はてなキーワード: 焚き火とは
俺は中学生くらいの頃から「ぼんやりと雲を眺める」とか「山の中で何もせずに過ごす」とか「海をただ眺めて帰る」みたいな行為に憧れを覚えていて、実際そういう類のことをときどきやってみるんだが、ちょっとびっくりするくらいすぐ飽きる
たとえば家の近くの川沿いを歩いて、河川敷に下りる階段の途中に座ってみる
薮がすげえ繁ってるんで川面は見えないんだが、せせらぎは聞こえるし、ウグイスはいい感じに鳴いてるし、ふと横を見るとサワガニもいたりして、大変よろしい感じがする
人も通らないし、存分にもの想いにふけれる
実際にふけるんだ
そんで、ああもう十分堪能したぞ、これは30分くらい経ってますねえ!と思って立ち上がり、時計を見てみるんだ
7分しか経ってない
マジでびっくりするんですよ 俺、豊かな気持ちになってたつもりで、7分で飽きてんじゃん!
いつもそうなんだ
都会にいた頃、夜に散歩してて、デカい幹線道路にかかった歩道橋を見つけ、なんとなく上ってみたら、下を通っていく大量の車をみるのが思いのほか楽しかった、なんてことがある
道路は都市の血管や!俺はいま都市の脈動を感じている!もう1時間くらい見てるんじゃないか?今回は景色に動きがあるし、少なくとも30分は見てますねえ!
そう思いながら一応時計をみたら15分も経ってなかった
万事その調子
「豊かな人間になりたい」って動機ありきで形から入ろうとしてるのがまずよくないんだろうし、よく考えるとそもそも雲を眺めるみたいな行為への憧れのもとがNARUTOのシカマルな気すらする
戦う前から負けてるのかもしれないし、そもそも何と戦ってるんだ
というようなことを、焚火増田をみて思いました
俺は夜の海に行って焚き火してる人がいても、カップルがいても、「ゲッ人おるやんけ!まあええわ」くらいのことしか思わず、多分15分もしないで帰るんだろうな
貧しい人生ですこと!
俺は海沿いの街で暮らしていて、二日に一度くらいの割合で仕事が終わってから浜辺に焚き火台を出して一人で何時間も火を焚いているという、あんまり頭の良くない趣味を持っている。
職場から家に帰ってきて焚き火台と薪を持って浜まで行くと、始められるのがおおよそ19時過ぎで、何回もやっているくせに木が炭になる時間の感覚がいまいちつかめないのもあって、「俺はいま焚き火をやってるな」と実感できる数の薪を燃やしていると綺麗に燃え尽きるのが21時半ぐらい、それからようやく夕飯を食べ始めるのでやっぱり馬鹿なんだと思う。
季節で日が落ちるのが遅いけれども、灯りのあまりない海岸なので、20時を過ぎるとかなり暗くなる。自動車が道路を行き交う音と海鳴りが聴こえる闇の中にいるのは俺だけ…では意外となくて、砂浜に降りてくる道のコンクリートで舗装された突端に、よく誰かが二人で座っていたりする。
それは必ずしも決まった人たちではなく、異性のペアだったり同性だったりする。恋人だったり友人だったり、他人があれこれ言う組み合わせではなかったり、色々あるのだろうと俺は思う。
…
ところで、2時間以上も一人で焚き火の薪をつつき回している俺が言うのもなんだが、夜間、硬いコンクリートに座りながら暗い海を二人でずっと眺めているというのは、不思議な時間の使い方に思える。
別に聞き耳を立てているわけではないから、本当の雰囲気などわからないのだが、楽しくて仕方がないという具合に談笑している感じでもないのだ。ただ静かに二人で一緒にいるだけ、というように見える。
ハタから見ていて、俺はいつも、まるで奇跡みたいな関係性だな、と考えてしまう。彼女・彼らは毎回同じ二人組ではないので、その組み合わせが意味するところも当然いつも異なるわけだが、ああやってただ二人で海を眺めていられる関係性がこの世で成立しうるんだな、と驚いてしまう。
俺には、こういう時間の過ごし方を共有できる誰かがいるなんて信じられない…のは半分本当、半分嘘で、学生の頃に好きな女子とデートしてるときとかは、緊張でろくに話ができなくても、2時間3時間があっという間に吹っ飛んでたな、とも思う(相手の方がどう感じていたかはわからないが)。アインシュタインが相対性理論のたとえ話で語った(とされる)ストーブと女の子の例えと一緒だ。
よく考えてみたら、一番仲の良い友達とだったら、俺にも海で同じことができる気もする。思い出話と「暗っ」「寒っ」だけで海で2時間つぶせるかもしれない。
…
そうすると、ああいう関係性は俺たちの人生で意外と多く起きているのか。母数の大きな現象を奇跡と表現するのは矛盾しているわけだが、実際に目にする夜間の海に向き合う二人の人間の寒々しさとお互いの信頼感みたいなものの雰囲気は、第三者から見ると、やっぱり奇跡と呼びたくなる非現実感がある。
おい、お前らはいま奇跡を起こしてるぜ、と俺は焚き火の世話をしながら思う。俺たちの人生は、上手く何かがかみ合えば、時々ああいうことを起こしうるらしい。
…
ただ、ああいうことはきっと若いうちだけなんだろうな、という気もする。
俺個人で言えば恋愛方向で同じことをやろうとしたら、もう気恥ずかしいわ相手にも迷惑だわでやりようがないし、友達とだっていつか厳しくなるだろう。それが身体的に老いていくせいなのか、精神の方に齢とともにへばりついてくる余分なものがあるせいなのかはわからないが、俺の人生でああいうことができる機会と相手は、減りこそすれど増えることはおそらくないという予感がある。
それも含めて奇跡なんだろうと思う。ただ希少というだけではなく、人生のある時期を越えると、もう二度と起きることがないという意味で。
だからと言って慌てて友達に「おい、海行かねえか」というわけにもいかないので、まあ昨今の状況が落ち着いてお互いにワクチンの接種が終わったあたりで呑みに行きたいな、といま思った。なにしろ、アルコールありなら2時間どころか時間無制限でしゃべれるのだ。その関係だって、いつまで続くかはわからないが。
…
なお、自治体によって浜や水辺での焚き火はルールが違うので、焚き火台は必須として、細かい決まりはHPなどで確認した方がよいので付記しておく(ただ、そんなことをわざわざ電話で聞いてくるやつとなるとあまりいないらしく、以前あるところに口頭で質問したときは、大層困惑させてしまい恐縮した。まあ責任とか所掌とかいろいろめんどくさいのだと思う…)。
…
俺の暮らしている家には洗濯機がないので、浴槽を選択用の桶に転用して、休日になるとぬるま湯を張って布類と洗剤をぶっこんでいる。当然、脱水も手作業だ。何が言いたいかというと、洗濯そのものは俺にとって苦行でしかなく、バスタオルやシーツ類を手絞りでギリギリやりながら風呂場で荒い息を吐いていると、俺は何をやってるんだろう、という気になる。指の皮とかがよく剥ける。
…
一方で、干し終わったあとの洗濯物を眺めること、これは好き。大好きと言っていい。
理由はまったくわからないんだけども、竿に吊るされたシーツとかハンガーに下がった大小の衣類が風に揺られているのを見ていると、ものすごく満ち足りた気持ちになる。洗濯物のそれぞれによっても風を受けたときの反応が違っていて、ハンカチだとか靴下なんかはささいなそよ風でも大きくひるがえるし、バスタオルなんかはかなりどっしりしていて、ちょっとやそっとの風では動かなかったりする(何しろ手で絞っているので水が抜けきっていないだけの可能性もあるが)。
…
洗濯物が干されている光景というものの何がそんなにいいのか、あらためて考えてみると、例えば自然界にf分の1ゆらぎという概念があって、あるいはそれに近いんじゃねえか、と思ったりする。
wikipediaでの説明は正直ちんぷんかんぷんだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/1/f%E3%82%86%E3%82%89%E3%81%8E)、一般的には「規則性と不規則性とが適度に混成された現象」と説明されることが多い。視覚における例ではろうそくのゆらめき、聴覚ではさざなみ等が例に挙がる。
言ったもん勝ちじゃねえの? という気もするが、実際、俺は火を見ているのも(焚き火のASMRとかあるのだ)波音を聴いているのも好きなので、洗濯物もあるいはそういう類かもしれないと思う。
風という、本来は不可視のものが、それを受ける対象によって見えるようになっている、とかそういうことだ。まあそれらしい説明はなんとでもつく。
…
ただ、もう一つの理由としてさらに漠然と感じるものがあって、俺は洗濯物ってなんだか人に似ているな、と思うんだよな。
風にいくつもの洗濯物が揺れているのをぼんやり見ていると、頭に浮かぶ表現が、「幸せそう」というものだ。洗濯物を見ていると幸せそうだと思ってしまう。
何かの小説や歌詞でそういう言い回しに触れたのかもしれないが、ググってみても見つからなかった。
洗濯物の大きさによって風にあおられたときの反応は違うが、強く吹かれた際は、みんな同じでばたばたはためく。それは家族って感じの一つの集合に見えなくもないし、はしゃいで遊んでるみたいだな、とも思う。
俺は脱水作業のあとで疲労しているところで、もしかすると、これを1万倍ぐらい強めると、子供のいる親が車で行楽地にお子さん連れていって、到着した先で娘や息子が駆け回ってるの見るときとか、しんどさも誇らしさも近いのかもしれねえな、と考えるが、子育てをナメるなよ、と言われたらぐうの音も出ないので、まあ洗濯物ってなんか家族っぽいよな、ってぐらいに留めておく。これなら主観なので言い訳も立つ。
…
ちなみに、はじめてお子さんが生まれてから最初の乳児衣類の洗濯を、「世界一幸せな洗濯」と呼ぶそうだ。「洗濯物 幸せそう」で検索したらこればかり出てきた。俺には嫁も子供もいないし、干してあるのはおっさんの肌着であって、浴槽に漬けると台風の後の川みたいな泥水が出てくる。
「キャンプ道具は無駄がなく洗練されてる」「焚き火マジ永遠に見れる」「野外で食べるチキンラーメン絶対ウマイ」とか言うわりにキャンプには行かない、丘サーファーみたいな方々のことを指す。
夫はまさにこれ。すぐにキャンプ道具を買う素振りをみせる。Snow Peakに無意味に立ち寄る。キャンプ動画を見る。そしてキャンプいきたーいとのたまう。
きっと、この行きたい気持ちをもぞもぞさせてる時間が楽しいんだろうな~。
若いひとが何者かになりたいと具体性のない夢を抱いているときが脳内麻薬がばりばり出て一番楽しいように。
どうかそのままでいて。妻は誘われても絶対にキャンプには行きたくないから。野外でごはん食べたり寝転んだりするのはやだよー。
あのさ、
冷凍庫の中がビールシャーベットまみれになったこと私1回あって
そんな話は良いんだけど、
で人間は日々成長よ!
そこでキッチンタイマーなのよ。
60分にセットして60分冷凍急冷にしたらそこそこ美味しく冷たいルービーになるから
タイマーセットしたのね。
家事が終わった頃に出来上がる寸法よ!
で60分たちました!
美味しいビールに冷え冷えのを喰らったんだけど、
氷結の缶って菱形の模様になってて、
あれが多少余裕になって凍っても破裂しなかったのよ。
事なきを得た感じがしてセーフって思わず口走っちゃったわチェリー。
これが本当の氷結ね!って
やかましいわ。
で解凍すべく
今度は冷蔵室に入れるんだけど、
なかなかの冷え冷えっぷりだったのね!って驚いたわ。
冷凍庫の中に入れていいのはビールはだめで氷結ね!って気を付けて欲しいし
東京の夜は19時ってまだふざけたことを言うには早い時間帯ではないことは確かね。
なんてお下品な!
でもさー
本当飲食店で飲食できない時代に突入して何が面白いかって言うともう
テイクアウトして家飲みってなんか要素が2つ入ってるから二択なんじゃないの?って細かいことは
テイクアウト初やってみようかなーって
新しい事に挑戦するってチャレンジでもありチャレンジスピリッツでもあるあよね。
何が問題かって言うと、
やっぱり焼き鳥は焼きたてを
串を口に入れる時は串を縦にしたら喉の奥に刺さって危ないから
CWニコルさんが焚き火で炙った日本ハムの美味しいところを口元に持って行って、
そこで炙りたてのハムをナイフで直で切って食べるワイルドスタイルを提唱したいわ。
本当は日本ハムのより館野ハムの方が美味しくてオススメなんだかんね。
そうだから
焼き鳥の串はくれぐれも縦にして飲み込まないように!
ほら!ペンギンさんも
魚を飲み込むとき鱗がカエシになってノドに引っかからないように上手に頭から飲み込むでしょ?
鵜さんとかもそうよね。
あれをさ、
魚の胴体を半分に切って頭が2つあるようなキメラ的なきめー魚を人工的に人間が生命で遊ぶな!って怒られそうな合成して作った
ペンギンさんとか鵜さんとか
いわゆる魚を頭から丸呑みするタイプの先輩の鳥類にあたえたら、
どっちが頭か?ってぐるぐるくちばしで回して探してどっちから飲み込めばいいのかバグったりしないのかな?
傘の上で升を回すような
いつもより余計に回っております!って
だから
どちら側も頭っていう魚を鳥さんに与えるとどうなるか!って
鳥だけに!ってやかましーわいって
またまた怒られちゃいそうよね。
ごめんなちゃい!
うふふ。
そういう季節はもう終わったのかしら?って
厚焼き玉子ベーコンサンドを撮った写真を破りながら灰皿で焼いたわ!
破って焼いたのは嘘だけど、
写真にしては飾ってあるわ。
ボニーって感じがまたより一層ピンクみを引き立ててるわ。
夏らしくなってきたわね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
主が、『おまえの名は何か』とお尋ねになるとそれは答えた。
--------------
《俺が参加している会》
・だいたい年1-2回
・河川敷やら海やらで酒を飲む
・1日遊んで2,000円ぐらい
・数少ない女子は2次会で帰る
・3次会のガールズバーでサッカー部キャプテンと元ひきこもりが泥酔する
・一次会は4,000円ぐらい
・だいたい年1-2回
・人数が足りないと試合にならないので、未経験者歓迎で呼ばれる
・1日遊んで3,000円ぐらい
・たまにG1を見に行く
・だいたい負ける
--------------
《俺が参加していない会》
・「まだやってんの?」
・「まだ勝てるんだって」
・実際はボロ負けしている模様
・整うらしい
・キャンプ民と合流して「ポータブルサウナを買おう」貯金をしている
畑
・野菜を育てている
--------------
先月はシンエヴァを一緒に観に行った。
よかったよ。
あのさー
つまらなくなった途端のタイミングって言うのは運営がマネタイズが上手くいった証拠でもあるから
面白くなくなったSNSは儲かってるんだなぁーってつくづく思うわ。
ツイッターももはやどうでも良いことをどうでも良くつぶやいている方の人が少なくなってきているのかも知れないわね。
五万人ぐらいいると思うわ。
キャンプはあんまり行きたくないけどランプとかナイフとかのキャンプギアは欲しい!焚き火はしてみたい!みたいなことよね。
家庭用コンロじゃなくても、
もう普通にキャンプカレーを家で作ったらキャンプ気分なのかしらって思うし、
事務所のフロアのちょっと広いところでテント張ったっていいんじゃない?ってそこでお昼休み流しそうめんでもしたら
もうキャンプ気分よ!
家に居ながらの巣ごもりで
キャンプしたい欲を満たしてくれるかがってことも重要なのかも知れないわね。
だから
そうは言ってないわよね。
山に登って淹れるコーヒーが頂上で飲むと美味しいように
キャンプ地には行きたいけど寝るのは車の中でいいわ!ってことなのかしら。
結局は一緒なのよ。
キャンプに行ってテントの中では結局はノートパソコン開いてインターネッツを見ているから
あの大容量モバイルバッテリーがめちゃくちゃ売れてるって言うのも一理ありまくりだわ。
なるほどねーって思っちゃった。
それと、
的に手斧投げるアックススローイングが超流行ることを今ゆっとくわ!
リアルに手斧投げて的の丸太にすこーんって気持ちよく刺さって止まったら快感よね!
黄砂でぼんやり青空じゃない霞んだ感じを正に一刀両断したいものね。
うふふ。
パッと見はソーダ水に見えるけど甘くない炭酸水レモンウォーラーです。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
読む限りだと、
であってるよな?
昆虫図鑑しか手元になくて、「僕昆虫博士になりたい!」っていう子と、
昆虫図鑑と魚図鑑が手元にあって、「僕昆虫博士か魚博士になりたい!」っていう子がいたとき、
というような。
この前提で間違いないよな?
その前提で話すと、
確かに、将来の身の振り方を決めるに至る程の、価値観を変える劇的な出来事は、田舎には全然なかったな。
あのときの〇〇さんとの出来事が人生変えました!っていう出来事は田舎にはほとんど起こり得ない。
起こり得たとしても、田舎にいる人々、即ち、先生とか医療職の方々との間でしか起きないな。
人としての輝き方の種類が少ないというか。目に入る輝いてる?人たちが公務員か医療職以外にまじでない。だから、それ以外になりたい!という大志を抱く機会が、田舎で過ごすとまじで少ないと思う。
で、そんな中で育ったおれが文化資本(キャリアの幅を広げるキッカケ)にどうやってアクセスしてきたか?って話を今からする。
おれは2つ幼少の頃なりたいと思ってたものがあった。いわゆる、「こういうキャリアを歩みたい」と思える文化資本と触れ合う機会が2つだけあった。
で、
1.「ポケットモンスタールビー」
2. 「遊戯王」
っていう話。
ポケットモンスタールビーはコロコロコミックで見て欲しいと思ったんだけど、コロコロコミックは母親がある日唐突に買って来てくれて、そこからハマった。
だから、
1.雑誌とかYou Tubeとか、文化資本に繋がりやすい媒体 or 文化資本そのもの(図鑑とか、解体できる四駆とか)を手が届くところに置いておいてあげる
2. 本人が興味がある分野が出てきたら、金積んで何でも体験させる
とかだな。
キャリアを広げるという意味の文化資本は、モノベースであれば、田舎には住んでいても割と金で買い与えられると思う。いわゆる図鑑とか雑誌の類だな。
スケートリンクに連れてって、子供にスケーターになる将来を連想させたり、サーカスに連れてって、パフォーマーになる機会を連想させたり。
だから、意識すべきは、金積めば与えられるモノ由来の文化資本と並行して、体験に依存する文化資本も意識的に与えることだな。
あと、中段に、
「田舎で育てられた自分は文化資本が与えられなかった」と落ち込んでほしくない
とあるな。
これはハッキリ言う。増田が定義する文化資本に限っていえば、それは思ったことはない。
東京に出て来て初めて見た職業はたくさんあるが、別に今からでも成れるものが多いので、
「あー、昔自分も魚図鑑買ってもらってたら、今頃魚博士だったのになーーー」
なんて言うことは全く思わない。
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ただ、田舎で育って損だったと思うのは、世の中に学歴フィルターなるものが存在することを知らなかったってことだな。
東京来てみて、商社マンとか、外銀とか、そういう職業を知った。
こういう職業だけは、今から努力してもなれないよな?(中途とかは抜きにしてだぞ)
こういう機会に直面したとき、
「あーーー、高校時代、いや中学時代に学歴フィルターのこと教えてくれよなーーー、そしたらめっちゃ頑張ってたのにーーー」
ってのは思った。
なんでみんな東大を囃し立てるのか分かんなかったし、恐らく田舎の高校生はMARCHとかすら微塵も知らない。俺も知らなかった。
これだけは今もめっちゃ思ってるな。
「選択肢が削られた!田舎に住んでたせいで!」と思うのはここくらいかな。
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とか。
要は趣味を共有できる友達が居なかったことと、趣味までの物理的な距離が一番しんどかったかも。
文化資本与えられたあとで、それに勤しむ機会がないのはしんどかったな!
文化資本も担保してあげつつ、こういうところも気にかけてくれ。
趣味があるようだったら自分も同じものを買ってライバルになってあげるとか、東京までの物理的な距離を金で解決してあげるとかそういうやつ。
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で、ここから話変わるんだけど、おれの文化資本の定義を話すぞ。
おれは「文化資本」を、走馬灯で見ることので切る、人生最後の映画の厚みだと捉えてる。
俺に言わせれば、ロックしか聞かないやつより、ロックとクラシックを聞くヤツのほうが、人生最後の映画のサントラは充実してると思う。
田舎だと、
船釣りとか、海だとか、庭で焚き火したりとか、近所の畑の仕事手伝ったりとか、畜産農家の牛とか鶏見に行ったりとか。ボロいトタン集めて秘密基地作ったりとか。死ぬ前の走馬灯は、間違いなく都会育ちの人よりは長い(分厚い?知らんけど)と思うな。それはホントに親に感謝してる。
個人的には、後者の定義で文化資本を捉えるなら、都会の文化資本は大人になってからいつでも回収できるけど、田舎の文化資本は大人で回収するのはむずいな。仕事の都合で大概都会に住んじゃうし、成熟した脳みそじゃあ、釣りよりネットサーフィンのほうが楽しいだろうし。
とりあえず益田に言いたいことは、文化資本を前者の定義と捉えてるなら、それなりに努力は必要だな。ただ、後者の定義で捉えるなら、田舎への移住はポジティブにとらえていいとおもうぞ。