2021-06-26

干された洗濯物を見ているのが好きな話

俺の暮らしている家には洗濯機がないので、浴槽を選択用の桶に転用して、休日になるとぬるま湯を張って布類と洗剤をぶっこんでいる。当然、脱水も手作業だ。何が言いたいかというと、洗濯のものは俺にとって苦行でしかなく、バスタオルシーツ類を手絞りでギリギリやりながら風呂場で荒い息を吐いていると、俺は何をやってるんだろう、という気になる。指の皮とかがよく剥ける。

一方で、干し終わったあとの洗濯物を眺めること、これは好き。大好きと言っていい。

理由はまったくわからないんだけども、竿に吊るされたシーツとかハンガーに下がった大小の衣類が風に揺られているのを見ていると、ものすごく満ち足りた気持ちになる。洗濯物のそれぞれによっても風を受けたときの反応が違っていて、ハンカチだとか靴下なんかはささいなそよ風でも大きくひるがえるし、バスタオルなんかはかなりどっしりしていて、ちょっとやそっとの風では動かなかったりする(何しろ手で絞っているので水が抜けきっていないだけの可能性もあるが)。

洗濯物が干されている光景というものの何がそんなにいいのか、あらためて考えてみると、例えば自然界にf分の1ゆらぎという概念があって、あるいはそれに近いんじゃねえか、と思ったりする。

wikipediaでの説明は正直ちんぷんかんぷんだが(https://ja.wikipedia.org/wiki/1/f%E3%82%86%E3%82%89%E3%81%8E)、一般的には「規則性と不規則性とが適度に混成された現象」と説明されることが多い。視覚における例ではろうそくのゆらめき、聴覚ではさざなみ等が例に挙がる。

言ったもん勝ちじゃねえの? という気もするが、実際、俺は火を見ているのも(焚き火のASMRとかあるのだ)波音を聴いているのも好きなので、洗濯物もあるいはそういう類かもしれないと思う。

風という、本来は不可視のものが、それを受ける対象によって見えるようになっている、とかそういうことだ。まあそれらしい説明はなんとでもつく。

ただ、もう一つの理由としてさら漠然と感じるものがあって、俺は洗濯物ってなんだか人に似ているな、と思うんだよな。

風にいくつもの洗濯物が揺れているのをぼんやり見ていると、頭に浮かぶ表現が、「幸せそう」というものだ。洗濯物を見ていると幸せそうだと思ってしまう。

何かの小説歌詞でそういう言い回しに触れたのかもしれないが、ググってみても見つからなかった。

洗濯物の大きさによって風にあおられたときの反応は違うが、強く吹かれた際は、みんな同じでばたばたはためく。それは家族って感じの一つの集合に見えなくもないし、はしゃいで遊んでるみたいだな、とも思う。

俺は脱水作業のあとで疲労しているところで、もしかすると、これを1万倍ぐらい強めると、子供のいる親が車で行楽地にお子さん連れていって、到着した先で娘や息子が駆け回ってるの見るときとか、しんどさも誇らしさも近いのかもしれねえな、と考えるが、子育てをナメるなよ、と言われたらぐうの音も出ないので、まあ洗濯物ってなんか家族っぽいよな、ってぐらいに留めておく。これなら主観なので言い訳も立つ。

ちなみに、はじめてお子さんが生まれから最初乳児衣類の洗濯を、「世界一幸せ洗濯」と呼ぶそうだ。「洗濯幸せそう」で検索たらこればかり出てきた。俺には嫁も子供もいないし、干してあるのはおっさん肌着であって、浴槽に漬けると台風の後の川みたいな泥水が出てくる。

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