2024-02-15

「L.A.Woman」を聞きながら合法LSDアナログを食べたら知覚の扉が開いた話

“If the doors of perception were cleansed everything would appear to man as it is, Infinite. ”

(もし知覚の扉が浄化されるならば、全ての物は人間にとってありのままに現れる。無限に。)

― William Blake, The Marriage of Heaven and Hell

まるですべてが夢の中の出来事だったような気がしている。いや、いまも私はあそこに囚われていて、あの時の牢獄のなかで夢を見ているのかもしれない。そんな気すらしてくるのだ。

私がLSDアナログに興味を持ち始めたのは、昨年の10月頃から。自身の人生に何か行き詰まり感を感じていて、そこから抜け出すための衝撃が必要だと思ったのだ。その頃から、自身の内にある宗教的契機に気が付き始めていた。キリスト教神学や、仏教思想、老荘思想、そしてヒッピーカルチャーなどを学び、オルダス・ハクスリー『知覚の扉』や、中沢新一『チベットのモーツァルト』、デイヴィッド・ボーム『全体性と内蔵秩序』、中村元『原始仏典』、ルドルフシュタイナー『自由の哲学』など。様々な読書体験を狂ったように行い、思考の自己変革を試みていた。そうした流れの中に於いて、「最後のピース」として、実際に神秘的合一を、特殊な変性意識状態を、エクスタシー体験を、してみなければならない。そんな風に思ってた。

   第1章:世界が少し輝いて見える気がする。ただそれだけ。

2月某日。14時頃に友人宅についた私は、さっそくLSDアナログとしてオランダ・Chemical Collective社の開発する「1D-AL-LAD」を口にした。100μgだ。

最初は、変化に気が付かなかった。どうやら、舌のうえに乗せて30分~1時間ほど効果が出るまで待たなければいけないらしい。口の中にずっと紙がある違和感を覚えつつ、ひたすら待っていた。その間はたしか、適当なPsychedelic TranceのDJセットなんかを聞きながらまったりしていたように思う。

ふと気が付くと、なにやら身体がそわそわしてくる感覚が伝わった。鳥肌が立つような、全身の毛が湧き上がってくるような。ふと周りに目をやると、どうだろう、世界が以前よりも少し明瞭に、輝いた美しいものである気がした。この時点で、約1時間30分ほどが経過している。夕陽を見るのが美しかった。

そして、2時間ほどが経過したころ。確かに視界が渦を巻くようにぐにゃ~っと曲がっていることに気が付く。これまでも、VRで何度か体験してきたが、本当に見たままだった。ただ、ずっと視界がぐにゃぐにゃしているというわけではなく、一点をずっと見つめ続けると徐々にぐにゃぐにゃしだすという感じ。面白い体験だったが、面白い以上のことはない。少し目を離してやると、すぐ通常の視界に戻る。

このぐにゃぐにゃしている感じが特に続いたのは摂取から2時間たった頃から1時間ほど。3時間目くらいまでだ。段々と落ち着いてきて、ついには視界も普通に戻った。外の空気が吸いたくなった。もう段々と平静に戻ってくる、そんな感じがした。

「なんだ、こんなもんか。もっと衝撃的だと思ったんだけどな。100μぐらいで、この効果だと、確かに音楽にノったり、クラブの非日常体験を彩る体のいいパーティードラッグという評価は合っていたんだな」

   第2章:『The Doors』が扉を開けた狂乱の幕開け

変化が起こったのは、外を散歩して帰ってきたその後だった。ご飯も済ませてきたこともあり、少し落ち着き一服。タバコを吸いながら、ぼーっとしていると、また視界が生き生きと動き始めた。

「うん。やっぱこれ面白いな~。あの一点を見つめてると、色彩もビビッドになって、そしたら周りがぐにゃぐにゃして、集中してじーっと見つめたらどんどんぐにゃぐにゃしていく。面白いな~」

この時、気分転換にBGMを変えてみたのだ。「The Doors」。オルダス・ハクスリーのサイケデリック体験を記したエッセイ集『知覚の扉(The Doors of Perception)』からその名を取った、60年代サイケデリアの真っただ中に活躍したロックバンドだ。

「音楽がすごいよく聞こえる。音に合わせて体がずんずん動いてる感じがする。部屋も揺れているような気がする。音楽に合わせて世界がずんずん動いてる。すごい。楽しい!!

待って。あのペットボトルに反射している照明の反射。これはすごい。世界で一番美しい光を見ている気がする。音楽に合わせて部屋が動いてる。あの光を見つめてると、そこに向かって世界が回転して吸い込まれていく。視界だけじゃない。全部が吸い込まれていく。身体も横に倒れて言っているような気がする。しっかりと座っているのに、吸い込まれる左回転に合わせて、あのペットボトルに輝く照明の反射にすべてが吸い込まれていく!やばい!吸い込まれていく!違う世界に行ってしまう!!でも、楽しい!!これだ!!これが体験したかったんだ!!そうだ!大丈夫!吸い込まれてみよう!よし、行くぞ!行くぞ!行くぞ!!!」

ふと気が付いたら、私は夢の中にいた。いや、そんなはずはない。ここは、さっきまでいた世界のはずだ。寝ていたわけはない。私は今朝起きて、電車に乗って、友達の家に行って、それで1D-AL-LADを摂取した。そのはずだ。あれ、でも本当にそうだったか。もしかして、いま私は夢を見ているんじゃないのか。いや、ここは夢じゃないはずだ。だって、冷静に頭が働いているし、ここまで来た道程もすべて覚えている。いまの状態がハイだってわかっている。あれ、そうだよな。ほんとうにそうだったか。もしかすると、明日LSDを食べることが分かっているから、それが楽しみで前日に見ている夢の中なのでは。ここは、明晰夢なんじゃないか。いや、そんなわけはない。ここは明晰夢なんかじゃない。さっきからずっとここにいたそれは確かだ。トリップシッターの友人が手を繋いでいてくれている。それだけが、いま私が世界と繋がっている証拠だった。

この、「ここは夢なのではないか→いや、明晰夢ということか→いや、そんなわけはない現実だ→いや、本当にそうだろうか。ここは夢ではないのか」というループを永劫回繰り返した先に、「そうだ。いま私は1D-AL-LADを摂取していて、それが明確に効いている。そういうことなんだ。そしてこれは一時的な変性意識体験なんだ」ということに気が付き始める。

「そうだ。こういった状態では時間が止まるらしい。いや、まてよ。ここが、現実だとして、私はいつからここにいて、いつまでここにいるんだ。なんだかずっと昔からいる気がする。目の前にいて手を繋いでくれているトリップシッターとはいつ知り合った?ずっとまえ?幼馴染だったか?そんなわけはない。さっき出会ったんだ。そうだ。待てよ。時計はしっかりと動いているんだろうな。もう30分は経った気がする。」

1分も経っていなかった。

「いや、でも秒針は動いてる。秒針が動いていることに気が付くたびに、秒針が動いている。時間が過ぎていることに気が付くたびに時間が過ぎていくんだ。そうだ。なんとなくパターンが見えてきたぞ。そうだ。気が付くということなんだ。気が付く。そうすることで、過去が再構築されていく。私が夢だと思っていたのは、夢でもなければ現実でもない。『気が付かれた記憶』なんだ。」

私はシャカリキになって、時計が進んでいることを確認し、それに気が付いたことを確認する。口に出して点呼するんだ。アニメ「ジョジョの奇妙な冒険 ストーンオーシャン」に、ミューミューというスタンド使いがいる。彼女のスタンド「ジェイル・ハウス・ロック」に対象にされると、物事を「3つ」までしか覚えられなくなる。そう。私も物事を最大3つまでしか覚えられなくなったのだ。

シッターが付けていたアップルウォッチを借りて、自身の心拍数を確認する。

…… …… 148回/分 …… …… 156回/分

高い。異常に高い。そうだ。いまこの聞こえてくる心臓の鼓動。普段が、平静の時が60回/分だとすると、2.6倍ほどだ。そう、いまは異常な心身状態なのだ。

現在が異常な心身状態にあること、そして、時間が一秒ずつ、普段よりも遅く感じていても確実に過ぎていること。それをひとつひとつ、指差し、声に出し確認していくことで、気が付き、そして気が付いている自分に気が付く。そうすることで、出来事が現在から過去へ再構築されて行き、記憶へとなる。その記憶が続いていくことで、「自我」というものが同一性を保っている。

   第3章:気づき。そして、帰還。「明日の自分のために生きるということ」

落ち着いてきた。

それと同時に、ふと不安がよぎった。「じゃあ、いま自分だと思っている自分は、思い出された存在、つまり過去の自分に過ぎないということ。いまの異常な心身状態に在る自分は、過去の自分に過ぎず、平静に戻ったら、消えてなくなってしまうんじゃないの。つまり、トリップから帰ってきた自分は、自分ではないんじゃないの。」

5億年ボタンを押して、帰ってきた自己は記憶が失われているため、ボタンを押した途端に100万円が貰えたように知覚する。しかし、同時に5億年を過ごした自己は忘れ去られてしまうのだ。それを「自我の死」と呼ぶ。

驚くほど引き延ばされた時間の中。私の課題は、「どうやって今の自分を未来に還すか」そんなことを思い始めた。

まず、整理しよう。

いま、時間の流れがおかしなことになっている。確か、中沢新一『チベットのモーツァルト』に紹介された文化人類学者カルロス・カスタネダの著書『ドン・ファンの教え』の中で、シャーマンが「世界を止める方法」について語っていたように思う。まさにそうなのだ。「世界が止まっている」のだ。

これは、単に時間が止まっていることを意味しない。なぜならば、時間は気が付くことにより前に進んでいるからだ。しかし、過去も現在も未来も「気が付く対象」であるという点に於いて相対化されており、すべてが等価に存在しているのだ。先ほど、「過去も現在も未来も」といったがこれは、少し正確ではない。なぜならば、ここで指し示す「現在」とは、あくまで「気が付かれた現在」であり、気が付かれる過程により、少し過去となっているからだ。このように、「現在」は知覚されると同時に「過去」へと抜け落ちていく。それを観察しているのだ。本来の「現在」は、そのような形で、絶対に知覚することができないカオスの渦にしか存在しない。そうした意味における現在を「永遠の今」と呼ぼう。私は今、「永遠の今」において知覚の永劫回帰を体験しているのだ。

これはとても大切なことである。なぜならば、いまの心身状態が異常であるから、異常な世界が見えているのではなく、異常な心身状態になって初めて、本来の知覚の姿を確認できたからだ。そうすると、私がすべきことはこうだ。この「気づき」を、これから先に行き着く先がどこであろうとも、持ち帰るんだ。この「気づき」を持ち帰り、それを新たな「気づき」に繋げていく。そうやって、知覚のバトンリレーを続けていくこと。この道を歩み続け、徐々にペースを落としていくことで、未来の私は、それを持ち帰ることができる。

「Be Here Now!」「自己を頼りとせよ。法を頼りとせよ。(自灯明、法灯明)」

サイケデリア全盛期のグル ラムダスの言葉と、釈尊入滅の際の説法が、いまここに結集した。

そうだ。ずっと、悩んでいたこと。行き詰まりを感じていたことはこれだったんだ。自身のこれまで歩んできた道は間違いない。上手くいったことも、上手くいかなかったこともいろいろあるけれど、すべてが必要なプロセスだったと思っている。でも、過去に歩んできた道が必要なプロセスであったことと、今歩んでいる道が必要なプロセスであることは結びつかない。いま、一体何を頼りにすればいいのか。それを見失っていたことが、現在私の抱えていた悩みの源だったように思う。

そして、これに対する答えは分かっていたのだ。つまり、頼りにすべきは「永遠のいま(真理)」と「自分自身」だ。言葉にすると陳腐だが。

明日の自分は昨日の自分にとっては今日の自分なんだ。そういった流れの中において、明日の自分がより善く生きられるように、明日の自分のために今日の自分を生きてみる。そういったことがこれまでの、そしてこれからの自分を作っていくんだと思う。

「明日の自分のために生きてみる」。そうすることで、「いま」を見失わずに済む。「過去の自分を振り返ってみる」。そうすることで、「いま」を見失わずに済む。「いま」を直接見ようとすると、それは「いまに漸近し続ける過去の自分」に執着することになってしまう。ともすれば、「いま」は直接知覚できない性質を持つため、それを見失い取り付く島もない状態に陥ってしまう。

しかし、時には「(永遠の)いま」に限りなく近づいてみる必要がある。その「(永遠の)いま」という世界には、無際限の輝きに触れさせてくれる。禅や瞑想や、あるいは表現活動、仕事(ベルーフ)に従事すること、そして鑑賞すること。「美しさに触れる」というのは、往々にしてこの知覚の扉を開き、世界のありのままの姿、つまり無限を見ることなのだ。

我々の普段の生活は、忙しすぎる。忙しくするために忙しくしている。それでは、「大切な何か」を見失って当然だ。たまには、ストリートパフォーマンスに足を止め、自身の内的な声に耳を傾け、直観の赴くままに没頭する。そうしたことが必要なのだ。むしろ、それが本来の「生きる」ってことなんだ。

サイケデリック体験は強烈だ。

世界のありのままの姿を見せられること、無際限に続く知覚の永劫回帰に飲み込まれ、自我がなくなること。おそろしく不安であると同時に、おそろしく美しい。万人に勧められるものでもなければ、やらなくて済むならやらないほうが良い類のものだろう。しかし、こんな小説を読んで、少しでも心が動いてくれたなら、私はとても嬉しい。知覚の扉は、いつもあなたのそばにある。日常の中の当たり前に驚く。そんな契機は全ての人生に散りばめられている。それに気が付き、大切にする。ちょっと違う世界と一緒に生きてみる。それが人生を豊かにする鍵なんだと私は思う。

The Doors of Perception are Watching You.

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