はてなキーワード: 大正天皇とは
こういうやつって他の例えば後醍醐天皇の絵を燃やしてたとしてもなんとも思わないんだろうな。
明治天皇だったら怒りそうだけど、それ以前の天皇の肖像画を燃やすのは平気だったりするのかな?
大正天皇はセーフなのかな?
コロコロ漫画にモンゴル大使館が抗議して作者が謝罪した件や自衛隊ポスターにパンチラのような絵を掲載して撤去された件が表現の自由の侵害ではないのと同じで、流石にそれはまずいというものはある。
例えば個人サイトで天皇を燃やす作品を作って公開するのならいいが、県や市から金をもらっている公の場でを展示すれば抗議されて当然なのでは。
チンギスハンに落書きするのも自衛隊ポスターでパンチラするのも天皇を燃やすのもOKという人はあまりいないのでは
■追記
非実在と非存命は違う。非存命でかつ実在の青少年をモデルにしたキャラクターをレイプする作品があって、それに対して抗議があったらその作品は非公開にするべきだと思う。
こういうやつって他の例えば後醍醐天皇の絵を燃やしてたとしてもなんとも思わないんだろうな。
明治天皇だったら怒りそうだけど、それ以前の天皇の肖像画を燃やすのは平気だったりするのかな?
大正天皇はセーフなのかな?
自分はそもそも昭和世代じゃないので昭和天皇が燃やされていてもなんとも思わないし、チンギスハンの顔に落書きされているのを見ても何も思わない。
でも、それに対して抗議の声が上がったら配慮をするべきだと思うよ。昭和世代の人にとっては天皇は特別なものなんだろうし、モンゴルの人にとってもチンギスハンは特別なんだろうから。
喜々として集まって灯油を投入しそう。
当たり前だけどそんなことはしない。
というか、逆に天皇を燃やす絵を表現の自由だと言って守ろうとしている人たちは仮に朴槿恵やムンジェインの肖像を燃やす絵を芸術作品として展示する場所があって、それに対して韓国政府が抗議しても表現の自由の侵害だ!って怒るの?モンゴル大使館がコロコロに抗議したときも表現の自由の侵害だ!って怒ったの?
なんとなくニュースで天皇家の世継ぎがどうのこうのいってたので、ふとwikiをみてみたらなんかすごかった。
奥さん(皇后)との間に子供がいなくて、5人も側室がいたんだけど、5男10女いて、成人した男は大正天皇1人だけ。女も4人しか成人してない。
内訳はざっとこんな感じ
すげえなあ。
当時の乳幼児死亡率とか、出産の危険性がどの程度のもんだったんかよくしらないが、現代人の感覚では死屍累々だ。
これだけみると、なんか呪われてる一家じゃないかと思うくらい。
なお、体が弱かったことで有名な大正天皇は、皇后とは仲が良かったらしく、側室も持たずに男4兄弟を設けて周知のとおり無事、全員が成人を迎えている。(昭和天皇、秩父宮、高松宮、三笠宮)。
4人子供を設けて4人とも男というのも凄い。
まあ、西洋医学が入ってきてたとか、いろんな要因もあったのかもしれないが。
昭和天皇については人物像が過剰に美化されてたり、反対に戦犯であったりという意見があるのであまり「天皇の代表」として論じるべきではないと思う。
少なくとも当時の軍部とともに戦争を進めたという事実はあるので、それはそれで現在の基準での善悪から「良い天皇・悪い天皇」を話すべきではないし、天皇制の議論に持ち込むべきではない。
また平成天皇は非常に人格的に素晴らしい方で、あの方ほど戦後体制で米国や戦後処理に関わった日本人にとって都合の良い(と、悪しざまな言い方になってしまうが)天皇は歴史的にもいないのではないかと思う。
しかしそれをもとに「平成天皇はすばらしい」ということから「天皇制は永続すべき」といった話をすることもまた間違っている。
問題は素晴らしい人格者が現在天皇に即位されているからそれで今後も天皇制がよいもの、という短絡的な結論をつけてはいけないということ。
もう少し踏み込めば、天皇の人格と「日本の象徴」を一緒くたにしている現在の天皇制は非常に危険なものであると言える。
右翼や保守の論客の中には「天皇の人格を我々が判断することが不遜」といったことを言う人も見かけるが、それならば平成天皇に及ばないような人が即位をしたとき、それを受け入れる仕組みが日本にあるのかということが問題になってくる。
あと、大日本帝国憲法以降の天皇は実質政治の世界から阻害されてるからいつ何を言ったかなんて全く現在では問題がない。
ここまで書いて思ったが、天皇制は日本に必要!ないと日本が壊れちゃう!論者が根拠にしてることって明治ってか戦後以降の洗脳的でっちあげストーリーがもとなんだよな。
せいぜい今生きてるジジババまでにかけられてきた「戦争に勝つための国家」という明治政府の呪縛から目を覚ます時期ではないかと言う気もする。
その時の政権が「戦争するしかない!」とか言い出した時に、その時の天皇が「ダメです。やめなさい」と言ったところで抑止力があるかということをもう少し考えた方がよいのでは。
高潔なる天皇家を認めることは、当然その対極に、穢れたる存在を生み出す。
天皇や皇族を、家柄や血統が良いとして崇める事は、構造的に部落民を差別する事と一緒である。
天皇が聖性を家柄・血統として、代々伝えることを認めるならば、部落民の賤性もまた、家柄・血統として代々伝えられることを認めることになるのである。
また、賤であり穢れた存在を置くことは、天皇自らの聖性・浄性を相対的に高めるという効果がある。
天皇家にゆかりがある関西や、大和朝廷と関係がある地域と思われる福岡・熊本・大分に被差別部落が多いのは、おそらく古代・中世期に天皇制権力が賤民や部落民の原形を作り上げたからではないかと考える。
天皇が聖性を家柄・血統として代々伝えることを認めるならば、部落民も当然その賤性を代々伝えていくことまで認めることになるのである。
天皇家は天照大神から万世一系に繋がっていると信じさせている。何が万世一系と見なされているのか。
一つ目は、三種の神器の継承、である。これは天照大神の時代から代々伝わっているとされている。
二つ目は、霊が繋がっている、とされている。大嘗祭は、収穫を祝う祭であるが、それだけでなく、現在の天皇が旧天皇の死体と共に寝るという儀式もある。これによって、先帝の天皇霊が新天皇の身体に憑くのである。したがって、天皇は天照大神と霊的につながっている現人神とされたのである。
三つ目は、血が連続している、とされている。皇位の根拠が古代以来連続してきた血統にあるとされた。
そしてこの連続性は当然今後も継続することが当たり前であるということを正当化させる。こうした天皇の万世一系性は、あらゆる家系に優越し超越する天皇家の家系を強調し、皇位の不動性をわれわれに当然のものとして受け取らせるのである。
万世一系を唱えることのメリットとしては、天皇の宗教的権威や統治権の絶対性、さらには身分と地位の永続性が担保されるということが考えられる。
奈良・平安時代などは、天皇や皇族の後ろ盾にいる各豪族の抗争次第で、皇位は血統原理と関係なく移動したのである。
例えば、聖徳太子は、血統原理から言えば正統な皇位継承者だったのだが、結局天皇にはなれなかった。また672年に起きた壬申の乱では、天皇と名乗る大友皇子(天智天皇の子)を大海人皇子が武力で倒し自らが天皇になった。
又、天皇家は、万世多系であった。桓武天皇の母親は朝鮮からきた人というのは有名な話である。また皇室には代々側室なるものが存在し、その側室は平民から選ばれたのである。明治天皇や大正天皇は側室の子供である。(明治天皇の側室で大正天皇の生母であった柳原愛子さんは大正天皇が知的障害者であったことの責任をなすりつけられたそうである)そのことは皇室の家系図には書かれておらず、あたかも天皇が一人で子供を産んだように書かれており、見る人に天皇家は万世一系につながっていると思い込ませているのである。
更に、現在の天皇家は足利尊氏が無理矢理作り出した北朝の子孫であることである。血統原理でいくならば、正統な皇位継承権は南朝にあるのである。(南朝の子孫とされる熊沢という人が大東亜戦争後に、皇位継承権は自分にある。と訴えた話は有名である)
天皇陛下はいつも国民のことを考えておられる。福祉にも御興味をもたれ、障害者にも優しいお方である。などと思っている人の何と多いことであろう。しかし天皇家は実は思いっきり穢れた家柄・血統の人間を差別しているのである。
天皇・皇族の部落民に対する差別事例をここでいくつか挙げてみる。
1868年に制定された『法令全書』の第1巻686号には、天皇が巡幸する際に穢れ多い部落が見えないように部落を筵で隠すべきということが書いてある。
そのことの事例として、1922年に起きた大分県の的が浜地区焼き討ち事件、がある。事件のあらましは、皇族が列車で巡幸する際、沿道沿いにある、的が浜スラム地区、が皇族の目に触れないように、その地区を警官が焼き討ちした、という事件である。的が浜地区は正確には被差別部落ではないが、非人系の部落民や、ハンセン病者や、浮浪者が多数居住していたスラム地区であった。
これは大正年代の出来事だが、奈良県の畝傍山のふもとにあった洞(ほうら)部落が、その下にある神武天皇陵を見下ろす位置にあるとして、行政側は1917年にその部落の強制移転を求め、20年にそれを強制執行した。その際、洞部落の部落民の遺骨も穢れているとして、徹底的に取り除かせた。
例えば、宮中の賢所に使える女官を選ぶ基準は血統・血筋である。穢れも未だに重視しており、彼女らが月経のとき、お下り、といって強制的に休ませている。月経が終わっても穢れを祓う儀式をしないと元の仕事に戻れないそうだ。
そして最も重大なのが、結婚相手の調査を正々堂々としているということである。
1993年1月5日付け読売新聞朝刊の一面によると、宮内庁は、皇太子妃候補の身元調査を大手興信所に頼んだとのことである。そこには皇室専門の興信所員がいるとのことである。そして直系は4代先まで溯り、大祖父、祖父のきょうだいまで徹底的に調べたそうである。そして雅子さんが優秀な家系で驚いたなどと興信所は言ったそうである。皇室は差別主義に凝り固まっていると言える。
天皇制擁護者の大多数は、天皇・皇室は日本の伝統だ。という理由で賛成していることだろう。しかし天皇制は日本オリジナルではない。天皇という概念は、中国における道教の最高の信仰対象であった天皇大帝から来ているのだ。
天皇家は、伊勢神宮か京都御所で儀式とか神主でもやるべきだ。もちろん、その際でも、天皇・皇族も国民という立場で勤労・納税の義務を負い、また参政権を含めた基本的人権を有する立場に置かれるべきだ。
明治天皇、大正天皇、昭和天皇、平成天皇と来たけど、ほとんどはずれのない天皇ってすごくね? 京都御所での天皇Sってそんなに仕事できるイメージないんだけど。公家とかより華族が戦後日本作ったよな?
敗戦責任は公式にはなくても十字架しょったまま長生きしてくれて、上からにしろ人間になって全国行脚した昭和天皇。生きてた時から伝説。
宮中祭祀を完璧こなしながら、災害後復興を各地で祈りまくる平成天皇。国家地鎮を地で行きながら、完璧夫婦、何も知らない偏差値40のJKたちに存在だけでモテるじいちゃん。
まさに二足の草鞋。天皇の仕事を現代風に変えていくという、どう考えても無理ゲ~を、『やりたいことあるなら、仕事完璧にしながら、やる。これ、ジョーシキ』という凡人が鬱になるパターンをしかも55歳から行うという、、、。
ほんと生前退位してください。すみませんでした。安心できる余生になるよう、本気で取り組んでくれだれか。。
てか、仕事厳しいからって部下に当たり散らすやつら、天皇は部下をののしるか? でも天皇のためにきっと命がけで仕事するだろ。お前、命がけで仕事したいと思わせてんのかよ。
ここは町(大正村だけど明智町ですわ!)全体が大正時代の博物館みたいになっていて、
調子に乗って明知城にまで登ってしまったので、塩サバになるところでしたわ!
特に日本大正村資料館とカフェ天久二階にはエアコンがないので注意が必要ですわ。
ですけど、日本大正村資料館を回った後に土産物屋でごちそうになった麦茶がことのほか美味しかったので、
個人的には大正時代館にある旧明智町の模型がお気に入りですわ。エアコンも効いていますし。さばすし。
ここの記述だけをみると、大正天皇陛下はまるでクーデターされたみたいですわ。
駐車場近くにあるお土産物屋のおばさまがキャラクターTシャツを着ていらして、
子供のお下がりに無頓着なおばさまかしらと(魚だけに)ギョッとしたのですけど、
よくみたら大正村ご当地キャラクターの大正ロマンちゃんのTシャツでしたわ。
古民家三宅家で出会ったいぶし(物理)のおじいさまも、名札に大正ロマンちゃんのイラストがついていましたわ。
まろ~ん、ですわ。
北海道江別市西野幌にある「道立増田投稿者養成センター」の歴史は古く、明治2年に開拓判官島義勇が建白した「匿名筆録掛創設ニ関スル建白」にその淵源が求められる。
その後、初代北海道庁長官岩村通俊の時代にその必要性が認められ、明治20年に「庁立増田所」が札幌の創成川沿いに設置された。
当時は札幌農学校の講師が教授役を務めた。吏務員としての素養を高めるとともに人の気をひく匿名の文章を如何に作るかについて、北海道開拓というプレッシャーの中、日々を研鑽を積んでいた。当時はインターネットは無く、増田専用の文書を回覧し、開拓使に勤める吏員が印鑑を押下することによってブックマークとしていた。有名な職員の押印はやはり注目を集めた。岩村も自らが創設した部局とあって積極的なブックマークを行ない、出身の薩摩ネタ(「何言うちょっかわかりもはん」かが決まり文句)が職員の笑いを誘った。
ブックマークを多く集めた文書は翌日以降の函館新聞(のちの函館毎日新聞)や小樽新聞に掲載された。現在と同じく、文書にはウケ狙いのもの、政治や社会に関するものがあり、それに対する道吏員のコメントは新聞読者の注目を集めた。時に道政の指針となるような匿名文章やブックマークがあり、北海道における増田は、開拓を進める上で次第に重要性を増していった。
明治44年の後の大正天皇の行幸に合わせて「庁立増田所」は発展的に解消。「庁立匿名記事錬成所」と改められ、その機能が増強された。すなわち、道庁以外の要人にも押印の権利が与えられたのである。現在の雨竜町に大農場を経営した蜂須賀茂韶(しげあき)や、清水町に広大な土地を所有した渋沢栄一ら、北海道に土地を所有したり工場を経営する政府要人のブックマークが認められるようになった。このように北海道開拓の傾向性と同じく、北海道における増田についても官の強力な資本投下により推し進められた側面が強い。
大正年間の北海道庁長官宮尾舜治もまた名物ブクマ家であった。ほとんどの記事にブックマークしたため、彼の部下が空気を読んで同じくブクマ。その結果糞増田が多くエントリされ、増田の質が多いに低下した。これは第一次大戦の好景気を経験した道民のデモクラティックな感性を大いに刺激し、増田改善運動が各地で起こった(釧路での原勝治の運動が著名)。これに対する宮尾の名言「糞増田もまた増田」は、今でも道民の記憶に遺されるものであった。
戦時中は統制政策のもと増田の文章は時の第一次東條内閣により圧力をかけられた。しかし増田家やブクマ家は当局に面従腹背、うまいことごまかした文章やブクマを行ない、ネタや時局批評を織り込んだ。こうした官製でありながら反体制的な場としても機能したことについては、言論の自由を考える上でも高い評価を得ている。
戦後の民主化により、昭和23年に「庁立匿名記事錬成所」は解体。野幌の現在地に民間資本による「北海道匿名記事養成所」が設置。講師以下執筆者、多くの職員に至るまでを公選とすることで、増田のさらなる民主化が図られた。残念ながら諸般の事情や資金面での苦慮により昭和29年に増田執筆者公選制度は頓挫。北海道は重要性を再認識し、再び道立への移管がなされた。戦後北海道では漁業や鉱業が盛んであり、そうした労働者に関する増田文が多くを占め、時代の潮流になった。時の社会党党首佐々木更三をして「北海道に労働者あり増田あり」の評言は、現在でも北海道増田左派を中心に語り草になっている。近年では現北海道長官の高橋はるみ萌えネタが多くを占め、歴史の長い北海道増田界隈にも、萌えの波が押し寄せていることは今更贅言する必要性もないだろう。また北海道十一区中川侑子代議士のスキャンダラスなネタや増田小説(えっちな)も定番になっている。「増田所」設置の明治20年から130年の歴史が経過しようとしている。北海道匿名世界をリードした増田。これからさらなる飛躍を祈ってやまない。