はてなキーワード: 博士論文とは
研究内容だけど、新しいことはそこそこ見つけたし論文もそこそこ出したけど、でもこの系が完全に解明されました、というところまでは到底持っていけなかった。
博士の学位って、新しいものを確立しきって初めてOKのようなイメージがあったし、修士のような途中経過じゃ許されないと思ってたので、卒業は延ばそうと思ってた。
しかし、D3の春にお会いした先生からお声がかかり、ぜひ来年からポスドクできてくれ、と言われた。
そこでうちのボスは快く承諾。
と電話で元気な返事をしているのを聞いた。
いや、声かけてくれたのはすごく嬉しいし、こんなご時勢に就活もせずにオファーが来るなんてありがたいものだ、とは思ったけど。
「学位どうすんのよ?」っていうのが素直な気持ちだった。
今更新しいことできるわけもないけど、なんとか知恵をしぼって新しい仮説を創造して検証をする。
まあ、散々考えた末に行き詰ってたわけで、無理やり考えた説をもとに急に頑張っても成功するはずもなく。
結局、不完全なまま、そこそこ確立されたかのように博士論文を書いて挑むことに。
だから、自分の研究の足りなさは自分が一番わかっているし、ただ卒業するためだけのための日々の作業でストレスがたまりまくる。
この作業って研究とはかけ離れてるし、学問的な価値もない、ただ学位だけのためだよなあ、と思うほどつらい。
だからしなきゃいけない。
同じラボに何年もいたら腐ってくるし。
で、そういう雰囲気が伝わってたのか、准教授の先生はなぐさめてくれた。
「学位を出さないってことにはならない。文句を言われるのは俺らの役目だから」
そう言ってくれた。
ボスは、大丈夫大丈夫! しか言わないし、クリティカルなアドバイスもなし。
思ったとおり、大炎上。
さすがに教授陣、迫力があって圧倒される。
そしてそんなに間違ったことは言わないので、つい認めそうになる。
でも、先生の指摘は正しくても、俺の説を否定するのは間違ってるんじゃないかな、ということに途中から冷静になって気付く。
一応、いや、このデータは僕は意味があると思います、とだけ貫いて終了。
やれることはやった。
もう何もできないなあ、どうしようもないなあ、という気分で、すごくねむいような、頭の電源がきれるような気分だった。
准教授の先生が言ってくれた「俺らの役目だから」って言葉を思い出す。
今頃先生、血を吹いてるかもしれん……
時間がたつほど、ダメかもしれんな、という気分になってドキドキ、というか、ズキズキしてきた。
これで学位取得は確定。
本当だったら、ほっとしたり、解放された感じになるんだろうけど、消耗しきっていたので、まだどんよりしている。
「なんとか大丈夫だった」
「すいません」
なんだかなあ。
しかも、行き先は新しく立ち上がるラボのポスドクなので、テーマも考え放題、なんだと思う。
これで、行き詰った過去と向き合わないで、これからの未来だけを見て生きていけるんじゃないか。
彼女とは遠距離になるけど、新しい土地での暮らしは少し楽しみでもある。
ああ、学位をとらなかったら、来年度も鬱々として変わらない生活を送ったんだろう。
研究は少しずつ完成に近づいたかもしれないけど、完璧な仕事をすることに、何の意味があるだろう。
就職先から声をかけてもらって以来、学位を得る前提の未来を見ていたんだなあ、と気付く。
いい研究をして出たかった気持ちも嘘じゃないけど、やっぱり僕は、そんな理想より、泥臭くていいから学位が欲しかったんだと思う。
研究に生きている人間は、人生の選択肢で理想を選びやすい傾向があると思うし、それは自分を過大評価することでもあると思う。
だから、半ば強引にでも出してくれてよかった、と今は思う。
研究を前提とせず、人間として生きることを一番の前提として考えなきゃいけない、それが研究のためでもある。
そして、学位はできるだけはやくとったほうがいい。
ボスが今晩は飲もうと張り切っている。
ムカついたり、頭おかしいんじゃないかと思ったこともあるけど、振り返れば6年間で、ボスには感謝してもしきれないほどの恩をうけたなあ、と改めて思う。
先生ありがとう。
学生の卒論とか読んだことないので、卒論の添削やってる先生がいることに驚く。学生が何やったのかは知ってるし、それをどういう言葉で書こうと彼らの自由。私はそこまで興味はありません。
卒論はしばしば100ページくらい書かれていたりするが、そのほとんどはどうでもいい無駄な記述。数ページで書ける内容が無駄な情報で水増しされている。論文というのは短ければ短いほどいい。5、6ページも書けば十分だろう。
学生は卒論を書くことにより未知の世界に立ち向かっているが、我々には彼らが研究を始めた時点で、それがどれくらい価値のあるものなのか、最終的にどこまでできるのか、何もかもすべてわかっている。答えを教えてしまうのは簡単だが、それでは勉強にならないので黙っているだけ。笑
学生の卒論や修論の発表会で、こんなの3日もあればできるだろう?というのがある。学生に考えさせるためにわざと回り道させたんだろうかというとそうではなく、実はたいてい学生がさぼっていたというケース。
吉村教授は博士論文を3日で書く天才らしいけど、俺は出来の悪い学生でのたうち回って修士論文を書いて、博士には行かずに就職した。卒論、修論の面倒を見てくれた指導教官には感謝している。こんな風に「興味ない」で済まされなくてよかった。論文を書いているときは心細くて、不安で、修了を逃したら内定も取り消しだし、大げさだけどそのときは人生を賭けて泣きながら取り組んだ。もしこんなDQN指導教官にあたったら大学院中退になって、内定も取り消しで職歴なしニートになっていたかも知れない。
この教授とは面識がない。だからこのTogetterのまとめがどういう意図でできているかわからない。博論を3日で書ける天才なのか、単なるビッグマウス野郎なのか、ネット弁慶なのか知らない。それで少しぐぐってみたら
と日常的にTwitterで乱闘している痛い人なのはわかった。
なぜ質問状を送ったか
返事が来たら増田でまた書く。
指導方法はね、大学のレベルじゃなくて、教員ひとりひとりの個性で違う。
ちょっとしたレポートまで丹念に赤ペン入れて、手取り足取り教えるスタイルの先生もいれば、
たとえ院生の博士論文だろうが、必要最小限の指導しかしない、そういう先生もいる。
そのあたり、あまり調べずにゼミを選んじゃったのじゃないだろうか?
もう大学生なんだからさ、面白いものは自分で探していかないと。
自分が何をやりたいのか、何を必要としているのか、
増田自身がよくわかっていないのが問題なんじゃないか。
ボンヤリと口を開けて何かが落ちてくるのを待っている奴に、
わざわざ趣味に合うモノを持ってきてくれるわけ、ないじゃないの。
生きているうえはさ、「目的」と「手段」が必要でしょ?
目的を実現するための手だてが、「手段」。
大学の講義は、増田が生きるうえでの「手段」は教えてくれるだろうさ。
そっちの方は、よくよく自分自身と向き合って考え抜くしかない。
度々どうも。そう、大方同じことを書いてると思う。
ここは2種類あると思うんですよ。
1つは投稿論文の積み重ねの部分については、分野によって違うんじゃないかということ。これが私のさっきの書き込みでいいたかったことで、「理工系は~」と繰り返していた理由でもあるんです。投稿論文の積み重ねがない・取得用件にない分野の場合には、これを判断材料にすることができないのではないか、ということです。
そうか、僕はここの主張をしたいことを明確にしていなかったから、コミュニケーション不全に陥っていたのかもしれない。
あと、査読付投稿論文までいかなくとも、国内口頭発表ぐらいはあるだろうから、その件数・状況で判断するのも1つだったかもしれない。
もう1つは、お互いにそういう会話がない・判断知識がなかったのではないか、という推測。あなたの書かれている、この部分ですね。
もちろん、男が嘘つきだったというのは、あるだろうけど、博士論文については、知ってる人は予測がつく物だから
しらなかったのなら、しょうがないけど、予測つくということは知っておいた方がよいし、
たとえば、「夫『おれは忙しいんだ!頑張ってるんだ』→実は頑張ってない」というシチュエーション。博士課程に限らず、夢を追ってる系の若いカップルにありがちな話だよね。それとか、「夫『これを書けば修了できるんだ!』(←実はそんなことない、にも関わらず)→妻『わーすごい、あなたってステキー』」というシチュエーション。妻の方が博士の修了・取得用件を十分知らないまま舞い上がって、うまく夫にだまされてるケース。
結局、博士論文は、書くか書かないかじゃなくて、通るかどうかが問題なので。
で、話は戻って、博士課程は、ピンかキリかしかいない。
ちょっと乱暴な言い方ですけど、そうですよね。「通るかどうかが問題」。
で、ピンの人にとってもキリの人にとっても、それぞれ、書いても書かなくても、また、通っても通らなくても、一寸先は闇。
(優秀な人/内容でも通らない不幸もあるし、優秀でない人が通ってしまっても後で不幸がやってくる、ということ)
いや、同じ事を言っていると思うけど・・・
趣旨は、博士課程の最後の1年間で、論文を書くかまとめるか?ではなくて。
旦那は博士課程の旦那が博士号を取れない可能性が高いということが、最後の1年よりも前にわかるか、わからないか?
じゃないでしょうか?
そのテーマに照らし合わせると、博士号の論文は、1歩譲って最後の1年に書くという表現をするとしても、
そのための下準備は、最後の1年よりも前に終わらせておく物。基礎研究しておく物なので、そういうところをみれば
最後の1年で博士論文が書けるかかけないかは予想がつくでしょうという事が言いたい。
逆に、最後の1年までに地道に論文を積み上げてられるひとが、最後の1年で論文を書けないとは思いにくい。
ということは、実質的には論文が積み上がっていない、基礎研究が終わっていないという予測がたてられるので
結婚生活は10ヶ月ということは、1年前って事で。満了が6年として博士課程4年目って事で、そこまでの執筆ペースから、
その後の執筆ペースはおおよそわかるでしょうと。
そうすると、博士論文が上がらないリスクというのは、結婚前にあるていど読めていたはず。
もちろん、男が嘘つきだったというのは、あるだろうけど、博士論文については、知ってる人は予測がつく物だから
しらなかったのなら、しょうがないけど、予測つくということは知っておいた方がよいし、学生結婚なら
こっそり、担当教諭に博士号の取得の正否について、結婚前に聞くぐらいはしておいたほうが安全と。
だいたい、担当教諭はわかってるだろうと。ひどいのではないかぎり。
と趣旨はそっちで、博士論文を最後の1年で書こうと3年かけてコツコツ書こうと、最後の1ヶ月で馬力入れて書こうと、それはかまわないとおもいます。
通るかどうかはそこまでの実績でわかるでしょという方が趣旨なので。
結局、博士論文は、書くか書かないかじゃなくて、通るかどうかが問題なので。
で、話は戻って、博士課程は、ピンかキリかしかいない。真ん中は修士で就職してしまうので。という事を考えると、元増田は期待するのはいいけど、裏取りはした方がよかったね、博士の場合は、そういう理由(なんとなく、博士に進んだ場合、博士は卒業すれば取れるという物ではない。だから危険)もあるからあぶないよと。
投稿論文はそうなんだけど、いわゆるD論、博士取得のための学位論文は、「最終年の1年間かけて書く(まとめる)」という表現で間違ってないと思うよ。いや、もちろん投稿論文は地道に投稿していかないといけないし、分野や大学によっては「投稿論文の本数で判断するからD論不要」というところもあるし、学部系統が違うとD論の長さが極端に違うし。個別の事情は違うとは思うんだが。
当方地底工学部だけど、毎年1~2本づつぐらいのペースで査読付論文を積み上げつつ、D論は「最終年の1年間かけて書く(まとめる)」という感じで捉えてる。工学部のD論だと100ページぐらい要求されるけど、医学部のD論は短い人だと30ページ程度とも聞いた。あと、今もそうか分からないけれど、文系の博士って平素の投稿論文とかD論を書くことよりも、博士論文に相当する著書を書き上げる方が大事で、それを持って学位審査に臨むって聞いたことがある。これらの話って本当?
セーブ・ダルフールは近年のアメリカでもっとも大規模な運動のひとつだ。
ダルフール紛争が一年経過したころにこの運動ははじまった。平均的なアメリカ人にとっては何の縁もない地方の紛争である。レイプや殺人、ジェノサイドといった物語が新聞をにぎわし、それがダルフールを物語る言葉となっていった。この暴力を阻止するという動機にもとづいて、何百万人という市民が動員され、運動が盛り上がっていった。
しかし、その後5年たってみて、ダルフール紛争は近年でもっとも誤解された紛争のひとつとなってしまった。
というのもダルフール問題の活動家は運動を盛り上げるために、ダルフール紛争の本質を捻じ曲げたキャンペーンを行い、実態よりもセンセーショナルに扱ったからだ。
「何十万のダルフールの人々が”殺された”」というのだ。
活動家たちが認めたがらなかったのは、被害者の大多数が本当は紛争に起因する病気や栄養失調によって死んだのだという事実であった。
確かに、ダルフールで発生した圧倒的な戦争犯罪行為の事実を前にしては、病死と殺害とを識別することには、さして重要な意味はないのかもしれない。しかし、こうした分類の仕方に無頓着になった多くの活動家は、アメリカ政府に対して人道的な救援や平和構築よりもむしろ、暴力抑止や国際PKO部隊の派遣のための予算を要求するようになっていた。
セーブ・ダルフール連合は、政治家に圧力をかける多くの支持者を動員してきた。さらに、彼らは政府に暴力の抑止と国連部隊の派遣を働きかけるべくロビイストを雇っていた。
ロビイストが活動する以前のアメリカ政府は、ダルフール問題に対して10.1億ドルを投じていた。このうち、8.39億ドルが避難民キャンプや人道的支援のために使われ、平和維持活動のために直接割り当てられたのは1.75億ドルであった。このことは、当初、アメリカ政府が平和維持活動よりも人道支援に重点を置いていたことを意味する。
ところが、2006年から2008年にかけて、セーブ・ダルフール連合および他のグループは、政府に人道支援から平和維持活動に資金の使途をシフトさせようと働きかけた。恐らく、ロビイストと市民運動の盛り上がりによるものだろう。
これにより、現在までに支出された20.1億ドルのうち、51.3%にあたる10.3億ドルが人道支援の目的で使用され、9.8億ドル(48.7%)が平和維持活動にあてがわれることとなった。この比率の変化は人道支援から平和維持活動への重心移動を物語るものだ。
結局のところ、政府がこの比率を変えたことには大きな問題があるといわざるをえない。というのも、被害者調査によれば、ダルフール紛争の影響下で病死したり栄養失調で死亡した被害者の数が高止まりしているなかで、「殺害された」被害者数は2004年4月8日の停戦以降は著しく減少しているからだ。
もしダルフール活動家が資金の使途について軍事介入を重視するよう迫っていなければ、もっと多くの命が救済されたのではないのか。
また、多くの活動家がダルフール紛争の本質を見誤っていることも問題だ。彼らはスーダン政府および野蛮なアラブ部族が関与した虐殺については責められるべきだとしており、「セーブ・ダルフール」は、多くの宣伝、ニュースレターあるいはウェブサイト上で「進行中のジェノサイド」という言い方で紛争を表現している。
ジェノサイドという用語は、もともと事の重大さを国際社会に喚起するために使われた言葉だ。この言葉に触発されて、各国政府や国際機関が迅速に紛争に立ち向かうわけだ。
活動家は善意だったかもしれない。しかし、「ジェノサイド」という言葉が大衆の間で広まると、有責な事柄と無罪の事柄のバランスが失われ、予想もしなかったような事態になった。
「ジェノサイド」という言葉は、単一の志向をもった犯罪を示唆する。しかしながら、犯罪に関与した者たちが、実際、定義されたとおりの犯罪者であるかは定かではない。
もちろんスーダン政府はダルフールにおいて多くの人々を殺害しており、この点の戦争責任は免れえない。しかし、反政府勢力もまた、いくらかの責任を免れないだろう。国連がダルフール調査団を派遣した際、多くの反政府グループが深刻な人権侵害や人道法上の違反を犯していたことが明らかになったからだ。
つまり「ジェノサイド」という言葉は、紛争のある一面を浮かび上がらせるのは確かだが、それによって他の一面が逆に隠されてしまうことがあるのだ。
ダルフールについていえば、「ジェノサイド」という言葉が膾炙することによって、反政府勢力が国際社会のレーダーの捕捉網から感づかれずに済む効果を生み出してしまった。また国際社会の関心をもたれないまま、人道法違反を野放図にすることを許すことになったのだ。「ジェノサイド」という言葉にこれほど注目しなければ、恐らく活動家は反政府勢力の犯罪を見逃さなかっただろう。
例えば、ダルフールの反政府勢力の有力なスポンサーはエリトリアやチャド、SPLM(スーダン人民開放軍)だが、彼らは、昔からアメリカ政府の支援を受けてきている。つまり、反政府勢力のライフラインを支えているのはこれらの国や組織だ。
今日、ダルフールの状況は歪んだ見方がなされている。進行中の紛争や暴力行為の多くは盗賊や無法者そして部族間紛争に起因するものとみされている。UNAMID(国連とアフリカ連合(AU)の合同PKO部隊=国連・アフリカ連合ダルフール合同活動)によれば、09年6月における死者数は16名であり、いずれもスーダン政府軍と武装勢力との衝突によるものではなかった。
昨年一年間におけるダルフールでの被害者数は、政治学者が内戦と定義する一年当たり1千人の死者数を下回っていた。
このように状況が変化しているにもかかわらず、多くの活動家はスーダン政府が大規模な攻撃をダルフールに仕掛けていると論じ続けている。「進行中のジェノサイド」「ダルフール戦争」という言葉が、いまだに活動家の資料や宣伝に頻繁に使われているため、多くの人がダルフールはそんなに変わっていないのではないかと思い込んでしまっているのだ。
ただ最近、オバマ大統領は現状を指して「ジェノサイド」という言葉を使っており、国務省とアメリカ大使も、ダルフールのジェノサイドは終わったと主張しているスコット・グレイション(スーダン特使)と距離を置いているようだ。
しかし、そろそろアメリカ政府とダルフール活動家は性質においても規模においてもダルフールの状況は一変したという認識をもつべきだろう。
軍事介入や紛争の一方当事者(スーダン政府)の断罪のかわりに、平和構築と2百万人を超える国内避難民の救援に力を入れるべきときだ。
作者:マーク・グスタフソン
現に通っても蹴ってる人はいるみたいだし。
共同研究とかもあり。COE関係があればいいんだけどねぇ。あれは限られるからなぁ。
アカデミックな分野に進みたいなら高専とかの非常勤やる方が自分のためになるし。給料は安いけど。
もちろんこういうのって簡単に見つからないけど、
見つけるように行動して、コネを作れば意外と見つかるものだし。
何よりダメなのは3年とか2年とかぬるま湯に浸かってしまうこと。
論文を適度に読んで、適度に書いて、3年目に適当な博士論文ってのが一番ダメ。
頑張らないと給料貰えないし、給料貰ったからには頑張らないといけないという立場になっておかないと。
というか、そういう癖を付けておかないと。
まぁ、任期付きの助教とかにはなれるだろうけど社会に出れなくなる。
そして任期が切れて大変なことになる。
「息子(娘)の博士課程進学で親ができること」
http://anond.hatelabo.jp/20090117074753
を書いた増田。証拠に、リンク先の記事の1行目に「証拠」って書いておいた。
とうとう、恐れていたことが起こってしまった。東北大の大学院生の自殺。この事件の示唆するところを、結論から言おう。
「死にたくなければ進学するな」
子を殴ってでも博士課程には行かせるな。子や兄弟姉妹が博士課程に進学したいと言い出したら、まず殴って止めろ。それで諦めるぐらいなら、博士課程に行かなくてよかったということだ。言葉でも、親子の縁を切る、勘当する、ぐらいの脅しはしていいと思う。これを見ているのが学部・修士課程の学生なら、博士課程には絶対進学するな、と警告しておく。
もう、博士課程進学っていうのは、子を自衛隊にやるのと同じぐらい危険なことだと思ったほうがいい。それも、遺族年金のない自衛隊に行かせるのと同じぐらい危険なことだと思ったほうがいい。自衛隊員でも実際に戦闘地域で戦闘を行うのは一部のはずなので、そういう危険な例外を除けば、自殺を含めた死亡率は博士課程進学と自衛隊入隊とで、同程度であってもおかしくない。
自衛隊が危険な職業であることは、広く知られているが、それでも行く人は行く。金が出るし、何より「国のために命をささげる」という大義があるからだ。博士課程は、金はでないが、やはり、「学問のために命をささげる」という大義があるはずだ。
博士課程は、「博士の学位に、一遍の論文に、自分の命以上の重みを感じられる人間だけが進んでいいところ」という位置づけで、もういいと思う。それでも、大義がある限り、行く人はいるのだ。どんなに止められても、たとえ殴られても行く人は行くのだ。博士課程は、そういう危険を省みず大義のために身を投げ出せる人間だけが行くところ、という位置づけで、もういいではないのだろうか。そういう位置づけの場は、博士課程以外にも、自衛官・警官・消防隊員・海上保安官などなど、社会にはいくらでもある。博士課程も、「お金が出ない」という一点を除いて、その仲間だと思えばいい。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090513-OYT1T00525.htm
東北大は13日、大学院理学研究科で教員の指導に過失があり、担当していた大学院生の自殺につながったとする内部調査結果を公表した。
大学院生は2年続けての教員による博士論文の受け取り拒否などで修了できなかった。同大は懲戒委員会で処分を検討しているが、この教員は今月に入り辞職した。
同大によると、自殺したのは理学研究科で生物関係の研究をしていた博士課程の男性大学院生(当時29歳)。大学院生は昨年8月、研究のデータ集めをした滋賀県内で自殺した。遺書には指導法への不満などはなかったが、翌月、両親から男性准教授(52)の指導に問題があったのではとの指摘を受け、内部調査委員会を設置していた。
大学院生は2007年12月、博士論文の草稿を事前提出したが、准教授は大学院生と十分に議論せず受け取りを拒否。准教授は06年11月ごろにも、論文提出を延期するように指示しており、大学院生は2年連続で博士号の取得に失敗した。
調査は、残された論文草稿やデータを見る限り、大学院生の研究は博士論文の審査水準に到達していたと判断。准教授が、具体的な指示を与えず、適切な指導を行わなかった結果、大学院生は学位取得や将来に希望を抱けなくなり、自殺に至ったと結論づけた。准教授は、08年1月に科学誌から大学院生の論文が掲載を拒否され、書き直しが必要になった際も、適切な指導を行わなかった。准教授は調査に「論文提出の直前までデータ整理に追われており、時間がかかると判断したが、指導に不適切な点があった」と話したという。
http://anond.hatelabo.jp/20090120003258
分野にも寄るし環境にも寄るんだけど
月20万の給料ってそんなに高いだろうか?
100万の研究費ってそれをボーナスというほど研究者脳になるのもどうか、と。
フリーで走り回りながらいろんなところのRAに突っ込んでもらったり
ときどきベンチャーの手伝いしたりとかプロジェクトに突っ込んでもらったりとか自分で予算取ってきたりとか。
そういうのやってると月20万とかってそんなに高い金額じゃないんだよね。
おまけに給料として貰う月20万と、謝金とかで貰うお金だと税金とかも違ってくるし。
収入はやたら多いのに扶養に入ってるなんて普通だからなぁ。そりゃ豪遊できるわ。
奨学金貰いながらだと更に金額多いし。博士ならそれだけで月12万。
「借金じゃん!」
ってよく勘違いされるんだけど、要は今使えるお金がどれほどあるかってのが重要になるわけで。
おまけに無利子で400万ほど借りれるチャンスなんて今後絶対に無いわけだし。
借金と呼ぶのはちょっと違う。まぁ、返さないといけないのは分かってるからあんまり手を付けられないんだけど。
で、一番最悪なのはPDじゃないかな。
どんだけブラックベンチャーなんだよ。いや、分野によるんだろうけど。
後、経験上若いうちから給料貰いながら研究をするとろくなことがない。
研究費が無いから自分で引っ張ってくる。そのために相手を説得させる技術を磨く。
いろんなところにコネをつくっとく。自分の能力を見極める。挫折する。
博士論文で本当に死にそうな思いをする。後輩の面倒見ながら後輩が死なないかビクビクする。
お金が無い無いといいながらそれでも志を突き通せるぐらいじゃないと。
で、元はといえば博士課程に進むべきか否か、だよね。
そんなの簡単。
「進学すべきではない」
と断言する。リスクを全て説明する。
それでも本人が「進学する」というならOK。
たったそれだけ。
http://anond.hatelabo.jp/20090117074753
読んでてフーン思って、
どれぐらいの人数が博士課程へ進学するのか、
私立の理系。
・修士課程(博士前期って言ってたかもしれない)進学/学部卒業 = 約65 %
・博士課程(博士後期って言ってたかもしれない)進学/修士課程修了 = 約6 %
学部卒の約4 %が博士課程に行くなんて。
ちなみに私は修士で、
私が知っている(年齢の近い)博士は、
・学校の研究室の先輩が、博士課程へ進学して1,2年で博士論文を仕上げた。
今は独立行政法人で研究職(もう管理職かも)で(博士論文の内容とは関係のない)仕事をしてる。
学生の頃から自分でかなり稼いでて、おそらく親からの仕送りはもらってなかったと思う。
私から見たら特殊な能力を持っている人で、
学生の頃からアルバイトでベンチャー企業の研究開発みたいな事を任されていて、
(アルバイト情報誌に出るようなものではなく、教授の人脈などによるもの。)
そこで得た知見で無理やり(?)博士論文をでっち上げることができるような人だった。
(良い意味で)博士号は単なる道具と捉えていたんではなかろうか。
・同期の修士が、公務員(今は独立行政法人かも)の研究職に就いてから、
おそらく仕事の一環として、ペーパー書けと言われるんだと思う。
理系とはかなり様子が違うみたいだった。
修士まで行かせてもらって、
親には感謝してます。
ちょっと前の話だけど、Syrianaという映画を見たんですよ。アラブの王子が、「国を良くしたい」と思っているのに、弟が次の王になることになって、クーデターを企てる話なんだけどさぁ。その、「国を良くしたい」っていう意気込みを語る場面で、
英語:I got Ph.D from Oxford, England.
みたいな感じになってるのよ。「学び」って何だよ。学部で入学してすぐ中退しただけでも、「??で学び、」とは言える。「博士号を持っている」っていうことは、全然違う。普通の頭だと、大学卒業後、5??7年、向こうで生活して博士論文書きました、研究者目指してましたってことなんだよ。
「博士号持っている」ってことが、字幕から完全に抜け落ちている。この王子が「博士号を持っている」ってことが、「自分は国を本気でよくしようとしているのに、バカな父親(王)は分かってくれない」という悔しさを如実に表わしていて、ストーリー上結構でかいはずなのに。
怪文書がきた。
私は理系の施設に勤めているが、やっていることは雑務ばかりでその一つに郵便物の整理がある。
新しい人を迎えるのは毎年のことで、そのはがきが来るまで気にしないで普段通りの生活を送っていた。
ある日、怪文書が来た。
なんでも彼女は旧帝大の教授の愛人で、彼女が書いた博士論文はその愛人の論文をまる写ししたものだとか、ほかにもいろいろ書いてあった。
(身元ばれが怖いのでこれ以上は書けない)他にも同じ怪文書を今いる施設のトップや彼女が元いた大学の総長に出したとか
怖くなって上司に渡した。怪文書を上司はどうしたんだろう。引出しにとってあるとか?
怪文書は私の目の前から消えた。
秋の終わり、彼女がやってきた。普通の人だった。本人にも他の研究員にも怪文書の事は知らないはず。でも彼女が事務室にきて用事を済ましたり、他の研究員と話すたびにあの怪文書の事を思い出してびくっとする。
こういうことは普通にあるのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20081221200806
この人が言いたいのは「勉強ができる=頭がいい」の関係ではなくて
勉強ができる俺を見下す人たちより俺の方が上だってことだろう。
勝手に尊敬されるから、この人みたいに尊敬をわざわざ求めようとかしない。
周りから見ると謙虚に見えるらしく、ますます尊敬され、祭り上げられていく。
本当に頭のいい人は、周囲からの過度の尊敬や期待のまなざしが重く感じるくらいなんだと。
その結果、彼らは必要のない場所ではあまり自分の実力を見せなくなる。
自分と同じレベル、もっと上のレベルの人との付き合いを大事にする。
そういう人は「自分を正しく」評価してくれるからね。実力以上に祭り上げたりしない。
そうやってできる人の間で集まるから、「評価されていない」ようにみえるだけ。
スポーツ選手みたいに「見せもの」にならなくても食っていけるからね。
(スポーツ選手の中にだって、本当は良い試合ができて、給料もらえるなら
別に周りから注目を集めたくないという人だっているかも、って考えたことある?)
そういう世界があることを知らずに「勉強ができる人は評価されてない」と思うのはアホウの仕事。
学校の勉強ができる程度、それこそ東大に合格できる程度で「頭がいい」と思っていることがこの人の最大の不幸。
「俺は勉強できるのに周りは評価しない」とかいって周囲からの尊敬を求めようとすれば
そりゃあなた、馬鹿にされても仕方ないでしょう。
ありがとう。少し表に出したら落ち着きました。
なんだかとても、「ちゃんとしなくちゃ」みたいなものに襲われてしまって。
ちゃんと生活しなくちゃ。同世代の人たちはちゃんと朝会社に行ってっていう規則正しい生活を送ってるんだから、学生とはいえ学生気分でだらだらしてないでちゃんとしなくちゃ。
論文、もっともっとちゃんとしなくちゃ教官に持っていけないよ。もっとちゃんとしなくちゃ。
職場に行って、PCの前に座って、うまくすすまなくて。がんばりがたりない。もっとちゃんと努力しなくちゃ。
こういうことやってられるってのは、恵まれてることなんだから、その分ちゃんとしなくちゃ。
これくらいのプレッシャーに負けててこの先どうするの。だめなんじゃないの。
こうして書いてみると「私はやればほんとはできるんだよっ」て言ってるのと近いんですね。
関係各位に相談するのが怖いって、結局、この状況を変えられるのは関係各位なんだから相談しなくちゃですね。もうちょっと書いてるものがちゃんとしたら行こう。
「僕は、博士論文で、自分が関わってる分野でトップにならなきゃいけないんだって思ってた。それがプレッシャーで悩んだこともある。それで、じいちゃんに訊いてみたんだ。そしたら、博士論文は、僕がその時できるベストをつくせばいいんだって言われた。」
私はそういう高みにだなんてとんでもなく望められないけどそれでも。
ベストを尽くすようがんばる。がんばってみる。
少し気を抜いて、それでまたがんばってみる。
吐き出してみてよかった。
今アメリカの大学院にいる。前の人の仕事を理解する都合上、博士論文を読んだりするんだけど、なんだかうちの卒業生は、論文の最初のAknowledgement(謝辞)を丁寧に3、4ページにわたって書く人がおおい。そこに書いてあった言葉。
「僕は、博士論文で、自分が関わってる分野でトップにならなきゃいけないんだって思ってた。それがプレッシャーで悩んだこともある。それで、じいちゃんに訊いてみたんだ。そしたら、博士論文は、僕がその時できるベストをつくせばいいんだって言われた。」
それでわかったこと。
たぶん、博士号をとることは誰にとっても大変なことだ。かといって、そんなに素晴らしく高尚なことでも無いと思う。もっと泥臭い作業の末にあることで、かっこいい何か、素晴らしい仕事の繰り返しの先にあることとは限らない。彼らが謝辞をいっぱい書くってことは、自分ひとりじゃ博士論文は書けなかったから、いっぱい色んな人にお礼が言いたいってことだ。ということで元増田はもっと気を楽にして、力を抜いて、いろんな人に相談するといいと思う。元増田の苦しみは大学院の人間にとっては誰にでもあることだから。
博士の壁ね。
確かにその通り。
博士号をとるには乗り越えるべき壁があるし、そこを自分としては乗り越えられなかった。
つまり博士論文を仕上げられなかったわけだが、その点では能力が及ばなかったのだろうな。
だが、博士課程に進学した当初は当然博士論文を仕上げるつもりでいた。
そこんとこを「逃げ」の一言で片付けてほしくはないな。
査読論文一本を仕上げるのだって大変なことなのだから、博士論文を仕上げるなんてことはとんでもない能力と努力を必要とする。
博士号っていうのは、そういう研究者の唯一の誇りみたいなもんだし、博士はやっぱり尊敬に値するよ。
しかし、現状、博士号を取ったからといって就職口が待っているわけじゃない、というのも事実なわけで、博士号をとりながら万年非常勤講師な人も、文系分野ではざらにいる。なので、世間的にはあまり意味のない博士号をとるために大学院に残って、あくまで博士論文を仕上げることに熱意を注ぐか、それかある程度のところで見切りをつけて就職するか、という選択も、大学院に残っていると現実的な問題として立ち上がってくる。
けれど、大学院ってところは、この二つの選択のうち一つの選択についてしか、つまり博士号をとってアカポスに就くということについてしかトレーニングの機会を提供しない。でも、少子化による大学数の減少は続いていて、それにともなって学部学科の減少とアカポスそのものの減少が続いている。そうなると、大学院が抱えてる院生がすべてアカポスに就けることなんてことはなくなる。いわゆる「ポスドク」問題ってやつだ(それでも、6年くらい前なら、我慢して40代まで研究を続ければ、いずれどこかに就職できる、なんてことが言われてた)。
大学のアカポスが減っているのに、研究者志望の学生数というのは一定数いるわけなので、ここにはどうしたってミスマッチが生じてくることになる。ところが、一部の大学の研究職の人間が考えているのは、どうやったらアカポスへの就職に有利なように制度を変えるか、とか、自分たちの学問分野の有用性を社会に分からせるか、という点になってしまって、研究室の孤島に住んでたせいで世間から切り離されたしまった院生の意識をまともな方向に持ってく、だとか、「一般的な」就職に有利なスキルや意識を持たせるとか、そんな方向にはほとんど関心を寄せていないわけだ。
「ポスドク」問題が現に生じている中、大学院の教員としてはアカポスにありつけないのは本人の責任で、アカポスに就けないで別の道に行くのも本人の問題なんだから、と言いたいのだろうけど、それはいかんだろう、と思うわけだ。アカポスに就けないのは、能力の問題同様に構造的な問題でもあるのに、そこに目を瞑って「アカポスに就けないみたいだね、ハイサヨウナラ」はないだろうよ。そんなこと言われたら、一般常識を知らない院生は絶望するしかなくなってしまい、鬱病になったり自殺したりするんだよ。だから、大学院にいるうちに、研究室に引き籠もってる院生に対してまともな自己評価と自己意識を持たせてあげる必要があるよ、というわけ。