はてなキーワード: 投射とは
と最近の色々を見て、改めて思ってたのだけど、その一因が先ほどふと分かった気がする。
というのも、「庵野秀明は新海誠への嫉妬で燃えているに違いない」というどこぞで見かけた馬の骨の因縁ツイートがあまりにも自分のイメージと違うことで、何かそこにメンタルヘルス用語で言うところの投射があることに気づいたからだ。
まず、このツイートが根本的に見誤っている事実として、庵野秀明という人物は、あの業界の人間にしては極端に他人に対する競争意識というのが低い。
少なくとも、表立ってはそれを感じさせない人物だ。
今までそれと意識した事はなかったが、改めて探してみると、他人への嫉妬や妄執が感じ取れる言動というものが本当に少ない。
自分以外のクリエイターの作品はまず肯定的に評するし、作品を比較して善し悪しを語るということにも熱心ではない。
富野由悠季の『そういう部分』をリスペクトしている割には、本人は驚くほど『競う』とか『順位を争う』とかという発想とは無縁の人物だ。
その代わりに顕著なのが、強い自意識だ。
ここで用いる言葉は、自尊心ではなく自意識、というのが妥当であるように思える。
ある種、究極のナルシストとでも言うべきか、他のクリエイターと自分との力関係などまるで我関せず、ただ自分がどれだけ自分を見てる人に印象的に映るかということだけを考えている感じだ。
『自分と自分の客』だけが世界の全てであると言っても良い人なのだ。
そういう意味で、セカイ系とかいう古くさい言葉で語られる彼の作品類型は、彼に見えている世界観そのものであるという事が改めてよくわかる。
当然の帰結として、庵野秀明が強い悪感情を抱くのはただ一つ、『悪い客』だけになる。
庵野にとっては同じ業界人などライバルでもなんでもない。ただ客だけが自分の戦うべき敵であり、「自分を分かってくれない」悪い客だけが究極の憎悪の対象なのだ。
幼稚と言えば幼稚なのかも知れないが、庵野にあるのは「なんで必死にがんばってる僕をわかってくれないんだ」という承認欲求だけで、それ以外の事は良くも悪くも何も考えていないのだ。
エヴァンゲリオンの、俗にいう『旧劇』は、庵野の強い憎悪・ルサンチマンの産物であるという事実は有名だが、それはあくまで『悪い客』に向けられたものだ。
庵野は、気に食わない批評家、もっと有り体に言えば『オタク』に負けるもんかと闘志を燃やす事はあっても、かつて一度たりと同じ業界人に対する『対抗意識』で燃えた事などはないのだ。
しかるに、庵野がことさらに嫉妬されがちな人物で、また冒頭に書いたような「若手を嫉妬しているに違いない」などという頓珍漢な言いがかりをつけられまでするという事実は、非常に興味深い。
庵野という人物は、常に競うという事とは無縁で、ただ『自分』を分かって欲しいという自意識だけでここまで来たクリエイターだ。
その事実は、取りも直さず、庵野秀明がオンリーワンであり、別の言い方をするなら「自分がトップに立てる土俵でだけ戦って来た人物」であることを意味する。
だがそれこそが、自分で土俵を作れず、他人と競う、オンリーワンをナンバーワンとして嫉妬するということしか出来ない種類の人間には、もっとも攻撃されやすい属性なのではないだろうか。
究極のナンバーワンであるオンリーワンの庵野は、彼らの目には常に妬ましいものとして映るだろう。
なんとかして、自分たちと同じ『競争』のルサンチマンに庵野を引きずり込みたい。
庵野が気にした事もないような『軸』で、庵野がナンバーワンでなくなる軸で、庵野に嫉妬して欲しい。
そんな願望が、このツイートのような、あまりにも庵野のキャラクターと齟齬を来す『勘ぐり』として現れるのではないだろうか。
彼らは往々にして、実際には自分で戦う事の出来ないただのオタク、つまり『観客』だ。
庵野秀明が新海誠に嫉妬して闘争心を燃やす事はまずないだろうが、このような、新海誠を出汁にして、庵野にいちゃもんをつけたがる『観客』がいる事実は、まだまだこれからも庵野を奮起させ続ける可能性が、まあ、確かにある。
toratsugumi記
ブコメでは文字数が足りず、普段ブログを書くわけではないので、この場にて。
いろいろアレなので幾つか。ただし、別にミリタリ・クラスタに所属してるわけじゃないので色々間違っている点もあるはず。
>金がないから、維持整備がろくにできなくて、そのせいで、まともな稼働率を上げられないのだ。
金がなくて築90年の兵舎修いながら使ってた(最近建て直されたらしい)のは自衛隊の伝統。オスプレイとはなんの関係もない。
読売の記者がどういうソースで書いてるのか不明だし、数値が公表されてるわけじゃないので何とも言いようがないが、軍事評論家各位の評価では陸海空三自衛隊の航空機稼働率は極めて高いとされてる。その中で、CH-47の稼働率はたしかに相対的には低いらしいが、それはあれがトラック扱いで酷使される機体だからという話。
CH-47は原型初飛行1961年だけど、現在も改良が進んでいて、少しずつ入れ替えながらエンジンも電装系も機体設計もまったく別物になってる。米軍じゃ最近F型の配備が開始されたばかりで、日本では1986年頃から配備されたCH-47Jが1995年くらいから搭載装備が入れ替わったCH-47JAにアップグレードされてて、そろそろ耐用年数が切れる初期のCH-47Jの代わりにF型相当の機体が導入されることになってる模様。実はチヌークの調達は今も続いている。ここら辺、新兵器の登場は大々的に発表されるけど、更新はひっそりとされるから実際に出てくるまではよく判らないが。なお、CH-47FはAW-101よりもさらに新しい機体だったりする。
>AW-101
三発で高性能だが機構が複雑なため、開発に難航した機体。自衛隊は欧州系の機体を扱い慣れてないせいもあって、稼働率が高くないという噂。ご多分に漏れずウェブに内情が転がっている訳じゃないので断言は出来ないが。なお、国内生産しないと、交換部品は一々製造元に手配させる必要が出てくるため、稼働率は下がる。
価格については21億円のソースを見付けられず。なお、2003年度会計でみると、陸自のCH-47JAの調達価格(FY2003)は53億、空自のCH-47Jで35億(ともに航続距離、搭載量はMCH-101より上)、同年のMCH-101が53.5億。
http://www.geocities.jp/kanabow11/price/japan_new.html
この場合、(若干オーバーサイズと評価されている)掃海用の機体じゃなく、輸送専用に民生機を調達することに意味が見出せない。それならすでにCH-47で足りている。
ちなみに、VM-22は純然たる物資輸送用とは違う目的で導入される機体。その肝心のオスプレイだが、調達価格210億の内訳は…
「オスプレイ17機とエンジン40基、赤外線前方監視装置40基、ミサイル警報システム40基など機体数を上回る予備部品とアメリカでの訓練費用なども含んだ総額の諸経費で、約30億ドルが提案されています。今現在の為替レートは1ドル120円なので約3600億円になります。
ただし、単純に30億ドル(3600億円)を機体数17で割ると1機あたり1.76億ドル(211億円)になりますが、これは前述の通り諸経費込みの価格なので機体単価ではありません。機体単品での価格は1機100億円前後で、諸経費がそれと同じくらいに掛かるという事です。 」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/obiekt/20150507-00045469/
次の熊本震災オスプレイ無用論については、宗教論争は避けたいのでノーコメントとして、
>せっかくのヘリ空母のひゅうがなどを配備しても、それに搭載するためのヘリコプターはろくにない、というありさまだ。11機搭載できるヘリ空母に、4機しか搭載していない。うち1機が MCH-101 だ。
常在戦場の米軍の原子力空母と違って、遠方に戦力を投射するわけでもない海自の艦艇は普段は回転翼機を定数状態で搭載してるわけではなく、陸上の拠点から運用している。現に、ひゅうが以前のDDHにしても、定数三機のはるな級だって一機しか搭載せずに運用している。この場合、ヘリ空母の扱いは便利な場所に移動可能なヘリパッドという位置付けに近い。もちろん、作戦行動中は別。現にフィリピンに派遣されたいせだって、航行中の映像で露天係止されている機体が駐機スポットと同数あるので、艦内にその他の機体が格納されているのが分かる(色々あるので必要がなければ機体は甲板に放置したりしない)。
以上、めんどくなったのでこのくらい。
世代の蓄積ってあるじゃない?
・一次産業に従事する第一世代。(田舎のじーちゃんばーちゃん?)
・↑を踏まえて学歴社会に挑戦する三世代目。(おれたちわたしたち)
こんな感じで世代の蓄積があって、世代ごとの色んな質の差が後の世代にゴリゴリしわ寄せて来て
ただ、最近気づいたのが三世代目のトライ・アンド・エラーを、”もう一回”以上やってる層がいるってことだ。
早いサイクルで世代を回したり、段階をすっ飛ばして次世代を投射してる層がいるみたいなのな。
高卒、短大卒の教育ママによって非効率に大学にブチ込まれた層や、地方都市の進学校から勇ましく進学してきた層(だいたい3世代目)は、
この世代ぐるみの高周回層に歯が立たない。たった一世代の壁がとてつもなくでかい。
もちろん例外もある、没落する例もある。
でもこの基調を前に、自分の立ち位置を自覚しようとしてみるとさ。
「めっちゃ死にたひ...」
どれだけの文化資本、経済資本を投射できるかで人生勝ち負けが決まるわけじゃない?
それも、なるべく若い内に。
その日暮らしの上京者と親のCクラス乗り回してる人間が、同じゼミに同居している。
ただ両者が交わるのはこの数年間。
大卒として日本社会の上位50%として船出はするけど、絶対に死ぬまで交わらないわけよ。
・一次産業に従事する第一世代。(田舎のじーちゃんばーちゃん?)
・↑を踏まえて学歴社会に挑戦する三世代目。(おれたちわたしたち)
こんな感じで世代の蓄積があって、一世代ごとの色んな質の差が後の世代にゴリゴリしわ寄せて来て
↑の格差なんかが生まれるという。
ただ、最近気づいたのが三世代目のトライ・アンド・エラーを、”もう一回”以上やってる層がいるってことだ。
早いサイクルで世代を回して4、5世代目を投射してる層がいるみたいなのな。
高卒、短大卒の教育ママによって非効率に大学にブチ込まれた層や、地方都市の進学校から勇ましく進学してきた層(だいたい3世代目)は、
この世代ぐるみの高周回層に歯が立たない。たった一世代の壁がとてつもなくでかい。
もちろん例外もある、没落する例もある。
でもこの基調を前に、自分の立ち位置を自覚しようとしてみるとさ。
変な気分にならない?
どれだけの文化資本、経済資本を投射できるかで人生勝ち負けが決まるわけじゃない?
それも、なるべく若い内に。
その日暮らしの上京者と親のCクラス乗り回してる人間が、同じゼミに同居している。
ただ両者が交わるのはこの数年間。
大卒として日本社会の上位50%として船出はするけど、絶対に死ぬまで交わらないわけよ。
・一次産業に従事する第一世代。(田舎のじーちゃんばーちゃん?)
・↑を踏まえて学歴社会に挑戦する三世代目。(おれたちわたしたち)
こんな感じで世代の蓄積があって、一世代ごとの色んな質の差が後の世代にゴリゴリしわ寄せて来て
↑の格差なんかが生まれるという。
ただ、最近気づいたのが三世代目のトライ・アンド・エラーを、”もう一回”以上やってる層がいるってことだ。
早いサイクルで世代を回して4、5世代目を投射してる層がいるみたいなのな。
高卒、短大卒の教育ママによって非効率に大学にブチ込まれた層や、地方都市の進学校から勇ましく進学してきた層(だいたい3世代目)は、
この高周回者層に歯が立たない。たった一世代の壁がとてつもなくでかい。
もちろん例外もある、没落する例もある。
でもこの基調を前に、自分の立ち位置を自覚しようとしてみるとさ。
変な気分にならない?
何言ってるかまったくわからないところがある。
たとえば、
人の内部世界である演算領域内で組み立てられた魔法式を、無意識領域の最上層にして意識領域の最下層たる「ルート」に転送、意識と無意識の狭間に存在する「ゲート」から外部情報世界へ投射することにより、魔法式が投射対象たる「事象に付随する情報体」――これを現代魔法学では、ギリシャ哲学の用語を流用して「エイドス」と呼んでいる――に干渉し、対象の情報が一時的に書き換わる。
(1巻、pp.104-105)
文章研究としてこの本をかなり真面目に精読してたんだけど、それでもこの文章読んでなにがなんだかよくわからない。いまの中高生ってこういう文章読めるのか。冗談でもなんでもなくニクラス・ルーマンより難しいと思った。ここまでなにいってるかわからない読書体験(しかも小説、しかもラノベ)なんてはじめてだ。にわか文学ファンはトマス・ピンチョンが好きだけど、そのピンチョンよりはるかに読みにくい。
ほかにもいろいろあるけど、ちょっと驚いたのは、
達也の浮かべた苦笑いは、苦々しさのないただの苦笑に変わっていた。
(1巻、p.71)
これ。苦々しさのないただの苦笑ってなんだろう。哲学的といえば哲学的だけど。撞着語法かな? 「苦笑」って辞書的には「にがにがしく思いながら、しかたなく笑うこと」(明鏡国語辞典)なんだよね。いや、べつに辞書が正しいって言ってるんじゃないよ。ことばの意味ってのは文脈に応じてアドホックにどんどん変わっていくものだからね。でもそれにしてもこの語法は難しすぎるんじゃないか? ある種のアイロニーなんだろうか。難しい。
おお、同意してくれるヒトがいてうれしい
想像もできないようなブレイクスルーがあれば話は別だが、そういうものに期待しないで中期的なプランを立てるなら。
あんまりオミクス的な方向に向かっても無駄だとおもう。情報の扱い方がさっぱり分かってないうちから情報集めをしようとしても神経構造のどういう側面に着目して情報を蓄積すればいいのかわからないし。allenのデータベースとか便利ではあるが。
もっと情報処理のprinciple的なモノを構造レベル神経活動レベルで探した方がいい。皮質内のつながり、皮質間のつながり、皮質内の神経同期や相互作用、皮質間の神経同期や情報のリレー。皮質内や皮質間での情報のやり取りを丁寧に見ていく方がいい。interrogateするならoptogeneticsとかあるし、皮質間の投射関係みるならトレーサーもある。
今ある道具でできそうなことはまだある。っていうか誰かやってるだろうけど。
apes、法華狼あたりのコメ欄にたむろしている
色眼鏡でこねくり回してみるよ
まず辞書。
1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を―する」「―力を養う」
2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の―を受ける」「政府を―する」
3 哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/186757/m0u/
やたら攻性な言論スタイルで
論破論破してる人たちが多いように思えるので2の思考モデルにしてみようそうしよう
人の言動・仕事などの<誤りや欠点 A>を指摘し、正すべき<(状態) B>であるとして論じること。
じゃぁ誤Aと正Bになにを代入すればいいか
思いつく限り代入してみればいいんだなんだ簡単なことじゃないか
正B=日本の評価を不当に押し下げないこと
日本は極右化しているかのように思えますが良心的な私達がいるので大丈夫です!ですかね。
おまいらが提示する正しい状態は俺たちの生活に安定か閉息かどちらをもたらすのか?
おいおい正誤が反転してるよってネトウヨギャラリーは思ってるんじゃないかなぁ。
というか俺はネトウヨだなぁ
投射乙ってやつかなぁ
どっちかはっきりしてほしいよね☆
次
政治思惑や野望、外交カードにしたり積年のうらみつらみを晴らすために個人個人が太古から連綿と紡いできた
ただひとつの歴史の真実の重みを軽々しく改編したり弄んだりする不逞な輩は許さんぞ、的な
神の視点でスペシャリストが世俗論を斬って捨てるのって、かっこいいじゃないですかー
あら、屋代聡さん、やだー!
神の視点とやらが常に安定と平和な日々をもたらすかっつったらヤハウェさんたらアレだしねぇ
次
誤A=人権を軽んじる
正B=人権を重く考える
いわゆる朝鮮人慰安婦問題で人権人権ふりかざすなら、慰安婦のうち大勢を占めた日本人や、
シベリア抑留者、満蒙や半島からの引揚者に対するシンパシーを片鱗でもみせたことあるのかしら
日ソ共同宣言やら日中平和有効条約やらサンフランシスコ平和条約やらで
戦時賠償請求の放棄してるから相手国は関係ない?日本政府が悪いですって?
あれー?ずいぶん不平等ですよねー?
おまいらの好きな人権は上の日本人被害者には向けられないのです?
なんでです?差別じゃないんです?なぜ同胞の苦心の労いより他国のそれを拾うんです?
次
これがいちばんしっくりくるのは俺がネトウヨで自己投影/投射行為だからっすねぇ
原発再稼働反対で、新自由主義反対で、経済格差反対で、秘密情報保護法も反対で、靖国参拝反対で、
おまいら反対ばっかじゃないっすかー
反対するならおまいらの思う正しい状態をまずはわかりやすく提示したらいいんじゃないかな
現体制がフラフラ不安定になるようになるようにおまいらが足を引っ張ってるように思えて
俺の日常生活、家族や社会が不安定になるのが不安で不愉快だけど
ここは日本、
増田の自分の記事数をあらためて見てみたら、400件あって驚いた。
4年間で400件。3~4日に一件の計算だが、実際はツリーにレスを連続して返すこともあるので、まともな文章量のあるエントリは大目に見ても2週間に一件位だろう。
今までに作ったブログはどれも長続きしなかった。ブログにあるペルソナを設定すると、その枠内から外れることが書けずにストレスになる。仕事関係、技術系、ゲーム日記、動画製作関係、全部分けてやってた事もあるが、どれもフェードアウトした。増田では気が滅入ればダメダメな自分のダメダメな部分も文章にできるけど、ブログではそうはいかない。ダメダメ愚痴ブログなら別だが、そんなブログは需要がないし。(とは言ったが、不思議なことに増田ではそういうダメダメ愚痴エントリもブクマを集めることがある。)
ブログで一番続いたのはゲーム日記だった。とあるネトゲのたわいもない話と、PvPの戦術や成績を自分のためにつらつらと残した。これは6年以上続いたし、フェードアウトしたというよりは、Twitterに場を移した。仮想世界を通じて人間関係への考え方も自然に投射できた。戦術という、ある意味ストイックで科学的な分野では、自分の技術やチームワークや錬度に対する取り組み方を表せた。
いまどきは自分の理想論をかますと、「何言ってるのこの人?」って斜めに見られることが多いけど、ゲームでは違った。成績を上げたい、俺らのチームはこういう心構えでやりたい、この戦術を研究しよう、という泥臭く真面目な話にも、チームは熱心に参加してくれた。受け取る人に具体的な対象があるかでこんなにもウケが違うってことなんだろう。ゲームを通して、自分が思っているよりも、人は物事の理想を、限界の追求を、チームでなにかを成し遂げることに純粋な喜びと楽しさを感じ、斜にかまえて馬鹿にしてばかりではないんだと知った。
仕事では多くの人が理想があっても実験することができないだろうし。リスクが大きかったり、努力のステージがないと感じてる人も多いだろうし。だから「何言ってるのこの人?」ってなってしまうのだろうな。
増田でブクマを大きく集めたエントリで使っていたロジックは、ネトゲのチームで培ったものだと気づいた。色々な楽しさと目的の価値観の奴が集まってるチームで、皆のモチベーションを落とすことなく一つの目標に向かわせる、それを考え実行してきた結果、自分に積み重なっていたものだ。それをゲームではなく技術や仕事に置き換えるだけで需要があった。自分はビジネスや技術関連の流行の書籍は全く読んだ事がないし、なんだか騙してるようだなーという気分になることもあったけど、ゲームでも仕事でも本質的なマネージメント術やモチベーション維持の秘訣ってのは大差ないんだろう。今では実際の仕事の現場でもわりとそんな感じだ。
ああ何が書きたいんだったかな。
今となってはブログでペルソナを使い分ける事になんであんなにこだわっていたのか、よくわからない。Twitterは最初からなんでもありだった。俺を気に食わない奴は俺をフォローしなければいいだけだし、その辺はっきりしていて気楽だ。新しくフォローしてくる人も、ゲーム系、プログラマ系、創作系、料理系、色々過ぎる。自分を接点にして離れたクラスタの人がフォロー関係になったりすると、本当に面白いものだなと思う。
けど、まだまだ140文字じゃ短いなってこともあるし、時々増田に書くと思う。
ニーチェによればルサンチマンの人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
よって、ルサンチマンの人は非常に受け身的であり、無力な状態で、フラストレーションを起こしている。行動を禁じられて、その結果自身の無力を痛感している人なら誰でもルサンチマンに陥る。すなわち感情を表に出すことができなくなってしまうのである。
強者であればこの状態を克服できる。その場合、ルサンチマンの状態は(復讐心を克服するときと同様)一時的なものでしかない。反対に弱者はルサンチマンから逃れられない(復讐心が脅迫観念になったり、ある行為を後悔するあまり日々悶々として、気の休まるときがなくなってしまったりするのと同じ)。そして、フラストレーションの味方をして、なにもできないのを正当化し、価値の否定および反転を行う。自分を正当化しようとするこの願望こそ奴隷精神の最大の特徴である。
これを読んで、勝間和代とその信者にルサンチマンを見た池田信夫を考えると面白い。勝間和代は自己啓発の本を多数出しており、今回はデフレ退治へと行動している。自己啓発の本では人々に学習することを求め、デフレ退治では政治的に動くことを要求している。どちらも人々に行動することを要求しており、「単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつける徒輩」とはほど遠い。真っ逆さまと言って良いだろう。
対して池田信夫の出した『希望を捨てる勇気』は、その真意はともかく、多くの人に今のままで十分であり、何もするな、希望を持つなと誤解させるに十分な内容である。真意は超人であることを求めていると思われるが、実際にはルサンチマンの人により歓迎されるだろう。
ニーチェは、ルサンチマンの人の例として、キリスト教を奴隷の道徳と考えた。自分たちが善であると考えることで、世界を正当化して心の中だけで復讐して奴隷として生きるのだ。
池田信夫信者もまた自分たちの考えが論理的で真実であると考えることで、世界の正当化して他者の無知を心の中で嗤い復讐して奴隷として生きるのだ。まさに池田信夫とはルサンチマンの人によって支えられたアルファブロガーである。
にもかかわらず池田信夫は、自身ではなく勝間和代にルサンチマンを見い出す。これは精神分析でいう投射である。自分自身の特徴を相手に見い出すのだ。なぜなら自分自身の特徴こそは自分にとって最も気になることであり、相手を見るときもまずそこから徹底的に調べるからである。
投射を行う人間は、得てして合致する部分が見つかるとすぐに合点して推論を止めてしまう。精神ストレスに対する耐性がないと、自身を直視することを恐れ、自己の推論について検証することができないのだ。
説得力のない嘘でもひたすら言い続けると説得力が生まれるもの。人々はそんな馬鹿なことができる人がいると信じられないのだ。中庸を取ってどこかしら真実だと考えしまう。しかし嘘ですべてを固めてしまうという人は存在する。
精神ストレスに対する耐性が極端に低い人間は、堂々と嘘をつき続ける。本当のことを言ったり考えたりする苦痛に耐えられないからである。嘘を正当化するためにまた新しい嘘が必要になるからである。堂々した嘘には説得力があることを知っているからである。これは葛藤に直面しても現実を直視することができない人間の特徴である。
「みんなで力合わせて頑張ろうよ!」
「なんでやる気ないの?」
「せっかくみんな一緒に頑張ってるんだから、練習しなきゃ!」
「やる気ない人がいると、みんなに迷惑かかるんだよ?」
とどめに「中学生活最後なんだよ?」+泣き落とし。
校内イベントを前にしての、やる気のない男子とせっつく女子というのは日本全国津々浦々にわたっておなじみの光景だと思う。学祭とか合唱コンクールとか。
奴らの唱える魔法の呪文は、いま思い出しても胃がむかつきはじめるほど不快だ。ネタにできるくらいには過去の話になったけど(ちょうどさっき、友人がふざけて呪文を詠唱しはじめて爆笑させられた)。
あの手の決まり文句がなんでイラつくのか考えてみたんだけど、これは大きく分けて2つの言葉で説明できると思う。「数に任せた同調圧力」と「価値観の押し付け」。
奴らは「いろいろあったけど一致団結して目標にむかって取り組んだ輝かしい思い出」を作りたい。そのこと自体には異論はない。思い出はいつの間にか出来上がってるもので、わざわざ捏造するようなものではないとも思うけど、まあそれはいい(起伏のない日常がどうたらこうたら、某ワゴン車のキャッチコピーのごとく「モノより思い出」を重視するように女性は出来ているうんぬんかんぬん)。
思い出作りはいいとして、そのために(無意識にせよ)狡知を凝らして集団を動員しようとするのが、たまらなく不愉快なんだよね。「思い出が欲しいから協力してくれない?」って素直に頭下げればいいのに。まあ無理か。
ともあれ、こういうイベントって前提として数十人が協力しなきゃいけないから、どうしても気の進まない人間が出てくる。男子の大半とか。
そこでどうするかっていうと、まず「数に任せた同調圧力」。こういう状況では女子は団結するので多数派となって、学校行事というお題目も手伝って同調圧力が働く。そこで登場してくるのが「みんな」という葵の御紋だ。「頑張ってるみんなvs迷惑をかけてるあんたら」という構図に持ち込めば、日本人はなんだかんだで従わざるを得ない。水戸の御老公乙。
これはこれでイラつくのだけど、もっと気に食わないのが「価値観の押し付け」。「今頑張らないと将来絶対後悔するよ!」って、おまえは俺のオカンか、細木和子かっつーの。同格と見なしている存在に説教されるほど、腹立たしいことはない。
実のところ、後悔するのは誰かって、当の女子なんだよね。それを外部に投射してくるのもまた不愉快。俺はおまえじゃない。
こんなの社会じゃ当たり前の光景だって言うかもしれないけど、社会化の過程にあるからこそ反発する。ただでさえ敏感な思春期だし。そういう意味では、同じイベントでも高校になると、あんまり「真面目にやれ」「協力しろ」と踏み込まれなくなるのも必然なんだと思う。女子は女子で、適切な距離を学ぶから。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E8%A1%9B%E6%A9%9F%E5%88%B6
wilipediaに載っていた「防衛機制」で、自分が普段やりがちなものを考えてみる。
抑圧
「あの子の事は忘れよう。」みたいな感じかな?
注意を集める
「ネットに書き込む。」今やってるけどww
合理化
「だって才能無いんだもん。」とかかな?合理的ではないけど
同一視
「ニートなんてたくさんいるしww」
これは思い浮かばないな
摂取
「マオちゃんがキムヨナに勝った!日本国民が優れている証拠!」
反動形成
分離
これをするくらいなら抑圧するけどなぁ。
逃避
「やらなければいけない作業はどんどん後回し。ネットサーフィンして時間をつぶす。」
退行
「犬に赤ちゃん言葉」は違うかな?
置き換え(代償)
まあ、「オナニー」だなww
これも・・「オナニー」?
これはないないww
ていうか、これが出来たら他の防衛機制いらなくね?