はてなキーワード: 老衰とは
自己責任っていうか当時の政治屋達の手腕がすごかっただけだろ。
国民をまず世代で分断し、次に同じ世代内で格差を作り、最後には残った奴ら同士をラットレースで潰し合わせることで団結されることを回避した。
勝ち組は下手に負け組を助けて自分も巻き込まれたくないから関わらず、境界線にいる奴らは線引を強烈にして自分を安全圏に置くために負け組を蹴落とし、結果として孤立した負け組は政治的発言力を持つことなく底辺をさまようしかなくなる。
これは大不況時代の中で同和政策を完璧にやってみせたということだよ。
結果として全世代が失われた30年という膨大な負債を負うことになったが、当時のお偉方が老衰で死ぬまでの時間稼ぎとしてだけ見れば完璧だった。
当時権力を握った悪党が悪党として有能だったことを認めるしか無いんだよね。
まあその悪党に権力を握らせることだけで自分たちだけでも助かろうとした連中が卑怯者だったのは事実。
まあでも当時本当にやばかったのが日本国民全体の5%だとしても、元気な20代の若者が本気でデモ活動をしてたら世論は動かざるを得なかったと思うよ。
そういったマクロな努力を諦めてミクロな生存戦略を得ることを選んだ人間ばかりだったことによる思想的敗北でしょ。
この点については自己責任を問うていいと思う。
つまりは半々かなあ
このご時世、気軽に旅行にも行けない。
そんな中、友人間で流行っているのがdiscordでの思い出語り。
過去に友達と行った数々の旅行やお出かけの写真や動画を見返して懐かしみ、
「また行けるといいな」なんて言いながら、
その日がそう近くないことはみんなわかっているので、ちょっとしんみりして通話を終わる。
ふと思った。
100年後の俺がもし生きていたら、
老衰しきってもはや友達もお互いに五体満足に動けなくなっているかもしれない中で、
せめて過去に縋るときにはこの頃をこそ再び振り返るのではないか?
今まで撮った写真や動画は歴代のスマホ・ガラケーの中にたくさん詰まっている。
容量にすると多く見積もって1TBくらいになるだろう。
例えば向こう10年程度を想定するなら、適当なクラウドストレージにぶち込んでおけば
たまに見返したくなった時の思い出くらいは問題なく満足できるだろう。
ただし今俺が求めているのは、
・今まで撮ってきた思い出のすべてを
である。
たとえば、両親が財布に幼少期の写真をプリントしたものを大事に抱えていることがあるかと思う。
または結婚式のアルバムだったり、写ルンですで撮った褪せた写真の束なども実家なら存在するだろう。
白黒の文字のみを記録するのであれば紙媒体でも100年程度もつかもしれないが、
こと写真において破れたり色褪せたり滲んだり折り目のついたものではもはや満足はできない。
それに1TB分の写真・動画であり、物理媒体に保存した場合はたとえばこれからの引っ越しの際などに
ググったらちょうどいい記事が見つかった。
https://www.itmedia.co.jp/enterprise/articles/1508/26/news007_2.html
紙媒体にも触れていて、結論からすると電子媒体では100年後に残すことは難しいらしい。
続く記事にも、このあと触れようと思っていたクラウドストレージの問題点(データは保証されない、サービスの予期せぬ終了など)があり、
結局はたとえば今ならSSDかHDDあたりにぶち込んでおいて、
適宜マイグレーションを行いながら後世へとつなぐしか方法はないように思える。
ただ、これにも実は懸念があり、
例えば現在主流の圧縮形式、拡張子が100年後も現行で使われているとは限らないためその部分もマイグレーションが必要になり、
そしていつかはマイグレーションすらできないタイミングが発生しうるということだ。
その時俺はどうするのか?
もはや記憶の中の美化された各々の顔や声だけを頼りにするしかないのか?
誰か助けてくれ。
ちなみに26歳です。
反ワクチンではない立場で、「ワクチンの副反応による死亡の認定をもっとゆるく認めて4千万円の補償を出すべき」という意見をたまに見かける。
ある程度ゆるく国が補償した方が、「ワクチンの重大な副反応が隠蔽されているのではないか?」「国は過去の薬害事件のように副反応死を認めない立場に固執しているのではないか?」という不信感を払拭できて、新型コロナのワクチン摂取に及び腰な人を減らせるのだという。
しかし、たとえ「ゆるく認める」としても「ワクチンによる死亡」と「ワクチンとは無関係の死亡」の線引きをどこかでしなければならないのは変わらない。その線引きはどうすれば良いのだろう?
例えば、ワクチン接種から一週間以内の死亡には立証不要で全てに4千万円出す、と決めてしまうのだろうか? 自殺だろうが老衰だろうが、ワクチンが引き金になった可能性は否定できない、ということにして。
では、摂取の半年後に健康体の人が異様に見える症状で死んだケースは、気の毒だけど基準日を過ぎてるので門前払いとしてしまっても、国民のワクチンへの安心感は揺るがないのだろうか?
いや、半年後の変死も立証不要で補償するとするなら、変死と「自然な死(交通事故や末期癌?)」との線引きはどうするのか?
タイトルはもちろん反語で、そんな線引きは不可能、というのが自分の立場だ。
統計的にワクチン接種者の特定の症状(例えば血栓や心筋炎)での死亡が増えていたり、ある特殊な体質や環境の人がワクチン接種で死に至るメカニズムが解明されたり、そういう根拠が無い限り補償は認めるべきではないと考えている。
とは言ったものの、良い線引きの方法があるとか、実際に外国では日本よりゆるいこういう基準で補償がされている、というのがあれば参考に聞いてみたい。
不潔なもの、くさいものを好きだという人はあまりいないはずで、自分もそこに異論はない
ホームレスを助ける施設を作るな、という市民運動やデモ活動、プロ市民がいてもおかしくない
問題があるのは、まず影響力がある人が子供みたいな二元論でそれを語ること
ネコを殺してホームレスを生かそう、も問題がある主張のように思う
大人になるにつれて分かってくるのは、この世界は単純な二元論では割り切れないということ
人と人が憎しみ争い合うとき、それは正義と正義がぶつかっているということである
そういえば、昔小林よしのりが、正義と正義がごっつんこなんておかしい、
と漫画の1コマで描いていた覚えがあるが、自分はおかしいとは思わない
人と人は永遠に分かり合えない
食い違う利益、不利益によって人と人は争い続ける、それはおかしな話ではない
なるほど、そういう考えからいけば、
DaiGoの利益はホームレスを殺しネコを生かすことなんだろう
ただ、ここで少なくとも自分はそうは思わない
自分はネコに対して思い入れはない、寧ろあまり好きでないと思ってもいる
外見の可愛らしさとは裏腹に、ネコに対する恨みつらみではないが不満がないわけではない
そもそも、野良猫は狂犬病やダニを介した感染症を保持している可能性が高い
野良猫に引っ掻かれる、噛まれると冗談抜きで人は死ぬことさえある
野良猫は全然気楽でも自由でもない、苦痛な毎日を強いられている
ホームレスは自由気ままでいいよな、みたいに言う傾向がある気がする
そんなはずはないだろう
もちろん、そういう人がまったくいないとは言わないが、
ほとんどの野良猫もホームレスも、毎日が過酷な生存と死の隣合わせの生活のはずである
ネコを優先しろ、いやホームレスを優先しろ、色々な考えの人がいるだろう
自分はネコとホームレス、というか、ネコと人間、どちらの生命を優先するかと問われたら、
これは単純にエゴイズムの話でもある
いつか自分がその天秤に乗っけられる可能性があり、それを恐れるからである
世の中には色々な人がいるが、自分は好き好んで敵を作ったり、他人に恨まれたいとは思わない
ネコと人間、どちらを敵にするか選べ、というなら自分はネコを選ぶ
そんな妄言を唱えていたが、彼こそ人間よりイルカを愛する人であった
しかし、現在のイルカやクジラに対する科学的判断は当然ながら違っていて、
人間のような文明を築けるわけもなく、道具を作れるわけでもない
もちろん、自然の恩恵を受けて人間は生きている、農業が最たるものであろう
しかし、ホームレスよりネコを優先するという考えは、どこか自然優先主義を行き過ぎた、
エコとかロハスとか言いながら、反ワクチンを唱えながら、なんだかんだ電気を使っているような、
そんな薄っぺらい環境保護団体の人達とも似ているようにさえ思う
ホームレスという括りでなく、ひとりの人間としての括りで考えた場合、
そうすることが自分の利益にもなり、社会を維持するためにも必要だからだ
ネコが滅びて人類が生き残るか、それともその逆か、と問われるなら、
補足として、ホームレスで臭すぎる人がいるのは確かであり、街中で見かけることもあると思うが、
原因は様々あるだろうが、精神的な疾患が関わるケースが多いように思っている
そもそも知的障害があるとか、根本的な理由は単に不潔な人という話ではない
もしくは、近所のゴミ出し警察によってゴミを出しにくい、なんてこともよくある話である
社会を統治する立場からしても、生類憐れみの礼を出したバカ殿様であるまいし、
人間より犬猫の生命を優先するなどという話はあってはならないと自分は考える
シンエヴァの第三村にもネコはいたが、人間より優先されているわけではない
かといって、殺人鬼が人の前にネコやイヌを虐殺するようなことを許していい訳もない
人と人は分かり合えないのだから、そういう人の気持ちが自分には完全には分からない
寧ろ、その安直なトロッコ問題の後側に鬱屈したコンプレックスや不安を感じ取れる気はするが、
それを他人への攻撃に変換している時点で、他人は遠ざかっていくのではないだろうか
自分の抱えている不安があり、それについて他人や社会システムに救いを求めるべきなのに、
それを他人への攻撃に変換してしまう人というのは確かに存在する
もしくは他人に助けを求めたって裏切られるだけだ、だって今の社会はそういうもんだろ、
という厭世感がそうさせているのかもしれない
そういう空気が醸成される社会不安があるのも理解できる、今問題のコロナもそうだと思う
そうやって行った果てにあるのはデビルマンの最終回のような世界である
しかし、それで本当にいいのだろうか
①動物さんがかわいそう
→いや農作物作るときにオタマジャクシ死んでるよね?かわいそうじゃないの?そんなこと言ってたら何も食べられないよね?死ぬの?はい論破
豚はかわいそうだけどオタマジャクシはかわいそうじゃないって思う理由は何?それともオタマジャクシはかわいそうだと思ったうえで必要な犠牲だと思って食べてるの?それって偽善だよね?お前が死ねばオタマジャクシは生きてられたのにね
→じゃあ魚介類は食べれるよね?潮干狩りでアサリ取って食っても何の問題もないよね?
ヴィーガンの中にもフィッシュオイルは摂るみたいな奴もいれば老衰で死んだ牛は食っていいみたいな奴もいて、もはや一人一派状態になってんだわ。そんな状態でヴィーガンについて議論するのは不毛だし、なんなら俺もヴィーガンだわw畜産肉以外は食わないから。牛鶏豚は食うけど、猫とかは食べないからさw
俺は人間様以外の畜生は人間が自由に扱っていいっていうスタンスだから。だから豚は殺すけど猫はかわいがるみたいなことも矛盾しないよね?一貫性がある。豚はかわいそうだけどオタマジャクシはかわいそうじゃないですってスタンスの方が偽善だし矛盾してるよね?さらに言うなら猫が虐待されててもなんとも思わんね。グロ画像だから俺の前に見せるな、ネットに画像をあげるなとは思うけど、猫がかわいそうだとは思わんね。俺の方が一貫性があるよね?なんか反論ありゅ?
私の勤めていた会社に、ハナクソ決裁という習慣があった。
「ハナクソ」というのは比喩に聞こえるかもしれないが、そうではない。
汚い話で恐縮だが、文字通りハナクソを使って決裁するのである。
仕組みは簡単。
変なのは、その承認をする際、印鑑ではなく自分のハナクソを書類に押し付けることだ。
複数の部署に回覧する場合、その数だけハナクソが付けられることになる。
社長はいくつもの闇市をまわり、決裁のための印鑑を探したのだという。
しかし、食うにも困っていた時代のこと、印鑑など扱っている店はなかった。
そうしてやむなく代用品として考えられたのが、ハナクソであったのだ。
このエピソードは創業当時の美談として、社史にも掲載されている。
社訓である「創意工夫」の精神を体現する行動として、いまでも新人研修の定番ネタだ。
そのこともあり、廃止にしようという声はなかなか上がりにくかった。
もちろん、この奇習を苦々しく思っている社員は少なくない。
管理職だと一日に何件も決裁しなければならないので、ハナクソの掘りすぎで鼻血が慢性化している人もいた。
指を鼻に突っ込むハナクソ決裁は、感染対策の観点から不適切だとみなされるようになったのである。
こうしてはじめて常識的な衛生観念のもとで、ハナクソ決裁の廃止が議論されることになった。
さて、ここまでの動向を他人事のように見守っていた私にある通知が届いたのは、つい二ヶ月前のことである。
それは異動通知で、私を「鼻垢決裁廃止検討担当係長」に任ずるものであった。
ただ、とくに複雑な仕事というわけではない。
「廃止検討」といっても、そもそも既定路線のことだったので、審議も形式的。
「廃止するメリット・デメリット」などという体裁だけのパワポを作って各部署にレクチャーをするだけで、反対する社員などいなかった。
各部署への根回しが終わり、いざ廃止の稟議を提出しようかとなった。
しかし、当たり前だがこの時点ではまだハナクソ制度が廃止されていないので、本件の決裁にはハナクソを用いなければならないのだ。
この廃止には社内の全部署が関係するので、私は会社中を行脚してハナクソをコレクションするはめになった。
細かい話は割愛するが、この過程で腹の立った事例だけいくつか紹介しておきたい。
当然ハナクソは押せない。
こっちが困っていることを伝えると「じゃあ部下の○○さんに押してもらってよ」などと言う。
私も呆れ果て、どうせ本人かは分からないのでその部下に押してもらった。
弊社には「一課」「二課」のように分かれている部署があって、その課長同士はライバル関係にある。
決裁にあたっても、相手よりもデカいハナクソを押さなければみたいな意地があって、良いハナクソが出るまでなかなか書類が戻ってこない。
複数が一度に剥がれてしまい、どれが誰のだか分からなくなることもあった。
が、この頃にはもう面倒になっていて、ランダムに糊付けして直した。
この三例だけでも分かるように、この業務は相当のストレスで、ハナクソが揃うにつれて、私はどんどん体調を崩していくことになった。
ある日、急な胃痛を感じ、私はほぼ完成した決裁書類を片手に持ったまま、トイレに駆け込んだ。
程なくして無事にひとまずスッキリしたあと、個室に紙がないことに気づいた。
どこかに紙がないか、とあたりを見回したが、適当なものは見当たらない。
ガックリして肩を落としたとき、自分の手に握られた一枚の紙が目に入った。
いやいや、これで尻を拭くわけにはいかない。
と、はじめは思った。
しかし、本当にそうだろうか。
手に握られた書類には、色とりどりのハナクソがひしめき合っていた。
それらの一つ一つが決裁にとって欠かせないものであったが、いまの私には、それに実質があるとはとても思えなくなっていた。
ただのハナクソになんの意味があるというのだろう。
そのハナクソを廃止するために、さらにハナクソを集めなければならないなんて、なんて馬鹿げたことだろう。
そんな馬鹿げたもののために、自分の尊厳を犠牲にしてパンツを汚すなんて、不条理ではないか。
私は手元の紙切れをもう一度じっと見て、それを握りしめる。
そして、それを四つ折りにして、肛門を拭いた。
力強いひと拭きは、腹痛で汚れてしまった肛門をじっくりと撫でていった。
その日のうちに、私は辞表を提出した。
アホらしいことに、辞表にも本人のハナクソが必要なのだという。
私は、いま出せるありったけのハナクソをそこに押し付けてやった。
帰り道、立ち止まって深呼吸をすると、緑の匂いが強く感じられた。
そうか、これから夏がやってくるのだ。
ハナクソがなくなってはじめて、私はこのことに気づいたのだった。
父が亡くなった。84歳だった。
ものが食べられなくなり、胃瘻や延命措置も断ったので、老衰といってもいいと思う。
慌ただしいながら滞りなく葬儀が過ぎ、四十九日の法要も終わり、私の手元には父の腕時計がある。
私が初任給で買ってプレゼントした国産の腕時計。値段は1万円ほど。
もう30年も前の話だ。
よくお酒を飲んでは、「これは○○にもらったやつで、水に濡らそうがびくともしない、電池も変えることもなくいつまでもちゃんと動いているいい時計だ」(単に防水でソーラーだっただけだが)
と自慢げに満足そうに笑っていた。
形見としてもらった時はもう動いていなくて寂しかったのだが、陽にあててしばらくするとまた、動き出した。
なんだ。まだ動くんだ。