はてなキーワード: 類推とは
お前がどの増田なのか知りようがないんだが、匿名の意味がわからないとしたら馬鹿すぎて流石にドン引きだぞ。
お前の普通はnいくつなんだよ
江戸時代に精神病の呼称として平安時代からの「物狂い」に加えて「きちがひ(幾知可比)」としてこの言葉が生まれた[1]。当時の公文書、少なくても仕置に関する公文書(たとえば判例集の御仕置裁許帳)では、江戸時代はじめ1670年代から1680年代までは「気違」が使われていたが[注 1]、罵り言葉としてもしばしば使われる一方で、「○○キチガイ」といった表現は「○○愛好家」「○○マニア」といった肯定的な意味で使われている[注 2][注 3]。
この流れの上で江戸時代のWikipediaを引用した増田が横増田であろうがなんだろうが、「キチガイ≒統失」の論拠として出してる増田なわけ、この時点では俺の投稿に対する言及者は「キチガイ≒統失」という一貫性を持っていて踏襲した話をしてるからそう言ってるだけだぞ。
「お前がそういう主張してたからだよ」なら同一人物によるものと仮定してることがわかるだろうが
「お前がそう思うことがおかしい」ってどこに書いてあるん?
って書いてるけどそれは無視してるのはなんで?
って言ってるぐらいなんだから、増田で相手の書き込みから政治の世界でするような類推(たとえば書き込みの内容、ではなく頻度のようなメタ的な要素から本心を推測する)をするのはおかしいって思ってるよね?
増田という相手が同一人物であるかわからない媒体で「相手の書き込みから類推する」って馬鹿だからね。
便所の壁に書いてある落書きを集めて、メタ視点使って筆者の政治的立場でもひりだすつもりなんか?
原義は同じだろ、原義が同じなら全然違う「わけがない」んじゃないんか?
Apple社のAppleとFuji AppleのAppleが別の原義なのか?
あと自分が馬鹿だと思う人間を馬鹿だとわからせた先にお前になんか得でもあるの?そもそもどんなに時間かけても自覚する保証なんてないのだから時間無駄にしてる気にならんか?
増田に書き込んでいて「時間の有効利用」を考えてるのクソおもろいわ、虫けらってのは暇つぶし以外で増田になにか求めてるんだな。
って言ってるぐらいなんだから、増田で相手の書き込みから政治の世界でするような類推(たとえば書き込みの内容、ではなく頻度のようなメタ的な要素から本心を推測する)をするのはおかしいって思ってるよね?
政治のような一般名詞とAppleのような固有名詞を同列にして語るのもめちゃくちゃだよ。
あと自分が馬鹿だと思う人間を馬鹿だとわからせた先にお前になんか得でもあるの?そもそもどんなに時間かけても自覚する保証なんてないのだから時間無駄にしてる気にならんか?
補足
ちなみにApple社とふじは辞書ならたとえ同じ字面でも別々に立項されるものだぞ。
概念的に根本的に同じものかその意味的な派生関係の場合だと同一の見出しにまとめられる。
それこそこんな感じにな
追記:そもそも「何故もっと批判されるべきなのか」については、【最後に】の後に追記した(2023/11/15)。
東京大学と東京芸術大学では、鮎川ぱて氏(以後、ぱて講師)による「ボーカロイド音楽論」という講義が開講されている。東京大学の方の講義はぱて講師による著書『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』においてその過去の内容が公開されている。このダイアリーの筆者(以後、「筆者」)は「ボーカロイド音楽論」の元受講生であり、書籍を購入し一読した。同講義はTwitter(現X)での実況が推奨されておりTwitter上で一つの活発な動きを毎年見せているが、「ぱてゼミ 批判」「ボーカロイド音楽論 批判」などと検索しても同講義に対する明確な批判のツイートはヒットしない(Twitterの検索システムが悪いという可能性は保留する)。書籍についても、これに批判的な書評はAmazonのレビューやブックメーターにわずかに存在するのみである。講義内容全体のレビューはそれらに譲るとして、本ダイアリーは、この「批判の少なさ」の原因について仮説を立てることを目的とする。
本ダイアリーは直接の筆者の特定を避けるため匿名の形式をとっている。内容について「そんなの当たり前じゃん」「その仮説は的外れだ」と思う読者もいるかもしれないが、このように書き残さなければ何も始まらないということでご容赦願いたい。また、筆者は全ての年度や東京芸術大学の講義を聴講したわけではないこと、このダイアリーの内容は主に『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』の初版第一刷(以下、書籍)に基づいていることを断っておく。
まず結論として、 「ボーカロイド音楽論」に対する批判の少なさの原因として、筆者は次の4点を提唱する。
1. 媒体:現地で行う音声形式の講義では記録に基づく批判が困難であるという点。
2. 受け手の資質:講義の対象となる学生や読者のほとんどはその議題についての非専門家であり、しかも批判に割くだけのリソースを持っていないという点。
3. 内容:この講義の内容が批判を先んじて封じてしまうように作られている点。
4. コミュニティ:この講義はボーカロイド音楽が好きな東大生のうち一部を迎え入れるコミュニティを形成する役割を同時に担っており、コミュニティと批判との相性が悪いという点。
以下、これらの点を順に見ていく。
書籍が発売される前、「ボーカロイド音楽論」(以下、この講義)は大学の構内の教室で開講されているのみであった(初回の何回かこそニコニコ動画で配信されたが)。そこではぱて講師の口頭でのみ内容が話され、レジュメは一枚も配られることなく、板書も最低限であった。言われたこと全てを紙に書きとるのはほとんど誰にもできないだろう。従って口頭の講義に基づく批判は、言った言わないの水掛け論になってしまいやすい。現に筆者がこのようなダイアリーを書くことができるのも書籍が発売され、何を書いてあり何を書いていないかを把握し見直すことが可能になったからである。
この講義は主として東京大学の教養学部の学生に対して開講されたものである。その多くはこの講義で取り扱った多くの思想や概念の(多くとも)全てについて専門家であるというわけではない。またぱて講師自身もそれら全ての専門家でないことは講義中に明言している(85ページ脚注5など)。従ってぱて講師によるそれらの援用が妥当でない可能性は常にあるが、そのような観点からの検討をすることは学生にとって難しいだろう(勿論専門家のみがそれらを扱うべきだという立場をとることは避けなければならないが)。さらに言えば、進振りのための勉強で忙しい学生にはわざわざこの講義を批判するためだけに捧げる時間も体力も残っていないということ(そしてこの講義そのものが大学が門を閉める時間まで延長していることもそれらのリソースを奪う一端となっていること)を指摘しなければならない。これは書籍の読者の多くについても同じである。
ここでは書籍でぱて講師が用いた概念の内容が批判を先んじて封じる性質を持つことと、ぱて講師が「論じるべき内容を論じなかった」ことが批判すべき点を覆い隠す機能を持っていることを指摘する。
まず、ぱて講師はテマティスム(テーマ批評)に則ってボカロ曲を評論するとしている。ぱて講師の言うテマティスムとは、以下に抜粋する通りである。
「テマティスムは、作家のメッセージをその意図の通りに読み取るということではありません。そうではなくて、むしろ、作家と作品の細部から、作家自身も気づいていなかったかもしれないテーマを抽出し、作品の価値を読み替えていく。それがテーマ批評という手法です。」(40ページ14行目-41ページ1行目)
さらに、この講義の鍵となる概念の一つとして「アンチ・セクシュアル」をぱて講師は提唱している。以下に書籍の抜粋を示す。
「本講義の当面のキーワードは『アンチ・セクシュアル』です。性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱う感性が、ボカロシーンには多く見られ、そして支持されました。なにに比してかというと、いわゆるふつうのJポップに比してです。Jポップのチャートを見れば瞭然でしょう。ラブソングばかりです。」(42ページ8-12行目)
「『アンチ』といっても、それは必ずしも単純な否定のことだけを指しません。性愛を疑ってみたり、気持ち悪いもののように言ってみたり、ときにそれは、米津玄師において見られたように、アンビヴァレントな愛憎を差し向けるというかたちをとることもあるでしょう。」(43ページ2-4行目)
つまるところ、「テマティスムを用いれば、性や愛をめぐる通念を自明とせずに扱う感性(単なる否定に限らない)をボーカロイド音楽から読み取ることができ、そのような音楽がシーンの人気を博した。一方で「いわゆるふつうのJポップ」からはそのような読み取り方のできない曲が人気を博している。」という主張をぱて講師はしているということになる。この主張に当たって用いた「テマティスム」と「アンチ・セクシュアル」の二つの概念は、この主張に対する批判として想定される「作者はそこまで考えていないと思う」型の主張や「この曲は性や愛めぐる通念を否定しているとまでは言い切れない」型の主張を先んじて封じる機能を持つ。このため、読者がすぐに思いつく形での批判ができず、ぱて講師の主張に対する批判が少ないことに寄与していると考えられる。
もう一つ批判封じに寄与しているのは、「論じるべきところを論じていない」ということである。「いわゆるふつうのJポップ」についての記述に注目すると、ここでぱて講師が行わなければならないのは、
①「いわゆるふつうのJポップ」を「『アンチ・セクシュアル』な感性を持たないJポップ」以外の形で定義すること
②個別の楽曲評論を通じて「いわゆるふつうのJポップ」に該当する曲に「アンチ・セクシュアル」な感性が備わっていないことを論じること
③それが「Jポップのチャート」に非常に多く見られることを指摘すること
である。しかし書籍の中で「いわゆるふつうのJポップ」についての言及があるのはここのみで、上記3つ全てを行っていない(ぱて講師の言葉を借りれば、「瞭然」という「感覚を思考の俎上に載せ」ていない)。それもそのはず、「テマティスム」と「アンチ・セクシュアルな感性」を用いた読解だけではこのようなことは到底不可能だからである。「テマティスム」は確かに「作者の意図」に縛られない自由な評論の基礎であるが、それは同時に評論者次第でどうとでも言えてしまうことを意味する。同じ曲が違う評論家によって「アンチ・セクシュアル」であったりそうでなかったりする。もし「そうは言ってもこじつけってものがあるでしょ」と思うのであればそれは「良い評論」の基準として「テマティスム」以外の何かを想定していることになる。さらに言えば、「アンチ・セクシュアル」という概念の幅も広い。同じ言葉が賞賛にも皮肉にもなる世界で、「性や愛をめぐる通念を自明のものとせずに扱」っているかどうかを「テマティスム」のみで確定させるのは不可能だ。つまるところ、ぱて講師が「いわゆるふつうのJポップ」を論じないことは「テマティスム」の持つ脆弱性、あるいは、「何でも言えてしまうが故に何も言うことができない」性を(本人の意図とは無関係に)覆い隠し、批判を予防することに寄与していると言える。
現地での講義に付随する活動として、コンピレーションアルバムの作成やちょっとした食事会など、ボーカロイド文化が好きな東大生のためのコミュニティを積極的に提供する姿勢をぱて講師は見せている。それ自体はマイノリティたる若者を鼓舞するという目的からすれば妥当であるが、評論の面ではこれが裏目に出ている。余程肝が据わっていない限り人間は、自分を匿ってくれるコミュニティの発起人の言うことに盾突いたその先を恐れる。発起人自身が何とも思っていなくても、同じコミュニティの仲間から邪険に扱われるかもしれない。仲間が何とも思っていなくても、内なる自分が責め立てる...。こうなれば講義を批判するのは難しい(批判したとて有耶無耶に言いくるめられるだけだ、という疑念もあろうが)。「肝を据わらせろ」という主張はマッチョイズムなのでしないが、しかしコミュニティを形成するとはそういうことなのである。
「ボーカロイド音楽論」の講義が書籍化されたことは、この講義自身にとって、そしてボカロシーンにとっての大きな一歩であると筆者は考える。内容の巧拙や政治的立場はともかく、書籍化されたことによってこの講義は「亡くなったボカロPを悼み、内輪でボカロ曲をべた褒めする会」になってしまう未来を脱して、元受講者やボカロ関係者を含む全ての人の衆目に晒され、批判され、検討され、洗練され、時に新たな論を生み出していくことができるようになった。後は実際にそうしていくだけである。筆者よりもっと優れた批判をできる人は多くいるはずなので、後は彼らに託してこのダイアリーの締めとする。
強い言葉で言えば、
「『ボーカロイド音楽論』などと大層な看板を出しながら、その実著名な学者の業績を形だけ借り"正しい"思想を添えた類推だらけの持論を『教養』と称し、[『教養』]と[『教養』を並べ立てた個別の楽曲評論]を弱い脈絡の下で繋げただけの、部分を詳細に語っただけで全体を語った気になっている、評論と呼ぶべきなのかもわからないものが、まともに批判されずに学生の間や世の中に広まることが許せないから」
である(「まともに批判されずに学生の間や世の中に広まる」という心配は杞憂であってほしいが)。
筆者がこの講義や書籍の内容が批判されるべきであると考えている理由は3つあり、これらを以下に簡潔に説明することで追記とする(注あり)。
1. タイトル詐欺:「ボーカロイド音楽論」を名乗りながら、その大部分は個別の作品の読解に費やされている上、それらを踏まえて「ボーカロイド音楽とはなにか」をまとめて論じている内容が存在しないこと。
2. 「思考の俎上」に載せる「感覚」の選び方の恣意性:本論で述べたように、思考が必要なぱて講師の感覚があるにも拘わらずそれを思考した形跡が存在しない箇所が見られること。
3. 「思考」の粗雑さ:「感覚」を正当化する目的でしか「思考」が用いられていないこと。「思考」に用いた「教養」の内容もそれぞれの分野を専攻した読者から見れば的外れなものになっていること(注1)。「類推」や「テーマ批評」などのいくらでもこじつけることが可能な手法を用いているのに、何故その手法を用いるべきなのか、その手法の限界はどこにあるのか、といった説明がされていないこと。
注1:少なくとも一つの例として、筆者が専攻していた生物学に関連した部分を挙げる。リチャード・ドーキンスの書籍『利己的な遺伝子』に言及した後、「しかしこれらのような個体の利他行動も、種や遺伝子を主語にすると、自らを温存するための利他行動にすぎない。」(54ページ8-9行目)と段落を結び、その後「性はこのように、種の都合のための機能主義的なプログラムであるという言い方もできるわけです。」(54ページ18-19行目)と主張している。結論から言えば、この言い方はできない。生物学を学んだことがある人物なら絶対にこのような主張はしない。進化の結果としてある個体Aが(同種とは限らない)他個体Bに利他行動をする形質を獲得する条件はあくまで「それが後に個体A自身の生存や繁殖に有利となる可能性が十分高い」あるいは「個体Aと個体Bで利他行動に関連する遺伝子を共有している」であり、そこに「種」の概念は一切関係しないからである。(遺伝子は自然選択の対象となり得るのに対して)「種」という概念は観察者が生物を分類する際の線引きのツールであって、自然選択の対象として観察可能なものではない以上、「性は種の都合のためのプログラムである」ということを(観察によって)事実として得ることもできない。つまり「種」を全体と見立て「個体」を部分と見立てるような類推は成立しない。百歩譲って「利他行動に関連する(種を問わず)同じ遺伝子を持つ全ての個体」を全体とみなす形で類推を成立させるとしても、それは「類推を成立させるためだけに拵えた全体」であることを指摘しておく。
締切はとっくに過ぎているが、悪いのは私だ
市役所までバスで行くのも、平謝りするのも問題ない、寧ろ、迷惑しているのは向こうであろう
発掘された書類の前後から、この郵便物がいつ頃届いたのかは類推がつく(このへんは恐竜や土器の発掘と酷似している
しかし、正確ではない(山や地層は一度切り崩されているのかもしれない
そして、タイムスタンプが分からない以上、どれだけ喫緊の書類であったのかもこちら側にはパット見では想像できない
封を開いて、書類に赤い大文字で激怒とでも書かれていれば、緊急性を理解できるかもしれないが、
こっちはこっちで仕事があるのだ
そもそも、細かい話は端折るが、役所側がやるべき仕事をこちら側にまでやらせる体制はなんとかならんのか
昔よりはまともになった気もするが、やはり公務員というのは頭がおかしい人種である
いや、でも、非効率な人間が集まっていたり、そんな中に俺だけは周囲と違って効率的なんですなんて勘違い野郎が多いのが公務員というか、
社会実験的な根拠は、人類を生まれたそばから隔離するとか人権侵害を許すことになってしまうのである種の類型以外に対しては不可能ですし、歴史学のような単一の出来事に関する根拠というのも根拠ではなく類推証拠のようなものです
現状批判に根拠が必要という考え方は批判されています。人類の未熟な科学が間違う(ナチとか)こともありますよね。根拠を揃えるには十数年かかることもザラですが、根拠がないからという理由で現状を放置するのは救済が間に合わないですよね
かなり細かいところを端折ったざっくり説明なので、鵜呑みにはしないでくださいね
つか、普通に考えれば、誰にでも分かること
その物語に何なりか自分の中のナニカを見つけるから楽しい・感動・怖いのだから
そう【絶対に】これは人々の◯◯を満たしたのだといえる
それが言えなければ語られる訳がない
①当たった▲▲の構造を見てみるとこれこれこういうパーツを見つけることが出来る
③このパーツが作用したということは、ナニナニに違いない
それ自体は構わない
結果について先に規定して、そうなるように類推する行為は危うさが増すが
その集団が気づかない(見ないふりをしている)醜さ・愚かさの発見という態度をとる
そして、凄いことに気付いてしまったという体で、【それを世に出した創作側が上手い】という発表をする
言ってしまえば、需要を掘り起こしたのがすごいですねーというだけの話
可燃性を増しているのは
フリーレンが当たる前に、「アニメ漫画に金払える高齢独身者層の願望を拾う作品だ、スゴイ」と言うやつは出てこない
でも効果は劇的だ
なにしろ事後諸葛亮なのだから、その一定度の事実性については確定されていて否定ができない
「フリーレンは人気などない」と切って捨てられない
旬の事象だから人の目に触れやすく、そして相手を下げているから反応をもらいやすい
ある程度頭はいいが飛び抜けて優れているわけでもなく、でも自分を認めてあげたい人にはうってつけのコンテンツなのだ
面白いのは
自分の態度や内面を勝手に規定されて嗤われると怒り出すんだよね
で、決まって、「頭の悪い反応が集まってきた」みたいに斜に構えだす
本当に、面白いように同じ
反応しちゃったら、それが何らか効果を持ってしまったことを相手に知らせてしまうのにねぇ
哀しい生き物だよね
会見のルール問題やNGリスト問題とは別に、「ジャニーズは会見で望月の質問に回答しなかった」との誤解が多そうだから書いておくけど、ジャニーズ会見で望月衣塑子らは確かに司会に指名されなかった、でも最前列から地声で他社の質問の合間に質問して、東山紀之はその不規則な質問に回答をしている。特に最後は「これで会見終了です」と挨拶した後に、望月衣塑子に付き合って複数回の応答で回答してるよ。マイクもらって名乗ること出来てないから記者が誰かは声からの類推だけど東山の目線から言っても最前列にいたという望月記者の質問だろう。
ジャニーズ会見はノーカット動画がYouTubeにいくつも転がってるから見てみてね。最後のほうだよ。
■【ノーカット】ジャニーズ事務所が会見 社名をSMILE-UP.(スマイルアップ)に変更 東山紀之氏「ジャニーズという名前は全て消す」(2023年10月2日)| TBS NEWS DIG - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=O6pM9Qpq-j4
ある人が、共通の知人を、下手な絵を描くオタク野郎、みたいに馬鹿にしていた
どういうことかと言うと、その知人のSNSアカウント名から類推して、別サービスのアカウントを見つけて、
さらにpixivアカウントにたどり着いた、ということなのであった
(今風にかっこよく言うとOSINTか?)
とはいえ、このような手法をリアル知人に適用しているのはなかなか悪趣味である
その後様子をうかがってみると、どうもそいつは、様々なリアル知人のアカウントを徹底的に掘っているらしくて、
誰々は裏垢で変態的な投稿しているとか、誰々はネットでは態度がでかい、みたいな馬鹿にするネタを見つけては吹聴していた
おそらく私も掘られて、何か馬鹿にするネタを探られていたのだろう
何が言いたいのかと言うと、別にネット炎上などしていなくても、あなたを知っている・興味のある第三者がネットを掘っていて
いつの間にか弱みを握られてる、みたいなことは十分あり得るということ
もうええわ。おわらいかよ。
基本そういうとこ田んぼしかないけど道の駅+授乳室あると助かるだろ……
授乳室てイオンショッピングセンターにあるのしかしらないんだろかこいつ
念のためにいっとくとそのあとママはまた運転して最終的に医者にたどりつく予定なんだがな。
なんでこれがいままでのはしばしに書いたことで理解できなかったのかがわからん。
十分示唆したはずだが。
そりゃ「子供ができたあとは離婚したほうが説明の手間がなくてラク」とまでいわれる夫が増えるわけだ。
そんで協議離婚しても親権とれず、悪知恵ふきこまれて「誘拐されましたー」とかいいだすし
万が一親権とれたら放置虐待すんだろうな。「腹減った?なんで?おとといパンやったじゃん」とかいいだすんだろうな
本当に類推力がない。