2024-05-21

「ただ愚痴を聞いていて欲しいだけ」への反論

この小稿は、愚痴を言う人はアドバイスを求めておらず、話を聞いていて欲しいだけなんだ、という状況について意見するものです。

1 愚痴を言う側の人権侵害

まずおかしいのは、愚痴を聞く側の人権無視しているということだ。

愚痴を言う側は、相手強制的に黙らせて、相手思考を停止させ、ただ話を効くマシンとして使役している。

奴隷である

おまえそれカントの前でできんの?

改めて考えて欲しい。

相手に対し、「黙れ・考えるな・意見を言うな・ただ私の話を聞け」としているのは恐ろしいことではないか

まずそこを考えて欲しい。愚痴を言う人はそうしたある種の傲慢さを持っている。

そしてそんな高度なことは、きっとお金を払って占い師コンサルティングスナックママその他夜のお店の人にするべきではないか

2 愚痴を言わないうこと

じゃあお前は愚痴を言わないのか?

私は愚痴を言わないし愚痴を言う回路を、多分、持っていない。

から前段のような極論を言える。

仕事のことは仕事解決するべきだ。仕事愚痴は直接その愚痴の根源を解決しない。

から愚痴を言わない。愚痴となりうるもの仕事解決する。

ただこれは、私が恵まれいるからそんなことを言えるだけなのかも知れない。

仕事はある程度裁量があるし、周囲に恵まれており問題点仕事の中で解決できる。

そうしたことが難しい場合愚痴が出るのかも知れない。

3 愚痴を言われる側の研鑽の不足

基本的に、私は愚痴を言う人が良くないと思っている。

それは最初パラグラフで書いた通り、相手を隷属させる構造が嫌だからだ。

から相手から愚痴を言われても絶対自分意見を言うようにしている。

失敗も多かったが、愚痴を言う相手にウザがられない回答というものがある。

答えはない。その人の状況による。高校国語問題の、その応用の先にある感じだ。

私の自由意志相手に合うコメントをしても相手嫌がらせない。

そんな文言がある。

まあこれが私の自由意志がどうかは難しいところがある。

ニック・チェイター 著、高橋達二・長谷川珈訳『心はこうして創られる「即興する脳」の心理学 』(講談社選書メチエ、2012)であった議論だ。

結局相手に合わせているに過ぎないのかも知れない。

やや冗長になったが、愚痴へのアドバイス罪は、相手への理解や情愛によって免かれるのだろう。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん