はてなキーワード: 因果応報とは
子供の頃に源氏のおかんが帝から寵愛をうけて、嫉妬した他の女から虐められて、おかんが来るなと言うのに帝は相変わらずおかんだけ寵愛して結局虐めの心労でおかん死亡まで読んで、あまりの鬱陶しさに投げた。
大人になったらよさがわかるわよと言われていたのを思い出して読んだが、源氏の屑さがほんまにいらつく。
若い頃もおかんと瓜二つの父親の嫁を寝取って託卵とか、幼女誘拐して育ててレイプとか、弟の婚約者寝取って結婚申し込まれたが断って弟と結婚してからまた言い寄って寝取るとか、酷いもんだが特に年を取ってからがイラつきすぎた。
かつての愛人と友人の娘を家に監禁して言い寄って、ついでに自分の娘と偽って周囲に見せびらかした挙げ句に、隙をつかれてメンヘラ嫁に疲れはててたおっさんにレイプされてかっさらわれたり。
自分の嫁を生き霊になって殺した女の死後にその女の館に自分の女達を住まわせてハーレム作って、案の定死霊になった女が源氏の嫁にとりつきまくったり、その女の自分の娘には手を出さないでくれって遺言のせいで美少女に手を出せないと恨みつつ、託卵で作った自分の息子と結婚させてから何かの弾みで言い寄ったり。
身分の高い嫁が欲しかったから兄弟の娘と結婚して紫ちゃんを絶望させたり、結局親子ほども年の離れた嫁に浮気と託卵されて因果応報な最後だけど、ほんま終始いらいらした。
男からすれば、東工大行った奴は、かなりすごい。あるいは電通大、あるいは医学部(意外かもしれないが医学部は童貞が多い、俺医学部だったしマジ)。
で、こういう奴らは、なぜ童貞なのかと。中身を見てるっていうなら、同性からみれば、チャラ男やヤリチン、ホストの100倍生きる価値がある奴らだ。
モテナイ理由も良く分かるんだけど、逆に、なぜ女はこいつらを見れないのかが理解できない。俺が女なら、間違いなくこいつらが童貞と知ったら全力で行くが。そんな女がほとんどいないってのがまた、女の総意なんだなあと思わせる。
なぜ、女がこいつらより、ヤリチンやチャラ男に行くのかは、それは本能としかいいようが無いんだけど。
こいつらの多数が童貞でいるのに、「女は中身を見ている」という謎発言がなぜ出るのかが理解できない。見て無いじゃんw
もちろん、女が見ていると主張する中身とやらは、まあ分かる。恋愛ゲームとかで、男が壁ドンとかするみたいな、あるいはクッソワザとらしいイスを引くとか。そういう「私だけを見てくれている感」(当然ヤリチンはそれ分かっててやってる)。つまり、「私がやってほしいことをフリでもやってくれる」これが女の見る中身らしい。なぜそんな頭が悪いのか理解できないが、そうなっているらしい。
別に、俺個人はモテないといえばモテナイ程度で、それは事実だけど。
こういうのを見ると、なんだかなあとなる。
今回は女の見る目の話だけど。大学生が勉強しに大学行くわけじゃないとか、そういうのを見るにつけ、いやな気分になるが、そういうのの延長で、女の見る目アピールはうんざりする。
今後は、こういうことが周知されて。散々若い内にチャラ男やヤリチンで遊んだ女の廃品回収にこういういい奴らが使われるのをなくしていく社会になったらいいなあと思っている。
因果応報じゃないが。報いは受けるべきだと思う。
友人に勧められて、俺物語を読んだ。
「猛男を好きになる」「猛男に興味がない」「猛男の家族」と、全ての軸は主人公基準。「猛男を好きになる」人は善人に「猛男に興味がない」人は、悪人のように描かれる。
そして後者の女たちは、外見だけで砂川に一方的に惚れ、一方的に告白し、一方的に振られるというヤラセのような因果応報?を受けている。
このくだりを読んだ時「ああ、これは宗教だ」と感じた。
ある程度友達がいればわかることだが、男を外見だけで好きになったり嫌いになったりする女は、ネットで言われるほど多くない。
それに、これまで猛男が女の子に振られたり、悪口を言われたという話も
猛男の性格を考えると、外見とは関係なく、嫌われるべくして嫌われたのだろうと思う。
大和のような優しい女の子から愛情をたくさん受け取り、男友達から人望を得ながら
「俺はモテないから」と言う所は、あまりに卑屈で、周囲の人間に失礼すぎて、少女マンガの恋愛の男キャラとしてこれでいいのか?といささか疑問だった。
この漫画は、1巻でカップル成立してからは、主人公(とヒロイン)のために、ひたすらマンセーを繰り返すイケメンキャラ(砂川)と、脇キャラたちのエピソードが延々と続く。
最初は、砂川というイケメンキャラが何のために居るのかわからなかったが
「女にモテている上位カーストの男から認められたい」というホモソーシャル欲求に応えてるのかと思うと腑に落ちるし、女性に受けられているのも納得がいく。
※冒頭のお詫びとお断り:検索対策のために、略字を多用することになりました。読みづらくて申し訳ありません。
お勧めいただいた『R』、読了しました。小説を読むこと自体が、わたしには滅多にないことなので、読み出し当初は困惑しつつも、広大な小説世界に潜り浸るという新鮮な体験を楽しむことができました。作者NAの文体も、読み慣れてチューニングが合うようになると、とても心地よく感じました。そんな読書の幸いを少しだけ、感謝を込めて共有させていただけたらと、拙い感想をお届けいたします。ご笑覧いただければ嬉しいです。(わたしには本当に文才がないので、つぶやきの投稿のように、思いついた順番で書き散らかしまうことを、どうかご容赦ください。いわゆる「感想文」を期待されませんように…。)
『R』のなかに見出した、タイトルとなった人物RRと、修史を完成させたSS、そしておそらく、作者であるNAの、幾重にも折り重なった宿命との葛藤が、深く胸に響きました。読書中は熱い臨場感をもって読み進めていたのが、いま、こうして彼らについて語ろうとすると、静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ちになるのは、なぜだかわかりません。書きながら、自分の感情を文字にして確認してみたいと思います。
RRが、内に抱えた矛盾を少しずつ自覚し、揺れていく様は、わたし自身も覚えがあり、とても身につまされました。B帝に誤解され、国に残した愛する老母も妻も子供も弟も、みな殺されてしまう。RRは、大いに怒り、忠誠を誓ったはずの国とのつながりを見失う。思い返せば、これまでR家の忠誠に国は報いてくれたことがあったかと疑い、むしろ辱しめを受けただけだと失望する。そして、首を取って戻るという目的を喪失したものの、よく似た身の上で、誰にも認められなくとも、国への愛情と忠誠を抱き続けたSBに、尊敬の念と敗北感を抱く…。
家族を殺された怒りの大きさのあまり、B帝に誤解させたであろう同姓のR将軍の「存在」を怒りの矛先として、即座に彼を殺害したRR。けれど、B帝の誤解の原因が本当にそうであるか、定かでないはず。B帝と同様に、RR自らの誤解の可能性が、R将軍の命を奪い、彼を愛した皇太后を悲しませたかもしれないことに思いは至らなかった。ただ怒りに身を震わせて、衝動的に行動してしまった。おそらくは、B帝がRRの裏切りだと誤解して、衝動的に一族皆殺しを命じたように。
たしかに、身分の違いによる命の重さの違いを当然とする価値観が、受け入れられていた時代だったかもしれません。それゆえ、別の場面では、砂漠の中、戦局が厳しく、少しでも確実に部隊を生き延びさせるために、RR自ら、部隊に男装して混じっていた妻たちを殺害する命令を、冷静に下したこともあった。同様に、愛する妻を殺された部下は、敵に寝返って、RRの部隊の勝機を完全に奪った…。
RRは、自分がされて苦しんだことを、他人に対して無自覚にしてきたということ。それゆえ、RRが直面した苦しみの本質は、因果応報で自業自得というメカニズム、…などでは「決して」ないと、わたしは思います。そもそも、RRの行動は、彼なりに状況に応じて最善と思われる選択をした結果でした。作者も、そんなRRを「悪」として描いてはいません(むしろ、宿命との格闘を活き活きと描写する姿勢には、愛情を感じます)。状況に追い立てられ、もがきながら生き延びてきた選択の愚かさを、もしも誰かが(分析好きのわたし自身が)指摘するなら、それは一生懸命さに対する揚げ足取りにすぎず、そもそも人間はそういう愚かな存在だし、渦中にあったら、わたしもそうしたはずだと(ましてや、さらに低きに流れていた可能性のほうが大きいと)、反論せずにはいられません。
SBと邂逅後のRRは、自らの抱える矛盾や二面性に気がついて、苦しみを深めます。B帝の死後、かつて望んだように、国から彼が認められ招聘が掛かるのですが、それを断る弱々しい(元気のない)声のRRが印象的です。RRは、ここでもまた無自覚で、言葉を結んでいないものの、自らを通じて、人間存在の内にある矛盾や二面性に、また国(人間社会)の内にある矛盾や二面性に直面して、途方に暮れているのではないかと、わたしには感じられました。さらにいえば、SBのように国への想いを貫ける強さも持ち合わせず、そのSBを羨望する弱い自分を恥ずかしく思うRRは、それゆえ人間の矛盾と二面性を丸ごと生きているのでしょう。RRの覚悟が悲壮であるとすれば、そのような自分に気づきつつも、両極に引き裂かれてどちらへも動けない苦しさゆえと感じました。正しい道はあまりに険しくて進めず、かといって居直ってダークサイドに落ちることもできないと自覚した以上、どっちつかずのまま生きながらえます(B帝の死後、7年目に没)。おそらくはRRも、自殺による幕引きを自らに封じた一人でした(文中では、現地での恩義や家族などのつながりをRRはあげていますが、対して、RRの祖父は、親のいない孫を残して、義憤から自死を選んでいます)。
ところで、RRは、自らとSBとを「隔てる根本的なもの」に直面し、自らへの「暗い懐疑」を自覚するに至るのですが、SSとの関係もまた非常に興味深いです。
SSは、RRの名誉を守ろうとしてB帝らに反駁し、結果、死よりも恥ずかしむべき宮刑を受けます。ところが、このことを伝え聞いたRRは、自らの沈む絶望が深く、SSに対して何の特別な感情も抱きません(し、そのようなクールなRRの反応を、SSは伝聞することもありません:そこに作者NAの優しさを感じます)。対してRRは、B帝のため国のために信義を尽くそうとするも、相手から誤解され、罰せられて一族が殺されたことを知り、大いに絶望して反転します。しかし、自らが、為を思って働いた相手に無碍にされることが、どれほど当人を傷つけうるかに、思い至りません(し、それも尤もだと説明を書き添える作者NAには、RRへの深い愛情を感じます)。
そんなSSですが、42歳にしてようやく父の遺言を継ぎ、修史の編纂に取り組むことが叶います。現代の人々に知らせるために記録するにとどまらず、人間の叡智として後世へ伝え残すための歴史、なにより自分自身が書き残したい歴史には、「人間についての探求」が不可欠だと考え、「述べる」と「作る」との違いを熟考する。しかし、真摯に取り組めば取り組むほど、歴史上の人物と自分自身とが渾然一体となるような文章、まるで描き出す歴史上の人物の中に自分が生きているような表現、憑依し憑依される活き活きとした文体が流れ出る。そうした箇所を削除すれば、たちまち修史はいくつもの死人に関する記録に成り下がる。削った字句を戻して、ようやく歴史上の人物たちが「安心してそれぞれの場所に」落ち着くように思われる。
このSSの創作風景に、作者NA自身の創作風景を重ねて見るのは、自然でしょう。わたしは、NAについてほとんど何も知らないけれど、この『R』やその他の彼の短編小説なども、歴史書を下敷きにして創作されたと(文庫巻末の解説に)目にしました。憑依し憑依される関係性のなかで、自らの書く小説の中に(のみ)活き活きとした自由を感じられたのは、SSだけでなく、NAもそうであったと想像します。
先を急ぐ前に、もうひとつSSについて。時代的・文化的な特徴と思われますが、宮刑を受けて「男」でなくなった自分の身体は、「完全な悪」に落ちたと苦しみます。心の傷は癒えても、醜悪な身体は、死ぬまで自分を苦しめる。それは、自分という存在そのものが、悪である証しであり、生きる限り続く恥辱だ、と。これが、「盲目的な獣」としての苦しみの段階です。(が、作者NAの有名な短編『S』では、狼へと変身して初めて思い至った気づきを、数日で通り過ぎてしまうあたり、作者NAが、SSに託した気持ちの大きさを思います。)
その後、SSは、我が身に降りかかった苦悩・人生への懐疑とは別の、意義を疑えない「畢生の事業」である修史に「無意識の関心」が向いており、それゆえ自ら死を選ぶことができないでいるとハッキリと自覚します。ここから、「より意識的な・人間」としての苦しみが始まります。この、獣から人間への飛躍が、とても深いことに感嘆しました!
「獣」と書いていますが、つまりは世俗の社会的価値観のなかで「盲目的に」生きている段階のことです。ここでは、「身体=身」と「心」という対比が支配しています(「身/心」という二元論で捉えられています)。舞台となった漢の時代的・文化的な特徴として、名誉や忠誠といった「心」を守り通すためには、人々は死を恐れず、むしろ喜んで「身体」を自ら差し出します。SSも、死刑を恐れてはいませんでした。しかし、醜悪な「身体」となったSSは、その恥辱から「心」を解放すべく死を願うも、それを押しとどめるものの存在を予感します。自宅に戻ると、それは父に託された修史編纂の完成であることを理解します。自らに刻み込まれた「宿命的な因縁」として、「肉体的な」仕事とのつながりを放棄できないことに改めて気づかされます。ここから、「より意識的な・人間の苦しみ」へと飛躍するわけです。
ところで、世俗の社会的価値観(=知覚や意識)は、SSの「心」=「我」と、「身体=身」とを形成してきたものです。しかし、託された使命への自覚は、既存の価値観にとって、おめおめと生き恥をさらすような人生を続けることを求めます。SSの抱く既存の価値観(=知覚や意識)にとっては、耐え難く、非情な要請です。そのため、「知覚も意識も」持たない、修史編纂のための「機械」に過ぎないと、(既存の価値観=知覚や意識で)自分を定義しなければ、自らに言い聞かせなければ、生き続けられなかったのだろうと思います。SSがSSであるという意識の土台となる「心」=「我」も、そのために捧げる「身体=身」も、当時の社会的解釈の上に成立してきました。この解釈にいつまでも安住できたら、まだSSの苦悩は浅かったかもしれません。「宿命的な因縁」、すなわち、いにしえから脈々と受け継がれて自分に生命(魂)を与えた血統のように、時代を超越した「肉体的な」つながり=使命(魂)への自覚は、SSに当然視してきた当時の社会的解釈に安住し続けることからの飛躍を求めたわけですから。「心/身」という二元論を越えて、使命を抱く「魂=肉体」として自らの存在そのものを捉え直すことは、当時の社会的解釈から、漢の時代的・文化的制約から、身を引き剥がすことでもあります。それは、昭和の時代から当時を見つめる、超越的な作者NAの視点でもあります。
ここで描かれたSSの姿は、作者NAの解釈したSSの苦悩であり、おそらくは、昭和の現実を生きて苦悩したNA自身の苦悩の姿であるのかと思います。作者NAもまた、病床のなか不遇のなかで「心」も「身体」も傷つきつつ、作家として生きる使命によって、自らの小説の中に「魂=肉体」を解き放したのかなと思いました。(ちなみに、「魂」という単語は、作者NAは使っていません。でも、明らかに、「身体」=「身」と、「肉体」というのを使い分けています。その差を強調するために、わたしが勝手に補ってみました。)
そういうわけで、困難な戦場を生き延び、また自らに暗く懐疑するRRも、自らの信じる正義を貫き、恥辱に苦悩しながら使命に生きるSSも、その抱えた宿命の重さにも関わらず、活き活きと自由に躍動する姿には、作者NAが重ねられているのだと思います。NAにとって、小説を書くことというのは、憑依し憑依されてその世界を生きることなのだろうと感じました。事実、『R』のなかで、RRとSSの二人について「だけ」、歴史上の人物としての事実の描写だけでなく、その場にあって思い感じたこと、彼らの知覚と意識まで作者は思い描き、詳細に語っています。(わたしは、新潮文庫を購入したのですが、その文末の解説に、『R』はRRとSSとSBの三人の物語だと紹介されていて、そりゃちょっと違くないか?と違和感を覚えました。それもあって、今回の読書では、基本的に予備知識なく、勝手に読んでいます。)
だからこそ、冒頭に書いたような「静かに冷たく研ぎ澄まされた気持ち」を抱いてしまうのかなと思います。RRやSSが抱えた宿命の重さも悲壮な覚悟も、作り物としてのフィクションではなく、また単に歴史を題材にした半分史実・半分フィクションといったものでもなく、作者NAが抱えたであろう実体験を(ノンフィクション、と片仮名で書くには軽すぎる経験を)、わたしはそこに感じたからだと思います。
作品は、読者の能力に応じて・読者がそこから読み取れるものしか、読むことができないのだろうと思います。(それゆえ、例えば同じ聖書であっても、子供が、若者が、大人が、死を前にした老人が、それぞれが自分に必要なものを、そこから読み取ることができるのだと思います。) だから、わたしが読むことができた『R』は、私の興味・関心に限定された、豊穣な作品全体のごくごく小さな断片に過ぎないと自覚しています。きっと、H.H.さんからしてみれば、幼い読み方だと笑ってしまわれるような感想だったかもしれません。それでも、この作品に出会えて、とても嬉しいです。作品を作ることに込める覚悟のようなものを、改めて考えるキッカケをもらえました。ありがとうございます。
最後に、『R』を読みながら、H.H.さんがそこに読み取ったであろう痕跡をいくつか感じました(例えば、存在することが悪であること、それでも書写機械として生きる覚悟をしたSSの中に)。そんな大切な小説を、紹介してくださって、本当にありがとうございます。とても光栄です。でも、もしかしたら上述した私の感想は、そんなH.H.さんの想いを、まるで現国の試験問題に答えるかのように切り刻み、分析し、曲解した失礼なものと映ったかもしれません。もし、不快な気持ちにさせてしまいましたら、本当に申し訳ありません。(あなたの真摯さに敬服するファンとしては、自分の正直で素直な感想を真摯に伝えるべきで、あなたのご機嫌を取るために媚びを売るような接し方こそ失礼なのでは、と勝手に考えてしまいました。決して、あなたを否定するものではありませんこと、ご理解ください。)
自分について思索する道を、Kさん=H.H.さんに教え導いてもらえたように感じています。あなたの魂=肉体の存在に、感謝します。(勝手なファンの願いであり、余計なお世話かと思いますが、だからこそ、どうかご無理をされず、くれぐれも心と身体を大切にしてください。) あなたの幸いを心からお祈りしています。
h_s
因果応報の根拠を示してみてくれ。真実だとするなら証明できるだろ?
宗教の中でも真理を求めるに当たり、ホントに理詰めで研究してる人も居る。
で、実際に、宗教学者(宗教を勉強してる人、ではなくて、宗教の信者の中で真面目にその真理を追求してる人のこと)と哲学者と理論物理学者が真面目に情報交換と言うか議論を行うこともある。
実際、宗教学者のいうことがあんたの言うように理にかなっている事は多くある。
だがしかし、あんたみたいに何も理解してないのに表面だけなぞって無理やり押し付けようとする。それが最低最悪の行為なんだよ。
それを理解できない限り、お前は何の真理もえられないよ。
http://anond.hatelabo.jp/20150117121839
元増田です
勘違いしている人が沢山いるようだからあえて説明するよ。君達はFXの素朴な疑問について答えてれば それでいいんだよ。僕とおなじ疑問を誰もが抱いてるんだから
ここでのやりとりを見てやっぱりFXはこわいなあ、止めよう、とか思う人も出てくるでしょう?逆にFXから立ち上がった人の書き込みも出てきた。これは世のためなんだよ。僕は世界の平和に貢献しているんだよ。汚い言葉で罵倒する人よりよっぽど崇高な考えではてな匿名ダイアリーをやっているんだ
僕のことを馬鹿だの無知は黙ってろだのひどい言葉で罵倒してるけどそんな酷いことをわざわざコメントで言う必要あるのかなぁ。その汚れた汚い言葉のブックマークによってブックマーク数が膨れ上がって露出が増えて目立つということは僕にとって結果的にプラスになるから良いことんだけど、ちょっとは言葉を慎んだほうがいいよ。自分のためにね。因果応報っていうでしょ
ホントにやるせないというかなんというか
本当に跳ね返ってくるのだね自分に
最近若者を見ているとイラっとするどころか不愉快になってしまうよ
顔に出てしまう。
もうさ・・・何百年何千年何万年とさ言われ続けているだろうことはさ
頭ではわかっているのだけれど、でもさ
あれだね 厳しいね 目の前でまざまざと見せつけられると。
ほんんっっとにさぁ ごめんなさいすいませんでした
なめてたですよ 確かにナメていたですよ
すべてのこの世のすべての物事をさ
おやじおばちゃんなんて眼中なかったですよ
・・・でもさ
でも本当に自分がおやじおばちゃんの歳になった時に報いを与えなくてもいいじゃないか・・・
注意なんて出来ないよ
ほんとうにごめんね 私に若いころ関わったすべての方たちに謝りたいです
本当にごめんなさい 一瞬でも迷惑や不愉快な思いをさせてしまって。
本当に。
ありえないほど修羅場になった。
おたがい割り切りの関係だったと思っていた。
彼女にはそうでなかったようだ。
彼女の前彼のフリかたには、どんびきした。
「もーあんた用済みだからー」
とか言ってたな。
それで彼がごねたが、別れ話の最中にH始めた。
あー俺も、少しだけ楽しかったさ。
けど、さすがに不憫で、
浮気じゃねえの?って言ったら
そんなもんかと思ってたよ。
だから俺も、新しい彼女と週末に泊まりがけで温泉旅行に行くから今カノと別れることにしたんだ。
わざわざ家まで呼んで、顔を合わせて。
「殺してやる!」
って包丁持ち出してきた。
鼓膜が敗れるかと思うほどの大声だった。
叫び声を聞きつけた、隣に住んでる大学生が助けに入ってくれたからよかったものの、
あのままだったら本当に殺されていたかもしれないな。
ぞっとする。
自分がされて嫌なことは人にするなって、ガキの時期に教わらなかったのだろうか。
最悪だ。
実は少しちびった。
鬼の形相っていうのは、ああいうのを言うのだ。
男が同じことをするとこれだ。
想像力が無いんだろう。
3歩歩くと忘れるんだろうな。
読めるかどうか、知らないけど。
仲間外れ
殴る蹴るは当たり前
机に落書き
私物は池
男子の前で脱がされる。触られる
そのまま内部進学して高校になった時、その女が外部編入してきた
また地獄が始まるのかと思ったけど、地獄が始まったのはその女だった
女が気の強いリーダー格の子の彼氏と浮気したのがバレて苛めがスタート
彼氏を寝取った報復と言う大義名分があったから、苛めは段々エスカレートした
何度も女は私に助けを求めてきたけど無視した
苛めには積極的に関わらないけど決して助けない
これが報復だった
その後、女が苛めに堪えかねて高校を中退し、現在も引きこもり続けて家族にすら厄介者扱いされ、綺麗だった顔も荒れて太って醜くなったと聞き嬉しかった
でも同時に今、凄くむなしい