はてなキーワード: 好きだ、とは
それは、画面の中だけでなく、リアルにおいてもだ。公演、ライブはもちろん、握手会など近い距離でも、僕らは彼女らを感じられる。
日常をただ、平々凡々と暮らしていたのでは出会うことさえ、許されなかった弩級の美少女に。
僕は、彼女に憧憬を好意を覚える。彼女らは資本主義世界でプロダクトされた理想の美少女で、彼女らはマスプロダクトされた彼女らについてのプロダクトを以て、僕に彼女らを伝えてくれる。
好きだ、大好きだ。愛してる。
まるで、この世の理、万有引力に導かれるかのように。不思議な話だ。
現実世界では、近づくことさえ、許されなかった彼女らに、恋することが許される。
彼女らがアイドルになってくれたおかげで。彼女らは僕らの想いを拒絶しない。
しかし、彼女らのファンは残酷な真実に気づくだろう。画面の中で、ステージで、輝く彼女らを見て。
いや、むしろ、無数にいる彼女らのファンや握手会で自分の後ろに立つ係員を見て気づくかもしれない。
もっと、自然に、もっと、普通に。例えば、クラスメイトのように、近くで出会えればよかったのに。
でも、僕は気づく。もともと、彼女らは特別で、本当は、出会えなかった。
だから僕は、彼女らがアイドルでいてくれたことに感謝しなくてはならないのかもしれない。
【秋元康の罪】
今や、過熱したアイドル業界を牽引するAKB48を始めとする48グループ。
古くはおニャン子クラブの時代から、アイドル業界を手のうちに収める彼には、その業界を発展させたという功績がある。
そして、罪もある。
AKB48の最新曲『真夏のsounds good!』でその罪について検証しよう。
この夏を代表するであろうこの曲のPVは彼が指揮したらしく個性的な設定が付与されている。
その最高指揮を執るのが、彼、秋元康だ。
軽快な曲、爽快な歌詞とは裏腹にPVの物語性にはダークなものが感じられるだろう。
AKB48を卒業することが予定されている前田敦子を助けようとする渡辺麻友。
「もういいよ行って。行きなってば先に。私たちは私達が変わるためにここに来た」
次々に倒れていくメンバー。
そんなダークな情景を見せたあとに、PVは青空の下で彼女らが踊るものになる。
真っ白な水着。真っ青な海と空。清々しいほどに爽やかで、それが先ほどの情景と対比される。
これほどまでに綺麗な未来が、つまり、新生AKB48が生まれ得るのだと期待させる。
それはPVの終盤、渡辺が前田を連れていくシーンだ。行く先は、先程、白い水着を着て、砂浜で踊っていたメンバーの下。
生まれ変わるなら、彼女らは前田を迎えるべきではないし、前田はそこを目指すべきではない。
渡辺もそれを助けるべきではないし、助けているということは、前田が抜けた後の新生AKB48の可能性を否定しているとも言える。
前田もAKB48を抜けた後の自分の可能性を否定しているのかもしれない。
つまり、秋元氏は彼女らに新生AKB48の可能性を彷彿とさせるPVを提示しながら、その可能性をPVの中で否定しているのだ。
アイドルグループは予定調和でなく、突き進んだ結果であるべき、ジャンケン大会のようにガチであるべきだという秋元氏の思想とは反するようにも思える。
しかし、よく考えて欲しい。
私にはそうは思えない。
彼は、凋落したことのない、紛うことなき、この時代の寵児であり続けたし、今ではその世界の重鎮だ。
彼に単なる根性論など通用しない。
努力だけではだめだと、成功するには運も必要だと、グーグルプラスで語った彼には美辞麗句に賭された、文字通り飾り物の世界ではなく、本当の世界が見えている。
だから、単純にがんばれば、努力すれば認められるというメッセージを発さないのだろう。
それは、彼の信念に反するから。
そう、彼の思想はこの世界を精緻に写しだしたものであるように思えるし、それに僕は同意する。
だが、この思想が彼の罪を生んだ。
つまり、それは、その一種リアリティ溢れる思想、イデオロギー性を伴った作品を彼女ら、世界で認められうる美少女らに歌わせ、演じさせてしまったというところ。
僕らは、アイドルに夢を見ている。
小難しいことを、批判めいたことを歌ってほしくはない。
社会批判。その歌詞、そのメッセージ性は痛いほどに、僕の胸に届く。
しかしそれを彼女らに歌わせることで、彼女らは政争の具のような体裁を見せてしまう。
なんの色付けもされていない、ピュア=純真な女の子を僕は見たいのにも関わらず。
別の例では、秋元氏は純真な、つまり、彼女らが思っていることを彼女らが歌っているという構図の作品を生み出すことに成功している。
それが、SKE48(KⅡ)の『お待たせsetlist』だ。
選抜総選挙で高柳明音は、秋元氏にこう叫んだ。「私達に公演をやらせてください」と。
彼女らは、それまでリバイバル公演(他のチームの公演楽曲で公演する)ばかりを行い、自分たちのオリジナル公演が行えなかった。
だから、彼女らSKE48(KⅡ)とファンの思いを高柳は秋元に代弁した。総選挙の会場で熱を込めて語った。
秋元氏はそれに呼応するように公演楽曲を書き、オリジナル公演を与えた。
『お待たせsetlist』には、SKE48(KⅡ)の思い、そして、ファンの思いが込められている。その歌詞は秋元氏が書いたものだが、聞く者にとっては、彼女らの気持ちそのものが歌われているように感じられる。
僕は、彼女ら=色付けされていないプレーンな彼女らを望んでいるのではないか。
そこには、如何に崇高な思想やイデオロギーであっても介在するべきではないのではないか。
だからこそ、僕らは秋元氏が秋元氏の思想、イデオロギーを彼女らに歌わせ、演じさせることに強烈な違和感を覚えるのである。
さて、散々彼の罪を述べてきたが、彼の功績は大きい。夏に控える前田敦子の卒業に関して、彼はこのように述べている。
「相変わらず表現は下手だが、その分、ストレートに伝わってくる。時々見せるはにかんだ表情は、あの頃の“あっちゃん”のままだ」と。
彼女につまり、この世界で美少女と認められたアイドルにバイアスをかけることなく、アイドルというひとつのステージを卒業させる。
そのことには頭が下がる思いだ。
さて、そのようなイデオロギー性の濃いアイドルの対極にハロープロジェクト系列のアイドル、モーニング娘。やスマイレージといったアイドル勢がいる。
一時程の勢いはないが、それでも業界内で存在感を放っている。そんな彼女らはイデオロギー性から解放されたアイドルといえる。
彼女らの歌う曲の歌詞や、日常を何の疑問も持たずに歌いこなすものであり、楽曲名からさえ強い思想は感じられない。『プリーズミニスカ ポストウーマン』(スマイレージ)『ピョコピョコウルトラ』(モーニング娘。)といった曲名からは、いわゆるおバカな空気さえ感じられる。
純粋な気持ちを歌っているかどうかで言えば、アイドルを眺める視点では、こちらの方が、彼女らの気持ちが歌われていると想像できる。
まさか、つんくがうぶな乙女の気持ちを持って生活しているとは思うまい。
【つんくの罪】
そんなつんくにも罪はある。
それは、作品そのものではなく、それらを歌いこなす際の彼女らについてである。疑問に思ったことはないだろうか。
彼女らの楽曲は、つんくが曲詩ともに担当する。48グループの秋元氏が詩のみの担当であることとの差がここに出ているのかもしれない。
よくよくハロプロメンバーの歌い方のくせを聞いていると、そのくせが似たものであることに気づくはずだ。
そう、つんくの歌い方のくせに似ている。と。
つんく自体、アーティスト時代の歌い方のくせは強いものだった。
それ自体はなんら問題がないのだが、その歌い方のくせを彼女らに楽曲提供することで一種押し付けているのではないか。
ピュアな彼女らの、女の子らしい歌い方を黙殺してしまっているのではないか。そう感じられて仕方ないのだ。
ここでも、僕らは嘆くことになる。彼女らの気持ちを彼女らの歌いたいように歌っているものが欲しいのに。本当の彼女らが欲しいのに。
資本主義に浸け置きにして、彼女らの骨を抜くのはもうやめてよ!そんな不自然な美少女見たくないよ!
そんな思いにかられて、すべてに思想やくせのないアイドルを探す。いることはいるのだ。
例えば、SUPERGiRLS
例えば、YGA
天下のavex、そして吉本興業のプロデュース。資金力も申し分ない。ルックスも申し分ない。でも、なかなか売れないのだ。
吉本興業に至っては、NMB48という48グループの力を借りて、アイドル事業に参画する始末。
ロマンがない!
彼女らは基本的に本能が言動を支配しているので、こちらの理論武装は全く通用しない。
重要なのは意見の整合性ではなく、そのとき彼女がご機嫌かどうかである。
り、理解できない……。
彼女らは理解できないのではなく、理解するつもりがない。
そのような事柄について、こちらがどんなに優しく平易に説明しても徒労に終わる。
なお、伝家の宝刀“頭では理解できても感情が納得しない”を抜かれるとこちらは即死である。
そんなにムキになってこき下ろさなくてもいいじゃないですか……。
見下されるいわれはない!
“ムキになってないよ”
“いや、見下しているわけじゃなくて”
このような反論は決して口に出してはいけない。
可及的速やかに謝罪し、5分後に彼女の機嫌が良くなっていることを神に祈ろう。
馬鹿な振りをして男の気を引こうとする女の浅はかな策に、わざと騙されてあげるくらいの度量はないのでしょうか?
女はちょっとくらい馬鹿なほうがモテる、というのは事実であると思う。
・馬鹿だけど賢くみせようと頑張っている
このような女性を可愛いと感じる男性は、少なくとも俺の周囲には多数存在する。
しかし、実際馬鹿なのに自分を賢いと思っている、あるいはプライドの高い馬鹿は手に負えない。
まして馬鹿な振りをしている馬鹿などをみると、とても痛々しく惨めな気持ちになる。
そのような女性との会話中に、少しでも文語的な言葉を使ってしまうと
独特の言い回しをする
と思われてしまうので気をつけなければならない。
確かに、この広い世の中にはもっと相性のよい相手なんてごまんといると思うよ。
でも、お前がいいんだ。
説明してもどうせわからないだろう。
いや、見下してるわけじゃなくて。
先日「Flashエンジニアが今後10年食べていくには?」というテーマを元に
Flash に精通した Web 技術者達のディスカッションが行われる催し物があった。
http://www.publickey1.jp/blog/11/flash10.html
この記事だけでは内容が省略しすぎているため
時間があれば是非録画の模様もみていただきたい。前半初頭は音量が小さいので注意。
こういった催し物は面白いなと、私はとても楽しく見させていただいた。
http://www.ustream.tv/recorded/19073524
http://www.ustream.tv/recorded/19074357
ディスカッションでは Flash だけではなく HTML5 についても触れている。
ディスカッションの感想をディレクションや営業を行なっている知人に聞いたり、
ネット上の反応を見てみたところ以下のような意見がいくつかあった。
「『Flash が好きな人』だけではなく HTML5 派の人との対談もあればよかった」
「Flash 派の人の話だから HTML5 が使えないという話はいまいち参考にならない」
『Flash 派』『HTML5 派』という くくりで考えてしまう人は
まだまだ多いと実感する。
パネリスト達は
過去から現在までに様々なプログラミング言語を利用し、あらゆる技術に精通している。
Flash という表示媒体/環境開発がベター(時にはベスト)だと考え、
Flash をよく扱っている、という旨を話している。
最後の締めとして
Flash よりも優れたものが登場するのであればそちらに移行するでしょう、
とも言っている。
これだけの説明があったのに
ディスカッション内で触れた HTML5 に対する否定的な話は、
『Flash 派』とやらのポジショントークだと目に写ってしまったのだ。
Java やら C やら objective-c やら perl やら php やら
サーバサイドからスマホ用ネイティブ言語を用いてのアプリ制作まで
色んな事やってます、と言っても
現在世の中には HTML5 を推し、合わせて Flash を否定する記事が結構出回っている。
技術者が話す専門的な用語の飛び交う話よりも
HTML5 vs Flash 的な読みやすい記事に耳を傾けてしまう人はいる。
Apple 製品を好む人は「ジョブズがそう選択したのだから」と
なおさらこういった記事に目を向けてしまう。
「Flash vs HTML5 の話にのせられてしまうのは、よくわかっていない人だ。」
ディスカッション内では、
ネット上の煽り記事を読み不安に思ったクライアントから連絡を受け
きちんと状況をゼロから説明するハメになってしまった、という内容があった。
似たような状況になっている人もいるのではないだろうか。
当方周辺では、
「Flash は駄目だ」「Flash でなくても HTML5 ならできるはずだ」
「HTML5 は Flash の代わりになるものだと言われている」と
クライアント、あるいは仕事先の関係会社から耳にする機会が増えてきた。
技術者の及ばないところで
ベターではない技術が選択、あるいは勧められてしまう やっかい性。
その記事は世間の目には届かない。
TV CM でバンバン流れている iPhone や iPad では Flash を見ることができない
という状況に乗じた
勘違いを正すためには、今までよりもより一層
あるいはメッセージを発信するよう心がけていかねばならないと感じる。
パネリスト達のような
Flash を扱う事が可能な技術力を持ち合わせている人にとって
Flash が終わろうが、代わりの技術が HTML5 やらその他何になろうが
大した影響はない。
『プログラミング』についての話をしてみる事にする。
「世にあらゆるプログラミング言語があるが
「何か一つ言語を習得し
『Flash の事は全く知らないがプログラミングプロフェッショナルの人』
が近くにいるならば是非上記について伺ってみてほしい。
その通りだと答えてくれるはずだ。
他の言語で作ったものを Flash のプログラミング言語に移植することも容易いのだ。
ここで上記三行の「他の言語」を「JavaScript」に置き換えてみてほしい。
HTML の DOM 操作に必要な言語は JavaScript である。
言語は、Flash ならば ActionScript、HTML5 ならば JavaScript を用いる。
画面描画は
あるいは用意されている描画用 API を ActionScript で呼び出し、
あるいは用意されている描画用 API を JavaScript で呼び出す。
Flash と似たような技術として Java Applet や Shockwave があるが、
これらも一緒で
言語を変え、その技術に合わせた描画を行う処理を記述するだけだ。
Web 技術者が何かに属していて、何かには属していないかのような区別の仕方は
的がはずれている事を なんとなく感じていただけただろうか。
仕事に対し、あるいは表現したい事に対し、ベターな選択を行うだけの事なのである。
環境や表示内容に合わせ両方を採る選択もあるだろう。
パネリストの中に ActionScript が好きだ、という人がいた。
これは別に
Flash が好き(製品のファン)だから ActionScript が好き、と言っているのではない。
ActionScript が優れたプログラミング言語だと判断しての発言なのだ。
HTML5 を選択するだけの事であり、
その別の技術を選択し、
Flash より優れた技術が登場しなければ Flash を使い続ける、
ただそれだけの事なのである。
もう少し突っ込んだ話をすると
Flash のプログラミング言語である ActionScript(ActionScript 1.0)と
HTML 表示制御を行う言語 JavaScript は 実は同じ言語仕様である。
『ECMAScript』という単語で調べてみてほしい。
「Flash と HTML5 は対立するもの」と考えていた人、
あるいは ActionScript や JavaScript を触れたことがない人にとって
「え?そうなの?」と思う人もいる事だろう。
JavaScript は大規模開発に向いていない、という話は聞いたことがないだろうか。
同様の言語仕様である ActionScript 1.0 はこの問題を解決するため
ActionScript 2.0 から ActionScript 3.0 へと進化していった。
Flash は開発がし易い、という話がよく挙げられるが
その理由の一つがこれである。
現行の JavaScript と ActionScript 1.0 は ECMAScript 3 準拠に対し、
ActionScript 3.0 は ECMAScript 4 準拠である。
言語として進化しているものを Flash は採用しているので
開発は抜群にし易い。
ECMAScript 4 準拠の JavaScript も登場する日もあったかもしれなかったのだが、
ECMAScript 4 標準化が白紙、
ECMAScript 4 は無かったことになってしまったのだ。
ActionScript 3.0 で作成したプログラムが
ちなみに JavaScript は大規模開発に向いていない、という事に対し、
最近では Google が新言語 Dart というものを開発している。
位置づけとしては ActionScript 2.0 に近いと比喩した人もいる。
ActionScript 2.0 はコンパイル時 ActionScript 1.0 に変換されて出力される。
Dart も同じく JavaScript 変換機能を持つ。
先の事は誰にもわからない。
HTML5 が成長するとは必ずしも言えない。
技術者は身を持って知っている。
表示と動作の差異、技術者はずっと苦しめられてきている。
めんどくさい。コストがかかる。
HTML5 も同じ道を辿るのでは、と言われてしまうのも仕方がない。
実際に HTML5 の各ブラウザの実装具合はバラバラである。
Flash はといえば、
今でも 10年以上前のスクリプト言語 (ActionScript 1.0 よりも前の言語)で
Flash が動作するブラウザがいつまで携帯に搭載され続けるのか、
まだ誰にもわからない。
今後も当面携帯向け Flash を作り続ける事になるのかもしれない。
携帯向け Flash は一つの容量が小さいというのが救いである。
IE6 対応 HTML サイト制作にせよ、携帯向け Flash 制作にせよ
状況に応じて何を選択するかを判断できるほどの技術力を身につける事
選択する技術に何ができて何ができないのか、
どの技術を組み合わせるとよいのか、
自ら判断できるようになった時、一人前の Web 技術者になったと言えるだろう。
一つ何かをモノにしてしまえば前述の通り移行は容易い。
それを極めるくらいまでとことん勉強してほしい。
続けていくと見えてくるはずだ。自信という名の悟りの道が。
気になった点をいくつか。
現状の HTML5 の実装具合のバラバラさに対し、
「(HTML5の)表示の差分を埋めてくれる何かが登場するかもしれない」
と言う発言があった。
言った当人も会場にいる人達も、きっとこう思っただろう。
「それってなんて Flash Player?」と。
「あれはやめたほうがいい」という発言があった。
勝手に注釈するのであればこの発言は
「Flash で作られた重たい Web を HTML5 でまた再現するつもりなの?」
という皮肉であろう。
多くの婦女子諸兄には処女というのは特別意味のこもったワードらしくこのことについて書かれたブログやら何やらというのはまま見かける。
そしてそこに頻出するのが処女厨という言葉。もしこの単語が出てきたならば大体のところどんな主張を仰っているのかその想像はつく。
往々にしてこんな感じだろう。「処女を勝手に神聖視するな、処女をモノ扱いするな、処女厨こわい、きもい」
いつもならば眉を仰角30度くらいに吊り上げ一文字に結んだ口許からぐぬぬとでも漏らして終わりなのだが、今日ははっきりと言いたい。相手に処女を望むことの何がそんなにどうじてなにゆえ問題なのだ?
花も恥じらうご処女様と宮沢賢治よろしく欲にまみえむ童貞様が心も体も心身ともに結ばれ幸せそのものセカチューばりのプラトニックラブIT'S A BEAUTIFUL WORLD。
実に美しいじゃないか。
しかして正すべきのなにものもないこの世界に土足で押し入り踏み荒らしていくのが勝手に処女厨などとカテゴライズしたあげく遥かお天道様をも下す高みから見下ろしたもうたる輩だ。
彼等彼女等によれば女性に対して処女性を求める人物というのは分類学上の処女厨という範疇に収まり、それはもうおもわず目ン玉ひん向いてしまうくらいにリンカーンもビックリなご高配を賜る栄誉に預かるわけなのだ。
曰く、処女厨とは女性に対してワガママな妄想を抱いたあげくその自分本意な欲望を押し付けてくる怖くてキモい存在なのだそうな。
で、この処女厨ってなんなんだ?
ネット上には確かに非処女は肉便器とのご高説を垂れる手合いがいるが、ああいった連中のことだろうか。
ならば話が早い、あれは処女厨ではなくただ全方位に対してヘイトを撒き散らすのが目的の集団か、処女厨を隠れ蓑にした膜厨のどちらか、もしくはその両方を兼ね備えた人達だ。
まずヘイト集団は便所の落書きそのものだ、まともに相手をするのはバカと暇人だけでいい。
問題は自称処女厨の処女にあらずんば人にあらずなどとのたまう膜厨共だ。
まあこいつらの主張はごくシンプルで膜が有るか無いかの一点にのみことの是非が集約されている。膜があればよし、膜がなければわるし。
この単純明快な理論だがどう見てもおかしい。普通におかしい。ちょっとあたまおかしい。
突っ込むまでもなくこいつらはただの膜好きだ、論ずるに値しない。
まあ実際にはおお真面目に膜が云々と書き立ててる奴などそうはいないのだが、こいつらの言う所を噛み砕いてやればそういうことなのだ。
とここで対になるのが精神的処女厨という言葉なのだが、これこそが言いたかったことの一つだったりする。
精神的処女厨とは女性に対して膜の有無ではなく、それが初恋であることを求める人間のことだ。というか俺のことだ。
断言するが肉体的処女厨なんてのは2chを中心としたネタに過ぎない。
あえて矛盾点をしこたま抱え、通る道理のない所を無理やり通してしまう。
無茶な理論だと分かっているからこそムキになって反論してくる相手の存在が心地よく、横暴に振る舞えば振る舞うほど快感を覚えることのできる、そんな趣味の悪いお遊びだ。
そして冒頭に戻るが大抵の場合が処女厨と言われればこの肉体的処女厨のことを指している。いいかこんな奴はいない、存在しないんだ。
確かに処女膜という記号に萌えて燃えるやつはいるだろう、しかしそいつらは非処女を忌避しているわけではない。
ましてや肉便器肉便器などと呪文を唱え据え膳食わぬどころか膳には唾棄するべしというような信条をもったやつらでは決してないのだ。
詰まるところ相手が処女だと聞いて喜ぶような輩はいても膜がないからといって、それのみを理由にボールをストライクゾーンから一つも二つも外してしまうような輩はいないのである。
肉体的処女厨というのはたけのこ厨、きのこ厨と同じお遊びの産物に過ぎない。
では熱意と情熱をもって処女に対しそのほとばしるリビとーを思うがままに開放している彼等の言は全てがお遊戯なのかと言われればそうではない、
一分に真実の叫びが混じっており、それを担っているのが精神的処女厨というわけだ。
異性への好意、その最初の相手が自分であることを求める、つまり初恋でなければ許せないというのが精神的処女厨であることは先程述べたが、
逆に肉体的には無理矢理にレイプされていようが知らぬ内にネットペニスとやらに貫かれていようがそこに心理的な同意がなければ全くの無問題である。
なんのことはない運命の赤い糸とは言わないが好きになるのならそれが最初の恋であってほしいという叶わぬ夢であること間違いなしの想いなのだがただそれだけのことである。
で、これのどこにカースト制度ばりの侮蔑を投げかけられる要素があるというのだろうか?
例えば特定の相手ができたとすればその相手には精神的な処女性を求めたいとただそれだけだ。俺はでかい乳にそそられるだとか、貧乳こそ正義だとかそんな好みの話である。
別に精神的"非"処女の方々を蔑んでいるだとか嘲っているだとかそんなことは一切ない。
けれど、にも関わらず、しかるにだ、なぜだか勝手に虚空の存在である処女厨とやらにカテゴライズされた挙句、ご丁寧に被害者面して散々ディスられ、いつのまにやら上下が逆転しもうちょっと大人になられたら如何でしょうかと諭されるのである。
被害妄想?そうであればよいのだが彼等彼女等が指すところの処女厨というのには確かに俺が含まれている、実際にはそれがいもしない肉体的処女厨に向けられた言であってもだ。
大体個人の好みの問題になぜ割って入ってくるんだ?そんなに憎いのか?否定も肯定もされていないというのが嫌なのか?そこに有るというただそれだけがそんなに許しがたいことなのか?処女厨という架空の藁人形を編みあげてひたすら釘で打ち据えるのがそんなに楽しいのか?
先日、僕は友達付き合いをしていた女性に交際を申し込んだ。結果はお断り。曰く、”気になる人”がいる、との事。
その日フラれた直後の帰り道、彼女は事情を話してくれた。気になる人には本命の彼女がいて、別れるから待って欲しい、
とずっと言われていると。ズルズルとキープちゃんをやりたくはないので、このままではいけないと思っていると。
僕は押した。
「真剣なんだ、そんな話聞いて黙ってられない。誕生日のお祝いをさせて欲しい。チャンスを下さい。」
彼女は頷き、その日は別れた。
デート当日、人力車や船に乗り、映画を見た。夜はホテルのディナーを食べてプレゼントを渡した。とても喜んでくれた。
今日は解散…という時に最後のプレゼントがあるとホテルの部屋へ通した。チェックイン前にホテルの人に頼んで
セッティングしてもらった生まれ年のワインを空け、ネックレスを渡した。とても感動してくれた。
ネックレスを首にかけ、ハグをしながら再度想いを伝えた。僕は本気なんだ、あなたを支えたい。
そばで笑っていて欲しい。大好きだ。あらゆる想いを伝えた。
彼女は何度もありがとうと言ったが、どこか浮かばない顔をしていた。”気になる人”が引っかかっていた。
話を聞くに、"気になる人"は本命彼女と同棲中。すぐに別れたいけど、本命彼女名義のアパートに居候しているから
簡単に別れられない。金つくって一人暮らししてちゃんと別れるから。愛しているのは本命じゃなくお前だから。
お前じゃなきゃダメだから、と言われ続けて半年以上経つ。転職も副業もせず、金を作ろうとしている気配はない。
自分に甘いそうだ。
平均して週に1回以上は会っていて、メールが一方的に10通以上(今なにしてる?どした?など)届くのは当たり前、
だんだん束縛するようになってきた(共通の友達のいる飲み会に彼女一人で行ってはいけないという約束を最近交わした)し、
携帯も覗かれるようになったし、ゴムなしのSEXを求めるようになってきた(彼女は元々ピルを飲んでいる)。
でも不快じゃない、その気持ちを出して彼に嫌われるのが怖いのかもしれない。彼の俺様主義をどんどん受け入れてる。
将来性のないダメ男だからこのままじゃいけないと理性ではわかるけど、会って顔を見ただけで幸せな気持ちになって
ハマっていってしまってるそうだ。"気になる人"というレベルではなく、本当は相互に依存し合っている状態にある。と言っていた。
僕は虚無感や失望感、嫉妬、愛おしさ、心配、憎悪、憤怒の気持ちがぐしゃぐしゃになって激しい動悸が止まらなかった。
僕は彼と面識があった事もわかった。共通の友人も多くいる。それも響いた。
努めて冷静に話をしながらも、涙や怒声が抑えられない時があった。
たくさんハグをした。手を握り合った。でもキスから先はNGだった。
僕は許される限りのスキンシップを取りながら彼女の状態を聞き出し、上述の話受け入れながら、辛い話をしてくれてありがとう、
という感謝の気持ちと、それでも好きだ、俺なら君をそんな風にしない。必ず幸せにすると、精一杯の想いを伝えた。
何度も言ったけど、返事はありがとう。話聞いてくれてありがとう。それだけだった。
今のダメな状態から僕に移り気して変われるかもしれない、と考えて僕とのデートに臨んでくれたらしい。
僕の事はすごく信頼しているし、私を想ってくれてる気持ちも充分伝わった、嬉しいし、
今の彼と別れて僕の元へ来たほうが幸せになれるだろうと頭ではわかるけど、今はこれ以上応えられないそうだ。
彼女は前の前の彼氏が同じく俺様系で、今に同じく振り回され、一方的に捨てられた後、俺様系ではない優しい男と4年付き合った。
優しすぎて将来性がないと思い、自分から別れた。そして今、将来性のない俺様系にハマっている。
このままじゃいけないと頭で分かっている、としきりに言っていたので、まず会う回数減らす事からはじめたら?とアドバイスしたけれど、
まだ俺諦めないから、見放せないから、好きでいさせてくれ。幸せを考えさせてくれ、何でも相談してくれ、
美味いモン食べて楽しい話もしよう。もし君が彼を断ち切る事ができたなら、その時は一緒に幸せになろうと言った。
彼女は頷きありがとう、と言った。話し始めから6時間以上、終わりに近づくにつれて、彼女はだんだん彼をかばうような物言いを
しなくなったし、スキンシップでも応えてくれるようになった。彼女の希望で共通の友人(女)を交えた僕との仲良し三人で
後日改めて話したいから、とスケジュール調整もした。少しづつ変わっていたから彼女の相談相手をしつこく続けれていれば、
いつか彼から離れられるはずだ。そう思いながら早朝、一睡もしなかった部屋を後にした。
この事情は共通の友人(女)にシェアした。事情はある程度彼女から聞いていたが、
ここまで依存が進んでいるとは思っていなかったらしく、全力で救いたいと言っていた。
てゆーか、アタシとオマエで救うぞ。オマエ面倒見ろよ、と。
あたりめーだ。今更ひけるわけねー。ありがとな。
貴社の製品が好きだ、というのは一般的にただのファンの心境です。就職活動においてはタブーとすらされています。
しかし、私がはてなに応募するまでに至った原初の感情であり、やはり志望「動機」とさせていただきたいと思います。
私を一言で表すならば、「どうでもいい人間になりたくない」人間です。
アルバイト先の選挙事務所では、歴戦の議員に対しても意見をぶつけたりなど、採用の如何によらず、自分の声が存在しない場を嫌います。
これは、程度の差こそあれ、多くの人も抱える願望なのではないでしょうか?
誰にも必要とされない人間なんていない、というのは綺麗事でなく私の持論です。
しかし、広い世界で自分を必要としてくれる人に出会うことは意外と困難です。
その「距離」をなくすのが、WEBの大きな役割だと考えています。
特に、はてなのサービスは昨日まで誰にも必要とされなかった人を同じく人の力で表舞台に上げる可能性を持っています。
そんなはてなが好きです。総合職としてはてなで働くことは、世界から必要とされない人をなくすことだと捉えています。
自分の根幹に関わる仕事がゆえ、全力を注ぐ覚悟があります。主体性という意味でも、責任をもって仕事ができると自負しています。
なんで君はこんな遅くになって、こんな手紙をよこすのか、そう君は思うのだろうね。理由は単純だ。君が自己満足の為に僕に書いて、僕によこしたように、僕も自己満足の為に書いて、君に送る事にするよ。それにあたって、ただ一つお願いがある。どうか返事を書かないで欲しい。僕にとって君との関係はキラキラとした美化され、風化された思い出というよりはむしろ、呪いや呪縛に近いのかもしれない。僕は君との関係を思い出す度、罪悪感に苛まれるんだ。この行為は別の言葉に変えるならば、償いに近いものかもしれないと思う。無論、こんな自己満足の手紙を送った程度で、僕の行いは贖われるとは思わない。
最初に謝っておきたい。僕が非常識な行いを行ったのは重々に承知しているし、そのことを忘れた事なんて一度もない。あれは責められるべき事だったと思うし、君がそう判断するのももっともだと思う。君は疑問に思うだろう。なぜ何もしなかったのかって。率直に言うと、君の中に抱いている僕と、実際の僕自身の落差に驚き、その砂上の楼閣を維持すべきか逡巡したあげく、何も選び取ろうとしなかった、つまりは自分が傷つきたくなかった、そして君に対して臆病だった。
僕は確かに、友情以上の意味を込めて、好きだ、と言った。そんな言葉を言ったのは生まれて初めてだった。その時の君の表情の移り変わり、春の穏やかな周りの風景、部屋のオブジェ、机に彩られた食事。全てを色鮮やかに思い出すことができる。君の手を握ったときの、ちょっとひんやりとして、僕よりも小さな、可愛らしい手の形や、僕の一挙一動にあたふたしてこじんまりとした小動物のようにコミカルでコケティッシュな君の仕草は、今でもまるでそこでの一部始終が8ミリビデオで撮られていたかのようにを鮮やかに思い出すことができる。そこで僕は確かに好きだと言った。しかし、本心では無かった。僕はしばしばそういった必要もないのに、そういった類の愚かな過ちを犯す事がある。しばしば、僕は人に嫌われたくないと思う余り、本心から乖離した行動をとってしまう事がある。そしていつも後悔する。学習しないのだ、僕は。それにしても僕はあまりにも軽率だったと思う。
君との関係を継続していく気がなかったと責められていても仕方がない。僕は君が思うほどに倫理的な人間でもない。君が思うほどに、自分が何か価値のある人間だなんて今の際まで思ったことは一度もない。世界からある日突然僕が消え去ったとしても、多分何の変哲もなく世界というものはそれまでと変わらぬ歩みを続けるのだろう。君はそんなことないって言ってくれたのは、とっても嬉しかった。それでもこの考えは変わらない。でも、あんなにたった一人の人について想いを巡らせたのは、初めてだったと思う。僕の周りの人間は、喩えて言うのであれば旅の途中にふとすれ違う、街角の風景みたいなもので、人生の短い時間を共有しては、時間という川の流れに押し流されるような、刹那的な存在だった。僕はそのまま、生涯孤独のままに生きていくのだろう、そう思っていたし、君に会うまではその考えは揺らぎすらしなかったんだ。それは僕の土壌の中に大きく根を張って、巨大な木へと成長していた。
君みたいな人間は初めてだった。君とのメールでのやりとりはとても楽しかった。君からメールが来る度に、思わず口笛を口ずさむほどに嬉しかったし、この時間が永遠につづけば、なんて今考え直すと陳腐な事を考えた。傍から見たら馬鹿げているのかもしれない。でも僕にとって君と僕との関係は、それこそ実存をかけた問題だったし、真剣だったし、真摯にとりくまねばならないことだった。君みたいな素晴らしい理解者を得られた事は、多分神様の贈り物だったんだって心から思うんだ。なんでそんな得難い関係を保っていた君から僕は離れていったのだろうか。聞くに耐えぬ理由だと思う。君はそれを聞いたら怒るどころか呆れるだろうから。無論、なんの矛盾も抱えていない人間は世の中にはいないだろうけど、それにしたって限度がある。僕は矛盾した人間だとこの時ほど思ったことはない。
僕はあれほどまでに苦しめた僕に対する過剰な信頼と、敬意と好意と愛情を・・・失うのが怖かったんだ。だから僕は結局言うに言えなかった。だってあんなに手酷い別れになったにも関わらず、最後にこんな綺麗で美し過ぎる手紙を受け取っては、返そうにも返事が出来なかった。それを行う事は、恐ろしく酷いことのように思えたんだ。知らなくて良い事もある。もちろん、率直な想いを打ち明けるという選択肢もあったけれど、僕はそれを選べなかった。これが君に対するせめてもの償いなのか、それとも病的な利己心のなせる業なのか、僕には分からない。ただ君はとても悲しんでいるに違いないだろうし、その上に辛辣な言葉を浴びせる事は、もはや暴力であり、君に対する最大級の冒涜なんじゃないかと躊躇してしまったんだ。
君の言動に違和感があったわけじゃないんだ。君はメールのやり取りを介して、僕が想像した以上に君らしかった。どこか、違うだなんて違和感を感じた事は一度たりとて無かった。ああやっぱり、まさか君はそんなことで僕が君を諦める、なんて思わなかったんだろうね。だからこそこの言葉を言うのが辛い。一年以上もの間、君に返事の一通さえも出せなかったのは、とりかえしの無い事をしてしまったという罪悪感と、なんて空疎な事に時間を費やしてしまったんだろうという虚無感から逃れるためだった。
誤解しないで欲しい。君が空疎だとか、薄っぺらいとかそういう意味じゃない。むしろ逆だ。無邪気で純粋な君に接しているうちに自分のどうしようもなく矮小な部分や目を覆い隠したくなるような恥部を覗かれる恐怖に怯えて、逃避しただけの哀れな男なんだ。
恐ろしく動物的で、独善的で醜い。僕は自分自身のそういったどうしようも無く、醜くて矮小な自分自信を受け入れることができなかったんだ。だから僕は君との関係を拒否した。逃避した。切断した。逃げ出した。
僕は君と付き合う、その可能性ももちろん考えた。それは一見とても素晴らしい事のように見えた。だって僕の短い人生の中で、これほどまでに心を通わせる人なんていなかったから。君を失ってしまう事はとても辛いことのように思えた。でもそれは出来なかった。僕の心が拒否していた。君は僕といつまでも過ごしていたかった、そう言ったね。でも僕はそうじゃなかった。あの空間がとても-そう、とても重苦しいものに思えたんだ。心に重石が乗っかったようだった。いつまでこの狂った芝居を演じなければならないんだろうといっぱいいっぱいだった。帰りの電車の中では今までに経験したことのないほどの疲労感が襲った。
君がセクシャルマイノリティであることや、君の家庭環境とかに、違和感を感じていたわけじゃない。そういう人間がいたって可笑しくないとは思うし、僕はそこまで差別的思想に凝り固まっているわけではない、と信じたい。理由はもっと別のところだ。多分、僕がもっと思慮深く、善良でもっと本質的に物事を考えられるのであればこんなことにはならなかったと思う。しかしながら実際の僕は君が考えているほどには素晴らしい人間ではなかった。
しかしながら、結局のところ差別主義者と誤解されざるを得ないような酷い最後になってしまった事については、釈明のしようもないと思う。君を尊重すべきと考えるならば、それは絶対やってはならない類の行動であったし、今でももっといいやり方があったんじゃないかって思ってる。結果が似たようなものであれ、それに至るまでの課程が全く違うものであれば、たぶん、君もこんなに傷つくことは無かっただろう。
君がとても辛い人生だったのは察するに余りある。出来ることなら傍らにいて、君といつまでも一緒にいられれば良かったのだけれど、恐らく僕では分不相応だったのだろう。あのときは悲しみに暮れていたかもしれないけれど、僕なんかよりきっと素晴らしい伴侶が見つかる事を確信している。君の本質に触れれば、君ほど繊細でピュアな心を持ち、尚且つ魅力的で素敵な人間なんて早々いるものではないということを理解できるだろうから。この手紙が自己満足なのは言うまでもないが、君の幸福を祈る気持ちだけはどうか理解してもらえたらと思う。君の存在は唯一無二のもので、僕にとって特別であることはこれからもずっと変わらない。これからの君の人生が幸溢れるものでありますように。
やっべ最高だわー。
実質10時間寝たんだけどなー。
弱い意志。もう本当に、どうにかなってしまえ!
どうにもならないぜ。
文章を書けないってのは問題だな。
さて、何をしよう。
適当に、またふざけた文章を書こうか。
ひきつり笑い、踊るシティアンザフットマン。
残る残党。頭痛が痛い。
ぴこぴこわろすな日々。
なんでもないけどなんでもねーよ。
笑えてくるくらいだぜ。
なんだかなー。
眠いんだかそうじゃないんだか分からない。
何をしたいかも分からない。"( ´゚,_」゚)ヒッシダナ"。
切羽詰ってるよ。
居場所がないよ。もなちゃとにでもいってくるかな。
戻ってきた。
さぁ何を書こうか。
俺には自由が与えられている。
そう、何を書くのも俺の自由だ。
やりたい放題やらせてもらうぜ。
自由なんだからな。憲法でキメられてるんだからな。
全く困ったもんだぜ。
ああああああああああああああああああああああああああ
例えばこんな意味のない文章を書いてもいいんだぜ。
もうね。全部放り投げて自由になりたい。
そんなことはないよ
楽しいんだもん。やめることはできないよ。
これこそマイジャスティス!
やることが無くて退屈しているところだ。
全く、困ったものです。
退屈だ・・・・・・・・
はぁ・・・・・・・・・・・・・
考え方を変えてみてはどうか。
誰よりも強くなればいい
と笑った実態が今いくつもの命を奪った
関係ねぇよぉ。
関係ねぇよぉ。
ふっふ
ごめんな
ごめんな
旅立つ世界、色とりどり。
放つ光、色とりどり。
なんとなく、どうでもいいような感じた漂う今日この頃。
けれど僕には分かるんだ。だけど僕には理解できるんだ。
分かるんだ。分かってもらえるんだ。
何をする気も起こらない。大好きだ、それでもいい。
それもいい。感じること全てを、達成することはない。
そんな全てはないよ。嫌いだよ。
いつまでも続けていくつもりだよ。
いつものように続けていくつもりだよ。
結局何が大事かって、俺を舐めてんじゃねぇのってか、
俺が何もかもを吹き飛ばす為の戦い。
文章を書くだけでお金が貰えたらいいのにな。金ほしー。
金さえあればーなんでもできるー
全てはお金で解決ーなんてね。
海苔に乗ってきたからそろそろチャンスを湧いてくることを
紡ぎ出す君の世界を
(≧∀≦)ノフレ───ッ!って何度も何度も言ってるじゃない。
それが君には分からないの。脳みそ常に震わせて粗々と運命に背くのよ。
やってることは全部一緒。
全部を越えたからこそ達しきれる境地。
愛されて分かるこの気持。皮肉だったとしても僕にとってはそれも真実。
あーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここでそれを置くか。はぁ、舐めてるぜ。のだめ・カンタービレ。
消えていったお金。むかつくことが多すぎる。
そろそろお開きといきますか。
インターネットの匿名掲示板、twitter、どこでもかしこでも独り身で予定もなくクリスマスを迎える事を嘆く声が聞こえる。
だが、しかしだ、25歳素人童貞の俺に言わせてもらえば、本当に辛いのは、辛くなるのは男ではなく女ではなかろうか。
昨今、男女雇用機会均等法のせいで。せいでつったらアレだけど、若い男女の賃金の格差はなくなりほぼ同じになった。そこで、女性はお金を自由に使って遊ぶ事を覚え、彼氏がいなくても平気という価値観を持つに至った。
女が男を必要としない、男側から見た需要の供給源である女が男の方を見ていないのだ。
25歳ぐらいの、同年代の女友達曰く、結婚するなら年上だそうだ。一緒に成長していこう、ではなく。既に成長した、選別された果実を摘み取るのが今時の強い女性なのだろう。
ただ、そんな女性は同年代を見てくれない。これから挫折するかもしれない、成長するかもしれない男性より、挫折せず成長した年上が好みなのだ。
さて、そんな失恋を味わったが、じゃあ彼女らが実際に男性へ媚びるかというとそんな事はない。女から告白してはいけないのだ。男から言い寄るように仕向けないと…とことんめんどくさいなこいつら。
とにかく、男から言い寄らせる状況を作るらしい。年上から。
だが、そんないい夫を迎えたいと思いながら収入も十分ある若い女である。まだしばらくは自由に遊んでいたいと願ったりするワケである。
そのまま30過ぎて後悔するがいい。振られた俺はそう思った。
30になってから焦っても、お目当ての成功した年上には今頃かつてのあなた達が列を作っている。その列に割り込む事ができるとしたら、それこそ男に自分からアプローチをかけ、出し抜かれる前に恋人同士であるとハッキリさせる事である。
だが、その時、男は選ばれる者から選ぶ者へと変わるのだ。選ぶ者になった男がそんな女を狙うだろうか?いや、狙わない。若い子と付き合おうとするだろう。
哀れ30女は時に負ける。自分の価値が経年劣化するなど夢にも思わず、自分の後輩が自分の居場所を奪うとは夢にも思わず…
ただ、自分の視点から見た女性は誰も彼も計算高く見える。計算高い彼女達がこんな末路を送るだろうか。送らないだろうな。
でも、とにかく言いたい事は、色んな価値観を持った人同士がもっとうまくマッチングできればいいなと、ただただそれだけを思います。切に
別に美人と付き合いたいとか望まないから、一緒にマリオカートやってくれたり、50体も60体も仮面ライダー飾ってても許してくれるような女の子募集中。セックスは腰振るのしんどいから月1ぐらいでいいや。セックスなんかより膝枕しあったりお風呂でいちゃいちゃしたりダラダラしながらレンタルしたDVD見たりちゅっちゅした方が楽しいもの
とある人が、とあるバンドについて呟いたのだけど、この行を読んで驚いた。
「彼らの初期の曲を聴いていると必死で「好きだ、好かれたい」みたいなことを歌い上げているけど、それがなぜなのか分らない」(意訳)
口あんぐりとは、正にこのこと。
こういっちゃなんだけど、このバンドについては今までだってものすごくイロイロと語られているわけだし、これを呟いた人だって音楽関係者との付き合いあるんだから、このバンドたちが子供の頃どんな風な環境にいたかなんて、聞きたくなくても聞こえてくるんじゃないのか。
まあ、それでも興味がなかったんなら仕方がない。でもそれで、今になってちゃんと聞いてみたら、このコメント。もう、なんとかいう前に思うけど、「ラブソング」って定義はこの呟いた人には、ないの? しかもバンドの後期の曲についてじゃない。初期だよ、初期? バンドのメンバー、いくつだと思ってるんだ。20代の前半だよ? まだアンチャンだよ? 初期と後期をごちゃ混ぜに考えてるの? ロックってどんなものだか分ってないの? てか、ば●なの●ほなの?
失礼覚悟で言わせて貰うけど、今の歳でその辺が分らなかったら、もう一生わかんねえよ。
あと、こういう感覚、分るとかわかんないとかは、年齢じゃない。感性だ。こういうこと平気で言えるような、不恰好な大人になっちゃったことこそが「歳」を取ったってことなのかしら。
ここ数日、夕方のニュースが流れる18時-19時に自宅で食卓についている。
誰かが誰かを殺したとか、いじめで小学生が自殺したとか、親が子を虐待したとか、
誰かの家が火事になりましたとか、地方の市議会議員の汚職がありましたとか、
なんでもっと明るいニュースを放送しないんだろう。
夕飯時に誰かが死んだ話を聞かされて誰が喜ぶの?何の意味があるの?
誰かが憤るような事件を放送することがジャーナリズムだとか思ってないよね?まさか。
そして、相変わらずテレビ東京はアニメを放送。好きだ、テレビ東京。アニメ見ないけど。
そもそも悲しい気持ちを想起させるニュースって情報として何の価値があるんだろう。
見なきゃいいっていうのはその通りだし、普段は見ないんだけど、見ないといけない場合もある。
ある声優さんが好きだ、という事と、その声優さんとお付き合いしたい、というのは違う。
俺は年上好きで、まきいづみさんなんかクリティカルヒットなんだけど、じゃあリアルでいづみお姉ちゃんとお付き合いしたいかっていうとそうでもない。
俺がお付き合いしたいのは「いづみお姉ちゃんのような人」であって「いづみお姉ちゃん」じゃない。
こういう感覚は以前からあって、じゃあなんでそう思うのかとつらつら考えてみた。
で、どうも俺の見ているお姉ちゃんが「公的」なお姉ちゃんだからじゃないか、という結論に達した。
お姉ちゃんの声だとかラジオにおける振る舞いだとかは確かに素晴らしいんだけど、じゃあプライベートでどうかというと、そんなの分かりっこない。もしかしたらほめらじにおける風音みたいな性格かもしれない。
一方で、もしいづみお姉ちゃんが公私で全く同じだったとすると、それはそれで嫌だ。俺は公のお姉ちゃんを見て好きになったわけで、恋人になった後も、俺が好きになった「お姉ちゃん」は世界に発信され続ける。独占厨とか言われるかもしれないけど、そんなの耐えられない。自分だけのお姉ちゃんが欲しい。
それだ。俺がお付き合いしたいのは「自分だけのお姉ちゃん」であって、「みんなのお姉ちゃん」たるいづみお姉ちゃんではない。
だから、俺はいづみお姉ちゃんが大好きだけど、いづみお姉ちゃんに「めっ」ってされたいけど、あの優しい声で笑いかけて欲しいけど、実際にいづみお姉ちゃんに会いたいとか、そういうことはあんまり思わない。
というかこれはつまり、いづみお姉ちゃんが好きなんじゃなく、いづみお姉ちゃんが声を当ててるキャラが好きということなのかも知れない。
私のことが好きだ、本当に好きだ、結婚しようって何回も聞いたけど
じゃあなんで新しく彼女を作ったの?私を彼女にするのが先なんじゃないの?
本当に私が好きだ!!って気持ちがあるんなら
遠距離で会えなくて淋しいからって、他に女はいらなくない?
元々私に彼氏がいたのは事実だよ。ラブラブな彼氏がいたのにあなたに浮気して、しかも本気で好きになってしまった。
当初は私と彼氏が別れないと思ったんでしょう。だから自分が淋しくないようにと彼女を作った。おそらく。
でも結局、私はすぐ別れたよ。本当にあなたが好きだと気付いたから。あなただって分かってたでしょうに。
じゃあ、あなたはどうなの?今も、常に私のことを考えてると言いながら、本当に好きなのは私だけだと言いながら、
私がどんなに言っても、その新しく作った彼女と別れるなんて選択肢、おくびにも出さないよね?
…いや、いつか別れる、とは聞いた。 けど、いつかって何?今は分からないって何?
純粋に両思いの関係は嫌なの?未来がよければ今の私の気持ちはどうでもいいの?
私は信じてるよ。あなたの言葉を信じてるんだよ。
毎日毎日私のことを好きだと言ってくれるのも、私が大学卒業したら結婚しようという言葉も。
いずれ彼女と別れるというのも、信じてる。
信じてるけどさ、辛いよ。辛いんだよ。彼女と仲良くしてるところを周りにひけらかしてさ。傍目に幸せそうにしてさ。
私が大学を出るまではただずっとそれを眺めてろっていうの?そんなことされて私が耐えきれると思うの?
体裁を気にしているの?有名人という体裁を気にして別れられないの?
それとも、本当はもっと他に理由があるの? ちっとも話してくれないから分からないよ。
君につらい思いをさせてしまうぼくはばかだ、なんて言うぐらいなら、とっとと別れればいいのに。
そもそも最初から付き合わなきゃよかったのに。早まったことはしなきゃよかったのに。
俗に言う「重たい女」の典型かつ変態な私を理想だと言ってくれるような人は他にいないと思うし、
腹黒ドSで独占欲の強い、二次元にしかいないと思ってた理想の人が私を好いてくれることだってもう他にないだろうし、
一生一緒にいたいよ。ずーっとあなたとだけ愛し合っていたいよ。
私だって周りの人に、私はこの人が好きだ、この人と幸せになるんだ、って堂々と言いたいよ。
…ってどんなに色々言っても駄目なんだよなぁ…別れるなんて絶対ないんだよなぁ。知ってる。
信じたいし、一緒になれる時を待ちたいけど、今の状態を変える気がないんじゃ待てるものも待てないよ…耐えきれないよ…。
「近いうち会いにいくよ」って言いながらちっとも会いに来ないしさ…その彼女とは週に何回も会ってるくせにさ…
せめてマメに電話ほしいって言ったことは了解してくれたはずなのに、結局全然だしさ…こっちからはかけたって無視されるしさ…
私が他の男の人と仲良くする素振りを見せたらすぐキレるのにさ…彼女の話題をちょっとでも出したらすぐ不機嫌になるしさ…
実は遊ばれてるだけって解釈するのが無難なのかな…そうは思いたくないんだけどな…。
当初は真面目に改変ネタにしようかと思っていたのに、結局ただの愚痴の羅列になってしまった…。
しかも説明が下手だったり足りなかったりするから、私とその人以外が見ても訳の分からない文章だよなぁ…。お目汚し失礼いたしました。
あ、元増田さんの気持ちはとてもよく分かります。一人目でそう思える相手に出会えたなんて素敵ですね。どうぞ幸せになってくださいね。
衝撃で頭がぐらぐらして、空洞になって、「辛かったね」としかいえなかった。
前の彼氏の子らしい。避妊せずにセックスをして、できた、みたい。
そして僕はこの前、誘われて避妊せずにセックスをした。すぐに途中でやめた。
彼女は何故誘ったのだろう。よくわからない。増田が感じたような辛さをあまり感じなかったのかな。
これを書いて何を訴えたいのかもわからない。
今も彼女が好きだ、そうだ色んな事情があって10年間も会えなかったのだもの。
だけどそれは疑問だ。何故誘った、痛くなかったの? それを想像できず彼女を怒れない自分が一番最低だ。
こうやって書いて、自己満足に終わってしまって、また繰り返すのか。
それだけはやめたいと思って書いた。嘘だってもう吐きたくない。
大事な人って結局僕にとっては都合のいい人なんだろうか。
ありがとう増田。
http://d.hatena.ne.jp/tyw/20100530にて。
【元エントリ】「同性愛者だと誤解されるから○○されると迷惑」という発言を差別というのがいるけど、これは誤解が迷惑かどうかの話。差別の話とはちょっと違う。(大意)
↓
y_arim 2010/05/31 03:48 その発言を読むにあたっては、この社会において「同性愛者だと誤解される」と何が起こるか、という背景を考慮せねばならないのではないのでしょうか。
んな馬鹿な。
「背景を考慮せねばならない」わけは無い。異性愛者と同性愛者が「平等」な世界が仮にあったとする(まあありえないと思うし、あるべきとも思わないけど)。ここでさえ、異性愛者が同性に「好きだ、付き合ってくれ」と言われたってとどのつまり断るしかないわけで、言われたほうは相応に迷惑するなり困るだろう(念のため。各々を同性愛者/異性に替えても話は同じだ)。なら、あえて誤解をされるより、前もって誤解を拒否したって構わない。ゼリー好きだと誤解されたら中元にゼリーが来て迷惑だ、というなら「ゼリー好きって言われたら迷惑。俺は羊羹好きだ」と言えばいい、ってのと違いはないわけだ。
もちろん「この社会」は二者が平等ではないが、それでも平等にしか思わない人はいるだろう。そんな人でも、迷惑なら迷惑と言って問題はない。つまり、発言が差別とは限らない。発言が「背景を考慮せねばならない」とは限らない。それとこれとは別の話だからだ。
言うまでもないが、きっちり差別意識丸出しと考察可能な発言に「背景を考慮」して「差別!」と批判をするのは、それはそれでいい。やりたきゃどうぞ、という話だ。しかし、差別意識がはっきりしないのに、差別意識の存在を考察できるかどうか判らないのに(元エントリも具体的記述がなんらない以上、考察可能なケースである保障は欠片もない)、「同性愛者だと~」という発言を十把一絡げに「差別意識の表れ」と返すことができる筈はない。差別的な背景を考慮「せねばならない」わけはない。
迷惑の話は迷惑の話。差別の話は差別の話。ゆえに、迷惑で差別も、迷惑で非差別もある。ただそれだけだ。なのにそれを勝手に混同して迷惑=差別を考慮、としてしまうのは、単なる偏見にすぎない。
さて。
元エントリの人は説明を既にしていた。なのになぜ、こんな偏見が勝手にうまれるか。それは、y_arim、彼がお勉強の甲斐もなく差別にどっぷり漬かっているからだ。他人の差別を暴くのに必死で、自分の差別思考に気づけないからだ。そのくせ、自分は正義を説いているつもりなのだろう。ある種、最悪の差別者と言わざるを得ない。
つまり、お前は他人が傷つくことが大好きだ、というわけだな。
なぜそれほど他人を傷つけたいのか。
×他人が傷つくことが大好きである
○馬鹿は傷ついても構わんと思ってる
馬鹿って言うのはそれだけで人に負担やを与える才能なんだよ?
基礎的な理屈や国語も満足じゃないのに議論もどきをする奴は、議論してる人達みんなの邪魔だってこと、わかる?
ネットは馬鹿が簡単に知らない人に話しかけるツールにもなってしまった
つまり、お前は他人が傷つくことが大好きだ、というわけだな。
なぜそれほど他人を傷つけたいのか。
そのサディスティックな性向の原因はなんだろう。
なにかストレスがあるのか?
俺が以前女と付き合ってたときは、
撮らせてもらった写メ(顔のアップ)を
「好きだ、好きだ」って呟きつつ
べろべろ舐めながらオナニーしてたわ。
人それぞれだよ。
少女的であるというのはつまり不可能なものを求めているということなんでしょう。
解説者が「潔癖」とか「理想主義」とか言っているのは、ある程度そう言えなくもないが、やはり言い方としては美化しすぎている。
少女的なるものの欲望は、基本的に現実にはありえないような純化された世界を求めている。最初の「燈籠」で盗みをするというのも、主人公の少女の世界観の中では非常に純粋な行為なわけです。これが不首尾に終わるというのも、少女的なるものにとってはかえって都合がいい。悲劇性の演出ができますからね。そして男が去っていくのも都合がいい。だって、実際に相手の男が手に入ったら、それは現実のつまらないただの男でしかないことが明らかになってしまうから。手に入らないからこそ、その男は理想的な美しさを保ったままでいられるのです。眼帯をしていてちょっと目が悪いときに見ている世界を彼女は望んでいる。はっきりとした、無味乾燥な現実を突きつけられる世界なんて要らないというわけです。この、認識をぼかして理想化された世界を構築するというのは次の「女生徒」にも、眼鏡をはずして見る景色が好きだ、とかいうモチーフで登場します。
関連して思い出すのが、『人間失格』の最初の方に書いてある、駅の高架橋が遊ぶためのものだと思っていたのに実用的なものだと知って興がさめたとかいうところです。あれも基本的には少女的なるものの欲望の表現と考えることができます。どこか浮世離れした閉鎖的理想像です。
「これはもしかして、
僕の欠点でもあるのかもしれないんだけれども、
大きな利益を得ようとか、
これでお金持ちになろうとか、
そういうようなことが念頭になく、
まず自分の好きなものを作って、
その「もの」に共感して
お金を出してくれる方がいるんだったらいい、
というスタンスで始まって、
きょうまでの40年間、いるんです。
素材が好きだ、色も好きだっていう、
やっぱり自分のおもむくままにやっている。」
「最初のベルトは、20本か30本ぐらい作って、
スイスのアスコーナという町で
あるお店に持ち込んでみたんです。
どうなるか分からないのでとりあえず見せてみようと。
今もそうなんですけど、スイス人ていうのは堅くて、
なのでちょっと恐かったんだけれども、
まず行ってみようと。
それで行ってみたら、「じゃ、幾ら?」って。
まさか買ってくれると思わなかったので、
値段は決めてなかったんです。
じゃとりあえず1個25フランですって言ったら、
全部、買ってくれて。
21歳のときのことです。」
「僕が続けて来たこと、
そして続けていきたいことは、
1つ、1つに魂を吹き込んでいくことなんです。
もちろん買ってくださることは歓迎なんですけれども、
僕にとっていちばん嬉しいことは
くすっと笑ってくれて、使って、
優しい気持ち、幸せな気持ちになってくれることです。
僕はそれをとても幸せに感じます.」
「自負してるわけじゃないんですけれども、
ユニーク(唯一無二)な、
どこにもないものをやってると思います。
自惚れではないんですけれども。
長いこと、ぼくのつくるものを
扱ってくれているんですが、
彼らは、バーニーズの顔だと言ってくれるんです。」
ありがとう。」