2021-06-08

ハナクソ決裁の廃止

私の勤めていた会社に、ハナクソ決裁という習慣があった。

「ハナクソ」というのは比喩に聞こえるかもしれないが、そうではない。

汚い話で恐縮だが、文字通りハナクソを使って決裁するのである

仕組みは簡単

まず、社内の決裁が必要場合稟議書類を提出する。

これはふつう会社と同じである

なのは、その承認をする際、印鑑ではなく自分のハナクソを書類押し付けることだ。

複数部署回覧する場合、その数だけハナクソが付けられることになる。

なぜこのような文化が生まれたのか。

弊社はそれなりに歴史があって、終戦後すぐに創業している。

当時の東京焼け野原であった。

社長はいくつもの闇市をまわり、決裁のための印鑑を探したのだという。

しかし、食うにも困っていた時代のこと、印鑑など扱っている店はなかった。

そうしてやむなく代用品として考えられたのが、ハナクソであったのだ。

このエピソード創業当時の美談として、社史にも掲載されている。

社訓である「創意工夫」の精神体現する行動として、いまでも新人研修定番ネタだ。

そのこともあり、廃止にしようという声はなかなか上がりにくかった。

もちろん、この奇習を苦々しく思っている社員は少なくない。

管理職だと一日に何件も決裁しなければならないので、ハナクソの掘りすぎで鼻血が慢性化している人もいた。

歴代社長など、みな鼻の穴が大きくなっているのである

新入社員のころ、上司からこう言われたこともあった。

「この会社では、尻の穴と鼻の穴の大きいやつが出世するんだ」

しかし、新型コロナ流行が転機となった。

指を鼻に突っ込むハナクソ決裁は、感染対策観点から不適切だとみなされるようになったのである

こうしてはじめて常識的衛生観念のもとで、ハナクソ決裁の廃止議論されることになった。

さて、ここまでの動向を他人事のように見守っていた私にある通知が届いたのは、つい二ヶ月前のことである

それは異動通知で、私を「鼻垢決裁廃止検討担当係長」に任ずるものであった。

ただ、とくに複雑な仕事というわけではない。

廃止検討」といっても、そもそも既定路線のことだったので、審議も形式的

廃止するメリットデメリット」などという体裁だけのパワポを作って各部署にレクチャーをするだけで、反対する社員などいなかった。

だが、うんざりさせられたのはその後である

各部署への根回しが終わり、いざ廃止稟議を提出しようかとなった。

しかし、当たり前だがこの時点ではまだハナクソ制度廃止されていないので、本件の決裁にはハナクソを用いなければならないのだ。

この廃止には社内の全部署関係するので、私は会社中を行脚してハナクソをコレクションするはめになった。

かい話は割愛するが、この過程で腹の立った事例だけいくつか紹介しておきたい。

1. 在宅勤務で全然出社しない係長

当然ハナクソは押せない。

こっちが困っていることを伝えると「じゃあ部下の○○さんに押してもらってよ」などと言う。

私も呆れ果て、どうせ本人かは分からないのでその部下に押してもらった。

2. 他部署と張り合う課長

弊社には「一課」「二課」のように分かれている部署があって、その課長同士はライバル関係にある。

決裁にあたっても、相手よりもデカいハナクソを押さなければみたいな意地があって、良いハナクソが出るまでなかなか書類が戻ってこない。

3. ハナクソの乾燥した部長

部長級になると老衰によりハナクソも乾燥している人が多い。

そうすると押してもしばしば短時間で剥がれてしまう。

複数が一度に剥がれてしまい、どれが誰のだか分からなくなることもあった。

が、この頃にはもう面倒になっていて、ランダムに糊付けして直した。

この三例だけでも分かるように、この業務は相当のストレスで、ハナクソが揃うにつれて、私はどんどん体調を崩していくことになった。

ある日、急な胃痛を感じ、私はほぼ完成した決裁書類を片手に持ったまま、トイレに駆け込んだ。

程なくして無事にひとまずスッキリしたあと、個室に紙がないことに気づいた。

どこかに紙がないか、とあたりを見回したが、適当ものは見当たらない。

ガックリして肩を落としたとき自分の手に握られた一枚の紙が目に入った。

そう、それはハナクソ決裁書類である

いやいや、これで尻を拭くわけにはいかない。

それくらいだったら、自分パンツを汚したほうがましだ。

と、はじめは思った。

しかし、本当にそうだろうか。

手に握られた書類には、色とりどりのハナクソがひしめき合っていた。

それらの一つ一つが決裁にとって欠かせないものであったが、いまの私には、それに実質があるとはとても思えなくなっていた。

ただのハナクソになんの意味があるというのだろう。

そのハナクソを廃止するために、さらにハナクソを集めなければならないなんて、なんて馬鹿たことだろう。

そんな馬鹿げたもののために、自分尊厳犠牲にしてパンツを汚すなんて、不条理ではないか

私は手元の紙切れをもう一度じっと見て、それを握りしめる。

そして、それを四つ折りにして、肛門を拭いた。

多くの部署回覧たこ再生紙は、ほどよく柔らかい

力強いひと拭きは、腹痛で汚れてしまった肛門をじっくりと撫でていった。

その日のうちに、私は辞表を提出した。

アホらしいことに、辞表にも本人のハナクソが必要なのだという。

私は、いま出せるありったけのハナクソをそこに押し付けてやった。

帰り道、立ち止まって深呼吸をすると、緑の匂いが強く感じられた。

そうか、これから夏がやってくるのだ。

ハナクソがなくなってはじめて、私はこのことに気づいたのだった。

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