしら努力をする糧にしよう。それしか君の魅力を変える手段はないのだから。
・人間のキャラは見た目よりも話し方と声質に大きく影響される。それらは変えることができるし、必要があるならボイトレに通うのも良いだろう。
・人と会話するときに緊張して声がこもったり、小さくなりがちだったり、あまり響かない声質であれば、声を出すときに共鳴させる場所を上の方(少なくとも喉仏より上)に移動させてみよう。ただし、声質を変えるには年単位の時間かかる。
・人間にも知能の差がある。大人でも理屈や理論を理解できている達成度も人によって違う。
・ノリが違う場合、無理に合わせなくても良い。君は君だ。無理をしているのは相手にも伝わるし、リア充へのただの憧れならやめたほうがいい。リア充は傍目からみたら羨ましいと思うが、実際はそれを維持するのにエネルギーを使いすぎてしまう。もちろん、それによるメリットもあるが虚栄心の強い人が多いので、君と生涯を共にするような人と出会うことは少ない。そういう場で交換した名刺はほとんど引き出しの隅で一度も見られる事なく眠るだろう。リア充であることは、お金と時間をかけてリア充である、イケているというステータスを維持していると考えるのが最も良いだろう。それは悪いことではない。君が「いい人間になるゲーム」が好みなように、彼らも「イケてる人間になるゲーム」が好みなだけだ。君が一般的にいいとされている、イケているものの別にやりたいことがあるのであれば、それを優先すべきだ。若い内は知らない内に「誰がいけてるかゲーム」に強制参加させられてしまうが、それに関わらなくても人生を楽しく過ごすことは可能だ。ただし、自分に合うかどうかは試してからでないとわからない。
・職や組織のグレードや規模に関係なく嫌な奴も無能な人もいる。
・人を変えることは難しい。その人に危害を加えてはいけない場合、嫌な人間と出会ったときは、自分が変わるか環境を変えるしかない。
・愛情や友情は不公平をもたらす。特定の人を優遇することでもある。
・たとえイジリや愛情でも貶しやマイナスの言葉は極力控えるべき。意外な言葉で人を傷つけることがある。若いうちは本当のことは言ってもいいと思いがちだが、それは思わぬ恨みを買うし、欠点や状況を受け入れられない人にとっては心にダメージを与えてしまう。容姿や資産などを持っている時は強い人間も、それらを失ったとたん弱くなることはあり得る。
・心の弱さは個人差があるが、立場や環境や状況によって人の心は弱くなる。弱っているときに傷つけられると、深い恨みを抱いたり、死んでしまうこともありうる。
・人は自分の経験や感覚から他者の気持ちや考えを想像する。そのため、その人が経験していないことや、その人にない概念について他者に思いやることは難しい。例えば痛みを感じない体質の人はなぜ人を叩いたらいけないのか理解できなかったという事例がある。
・人の考えは簡単に変わるし、それは環境にとても大きく影響されてしまう。スタンフォード監獄実験やミルグラムなどをしらべてみよう。悪人もおそらく環境が違えば悪人になりえなかった。君が世の中を良くしたいと考えるのであれば、悪くなってしまった人をどうするかではなく、どうすればそういう人間を生み出さなくていい環境を作ることができるかを考えよう。
・君は理屈で物事を考えることができるとしても、他者はそうではないことが多い。彼らはそういう環境で育ってきてしまったからだ。
・バカな人間を見たときに、見下してはいけない。それはその人がそういう風に育つ環境に原因がある(もちろん天性の素質もあるが)。運命が違えば、君がその人になっていたかもしれない。また、君の子供がそうなってしまうかもしれない。君がすべきことは、そういう人間を作り出さない環境を整え、世の中をかえることだ。
・「子供が可愛くない親なんていない」は嘘だ。例外は存在する。虐待されている子供にとってその言葉は毒になるし、追い詰めることのもつながる。耳馴染みのいい言葉、響きのいい言葉はまず疑ったほうがいい。ただし、それらは多くの場合には当てはまる。
・耳馴染みの悪い言葉に対して条件反射で拒絶する人は多く存在する。彼らはおそらく恵まれた環境で育ったか、世の中の危険などを自分の身近に存在することを認めるのが怖いのだ。だが、悪い面と良い面、両方を把握していないと正確な答えは導けない。
・現代において動物は人間の奴隷である。しかし、彼らにも意識は存在している。条件が少しでも違えば君は肉になっていたかもしれない、実験動物になっていたかもしれない。彼らに感謝しよう。
・若い内は自分の居場所を求める。それ故に他人と違ったキャラを自分に求める。自分に何も無い場合、理想の自分を作り出し、それが中二病をもたらす。自分が平凡であるなら素直に平凡であることを認めて、そこから何かに向けて努力しよう。それが本当の君のキャラになる。大人になると、男女ともに自分をしっかり把握して、その上で努力している人は魅力的にうつる。
・人間は自分の仲間か、自分より上か、自分にメリットはあるか、などで人を判断する。そして、それらに当てはまら無い人に対して恐ろしく残酷なことができてしまう。差別の恐ろしいところは、あらかじめ自分の仲間ではなく、自分より下と位置付けてしまうところだ。
・人は自分の望む情報を選択的に集めようとするし、望まない情報である場合、その情報の欠点を探し不要な情報だと思いたがる。これを確証バイアスという。多くの人が自分の考えにバイアスがかかっていると自覚してない。このバイアスを互いに自覚することができれば対話はより生産的になるが、確証バイアスがかかっているから確証バイアス自体を受け入れないという人の方が多い。
・事実であってもレッテルに騙されてはいけない。例えば痴漢をしてしまった優秀な科学者の意見はみんな軽視してしまうだろう。しかし、痴漢をしたこととその人の科学者としての知識や経験は分けて考えなくてはいけない。そのレッテルと、それの持つ有益な部分との関係を考えた上で情報の取捨選択をしよう。
・人は自分の長所で人間の価値を測ろうとする。人の評価の仕方が偏っていないか自分自身に問いかけよう。
・大人は自分が優位であるはずの立場を揺るがされるのが怖いからこそ、子供に子供らしさを求めることがある。
・理屈っぽさは悪いものである風潮に騙されてはいけない。ものごとを考える時は論理的に考えるのが一番だ。ただし、対人で理屈っぽく話すのは論外だが。
・新しい何かを考える時は必ず紙に書こう。その方が効率がいい。君は頭の中だけで何を考えていたかをまとめるほど頭はよくない。頭の中で解決できるのは経験したことがある事柄のみだ。
・不条理や理不尽は減らすことができる。でも、自分以外の人も巻き込む必要がある場合、既述の理由で多くの人はそれを面倒くさいとしか思わない。労力もかかるし、君自身に力が必要だ。それでも誰かが行動に移さない限り状況は変わらない。そのつけを払うのは後の世代だ。誰かが動くことでしか救えない人はたくさんいる。
・言い訳はしてもいいけど、それ以上に自分のダメだったところをあげよう。じゃないと君は成長できないしいつまでも変わらない。でも、本当に悪い環境だったらすぐに逃げよう。
・日記をつけよう。そして1日の中で、自分の良かったところ、悪かったところ、どう改善すればいいかを毎日書こう。特にどう改善すればいいかを考えるのに時間をかけよう。
・人間の魅力は動物的(美醜、強さ、声、体格、体臭、組織での立ち位置など)な要素と、理性的(行動、知識、思考力など)な要素がある。中でも動物的な要素の方が強力で、前者のみでも世の中やっていけるが、後者のみではなかなか生き辛い。顔やスタイルがいい人間は残念ながら得だ。また、説得力は動物的な魅力を持っている人の方が高くなる。
・自分を知ろう。なるべく画質のいいカメラで自分を日中に撮影し、ビデオで自分の話し方や立ち振る舞いを録画し、一つの単語を覚えるのに何回復習する必要があるかを試そう。カメラやビデオで自分を撮影してそれを見るのが苦痛な内は、自分で自分のことを認めれていない。ブサイクならブサイクを認め、そこからどうすれば魅力的になれるか考えよう。自分の欠点を認めれていない人間は痛々しくうつる。
・論理学と科学的思考と複眼思考を身につけよう。人の言うことは偏った意見であることが多い。
・身の回りで知らない単語が出てきたら、必ずメモしたり調べたりしよう。知らないことをゼロにするくらいの心がけのが良い。ネットで検索して出てくることを覚えるのはバカというのは極論だ。知っていると理解しているは違うし、理解していないと思考を発展させることはできない。また、記憶力は関連付けることで強化されていくので、知っている事柄を増やせば増やすほど、物事を覚えることがたやすくなる。
大学を新卒で卒業しても就職できず、やっと入った会社は2週間で辞めた。
妹の私はというと大学の在学時、適応障害と鬱を発症し時折精神科に通って今でも時折精神薬を飲んでいる。
大学を新卒で就職した会社がパワハラセクハラが横行しているような会社で働いてた。
めまい、吐き気を無理して行っていたがやっぱり1年たらずで無理になった。
親がそれでも無理に会社に行かせようとしたら、受診していた2人の医者が親を怒鳴ってた。
その後、転職をしたがそこも前任者が狂って辞めているくらいひどい職場だ。
昨日は、久しぶりにクリスマスだからと家族会ったらやっぱり調子が悪い。
睡眠薬を増やしても眠れなかったので諦めて起きている。
公務員の試験勉強をしてたら、兄に教材を貸せとか親は電話をかけてくるし。
精神科医は、親に対しても言ってくれているらしいが親は変わってくれない。