ニーチェによればルサンチマンの人とは「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」[1]である。
よって、ルサンチマンの人は非常に受け身的であり、無力な状態で、フラストレーションを起こしている。行動を禁じられて、その結果自身の無力を痛感している人なら誰でもルサンチマンに陥る。すなわち感情を表に出すことができなくなってしまうのである。
強者であればこの状態を克服できる。その場合、ルサンチマンの状態は(復讐心を克服するときと同様)一時的なものでしかない。反対に弱者はルサンチマンから逃れられない(復讐心が脅迫観念になったり、ある行為を後悔するあまり日々悶々として、気の休まるときがなくなってしまったりするのと同じ)。そして、フラストレーションの味方をして、なにもできないのを正当化し、価値の否定および反転を行う。自分を正当化しようとするこの願望こそ奴隷精神の最大の特徴である。
これを読んで、勝間和代とその信者にルサンチマンを見た池田信夫を考えると面白い。勝間和代は自己啓発の本を多数出しており、今回はデフレ退治へと行動している。自己啓発の本では人々に学習することを求め、デフレ退治では政治的に動くことを要求している。どちらも人々に行動することを要求しており、「単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつける徒輩」とはほど遠い。真っ逆さまと言って良いだろう。
対して池田信夫の出した『希望を捨てる勇気』は、その真意はともかく、多くの人に今のままで十分であり、何もするな、希望を持つなと誤解させるに十分な内容である。真意は超人であることを求めていると思われるが、実際にはルサンチマンの人により歓迎されるだろう。
ニーチェは、ルサンチマンの人の例として、キリスト教を奴隷の道徳と考えた。自分たちが善であると考えることで、世界を正当化して心の中だけで復讐して奴隷として生きるのだ。
池田信夫信者もまた自分たちの考えが論理的で真実であると考えることで、世界の正当化して他者の無知を心の中で嗤い復讐して奴隷として生きるのだ。まさに池田信夫とはルサンチマンの人によって支えられたアルファブロガーである。
にもかかわらず池田信夫は、自身ではなく勝間和代にルサンチマンを見い出す。これは精神分析でいう投射である。自分自身の特徴を相手に見い出すのだ。なぜなら自分自身の特徴こそは自分にとって最も気になることであり、相手を見るときもまずそこから徹底的に調べるからである。
投射を行う人間は、得てして合致する部分が見つかるとすぐに合点して推論を止めてしまう。精神ストレスに対する耐性がないと、自身を直視することを恐れ、自己の推論について検証することができないのだ。
説得力のない嘘でもひたすら言い続けると説得力が生まれるもの。人々はそんな馬鹿なことができる人がいると信じられないのだ。中庸を取ってどこかしら真実だと考えしまう。しかし嘘ですべてを固めてしまうという人は存在する。
精神ストレスに対する耐性が極端に低い人間は、堂々と嘘をつき続ける。本当のことを言ったり考えたりする苦痛に耐えられないからである。嘘を正当化するためにまた新しい嘘が必要になるからである。堂々した嘘には説得力があることを知っているからである。これは葛藤に直面しても現実を直視することができない人間の特徴である。