性格が悪いので。
定期預金のようなものだと思ってはじめた積立が含み損になるのってストレスが大きいだろうな。
暴落もいいけど、天井から5年くらいかけて徐々に下落していくのが一番精神にくるかな。
最初は画面上の含み益を見て「やっぱりNISAをはじめて賢かったわ〜」ってニヤニヤしてたのが、だんだん含み益が減っていって、やがて含み損に変わるやつ。
含み損もはじめのうちは「安くなって含み損になってもドルコストで積み立ている賢い私」を信じて積み立てられるけど、下がって底が見えない時に無限にナンピンするのって、精神がやられるよね。
初心者で積立をはじめたばかりだと、儲かる実感も経験もないだろうし。
汗水垂らして働いて稼いだお金が減っていくの、含み損の金額を見ながら「投資しなければそのお金で美味しいものを食べたり旅行に行けたのにな」って思ってしまうだろうな。
それまでバカにしていた「貯金しかしない人」に見下されてしまうような気がするから、人にも相談しにくいし。
個別株だと、中には上がっている株もあったりして精神が落ち着くけど、オルカン一筋だとそれもないしね。
3年くらいで「間違っていたのかな?」って後悔し始めて、5年目くらいに精神的に耐えられなくなって底で売り払ってしまうのが一番いいかな。
意味不明。きっとなにか重要なことが語らえてないだろうけども、暗号技術の意味がなくなるステップがまるで見えないので意味不明。
> SNSはなりすましで溢れ、人類はオフラインのコミュニティ移行する
認証技術としての基盤である暗号技術が無いならそうかも。でも私には暗号技術がなくなるとは思え無いので、これも無いという結論になる。
> 今でも、インプレゾンビが湧いているが、あれが人間かどうか見分けが付かなくなる
迷惑アカウントが人間だろうがAIだろうがどうっちでも良くないですか?どっちでも迷惑なことに変わりないうんこにたかるハエです。
> 優しい人や知人を装って、詐欺に誘導するアカウントが増えると思う
> 3.デジタルな娯楽を作る人が居なくなる
それはないと思う。大量工業製品で溢れてる現代において陶芸や裁縫は結構な趣味として確立している。AIが無限にデータを作れることと人間が作らなくなることはイコールじゃない。
> ボタン一個押すだけで、ハリウッド映画を無限に作れるようになるのに、わざわざ金使って映画撮る人おる?
いないと思う。想像の通り少なくなるでしょう。
> 他の分野もそうなるし、既に音楽やイラストは手を引いてる人が出てそう
お金が稼げなくなると言う意味ならそうです。表現を辞めるかどうかは別の話。
人々は、音楽やイラストも、スケボーとかダイビングみたいな自己表現、趣味の一つであることを思い出すだけです。
> AIを作っている会社がボロ儲け、AIを使う人が適度に儲け、使えない人は貧乏生活
> これは今の株価を見てもそうなると思う
そうだと思います。AIを動かす電気を作る人なんかはもっと儲かると思います。エネルギーセクターも結構妙味があるかもしれません。(思いつき)
> ゲームのオンライン対戦なんかも機能しなくなるし、インターネット普及前の生活まで戻ると思う
対戦相手が人間かAIかわからないと言う意味ではそう。でもAIは十分人間と見分けがつかないレベルであれば、今までのオンライン大戦と何も変わりません。
なのでインターネット普及前までの生活に戻る。というのが意味不明で何を言っているのかわからない。同意できない。
なんか、もっとボロカスに書こうと思ったけどところどころ、同じ考えだった。
半年前に発売されたカプコンのストリートファイター6をプレイしているのだが、スト6に限らず最近のゲームは面白すぎて恐怖を感じてきた。
ヴァロやAPEXはもちろんlol、スプラトゥーンなどもプレイしていると夢中になりすぎていつのまにか時間が経っている。スト6もランクマッチで対戦していると仕事帰りなのに3時間ぐらいプレイしてしまう。そうなると風呂に入らなくなったり、ご飯もほとんど自炊してたのが冷凍食品に頼るようになってしまった。洗濯物も溜まるし本を読む時間もあまりなくなった。
当然、それだけやっているとプレイの腕前は上がるのだが、ゲームが多少うまくなったところでなにかあるわけでもなく、プレイ開始当初のガチャプレイでやっていた時のほうがゲームの満足度としては高かった。技のフレームを調べるようになるともう駄目である。Youtubeでうまい人の対戦動画など見始めたらもう最悪だ。勝つことと楽しむことが同じことになり、楽しむため=勝つためには時間と集中力が要求されるようになり、結果、生活が犠牲になってしまう。
いつだったか香川県でゲーム規制の話があってネットが紛糾していたことがあったけれど、香川県はあながち間違っていなかったのではないかと思うようになった。それほど今のゲームは出来がよい。面白すぎて無限にやってしまう。ソシャゲがよくやり玉にあげられることが多いけれど、本当にハマったらやばいのはネット対戦があるFPSや格ゲーだと思う。ゲームのクオリティが上がるのは喜ばしいことであるはずなのに、クオリティーがあがればあがるほどそのゲームに没頭するようになり、没頭するようになれば生活が部分的に犠牲になる。
微妙なプレゼントを貰って、使わないものが家の中でスペースをとって困る、という体験をしたことがないと、プレゼントリテラシーは上がらないのでは。
まず、家が広いと、使わないものをもらっても困らない。田舎の元農家のようなクソ広い土間や納屋や倉庫があって無限に物を置いておける環境だと、都内駅近ワンルームの気持ちは分からない。
あと、整頓して暮らしたいと思ってないと困らない。机の上に何も置かない生活とかに価値を置かずに、物パンパンの汚部屋で暮らしていると、モノが増えて処分に困るという気持ちは分からない。
あと、肌や髪が強かったり、荒れてても気にならない人も困らない。ドラッグストアの最安製品を買って、それで肌も髪も荒れたことがないという人は、
最安製品ではなく中価格帯の製品を選ぶことも「無意味な贅沢」と確信しているし、なかには最安製品を使って肌荒れしているのに肌荒れに関心がないような人もいる。
自分自身の生活水準が低くて、品物を選ぶ解像度が低い人は、プレゼントが下手なままだ。
あと、こういう人はプレゼントをもらう機会が少なそうではあるけど、プレゼントをもらうのも下手。
なぜかというと手に入りやすい安物をもらったのか、入手難易度が高い高額商品をもらったのか、わからないから。リアクションが悪いから、良いものをあげる甲斐がない。
だから、あげるのも、もらうのも、下手な人ができあがる。でもプレゼントリテラシーのインフレに乗っかっていくのも大変。
一般に、無限に反射する素材はないし、箱の内部に空気などが入っているので、内部の空気や箱、そして電球の部品そのものに光が吸収され熱になる。
箱の熱は、外の空気に伝導して空気は対流する。あるいは、赤外線として箱から放射される。
もし、箱の中が完全な真空で、かつ反射率100%の素材でできていたとすれば、電球のみがその光を吸収し続けて温度が上昇し続けるので、どこかのタイミングで電球が壊れて消える。
電球が光を吸収しない素材であれば、という仮定はできない。なぜならば、電球のフィラメントの光は黒体放射なので、フィラメントは光を吸収できる素材でなければならないからである。
まぁ色々あるんだけど、お役所のまとめとしてはこんな感じ
https://www.esri.cao.go.jp/jp/esri/prj/sbubble/menu.html
詳しくはこの辺りをどうぞ。
雑にまとめるとこんな感じ。
これに対しては、中国はバブルの研究と言うより、その後の破綻処理に付いて研究している。
アメリカは、リーマンショックの時、超高速でリーマンブラザーズ証券をぶっ壊して解体しつつ、公的資金をぶち込むということをやった。
中国は、恒大の件等の時に、無限に先送りしつつ徐々に崩壊させるという方法をとっている。
中韓や日本の一部の狂ってる層(インター校とかに子供を入れる層)は知らんが、日本の大多数の人間にとって教育費が増えたと言ってもせいぜい子供1人あたり数百万円のレベルだろう。これは少子化の本質的な原因ではないと個人的には思う。
金銭的な観点での本質的な原因は、①不動産価格の高騰と②共働きの一般化だと思う。
①不動産価格の高騰は言うまでもない。東京や都市部ではここ10年程度で、一般的なファミリー層が必要とする家の値段が3000万円程度は上がった。教育費に換算して子供3~5人分と言えるだろう。教育費上昇の効果より遥かに影響が大きい。
②共働きの一般化については機会費用の問題だ。不動産価格が上がったせいもあるが、夫婦共にフルタイムでの共働きをするのはかなり当たり前になった。しかしながら子供を持った途端にフルタイム共働きが実質的に不可能になる状況は大して変わっていない。
そうすると、一度共働きが当たり前と慣れた人々は機会費用を考え始める。共働きを続けた場合の世帯収入の総額と、専業またはパート主婦になった場合の世帯収入の総額との差のことだ。これは定年までの総額と考えると、低く見積もっても1億円に近くなる。教育費の上昇なんかよりも遥かに巨大な額だ。
①と②を合わせてトータルで1億円〜2億円の差が生じる。子供を持たないか1人程度にとどめることでこの分が家計に入ってくると期待されるわけだ。仮に教育費が大幅に下がったところで、子供を2人以上持った場合の世帯収入減少を軽減する効果は誤差レベルと言える。
解決策として考えられるとすれば、教育費なんかよりも乳幼児に無限に手間を掛けるようになってしまった文化の根絶だろう。情操教育だの愛着形成だの発達だのといった言葉に踊らされて子供に手間を掛けまくるのをやめれば働き続ける余裕も生まれるかもしれない。昔みたいに子供は適当に放置して言うこと聞かなければぶん殴って聞かせる程度で育てるようにすればいい。教育費削減なんかより遥かに効果があるだろう。
AIが規制されないまま、このまま進むと社会はどうなっていくのか予想してみた
1.暗号技術の意味が無くなり、ネット経由でやり取りが出来なくなる
2.SNSはなりすましで溢れ、人類はオフラインのコミュニティ移行する
今でも、インプレゾンビが湧いているが、あれが人間かどうか見分けが付かなくなる
優しい人や知人を装って、詐欺に誘導するアカウントが増えると思う
3.デジタルな娯楽を作る人が居なくなる
ボタン一個押すだけで、ハリウッド映画を無限に作れるようになるのに、わざわざ金使って映画撮る人おる?
他の分野もそうなるし、既に音楽やイラストは手を引いてる人が出てそう
4.貧富の差が激しくなる
AIを作っている会社がボロ儲け、AIを使う人が適度に儲け、使えない人は貧乏生活
これは今の株価を見てもそうなると思う
ゲームのオンライン対戦なんかも機能しなくなるし、インターネット普及前の生活まで戻ると思う
そういう未来にならないといいなと思い、筆を取ってみた
たとえばユークリッド幾何学での直線は「幅をもたず、両側に方向に無限にのびたまっすぐな線」だそうですが、これも「幅」とは?「(幅を)持つ」とは?両側とは?「方向」の定義は?「無限(限りが無く)」とは?そもそも「限り」って何?「のびる」とは?「まっすぐ」とは?「線」と結論づけるのは循環論法じゃないの?
と突っ込む人にとっては厳密ではなくなっていませんか?
ここで、これらの言葉の意味は、国語辞典に載っている意味と同じものだよなどといおうものなら、それこそ数学の厳密性を否定したようなものになってしまっていると思います。
たとえば「方向」を調べたら「向くこと」とでます。これを調べると「物がある方向を指す」というふうに出ます。これは循環論法に陥ってますし、「物の正面があるものに面する位置にある」という別の語釈もありますが、物とは?正面とは?面するとは?位置とは?となります。これを繰り返せば結局どこかで循環論法に行きつくでしょう。
そもそも数学の根幹部分を支える論理学の重要な概念である「否定(そうでないこと)」にしても、厳密に定義することは可能なのかと思います。
「~でない」というのは、そうであることがないということ、と言ってみたところで循環論法。
そうであるのになぜ上記のような定義や公理が厳密なものと認識されているかといえば、「さすがにここまで平易な単語の組み合わせで書けば、これらの単語については私が常識として理解してる意味と同じ常識を、相手も持ってるはずだから同じ理解をするよね?」みたいな態度に立っているんだと思います。
結局相手も同じ常識を持っているという不確かな信念によりかかっている、甘えている点で、数学の記述もまた完全に厳密で一意というわけではないのかなという気がしてくるのです。
そもそも「方向」なんていうような概念は、言語によって定義されたものを知っているというよりは、幼少期に言語を習得していく過程で、それが話されるシチュエーション、つまり五感などあらゆる感覚の総体とセットでそうした言葉が使われているという環境に身を置いているなかで理解しているにすぎません。理解内容が各個人で全く同じである保証はどこにもないと思います。
どんなに高度な数学の表現も究極的には自然言語に還元されるはずで(どんな高級言語も機械語に置き換えられて処理されるように)、自然言語の各単語に対する人々の理解は原理的には五感に根差した感覚的なものなのだから、数学の記述が厳密で一意というのは、結局はほかの記述の仕方に比べた程度問題(つまりは誇張表現)なのかなと思うのです。
感覚によらない「証明」をすることに価値を見出す人が数学をありがたがることがありますが、数学もまた根源的には感覚ありきの理解に基づいていると思うわけです。
この考えは間違っているでしょうか?そうであればどうして間違いなのか、どこがどう理解を誤っているのか知りたいので教えてください。
ちなみにたとえば「否定」というのは、根本的には、やはり言語で理解が完結しているものではなく、現実の状況としての存在非存在にそれぞれ直面して、それぞれに対して「○○がある」「○○がない(なくなってる)」と言われてる場面を経験したうえで、その状況から理解した内容のさらなるアナロジーとして理解してるに過ぎないと思います(理解のあり方が、言語的ではなく、観念的直観的)。
数学が他よりも他者と厳密に同一な合意が常に成り立つ、その工夫として、抽象度を高くしているのがその工夫にあたるのではないかという人がいました。↓
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14293524459
しかし抽象度を高くすることは、合意内容のずれを減らすという点で「有効でもあり逆効果でもある」のではないかと思いました。つまり諸刃の剣なわけです。
有効である理由はリンク先に書かれているのでそこに説明を譲るとして、逆効果であると思う私の説明を書きます。
つまり、抽象度が高い概念は、抽象度が低い概念や直接的な事物に比べて理解が難しい傾向があるのがまずあるわけです。
また定義者の提起する定義をそれを発信される側が期待通りに理解しているかを確認するのも、抽象度が高い概念ほど困難な傾向はあると思います。
これ自体ある意味で抽象そのものなのでたとえが悪いですが、たとえば「左を向いて」という発言に対して、「左」を向く反応をすることで、この人は左について正しく理解してそうだなという確認(いや原理的には推定というべき)することができます。
抽象度が高くなるほど具象と結びつけたこのような正しく理解してるかの評価、確認テストをすることが難しくなるでしょう。
といってもそもそもわれわれは相手が自分の言ったことを期待することと厳密に一致した内容で理解してるか確認することは原理的に不可能です。
頭をパカっと割って理解内容を覗きみるということはできないですから。
対象となる言葉に関連したその人の発言や反応をみて、理解の結果としての発言や反応として、その人がある部分で正しく(定義者の期待通りに)理解してるだろうということを推定するしかありません。
しかも全体ではなく一部だけの理解が正しくても、発言や反応には異常が見られないということもあるでしょう。
反応や発言をいくら調べても、概念全体を期待通りに理解してるかのテストには無限通りのパターンが必要と思われ、原理上不可能と思います。
哲学的ゾンビにも通じそうな話ですが、日常の範囲内で「理解に齟齬があるような反応が返ってこないなら」そんな「理解が完全同一でないかもしれない」という可能性上の話を心配する必要はないというのはその通りでしょう。
ただ場合によってはそれが表出したように見える一例が、あれの原因がこれだとは言いませんが、望月新一がABC予想を証明したという論文での紛糾みたいなことが起こる一因にはなりえると思います。
あれだけ理論として抽象的な概念を積み重ねた先には、定義者とそれ以外のその定義を見た人とでの理解のずれは、反応や発言として顕在化してくるほどになっても不思議ではありません。(定義者の解釈が正しいという優劣の問題ではなく)
とはいいますが、そもそも「矛盾」とは何か?「論理」とは?「範囲」とは?とは、といくらでも曖昧でしょう。
たとえ矛盾を記号論理の表現で記述して定義した気になったところで、じゃあその記号の定義ないし意味は?とどこまで突っ込まれても感覚に頼らない定義が可能なんですかね?と思います。
数学に限らない話じゃんっていうのはまあその通り。
でも定義について「厳密で一意」であることを(得意げに?)標榜してるのは数学(+論理学)とそれベースの客観的であろうとする学問ぐらいだから、別にエントリ名詐欺じゃないよね?
a=b、aはbだ。「は」って何?「だ」って何?「英語的にはどっちもisという語に集約されてるけど、じゃあisってなんだよ」ってところから概念の共有をしてない前提に立った時、その概念を非感覚的で厳密に共有することは可能なのか、それが「完全に」できたと確かめるのにはどうすりゃいいって話よ。
言葉という形式が従で、それに乗るべき内容が主であることは百も承知だが、形式言い換えれば入れ
物抜きに内容を厳密に伝えられるのか、入れ物の存在に無関係な、内容の厳密な伝達というテレパシーじみたものを考えることはそれこそ論理的に正しいのかという話でもある。
非言語的なテレパシーは論理的に矛盾してるので存在しえないのではないかとは思っている。
イデア論かな哲学書読めばってブコメついたけど、順序が逆なんだよね。
イデア論とか学校で習って本読んだりして教養として知ってるからこそ、改めてその考え方を自分なりの具体的な考察対象にあてはめて思索したくなるわけよね。
先達の哲学者たちがいなかったら俺はいまだにブルアカで抜くだけの毎日だわ。むしろ哲学者リスペクト100パーセントなんだよね。
語彙力ないので語弊ありそうなのは百も承知だが、哲学って考え方の基幹部分のオリジナリティーはそんな求められてないんだよ。
むしろ先人から受け継いだ考え方をどう今の時代の具体的な問題に適用して考察を広げるかが大事なので、ちょっと哲学かじったような素人目には過去の論文の焼き増しに見えてその存在意義が理解できないような論文はごまんとあるんだよね。
ああいうブコメつける人って「方向性とかみたいな意味でベクトルという言葉を使ってる人は横文字使いたがりの格好つけ」と言ってる人みたいな人を性悪説的にとらえるクレーマー気質が高い人間に感じる。
ちなみに俺はベクトルという言葉を使う人は「周りがベクトルという言葉を使ってるから、リアルタイム性を要求される会話でとっさに出てくる言葉がベクトルだから、それをそのまま使ってる」ってだけだと思う。
これがあればほぼクリアな神アイテム2選
・壁抜けの腕輪
壁の中から戦えばやっかい敵脳筋敵をほぼ無効化できる。壁ダメージは敵から受けるダメージより遥かに少ないので、回復印を入れると99Fはほぼ作業になるくらい便利。三方向、連印と組み合わせるとHP収支が黒字にも。ポリゴン、サソリ、チドロ、ケンゴウ種などいやらしい敵の攻撃も壁内は通じないのでアイテム欄も自然と余裕ができる。願いのほこらで「壁抜けの腕輪が欲しい」という選択肢があるくらいなので、超有能なのは制作側もわかってるのだろう。通路の斜め抜けも地味に便利。快適すぎてこれ無しだと操作に違和感を覚えるほど。壁抜けがある場合、修正値は剣>盾の意識でも良い。パコレプキンと死の使い系が壁内でも攻撃が当たるようになるが、あちらの攻撃もこちらに壁ごしに通る。率先して倒せるように仏浮特攻は優先的に付けたい。戦車も壁ごと破壊して攻撃してくるので、40Fでのねだやし(白紙)はもちろんしたほうが良い。油断してると壁のない大部屋などで袋叩きに会うこともあるので、聖域、困ったとき、復活草などは用意しておきたいところ。通常のプレイに比べるとそのほかの打開アイテムは少なくても全然余裕だったりする。壁ダメージで減ったHPのために背中の壺も多めに持っておきたい。いやし草や弟切草ですら普通の打開アイテム(バクスイや混乱巻物すばやさ草など)より優先してもいいくらいかも。気配察知と組み合わせるとヌルゲーすぎるほど。初クリアを目指す人は、レアだけど見つけた時はうっかりミスで死なないよう、逆に慎重にやったほうがいいかも。冷静に集中してプレイすればかなりの確率で99F踏破できるはず。
・気配察知の腕輪、透視の腕輪
もっと不死後のダンジョンで生き残るために一番重要な情報である敵の位置がわかる最強腕輪の一つ。視界不良のダンジョンで敵の出会い頭事故がほとんど無くせるのがでかすぎる。遠くから矢で攻撃、敵を避けて即降りする、なんでもござれ。壁抜けほどではないが、出会い頭前に三方向攻撃で確実に攻撃を稼ぐことで安定して被ダメを減らせることもできる。マゼルン合成もかなりやりやすくなる。基本的なプレイ技術があればかなり難易度は下がる腕輪。まあまあレアだが、低層でいきなり落ちてることも。壁抜けもそうだが、未識別でも容易にわかるのでとにかく腕輪は積極的に装備していくべき。呪いは怖いが、装備はずし罠や、二つ装備できる状態なら毒矢罠などで力を9まで下げれば二つ目の装備腕輪が外れるなど、外す手段はけっこうある。透視はアイテムも見えるようになり致せりつくせり。気配察知に道具感知が付いた性能だが、必須というわけでもない。敵位置が重要過ぎる。とはいえアイテム位置がわかればフロア探索が最短でできるし、10Fごとの壁内アイテム発掘も非常にやりやすくなる。デッ怪も非常に対処がしやすい。稼ぎフロアで長く滞在する際、マゼルンやトドなどの位置がわかるので効率的に狩れる。確率は低いが炎飛ばし印が低層で得られると無限に遠くから敵を倒せ、めちゃくちゃ楽しい。深層では敵のHPが多く炎飛ばしでは足りない上、火炎入道系にはかなり三方向印を駆使して炎があたらないようにするなど注意が必要になる。店主に当たらないようにももちろん気をつけなければいけない。でも俺は炎印×察知が好きなんだ…矢でも300本(99×3)くらいあれば少し修正値が少なくてもなんとかなる。不安なら400でも500でも矢稼ぎしても良いが、結局終盤でアイテム欄を圧迫して捨てがち。
これがあればほぼクリアな神印1選
・剣の桃印
神器にたま~に付いている。光る壁の中にあったりする。熱狂の祭りでも出るのかな?体感では壁抜けや気配よりかなりレア。入ってたらなにがなんでも最優先で剣に合成して印を付けるべき。敵が定期的に桃まん、つまり食糧になるので食糧問題がほぼ完全に解決する。ドスコイ状態の維持が容易。もちろんモンスターに変身して能力を活用するのも便利。しかし今作では武器盾印が強力なので、それが機能しなくなるモンスター変身状態だと意外と攻防ともに不安が強いので過信は禁物。マゼルン合成をした後で桃まんで確保し、また合成ができる。後の階での合成に取っておける。死神など、二倍速系も時間制限のない満腹度付きすばやさ草のような感覚で使える。やみふくろうであかりの巻物の代用も。連続で桃まんがでない時、満腹度120を切ってしまうこともある。1個くらいはおにぎりを持っておいた方が良いかも。いちいち食べて変身して戻って、がちょっと面倒ではある。
クリアに繋がる準神アイテムや組み合わせ
・浮遊の腕輪
水グモの腕輪の完全上位互換。浮いてるのでおにぎりは腐らず巻物も濡れない、なんと言っても罠にかかる心配が消える。水路に逃げたり外してワープしたり、やれることが多い。ただし今作ではドスコイ状態の維持で罠を無効化できるので、相対的には価値が下がっている。安心感はすごいが、壁抜けや察知腕輪程ではないかも。それでもほぼクリアに繋がる、と思うレベル。かなりレア。この腕輪も判定がしやすい。
・ハラモチ印
ハラモチの盾、もしくは神器に付いてる。神髄での出現率はけっこう低い印象。ドスコイ状態の維持がかなりやりやすくなるので、安定度がかなり増す。
・眠、混乱、目つぶし、縛印 おにぎり、ゾワゾワ印など状態異常系印
睡眠草、混乱草、めつぶし草、かなしばりの杖のマゼルン合成で剣に付けられる。盾はおにぎりの巻物、ゾワゾワの巻物で付けれる。敵の行動を確率で無効化できるので、どれでも2、3つ以上付けるのが良い。睡眠が特に強いが、基本的にどれも強いのでとにかく付けれたら付けていく。各種特効印より優先すべき。封印とまどわしは神器に低確率で付いてる。狙わなくてよいが、同様に強力なので付けられたら付けて良い。
・武器盾修正値
いくら神アイテムを引けても武器盾修正値が少ないとクリアや打開の難易度は上がる。山姥など、数値が高くて印もある程度多い武器を見つけ次第メインにして育てていく。共鳴は狙わなくても良い、偶然なったらラッキーくらいで。神器は青金どちらもある程度強いので、積極的に拾って基礎値と印数を見て行く。印の多さが非常に重要だが、素の金の剣くらいの火力だと流石に足りず、じり貧になりがち。逆に素のマンジカブラは強いが印の数が足りず、印増大(白紙)がカツカツになる。基礎値と印の両方が10くらいあると良い。強さが40くらいあると終盤安定するので、10付近の基礎値と+約30の修正値を目指すと良い。剣と盾どちらに偏っても苦労は多い。いくら防御が高くても、攻撃力が足りず何度も攻撃の機会を与えるといやらしい特技の餌食になる確率も増える。各種、特効印はケモノ、水棲、ゴースト、ドレインが範囲が広め。階層によって優先度が違うので(ドレイン特攻は低層から中層まで、ケモノやドラゴンは後半有用、など)合成できるタイミングを見極める。とはいえ選択肢がない場合も多いので、付けれるタイミングで付けるのでだいたい問題ない。爆発と金属特効はほとんど戦車ピンポイントなので、40Fでねだやし(白紙)が確保できなさそうな時だけ検討するべきだが、それ以外では入れなくて良い。
・痛恨印(ミノタウロスの盾)と諸刃もしくは痛恨の腕輪
痛恨になった多くの敵の攻撃がかなり軽減される。後半の脳筋モンスター相手にある程度盾の修正値が足りなくてもなんとかいけるようになったりする。諸刃の腕輪の場合こちらの会心の割合も増えるので攻防ともに安定する。余裕があれば盾にこの印をつけておくようにしておくと、諸刃痛恨腕輪を見つけたとたん打開率がぐっと上がるのでおすすめ。満タン防御印があるとなお安定する。
あとは
・保存壺、白紙の重要性
・持ち物検査
毒消し腕輪、弾きよけ腕輪、呪いよけ腕輪、
魔法よけ印(魔法反射印)、催眠よけ、
戦車がねだやしできなかった時の爆発印、
アークドラゴンがねだやしできなかった時の竜盾印 など
また基本的なオニギライズ、矢稼ぎなどの下準備が重要なのは言うまでもなく。
実際に使うアイテムはある程度限られてるので、クリア時は余る場合がほとんど。なので星石集めは慣れると意外と通常の神髄とあまり難易度変わらないかも。でも最初に星石集めに挑んだ時はアイテム欄が徐々に圧迫される緊張感がたまらなかった。
シレン6、楽しんでいます。曲もめちゃくちゃ良い。伝統が大事にされつつもすぎやまこういち氏の作ってきた物の先へ行こうとしているような、明るさと楽しさが溢れている。アップデートでダンジョン追加、待ってます。全部のダンジョン99Fまでいけるようにして欲しい。「もっと不思議」が発明されてから20数年、「推測の修験道」のようなアイデアがでてくることに感動したりした。むしろこれだけ派生作品があるのに、この練習ダンジョン形式が今までなかったのも不思議だ…売り上げもめっちゃいい感じらしい。シレン6、14年ぶりの新作がプレイできて生きるのが楽しい。
“If the doors of perception were cleansed everything would appear to man as it is, Infinite. ”
(もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れる。無限に。)
― William Blake, The Marriage of Heaven and Hell
まるですべてが夢の中の出来事だったような気がしている。いや、いまも私はあそこに囚われていて、あの時の牢獄のなかで夢を見ているのかもしれない。そんな気すらしてくるのだ。
私がLSDアナログに興味を持ち始めたのは、昨年の10月頃から。自身の人生に何か行き詰まり感を感じていて、そこから抜け出すための衝撃が必要だと思ったのだ。その頃から、自身の内にある宗教的契機に気が付き始めていた。キリスト教神学や、仏教思想、老荘思想、そしてヒッピーカルチャーなどを学び、オルダス・ハクスリー『知覚の扉』や、中沢新一『チベットのモーツァルト』、デイヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』、中村元『原始仏典』、ルドルフシュタイナー『自由の哲学』など。様々な読書体験を狂ったように行い、思考の自己変革を試みていた。そうした流れの中に於いて、「最後のピース」として、実際に神秘的合一を、特殊な変性意識状態を、エクスタシー体験を、してみなければならない。そんな風に思ってた。
第1章:世界が少し輝いて見える気がする。ただそれだけ。
2月某日。14時頃に友人宅についた私は、さっそくLSDアナログとしてオランダ・Chemical Collective社の開発する「1D-AL-LAD」を口にした。100μgだ。
最初は、変化に気が付かなかった。どうやら、舌のうえに乗せて30分~1時間ほど効果が出るまで待たなければいけないらしい。口の中にずっと紙がある違和感を覚えつつ、ひたすら待っていた。その間はたしか、適当なPsychedelic TranceのDJセットなんかを聞きながらまったりしていたように思う。
ふと気が付くと、なにやら身体がそわそわしてくる感覚が伝わった。鳥肌が立つような、全身の毛が湧き上がってくるような。ふと周りに目をやると、どうだろう、世界が以前よりも少し明瞭に、輝いた美しいものである気がした。この時点で、約1時間30分ほどが経過している。夕陽を見るのが美しかった。
そして、2時間ほどが経過したころ。確かに視界が渦を巻くようにぐにゃ~っと曲がっていることに気が付く。これまでも、VRで何度か体験してきたが、本当に見たままだった。ただ、ずっと視界がぐにゃぐにゃしているというわけではなく、一点をずっと見つめ続けると徐々にぐにゃぐにゃしだすという感じ。面白い体験だったが、面白い以上のことはない。少し目を離してやると、すぐ通常の視界に戻る。
このぐにゃぐにゃしている感じが特に続いたのは摂取から2時間たった頃から1時間ほど。3時間目くらいまでだ。段々と落ち着いてきて、ついには視界も普通に戻った。外の空気が吸いたくなった。もう段々と平静に戻ってくる、そんな感じがした。
「なんだ、こんなもんか。もっと衝撃的だと思ったんだけどな。100μぐらいで、この効果だと、確かに音楽にノったり、クラブの非日常体験を彩る体のいいパーティードラッグという評価は合っていたんだな」
第2章:『The Doors』が扉を開けた狂乱の幕開け
変化が起こったのは、外を散歩して帰ってきたその後だった。ご飯も済ませてきたこともあり、少し落ち着き一服。タバコを吸いながら、ぼーっとしていると、また視界が生き生きと動き始めた。
「うん。やっぱこれ面白いな~。あの一点を見つめてると、色彩もビビッドになって、そしたら周りがぐにゃぐにゃして、集中してじーっと見つめたらどんどんぐにゃぐにゃしていく。面白いな~」
この時、気分転換にBGMを変えてみたのだ。「The Doors」。オルダス・ハクスリーのサイケデリック体験を記したエッセイ集『知覚の扉(The Doors of Perception)』からその名を取った、60年代サイケデリアの真っただ中に活躍したロックバンドだ。
「音楽がすごいよく聞こえる。音に合わせて体がずんずん動いてる感じがする。部屋も揺れているような気がする。音楽に合わせて世界がずんずん動いてる。すごい。楽しい!!
待って。あのペットボトルに反射している照明の反射。これはすごい。世界で一番美しい光を見ている気がする。音楽に合わせて部屋が動いてる。あの光を見つめてると、そこに向かって世界が回転して吸い込まれていく。視界だけじゃない。全部が吸い込まれていく。身体も横に倒れて言っているような気がする。しっかりと座っているのに、吸い込まれる左回転に合わせて、あのペットボトルに輝く照明の反射にすべてが吸い込まれていく!やばい!吸い込まれていく!違う世界に行ってしまう!!でも、楽しい!!これだ!!これが体験したかったんだ!!そうだ!大丈夫!吸い込まれてみよう!よし、行くぞ!行くぞ!行くぞ!!!」
ふと気が付いたら、私は夢の中にいた。いや、そんなはずはない。ここは、さっきまでいた世界のはずだ。寝ていたわけはない。私は今朝起きて、電車に乗って、友達の家に行って、それで1D-AL-LADを摂取した。そのはずだ。あれ、でも本当にそうだったか。もしかして、いま私は夢を見ているんじゃないのか。いや、ここは夢じゃないはずだ。だって、冷静に頭が働いているし、ここまで来た道程もすべて覚えている。いまの状態がハイだってわかっている。あれ、そうだよな。ほんとうにそうだったか。もしかすると、明日LSDを食べることが分かっているから、それが楽しみで前日に見ている夢の中なのでは。ここは、明晰夢なんじゃないか。いや、そんなわけはない。ここは明晰夢なんかじゃない。さっきからずっとここにいたそれは確かだ。トリップシッターの友人が手を繋いでいてくれている。それだけが、いま私が世界と繋がっている証拠だった。
この、「ここは夢なのではないか→いや、明晰夢ということか→いや、そんなわけはない現実だ→いや、本当にそうだろうか。ここは夢ではないのか」というループを永劫回繰り返した先に、「そうだ。いま私は1D-AL-LADを摂取していて、それが明確に効いている。そういうことなんだ。そしてこれは一時的な変性意識体験なんだ」ということに気が付き始める。
「そうだ。こういった状態では時間が止まるらしい。いや、まてよ。ここが、現実だとして、私はいつからここにいて、いつまでここにいるんだ。なんだかずっと昔からいる気がする。目の前にいて手を繋いでくれているトリップシッターとはいつ知り合った?ずっとまえ?幼馴染だったか?そんなわけはない。さっき出会ったんだ。そうだ。待てよ。時計はしっかりと動いているんだろうな。もう30分は経った気がする。」
1分も経っていなかった。
「いや、でも秒針は動いてる。秒針が動いていることに気が付くたびに、秒針が動いている。時間が過ぎていることに気が付くたびに時間が過ぎていくんだ。そうだ。なんとなくパターンが見えてきたぞ。そうだ。気が付くということなんだ。気が付く。そうすることで、過去が再構築されていく。私が夢だと思っていたのは、夢でもなければ現実でもない。『気が付かれた記憶』なんだ。」
私はシャカリキになって、時計が進んでいることを確認し、それに気が付いたことを確認する。口に出して点呼するんだ。アニメ「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン」に、ミューミューというスタンド使いがいる。彼女のスタンド「ジェイル・ハウス・ロック」に対象にされると、物事を「3つ」までしか覚えられなくなる。そう。私も物事を最大3つまでしか覚えられなくなったのだ。
シッターが付けていたアップルウォッチを借りて、自身の心拍数を確認する。
…… …… 148回/分 …… …… 156回/分
高い。異常に高い。そうだ。いまこの聞こえてくる心臓の鼓動。普段が、平静の時が60回/分だとすると、2.6倍ほどだ。そう、いまは異常な心身状態なのだ。
現在が異常な心身状態にあること、そして、時間が一秒ずつ、普段よりも遅く感じていても確実に過ぎていること。それをひとつひとつ、指差し、声に出し確認していくことで、気が付き、そして気が付いている自分に気が付く。そうすることで、出来事が現在から過去へ再構築されて行き、記憶へとなる。その記憶が続いていくことで、「自我」というものが同一性を保っている。
第3章:気づき。そして、帰還。「明日の自分のために生きるということ」
落ち着いてきた。
それと同時に、ふと不安がよぎった。「じゃあ、いま自分だと思っている自分は、思い出された存在、つまり過去の自分に過ぎないということ。いまの異常な心身状態に在る自分は、過去の自分に過ぎず、平静に戻ったら、消えてなくなってしまうんじゃないの。つまり、トリップから帰ってきた自分は、自分ではないんじゃないの。」
5億年ボタンを押して、帰ってきた自己は記憶が失われているため、ボタンを押した途端に100万円が貰えたように知覚する。しかし、同時に5億年を過ごした自己は忘れ去られてしまうのだ。それを「自我の死」と呼ぶ。
驚くほど引き延ばされた時間の中。私の課題は、「どうやって今の自分を未来に還すか」そんなことを思い始めた。
まず、整理しよう。
いま、時間の流れがおかしなことになっている。確か、中沢新一『チベットのモーツァルト』に紹介された文化人類学者カルロス・カスタネダの著書『ドン・ファンの教え』の中で、シャーマンが「世界を止める方法」について語っていたように思う。まさにそうなのだ。「世界が止まっている」のだ。
これは、単に時間が止まっていることを意味しない。なぜならば、時間は気が付くことにより前に進んでいるからだ。しかし、過去も現在も未来も「気が付く対象」であるという点に於いて相対化されており、すべてが等価に存在しているのだ。先ほど、「過去も現在も未来も」といったがこれは、少し正確ではない。なぜならば、ここで指し示す「現在」とは、あくまで「気が付かれた現在」であり、気が付かれる過程により、少し過去となっているからだ。このように、「現在」は知覚されると同時に「過去」へと抜け落ちていく。それを観察しているのだ。本来の「現在」は、そのような形で、絶対に知覚することができないカオスの渦にしか存在しない。そうした意味における現在を「永遠の今」と呼ぼう。私は今、「永遠の今」において知覚の永劫回帰を体験しているのだ。
これはとても大切なことである。なぜならば、いまの心身状態が異常であるから、異常な世界が見えているのではなく、異常な心身状態になって初めて、本来の知覚の姿を確認できたからだ。そうすると、私がすべきことはこうだ。この「気づき」を、これから先に行き着く先がどこであろうとも、持ち帰るんだ。この「気づき」を持ち帰り、それを新たな「気づき」に繋げていく。そうやって、知覚のバトンリレーを続けていくこと。この道を歩み続け、徐々にペースを落としていくことで、未来の私は、それを持ち帰ることができる。
「Be Here Now!」「自己を頼りとせよ。法を頼りとせよ。(自灯明、法灯明)」
サイケデリア全盛期のグル ラムダスの言葉と、釈尊入滅の際の説法が、いまここに結集した。
そうだ。ずっと、悩んでいたこと。行き詰まりを感じていたことはこれだったんだ。自身のこれまで歩んできた道は間違いない。上手くいったことも、上手くいかなかったこともいろいろあるけれど、すべてが必要なプロセスだったと思っている。でも、過去に歩んできた道が必要なプロセスであったことと、今歩んでいる道が必要なプロセスであることは結びつかない。いま、一体何を頼りにすればいいのか。それを見失っていたことが、現在私の抱えていた悩みの源だったように思う。
そして、これに対する答えは分かっていたのだ。つまり、頼りにすべきは「永遠のいま(真理)」と「自分自身」だ。言葉にすると陳腐だが。
明日の自分は昨日の自分にとっては今日の自分なんだ。そういった流れの中において、明日の自分がより善く生きられるように、明日の自分のために今日の自分を生きてみる。そういったことがこれまでの、そしてこれからの自分を作っていくんだと思う。
「明日の自分のために生きてみる」。そうすることで、「いま」を見失わずに済む。「過去の自分を振り返ってみる」。そうすることで、「いま」を見失わずに済む。「いま」を直接見ようとすると、それは「いまに漸近し続ける過去の自分」に執着することになってしまう。ともすれば、「いま」は直接知覚できない性質を持つため、それを見失い取り付く島もない状態に陥ってしまう。
しかし、時には「(永遠の)いま」に限りなく近づいてみる必要がある。その「(永遠の)いま」という世界には、無際限の輝きに触れさせてくれる。禅や瞑想や、あるいは表現活動、仕事(ベルーフ)に従事すること、そして鑑賞すること。「美しさに触れる」というのは、往々にしてこの知覚の扉を開き、世界のありのままの姿、つまり無限を見ることなのだ。
我々の普段の生活は、忙しすぎる。忙しくするために忙しくしている。それでは、「大切な何か」を見失って当然だ。たまには、ストリートパフォーマンスに足を止め、自身の内的な声に耳を傾け、直観の赴くままに没頭する。そうしたことが必要なのだ。むしろ、それが本来の「生きる」ってことなんだ。
サイケデリック体験は強烈だ。
世界のありのままの姿を見せられること、無際限に続く知覚の永劫回帰に飲み込まれ、自我がなくなること。おそろしく不安であると同時に、おそろしく美しい。万人に勧められるものでもなければ、やらなくて済むならやらないほうが良い類のものだろう。しかし、こんな小説を読んで、少しでも心が動いてくれたなら、私はとても嬉しい。知覚の扉は、いつもあなたのそばにある。日常の中の当たり前に驚く。そんな契機は全ての人生に散りばめられている。それに気が付き、大切にする。ちょっと違う世界と一緒に生きてみる。それが人生を豊かにする鍵なんだと私は思う。
The Doors of Perception are Watching You.