はてなキーワード: ハンサムとは
最初はTwitterのサブ垢で軽く呟こうかなと思って書いてたけど、テーマがテーマなので、熱いお客さんを呼ぶと面倒だなと思った。
でもせっかく日頃考えていたことを言語化したので、この形で残しておくことにした。
元々は女性差別の流れから、「美人だという理由で差別されることもある」という趣旨の文を見かけて、これは常々そう思っていたことだったので、差別について個人的に考えていたことを書き始めました。
(※私は美人ではない)
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私は性別による役割分担については、肉体の構造や脳の仕組みの違いがある以上、あって然るべきだという考え方だ。
ある程度人を見た目で判断・区別するのも、生物の本能だから仕方ないことだと思っている。
それとは別に、人が決める枠によって自分のポテンシャルや意欲を阻害される体験をして、それをハンデだなぁと感じることもある。
私は結構いい年の女性だが、技術職なので年齢由来のハンデは受けにくい。それでも経験が長くなるにつれ、性別由来の固定概念の枠(ハンデ)を感じることも増えてきた。
枠に柔軟性がない人や、そもそも枠自体認識しておらず、自分が枠を設けて外を見ていないという自覚もない人もいて、そんな人達に自分を理解してもらえるようアピールしても、見えてるはずなのに認識されなかったり、スルーされたり、一時的に理解されたと思っても、翌日には忘れ去られたりする。
そんな時は、性別や見た目という枠なしで見てほしいなぁと思う。
特に、枠外にあるものが自分の本質に近ければ近いほど歯がゆい。
人が慢性的に不利益を受けたりストレスを感じるような枠組をつけられることを差別というなら、私も日頃、差別を経験していると言っていい。
ほとんどはストレスを感じながらも、仕方ないことだと思えることなので、声にすることはないですが。
性別は枠の切り口の一つであって、もちろん男性も差別されることがあると思うけど、女性のほうが、填められる枠が強固というか、本人の意にそぐわない、社会性も強い類の枠の種類が多い気がする。
それが感じる側の問題なのか、区別する社会側の問題なのかは意見が色々あるだろうけど、感じる側が我慢するより、受け入れる側を(可能な限り)柔軟にするというのが、社会が目指してる方向性だと思う。
なので、枠の存在を忘れがちな人にリマインドすることは必要だ。
多少うるせえなと思われても、度々リマインドされることで、枠の認知度は上がっていく。社会全体の方向転換に少しずつ繋がるだろうと思うので、活動家の方々の頑張りには意味がある。
個人レベルでいうと、各々自分が持っている枠を柔軟にしたり、枠を持ってるということ自体を自覚して、意識することは、基本的に不利益はないはずだ。人間関係は円滑になるし、相手だけじゃなく自分のメリットにもなる。
少し話は変わるけれど、社会性が低めな事柄でも、枠に填められることで感じるハンデがあると思う。
劣っている側が、優れている側を差別するということも、間々あると思う。
例えば身分が違ったり、めちゃくちゃリア充だったり、凄い美人だったり、ハイパーお洒落人間だったりすると、わかり合えない気がして距離を取られる。
またはやたら崇めて理想化する。
そうすることで、本当は似たもの同士なのに親しくなれなかったり、欠点もあるのになんでも簡単にできてると決めつけられたり、振る舞いを過剰に期待されたりする。
これを差別と呼ぶかは人によると思うけど、見てほしい本質が枠の外側にある人にとっては辛いことだろうと思うし、根本は人種差別と同じだ。
「美人であることで困ることなんて大したことじゃない」と決めつけるのはフェアじゃないと思う。
こんな偉そうなことを書いていると、まるで私が、誰にでも分け隔てなく接することができるかのようだけど、まったくもってそんなことはない。むしろ人をジャンル分けするのが好きな質だ。(語弊があるかもしれないけど事実そうだ)
単に枠組みで見た時には、リア充もハンサムも過剰におしゃれな人も苦手だし、外人も(たとえ日本語が喋れても)わかり合うのに障害があると思う。「男は」「女は」という切り口で性質を語ってしまうこともある。違いがある以上、多少のステレオタイプは事実存在する。
でももしも個人レベルでご縁があった時には、できるだけ自分の中にある枠をなくして、フェアに接することができるようになりたいとは思っている(できてるとは言ってない)。目下取り組み中だ。
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余談だが、「(500)日のサマー」という映画で、私は初めて美人のハンデについて考えた。私はサマーがとても可哀想に感じたんだけど、フラれた主人公側に感情移入して、彼女を小悪魔だ気まぐれ女だとレビューしてる記事も見かけた。(主人公視点ではそう見える)
もちろん彼女は自由な基質だったけど、あんなふうにYesマンに崇められたら、そら付き合い続けることはできない。
映画チラ見して当時の物申すみたいな勢いの美醜周りへの批判とか思い出して色々考えたから覚書き
その当時の批判の主流は心の美醜が見た目に繋がるような表現に違和感があるみたいなのでそこに繋がる感じで野獣が王子に戻ったラストに心云々言っといて結局それかよ、美男美女かよだとか野獣の方がかっこいいしとか野獣のままでハッピーエンドでいいじゃん的なのが付いて回っててその時はあんまよくわかねえというか最初の以外はそれ批判以前のただの感想やんけ!(感想は自由)ってなってて(最初の違和感にも違和感があったけどそのままにやってた)それで今改めて考えたのはそもそも美醜で人間を判断してた王子がベルという美しくはあるけどそれに囚われない知性ある女性と心で惹かれ合い醜い心の象徴とするその野獣の姿で愛を成就しなんてざっくり内容からして物語としての教訓は見た目で判断する事の愚かさ真の愛はそこに囚われない(ロマンチック)って事だろうしベルの美しさはディズニーにおいてのプリンセスやヒロインに課せられるメタ的なルッキズム的価値観によるものでも当然あるけれどそれは美女と野獣という作品への批判としては的が外れているように思うしむしろこの作品においては美醜を扱う上でベルが美しいとされ知性や冒険心と並び持つとする事でこそその中からベル自身が何を選び大切にするかの選択が意味を持ち生きてくるように思うから王子の美しさと共に決して物語に必然性のない美貌ではなく魔女のそれにしてもまさにルッキズム的な王子に対する皮肉としてで解ければそこを否定する事になる呪いを与えてるとこからもむしろルッキズムを悪としているようにしか見えなくて批判で言われてた違和感への違和感の正体はそこへの漠然とした何でこの話でそんな事思うんや…というやつだったんだと思う
それはガストンに顕著で元々アニメでヒーロー的な外見でハンサムという設定ではあったけど見ようにはそうでもないキャラクターデザインだったガストンに実写でルークエヴァンスがあてられた事で美しい見た目に美しい心が宿るというようなルッキズムを否定するキャラクターとして野獣との対比もよりはっきりとなってそのハンサムさはベルや野獣の心を引き立てる装置としてやっぱり皮肉的に使われたわけだから作品としてルッキズムに則るのならそれこそシンデレラの最初のアニメ(作品追うごとにそうでなくなっている)のようにガストンがルッキズム的美醜観において醜いか善い人間であるべきで敢えてそうしていないのはそれがメッセージの一旦であるという証拠でもあると思う(すごいぞガストン)
じゃあ何でそんな批判を思うのかとも考えて単純に物語としてじゃなく表現の部分部分に気を取られちゃう形になっちゃったのかなっていうのと後はそういう発想それ自体が単なる美醜じゃなく絶対的で客観的な美がカーストのように存在するというようなルッキズム的前提でもって無意識にでも恣意的になされているのじゃないかって事で冒頭で野獣のかっこよさを示す事を批判以前の感想としたのは王子という美しい存在に対する醜いとされる野獣という構図の上で野獣の見目を讃えて"美"であるとする事だけではただの作中における美醜の定義への抗議またはむしろ逆に作品がルッキズム的であるという批判内容を否定する(野獣を客観的に美しいとするのは作中の醜いという定義は外見を指すものではないもしくはキャラクターの主観を越えるものではないとする事で作品として見た目に心を比例させているという批判は当て嵌まらなくなるように思う)もので美を是とするルッキズム的であるという前提に立った批判として体を為してないのではないのかと思ったからだけどもでもそれが野獣をかっこいいとする価値観はルッキズム的な本来の(あるとしている)美醜観に沿うものではないのでそこ自体への反発の提示が批判の一旦になるのだという発想の元されたと考えれば批判としてはそこの意味に限るなら理解できるしまた野獣の姿を醜いと定義するそれこそをルッキズム的だという意味でのまずそこからの違和感であるならとも思うけど批判とやってそこに客観性を持ち出すのであれば野獣をルッキズム的美醜観による被害者であるとするのはその見た目を作品内での単なる主観的文化的役割としてでなくルッキズム的な定義によって作品を越えたとこで醜いとやっているわけで本来ルッキズム的美醜と美醜はイコールではなく真理として絶対的な美を定義するものでもないのに作品内での美醜についての価値観を語るのにわざわざそれを作品へ持ち込み批判材料としたのはその当人がそこにルッキズム的基準における美醜を見たからに違いなく美女と野獣はルッキズム的価値観において野獣を醜いものとしている、という批判はそういう事ではないのかという話で
それらは全部今回自分で当時を思っての単なる仮定であるんだけどそんな批判を挙げたのと同じ層からその後シェイプオブウォーターを美女と野獣のアンチテーゼだとする意見が出て(監督は否定してた)明らかにそれが"彼"をルッキズム的弱者とする前提の上で敢えて美しさと定義しているとやって監督がただ美しいと思うものを美しいと描いているというようなルッキズムとはまさに反対にある主観的美醜観という視点が丸々端から欠如した美しいものをそう描く作品とそうでないものを美しいとする価値観で描く対比の構図と捉えたものだった事を思うとあながち間違いでもないように見えるし(客観的な美しさを定義するとしているルッキズムに美しさは一概には定義できず個人的宗教的文化的なものであるという主観的美醜観で対するのならアンチテーゼとし得るけどそういう論理での批判は自分は見かけなかった)美女と野獣のラストを美醜に重点を置き"結局それかよ"と受け取るのも"見目の美しさは心の美しさに比例する"と判断するその過程でその醜さを作品における主観的な域のものでないとするまたそれを見出すのに野獣という存在が含む要素やその世界での立ち位置でなく外見のみに焦点を絞るその視点も(実際フランス版では王子の外見的な美醜より傲慢さが醜さの象徴としてフィーチャーされている)見た目が重要だとするルッキズム的価値観に左右されてのものにも思えるし王子の姿にしても野獣の姿からの解放は作品で醜い心を象徴すると定義されている以上心の変化を客観的に証明するためのもので言うなれば愛の象徴であって(野獣の姿はベルに真の愛が満たされていない事を示す)外見なんて関係ないのならそれこそ望まれるものであるはずなのにそこを否定するのは"王子の美しさ"という見た目に囚われその他の要素より重要視している事に他ならないのだしそれはまさにルッキズム的価値観に則ってまずわざわざ美醜を選り分けてそこからそれらを"美しいもの""醜いもの"という絶対的な前提において肯定否定する事がルッキズムの批判になるというような無意識のルッキズムというかそれは言うなら
美しいか醜いかなんて誰が決めたの?ルッキズムなんて!見た目で判断とか最悪!
というのに次いでの
という言い様で○○ちゃんと○○ちゃんを普通にかわいいと思う人間の美的感覚をルッキズム的基準でそうでないぞと正面から否定しカースト内の位置を告げるみたいなものでシェイプオブウォーターにおけるそれは
××くん○○ちゃんのこと好きなの?見た目じゃなく中身で見るんだね!いい事だよ!
もしくは
××くん"には"○○ちゃんがかわいいんだね!素晴らしいことだよ!
というようなやつでその上で自分は美醜で人を判断しない公平な人間だと主張するような話でそれは批判として果たしてというかルッキズムへの批判のためにはルッキズム的価値観においての美醜を踏襲しなきゃいけないというパラドックスを思ってなのか(そんな必要には特にない)それこそ考えれば考えるほど違和感でいっぱいになるという話で
要はルッキズムとか言ってないでふたりとも愛を見つけてその証に野獣は呪いがとけてハッピーエンド万々歳やんけ!でいいと思ったという話
私の曾祖母はあることを成し遂げた人でドラマ化もしたことがある。私が産まれる前の話しだ。
曾祖母は醜いと言われて育ったそうだ。顔も整った造形ではなく肌も浅黒く骨も太かった。嫁の貰い手があるのか心配され、顔を補うためにと料理裁縫をみっちり仕込まれ、でもあることへの才能が開花し、その道に全ての情熱を捧げる生き方をした人だ。
曾祖父はそんな曾祖母の才能や情熱に惚れ込み結婚した。曾祖父も小柄で気弱そうな人で美男子では全くなかった。
そんな曾祖母と曾祖父の物語のドラマが私の母が子供の頃に作られた。曾祖母と曾祖父の役はとても美しい女優とハンサムな俳優が演じた。
テレビではドラマを見て「○○(曾祖父の名前)が羨ましいって嫉妬したけど実物の写真見たらほっとした」「結婚しようと思ったことを尊敬した」という芸能人たちの会話も堂々と笑い話として流れていたと聞いた。
曾祖母は深く傷ついたという。容姿のハンデを努力と才能と情熱で乗り越えた人の、その最も根深く過酷で深い差別を跳ね除けて誇り高く生きた女性を、そのドラマは美形化することで侮辱した。
私は曾祖母によく似てるようだ。幼い頃からブスと罵られることを何度も体験してきた。ほんの少しでもマシな顔だったらと何度思ったかわからない。
容姿への差別は自分にとって人種差別より女性差別よりもずっと身近で現在進行形で当たり前のように存在している。
そして、朝ドラなど実在の人物をドラマ化する度に思う。なぜ美形化するのかと。
黒人の偉人を白人が演じたらどうだろうか。あきらかに顔で差別を受けただろう人を、何か利を得たことがなかっただろう人を、美形化することはこの根深い差別を助長する行為じゃないだろうか。
なんて直接的に一対一で言われた経験ならある人もない人もいるだろうけど、
だって女の人って男らしくない男とか大嫌いじゃん
「男性も男らしさに縛り付けられる必要はありません、自分を開放しましょう」なんて尤もらしいこと言ってた
フェミニスト代表のエマ・ワトソンが自分は男らしさの象徴みたいな所謂ハンサムとばっか
いや別に女性が悪いとか言ってるんじゃないよ?好みが偏るのは本能みたいなもんだから仕方ないし、恋愛は自由だし。
でも結局男にとってモテないことは苦しみなんだよ
男が女を好きな以上ととってつけたみたいなポリコレ理論なんかでこの呪縛から開放されることはないんだよ
「男性も男らしくある必要はないよ、でもそんな男私は相手にしないけどね」
それじゃ意味ないんだよ
20代前半、私が興味を持った瞬間から、インターネットがあるようです。スマホは高校生として人気になり始めました。
LINEは電子メールよりも主流であり、インターネットは特別なものではありません、私は現代から疲れています。私は主要な事柄を調査することができた時間にうんざりしました。
見栄えが良くない声優がハンサムな男であっても、流行したり、可愛くなくてもうるさいサブカー系のアイドルは可愛すぎます。
その一方で、私のお気に入りのテレビ番組はSNSから批判され、時代には適さないと要約されました。
私は同情することはできません、「そのような悪い男をごめんなさい、ごめんなさい。悪いことはすべての対戦相手です!私はあなたを悩ませていません。」 私はそのような投稿に対して信じられないほどの反応を聞いた。
私はテレビが国民的スターを作ったと確信しています、そして私は誰もが彼らが好きなものを好きになった日々に時間があったと思います。
私がけがをしたと思うのはあまりにも多くのことを感じます。私が住んでいると痛いでしょう。SNSの犠牲者であっても言葉にはならず、人々を傷つけただけではありませんが、絶対に傷ついた人々がいるに違いありませんが、私が傷つくとすぐにそれは拡散します。
結局のところ、私はそれがメディアに関係なく首尾よく話すことができる人々だけが痛みを表現することができる時代になったと感じます。
私は自分自身を常識に理解させることはできません。あなたが少しのボタンの不一致であなたの対戦相手にさえ少しでも傷つけたならば、私はそれが全世界のための悪の根源であるかのように描かれました。そして、猥褻な言葉がたくさんあります。
今こそ、少数民族を大切にする時です。私はただ自分の感性に基づいて生きていますが、あなたが少しでも傷ついたならば、それがこのことが多数派の男に言われたのは貧弱な少数派の物語になるでしょう。
私が言いたいことが分からない。
ある町にオナホおじさんがいた。おじさんは50代の独身。やや頭髪が薄くはなっているが、見た目はそこまでキモオタではなく、むしろそこそこハンサムである。
だがおじさんはグロメンでもないのに悪い意味でよく町の話題になっていた。おじさんのファッションは公然猥褻に当たるのかどうかと。
おじさんはいつもズボンのチャックを開け、そこに非貫通型のオナホをぶっさしている(ズボンのチャックは全開ではなくオナホをぶっさした後にきつく締めなおしている)。ネームプレートを首からぶら下げるように、おじさんは首にひもをかけオナホを吊っていた(ひもとオナホはガムテープで固定してある)。ひもがズボンのチャックから突き出たオナホを支え、だらりと垂れ下がらないようになっている。オナホはペニスが勃起しているかどうかにかかわらずいつでも安定した位置を取ることができる。
当然人々の関心は「オナホの中はどうなっているのか?」ということにある。
おじさんのペニスがそこにあるのか、あるいは本当に単なるファッションとしてジョークグッズであるオナホをそこに装着しているのか。
もしもズボンから生のペニスが突き出ていてそこにオナホが覆いかぶさっているという状況であれば、それはまあまああれだろう。逆に単なるファッションなら何の問題もないはず。
あるいはそもそもオナホの中にペニスが入っていても、オナホは服の一部だから公然猥褻には当たらないのだろうか。おじさんは服の中にペニスをしまっているわけだから。どこまでが服でどこからが服ではないのだろうか。
あるいはおじさんは実はおばさんなのではないだろうか。
結論を出すにはおじさんのオナホを取る必要がある。しかしそんな勇気のある人はいないので、おじさんのペニスがどういう状況にあるのかはわからないままだ。
「男性も男らしくに拘る必要はありません」なんてもっともらしいこと言ってたエマ・ワトソンが結局自分は男らしさの象徴みたいなハンサムばっかと恋愛してて反フェミに叩かれてたみたいな。
結局そのポリコレ率い手だってあんなしょーもないエロラノベに頼ってるキモヲタを恋愛対象として見れるかって言ったらそりゃそんなわけないわけで、
そういう薄く伸ばしたポリコレにも問題視されないレベルの差別で性愛や生殖から完全排除されてる性的弱者がああいうもんに頼ってる背景があんだろうに、
で、結局ポリコレ的な優先度で言えばエロ本であれやこれや妄想せざるを得ない弱者よりも架空の女性が性的消費されることによる性差別()が優先されちゃうんやろ?
なーんか歪な形だなぁって。
昔は「エロ本/エロゲなんかがあるから性犯罪が発生するんだ!」って言ってたかと思うと
まあ大したエビデンスも得られなかったのか「ゾーニングぐらいはちゃんとやろうね!」ってくらいに落ち着いたかと思ったら今度は
「エロ本なんて女性を性的消費して道具扱いしてる!それ自体が悪だ!性差別だ!」かよ
いやこんなん言い出したらゾーニングとか関係なくAVどころか二次エロ本すら全部アウトだし
逆に少女漫画が長身のハンサムばっかなのも仮面ライダーを毎年イケメンがやるのだって性的消費じゃん
下手するとオードリーヘップバーンの美しさを語るのすらルッキズム主義の社会悪とか言われかねんわ
やだよ俺ポリコレに配慮してブスしかいない恋愛作品見せられたり誰も憧れないダッサい男が仮面ライダーやらざるを得ない社会なんて。
お客様がめちゃくちゃ来た。出勤した20時から26時までほぼ休憩なしの営業だった。全体的に下のお触り多めの日。会話もせずにお触りに入る方がほとんどで記憶がないあああああああああああああああ。おっぱいの調子も良くなく、触られるとくすぐったい不愉快な日。
1人目。おじさん、ふつうの冴えないおじさん。私は猫カフェの猫だと妄想して接客。場内指名もらえた。すぐ忘れてしまいそうなおじさんだけど、指名で帰って来そうだから覚えておきたい。10番の席。
2人目。お笑い芸人の小藪に似ているお兄さん。淡々とおっぱいについて語る。「おっぱいって揉んでるだけで幸せになれる」乳に顔埋めて満面の笑みになる瞬間、こちらも幸せ感じる。
3人目、スーツおじさん。そのオーラは裸の大将。酔っ払っているのもあり、お触り激しめ臭い痛いべちょべちょ。ボーイさんに助けを求めるも無力。AVのレイプものってこんな感じだよなって、愛が欲しい。
4人目、スキンヘッドお兄さん。チャラチャラしたアクセサリーをつけるヤンキーっぽい(これは偏見)連れに怒られるからと、名刺を置いて帰る。早く怒られたらいいのに。
5人目、同僚についてきた、眠気限界おじさん。ビール片手にうつらつうらしている。お喋りメインだけれど、会話は弾まず。お父さんと同じ歳です〜って言ったら一気に現実感出てしまったので言わないようにしよう。
6人目、本指名の方。毎週、閉店間際に来る。延長しないようにするためらしい。外で会いたいと言われるが、それば禁則事項なので出来ない。時給の出ていない私はまた違う私やで。ニコニコキスして誤魔化すことしかできないのが心苦しい。どう対処すればいいのだろうと考えて半年くらい経つなぁ。
7人目、ハンサムなお兄さん。当たり障りない会話だけで終わりそうだったのでひとりキス我慢選手権を開催。無意味に距離を詰めて「キスしたいな」のひと言で見事勝利。乳舐めまでいく大勝利。
8人目、長渕剛のライブ帰りのお兄さん。長渕剛のマフラーと帽子をかぶり、ご満悦な様子。ライブのお話だけで終了。
あと15人くらいお相手したけれど、思い出せない。席の場所と顔は思い出すけど、内容がない。お客様はほんの40分にネズニーランド並みのお金をかけている。そんなに価値のあるものなのかお金は、ネズニーランドは、女の子は。